ただ、光が欲しかっただけ。ーこんな時代だからこそ伝えたいー

こんな時代だからこそ、あなたらしくいてほしい。
だって、あなたは今も呼吸をしているんだから。
その呼吸を止めるまで、あなたらしく輝いていてね。

第1章 幼少時代と家族

長女として生まれ、可愛がられ、世の中に出るにあたり恥ずかしくないよう、厳しくそして大切に育てられた。
母の味方であった父方祖母は早くに他界。厳格な父方祖父、早くに起業した優しい父、厳しい母、弟の5人暮らし。体の弱かった弟だったため、幼少期は祖父と過ごす時間の方が多く、いつしか祖父っ子になっていた。
父は自分の会社の事に奔走しており、子育ては母任せになっていたようだ。ただ、子ども好きな父は、時間を縫っては学校の行事には積極的に参加してくれていた。
『しんどい時に居ない』『夜中になっても帰ってこない』『何かの行事(都合よく何か)には参加する』今思えばそんな不満が母には溜まっていたのかもしれない。
今思えば、それは“しつけ”と言う名の“父への鬱憤や苛立ち”を子どもである私にぶつけていたように思う。…そこにしかぶつけられなかったのだろう。
可愛がられる弟、しかし自分には厳しくする母。そして優しい父。いつしか自然と母の事が嫌いになっていた。それを感じていた母はさらに私に厳しくあたった。
当時の母のしつけは少々行き過ぎた所もあったように思う。今で言うところの“虐待”だ。昔はあたりまであった体罰も現代では御法度である。
母にきつくあたられても、健気に母を思いやる私も居た。子どもとは、どんなに辛い状況でもどこかで親を好きなものである。
母は歳の離れた父と若くに結婚し出産。知らない土地で味方も居ない中、1人で闘っていた。何もかも1人で悪戦苦闘しながら毎日を過ごしていた。厳格だった祖父からの口うるさい指示、仕事だと言って帰ってこない父、親戚との難しい付き合いー。子育てだってその1つだ。父が居るのにも関わらず孤独を感じていたに違いない。そういう意味では“ワンオペ育児”だった。

第2章 生活の変化

父が起業した会社は初めのうちは良かったが、みるみるうちに衰退。後に倒産となった。祖父にお金を借りながらなんとかしのいでいたようだったが、とうとうダメになった。詳しくは知らない。ただ、子どもにも分かる程ご飯が質素になっていた。
父のストレスは母へ向くようになり、母はさらに追い詰められていた。心に余裕が無い母のしつけは強まるばかりであった。「頼むからこれ(鞄)を持って出て行ってくれ。死んできてくれ。」と悲壮な顔をしながら訴えてきた母の姿を思い出す。まだ保育所に通っていた年齢だったので必死に「嫌だ、嫌だ。」と泣きじゃくっていた。心無い言葉の暴力と体罰は、子どもだった私の心をひどく傷つけていった。見える傷も見えない傷も蓄積し続けたが、私が小学校に行くころには体罰は無くなっていき、次第に言葉の暴力が目立つようになった。

第3章 小学生時代

倒産した後、父がどのような仕事に就いたのかははっきりと知らない。…というよりは記憶が抜け落ちている。相変わらず優しい父だったため、子どもに怒っている印象はいくつかの場面しか思い出せない。母も相変わらず厳しく、事細かに怒られた事を記憶している。厳しいしつけもあったためか、外からの評価はいわゆる“しっかり者のお姉ちゃん”だった。近所へのあいさつも気さくにできる評判のいい子だった。
母から厳しくされたエピソードは上げだしたらきりがない。今思えば驚くような事もいっぱいある。幼少期から厳しくされ続けた日々が、とうとう私が小学校高学年に上がる頃にはじわじわと顕在化し始めた。学校では問題もなく、むしろ真面目で頼れる存在。しかし家ではイライラの感情を物にぶつけるようになっていた。自分を叩く、かきむしるー。つもりに積もった負の感情は、とうとう自分に向け始められたのであった。小学生でもおねしょをしていた事を、後になって当時の行き過ぎたしつけが原因の1つであると知った。

第4章 中学時代

勉強は至って普通の成績。ただ、体を動かすのが好きだった私は運動部に所属した。何かに打ち込める事は、私にとって余計な事を考えずに済む貴重な時間であった。父の仕事も上手くいっていなかったのか、母にあたることも時々あった。たまにその火の粉がこちらにも飛んでくる。朝早くからイライラしていた父はトースターを投げて感情を露わにした。中学にもなればいろいろとわかってくる。感情を露わにする父に恐怖を覚えた。人間としていろんな感情があるのは当たり前の事だが、“優しかった父”とインプットしていた私にとっては衝撃的であった。何もわからない年齢ぐらいの方が幸せだったかもしれない。“理解できる”という力は時に生活の邪魔をしてくる。
私の人生を辛い方向に変えた中学2年生。部活のメンバーはみんなレベルが高く、試合に出られるかどうか大接戦であった。仲間でありながらライバルで、メンバーとの関係もぎくしゃくした時期も多かった。部活中、心を落ち着かせるためによく手を洗ったり、うろうろしたり。振り返ればいろいろ積み重なったものが悲鳴を上げだしていた。『失敗した時の自分への罰』いつしか試合にははさみが必要になっていた。
部活も引退した中学3年生の夏、担任との進路面談でふと「イライラした時、先生はどうやって解消していますか?」と質問していた。自傷行為などの話はしていないはずだが、何かを察知したのか翌日カウンセリングルームに連れて行かれた。当時はまだカウンセリングルームなどと言ったものは今ほど生徒にメジャーではなかったため、そんなものが学校に存在していることすら知らなかった。いざ、カウンセラーの先生に話をすると「みんなに見せつけたいだけでしょ?」といった心無い返答。その時初めて、『賢い先生かもしれないけど、この人よりも私の方が傷ついた人の気持ちを理解できる』と悟った瞬間であった。昔は自傷行為について今ほど理解もなかったようで、“周囲へのアピール”や“気付いてほしいためのパフォーマンス”などと言われた時期もあったようだ。私が今の職に就いているのは、当時、将来に夢も希望も持てず何となく日々呼吸しているだけの私があの何も理解してくれなかったカウンセラーに会ったおかげである。これまは後に知った事だが、私の自傷行為について母が学校に呼び出されていたようであった。母はどんな思いだったのだろうか。

第5章 高校時代

私の学力では無理だと言われていた進学校にたまたま合格。引き続き部活への熱意は消えず、高校でも入部した。しかし、勉強と部活の両立はハードで、先輩やメンバーとも合わず、その上、足も手術することとなり退部。何となくストレスも軽減された。気が付けば中学時代の自傷行為は無くなっていた。あまり記憶に無いが、それなりに平凡な時代を送れたように思う。
人生の転機は高校2年生の夏。またも今後の進路について考える時であった。担任との3者面談。母が来れず父が参加した。当時の私としては、家が貧乏であったため、親に迷惑をかけたくない思いで短大を目指す予定だった。父の前で「短大を受験する」と担任に伝えた時、あの優しい父が初めて私に対して「4年生大学に行け」と大激怒した。内心「お金無いのに何を言ってるんだこの人は。」と私の気持ちを無下にされたように感じ腹立たしかった。とりあえず家族で話し合うように担任に言われてその日は帰った。
家に帰っても父に対して嫌悪感を抱いていた。家族の事を考えた結果が全否定された思いだった私は、もう将来などどうでもよくなっていた。気が付けばいつも自分の事より家族を大切にしていた私にとって、したい事も特にないのにわざわざ4年生の大学に行き大金を払うなど考えられなかった。でも、なんとなく逆らう気力も起こらない私に父は「4年間でしたい事を見つけたらいい。」と話す。まぁそれでいいやと投げやりになり、次に悩んだのはどこに進学するかであった。しかし、なぜだかわからないが、ふと頭の中に『心理学』がちらついた。それは、中学時代に出会った理解力の乏しいカウンセラーの存在が心の中から顔を出してくれた瞬間であった。

第6章 大学時代


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