④転校させてまで娘を入れたかった学校

 

当時、埼玉県に住んでいた。夫の実家の近く。私は専業主婦で友達も知り合いもいない土地。

安住感がなかった。


ずっと東京に戻りたい気持ちがあった。東京の実家(因みに、第二話の親からの勘当は半年で和解)には車で40分にも関わらず。今思えば、ただ嫌だったのではなく、人生の転機が来ていたみたい。こから人生が大きく変わっていった。


 娘は近所の公立に通っていたが、小学校2年生の時に私が通っていた東京の私立に転入した。もちろん通えないので、5年しか住んでいない新築で購入した一軒家を売って引っ越した。


 


そこまでして娘を通わせたかった学校は、私が通った学校。


校則、制服、教科書、成績表、給食無し。とても自由。小学校の入学試験は本物の野菜が並べられ、野菜名を答える。


私は受けた当時、泥付きごぼうを「棒!」と答えた。しかもお節介な事に、次に受けていた男の子にも「それは棒だよ!」と教えてあげた。それでもなぜか2人とも合格したので良かったが。笑


算数のリットルの授業では本物のカルピスを使う。終わったら飲める。

足し算はキャラメルで学ぶ。終わったら食べる。とエサに惹かれて授業に夢中になる。笑

受け身ではなく、ゲームやグループ競争が入った参加型の授業は全て面白かった。

今でいうアクティブラーニングだった。


 


ただ、当時私は通学が、電車・バス・自転車・徒歩と片道1時間40分かかっていた。雨が降ると2時間。小1の私は前から4番目くらいの小柄で、電車とホームの間に落ちてランドセルが引っ掛かり大人に引き上げてもらうとか、背が届かず切符を知らない大人に買ってもらうとか、10円拾っては交番に届け、お巡りさんからお礼としてお巡りさんの自腹の10円をもらって、交番でおしゃべりして休憩してからバスに乗って帰っていた。


 


娘は、電車で15分の通学だったので、私の時よりもずいぶん楽だったけど、親になると心配で心配で仕方がない。

無事に学校まで辿り着くか、こっそり後を付けた。私の母も、同じようにしてくれたらしい。

追跡できない日に限って、娘は反対方向の電車に乗ってしまうこともあった。

念願の東京に戻り、娘も新生活に慣れ始めた頃、今度は家族内がごたごたし始めた。

 

 

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