「理論」の効用についての話

納得すると同時に割り切れない思いもあり、ここ2、3日考えてます。

確かに以前は「這い回る経験主義」や「試行錯誤地獄」はできるだけ避けるべきで、「理論」の効用を信じてました(もちろん今でも半分くらいは信じてます)。でも、最近は特に外国につながる子どもについての難しいケースほど、常に一回限りで再現性もない現実の中で、どう粘り強く関わり続けられるのか、の方が大切に思えるようになってきました。

それは、理論で整理して結果を予測しても、それを受け止められるガッツ?、ふところの広さ?、レジリエンス?がなければ、結局、理論で導き出された予測や結果が「希望なし」だったときにどうするのか?ということになるからです。

確かに、理論によってベストではないけど、ベターな方法を見つけられるということはあるかもしれませんが、それでもです。それじゃ、結局、そういう人は「ほどほど」にしか生きていけないのか?と逆に絶望します。

そして、時には通り一遍の解釈をも拒む剥き出しの過酷な「生」の現実に対峙させられるわけです。それに果敢に向き合い解釈を試みることこそが知性であると理解し、信じつつも、時に頭がショートしそうになるのです。

ちょっと乱暴だけど、ものすごくわかりやすく言えば7歳まで狼に育てられた子は理論的には言語習得は不可能だったとする。もしそれが正しければ、その理論はこれからも生きていくその子に対しては無力ということになる。

意地悪に言ってしまうと、研究者にとっては理論が証明されるので、それでよいのかもしれない。でも、その子と一生関わっていく家族はどうするのか?という問題が出てきて、そこはもう倫理というか宗教的な問題に入り込んでいるのかなと。

もちろん、研究とか理論を否定するつもりは全くないです(少なくとも自分の場合はという限定のもとに言っています)。社会は分業によって成り立っているわけですから、理論を構築する人も必要だと思います。その意義については、研究者それぞれが矜持を持って取り組んていけばいいのかなあと思います。

でも、やっぱり「這い回る」こと「試行錯誤」することこそが生きる営みそのものなのかなと最近は思ってたりします。だって、人類はいまだに戦争や不平等を解消する「理論」を生み出せていないわけですし。人は相変わらず殺し合い、奪いたがる(極端に言えば)。

だからもう、最近は一生「這い回る経験主義」と「試行錯誤地獄」やる覚悟をしないといけないかなあ、と腹を括らなきゃと思っているのです。そこで、いろんな人たちと共に汗も涙も流せる(できれば血は流したくない)人間にどのようになれるかが自分たちのような仕事をする人にとっては大切かなと思います。

これは本当にそう思っていて、外国につながり子どもたちの支援関係の仕事をする人は、多少外国語ができても、それ以外のスキルを持っていても、この姿勢がなければ、結局務まらないのかなあと(生意気にも)感じてます。

そういう意味ではちょっと反知性主義に陥りつつある今日この頃です。それはそれで独善に陥るプロセスに入りつつあるのかもという不安があるのですが。

今まで言語教育の「実践研究者」を自認していたわけですが、最近はそこから「研究」がこぼれ落ちつつあるのです。ちょっと両方できるほど能力がない自分に少しがっかりしているわけでもあります。

いつも中途半端ですみません。

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