人見知りメガネが女子アナになれてしまった実話

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 1980年、松坂世代。マコーレカルキンくん、又吉直樹さん、西野亮廣さん、高橋一生さん、壇蜜さんなどなどと同じ年に生まれた。特に今は壇蜜さんにお世話になっている。男性に年齢をいうときに、「けっ、おばさんだな」と思われないように、同級生の例として壇蜜さんを出し、予防線を張るのだ。私の名まえは紅緒子。FMのラジオパーソナリティを十年してきたが、今年の4月にフリーアナウンサーになり初めての個展をしてアーティストを目指すことになった。画家というよりも文章も書くから、画文家のMCだ。これは急なことで色々な流れでそうなってしまった。しかしアナウンサーとして技術は中の下である。舌滑はよくないし、発声の基本とされる腹式呼吸はいまいちよくわかっていないし、よく噛むし、元来の性格が内公的すぎて、かなり演じないとできない。ラジオなのでテレビに出る時のようにコンタクトレンズをつけることなく、いつも人見知りメガネ。しかしマイクの前に立てばしっかり女子アナをしてきた(自称)。でも普段の生活にはインタビューで培ったコミュニケーション技術は活かせず、正直に余計な発言してしまうか、話すのが恥ずかしくてうつむいている。大勢の飲み会ではほとんど話せず、隣の席の地味な人とかたまってごにょごにょやるのが常である。先日も会社の先輩との集まりがありとても楽しい会なのに、入っていけずにこにこ笑っているだけだった。親戚の集まりも同じで、三人以上の集団になると本当に会話に入っていけない。ゆえに、普段は年上の人によく注意されるし、おどおどして言い返せないし、言いたいことを伝えきる前の、最初の二言目ぐらいでもう怒られることもある。女性特有の誉めあいや雑談も苦手で、会社の女性たちがみんなで話すような輪には加われない。これらはすべてアスペルガー症候群の特徴だ。最近、発達障害が取り沙汰されるようになり、勉強してみると、私もややアスペルガーであることがわかった。三人以上のコミュニケーションが苦手だし、空気を読めないし、誰かの発言の裏側を読めず言葉通りの理解しかできない。だからアナウンサーとして新人の頃、インタビュー相手が冗談でボケて言ったことをそのまま受け取ってばかりで、上手くつっこめなかった。仕事の時は、女優になり、アナウンサーを演じることでなんとかOLとしてやってきた。人一倍、内公的なくせに、人一倍、目だちたがり屋なところがあり、女優としてもっとスポットライトを欲し、きれいなおべべを着てもっと大きなステージで輝きたいとがんばってきた。自称アーティストになると、また気持ちも変ってくるのだろうか。

長年、経営コンサルタントの仕事をしてきた友人に「これから紅緒子は金と女を売っていくことになるよ。紅緒子で儲けようと思う人か、紅緒子がかわいいからいっしょに仕事をしたいおじさんのどちらかになる。売りたくなくても、売ることになる」と予言された。そういうものなのか? しかし岡崎京子さんのマンガ「pink」の一説に、映画監督のゴダールの発言として「すべての仕事は売春である」という言葉が出て来る。

 

私の周りのいわゆるザ女子アナ達は、流行中の自己啓発セミナーの講師をしている人が多い。彼女たちは自分の容姿や発言、考え方にものすごく自信があるからできてしまう。彼女たちは恋愛も肉食だし、スクールカースト上位で過ごしてきた。学校では噂のまとになる程のモテる女で、学生時代から彼氏がいたし、成績もよく、いい大学に行き、いい仕事につき、結婚もできて、子育てもしている素敵女子なのである。彼女たちは自撮りに抵抗もないし、美人な顔を決めて、ファッションやカフェやごちそうの投稿をSNSにすることになんら恥ずかしさを感じない。だから自己啓発セミナーでどんどん自分を磨く方法や楽しく毎日を生きる方法を、アナウンサーらしく美しく理路整然と伝え、人々に勇気を与え、自分もそのように生きてみたいと思わせる力を持つ。一方の私はもしもそれをするとなると、また「女はみんな女優だ」と言い聞かせて、ものすごく演じないといけない。そこで気づいたのだが、たぶんザ女子アナが提案する自己啓発と、私が提案できる自己啓発は全くの別物なのだ。私がやってきたのは根暗な人でもなんとか人前に立てるようになる方法だ。だから万人に好かれる好印象な戦術ではなく、なんとか万人に嫌われない方法なら提案できそうだ。フリーアナウンサーになったら日陰を生きる人達に生きのびる方法を提案していきたい。そう思っていたら運よく、中学生向けの講座をすることになった。一回だけの講座なのだが、この一回で子供たちに何か持って帰ってもらえるように全力投球したい。私がエールを送りたいのは自分ともクラスメイトとも全く上手くやる方法がつかめず、いつもうつむいている子たちだ。たとえ学校を休んでも、クラスに友達がいないから、誰にも気にされることがない地味な子に言いたい。中学の時におとなしくて親友なんて生涯できそうにないし結婚なんてありえなく思えても、大人になって普通の生活を送ることができると大きな声で言いたい。でも、これで自己啓発セミナーでお金を儲けるのはなんかいやだ。でもお金を儲けないと生きられないから、そこがジレンマである。

またフリーアナウンサーだと、イベントの司会もしなくてはいけない。大きなイベントの司会は名誉なことだし、フルメイクでイケている女子アナを万人に演じる、ものすごく大きな舞台だ。おしゃれした姿を皆さんに見てもらえる発表の場のイメージでイベントの司会をしている。でも、プロの司会を立てずに役場の人や文化施設の人が司会をする場合も増えてきた。不景気だからなのだろうか。だいたいは私と同世代のアラフォーの女性が流暢に司会をする。そのイベントの裏話を交えて、女性特有の自虐ネタ満載でしてくれるので大変面白い。これからもっともっとイベントの実働部隊であるスタッフが表に出て、司会をしていく時代になるだろう。じゃあ、フリーでアナウンサーができる仕事って何があるんだろう。時々講演会を頼まれるけれど、人が興味をもって聞けるのは3分だから、長い講演会だとみんな眠そうだ。眠らさないためにインタビューした大物芸能人の話を随所に盛り込むけれど、それでもやっぱり心の中では眠いと思っている人もいるかもしれない。だから私は講演会はもう古くて、インタビュー形式で答えるのが一番だと思う。話の盛り上げ方を知っていて、お客さんにも話を振ったりして、会場全体で会話を楽しめるような雰囲気を作れるのがアナウンサーだから、対談の仕事が来い!と阿川佐和子さんのポジションを神に祈りつつ、こうやってSNSで公開してみることにした。

 

 振り返ってみると、私の人生、人にはとても言えないことばかりだ。この日記でも言える範囲で自分の人生をさらけだしたい。この日記には、いい人がたくさん登場する。人との出会いを大事に、たくさんの人に助けられて、ここまで来れたと言うつもりでは全くない。リア充をアピールしたいのではなく、いやな人のことは書けないからである。世の中、いやな人の方が多いと思う。セクハラ、パワハラ、自分のメリットを考えて、利用しようとしてくる人がなんて多いのだろう。最初はにこにこしていても、突然いやな人になる人もいるし、人を見抜くのは本当に難しい。人生が無常であるように、人間の性格も無常で、昨日までいい人だった人が敵になることもある。裏切られてもいいから、好きと思える人を周りに置こうとしても、人生の苦難が訪れれば、立ち向かう力など無く、離れなくてはいけないことも多い。それでもやっぱり生きなくてはならない。最近の独身の友だちとの合言葉は、「親が死ぬまでは生きる」だ。

 

ラジオパーソナリティとして今の会社に勤めて10年。ラジオのアナウンサーをしていると言うと、よくおじさんから「テレビに出ないの?」と完全にテレビより下の扱いを受けて来た。ラジオは時代遅れだと馬鹿にする人が多いし、ある男子中学生は学校でラジオを聴いていると言ったら変人扱いされるから誰にも言えないと話していた。私が中学の時なんて翌日はラジオの話で盛り上がっていたのに、時代は変ってしまった。でも、最近のテレビを見ていると、自分の身の上話を語り合う番組が多くて、とてもラジオ的だと思う。SNSでちょっとした中継をできる時代になったけれど、手作り感満載で、とてもラジオ的だと思う。今をときめく星野源さんも福山雅治さんもラジオが大好きである。私が講演会をする時はまずこの二人の名前を出して、ラジオの株を上げてから話し始める。

 

ラジオはとにかくリスナーさん第一。リスナーのことをだいたいのパーソナリティは尊敬と親愛の情を込めてリスナーさんと呼ぶ。お坊さん、お医者さん、美容師さんみたいな感じだろうか。リスナーさんがいるからラジオの仕事をがんばれるし、リスナーさんに自分の仕事を公開して応援してもらえるラジオの仕事は世界一幸せな仕事のひとつだと思う。だけど、今はテレビや新聞もそうだけど、ラジオもネットに押されて、影が薄くなっている。

 私が思うに、日本の企業のえらい人はみんなおじさんである。おじさんは若い女の子が好きだ。いつまでも若作りをして、若い女の子にモテようとする。つまり、女子が喜びそうな商品作りをがんばる。しかし女子はおじさんが作った若い女の子が喜びそうな商品は感覚が古くて、興味を示さない。その商品ももちろん若い女の子に宣伝させる。女子の気を引きたいのならイケメンを抜擢すればいいのに、若い女の子ばかりを起用する。つまりどのメディアも女子向けに商品を作りすぎているのだ。もっと同世代を狙えばいいのに。おじさんはおじさんをターゲットにして若い女の子に宣伝させれば絶対に効果的だ。私のラジオは自分と同じ30代、40代の女性に面白がってもらえることを第一に考えて作っている。それだったら自分の思うことや興味のあることを話せばいいからだ。みんなもそうしたらいいのに。テレビもラジオも、今までの功労者であるようなおじさんをおじさんが引退させて新しい番組を作って失敗しているように思う。古くから礎を築いてきたおじさんのタレントではなく、若い女の子に任せてしまい、ずっとそのおじさんを応援してきた大人たちが番組から離れてしまっている。それはとてもとても悲しいことだ。私にも自分にラジオを教えてくれた尊敬するDJの先輩がいた。そんな実話を書いていきます。

 

 私の夢は今も小説家になることで、趣味は読書。小説家になるためには精神の自由とタブーを無くすことが肝心だと思っている。一方でラジオの仕事は公の仕事だから、それはNGだ。例えば、某女性議員がイケメンの弁護士とつきあっているという噂に対して、あっぱれ!ついに女の政治家も年下の男性の愛人を持つ時代になった。なんて言ってはいけない。こういうことは小説に書いて、デビューをもくろみ、せっせと文芸誌の賞に応募するけれど、中々上手く行かないのである。私は二十歳の頃に小説家になると決め、画家が主人公の小説を書き続けている。ゆえに二十歳の頃からずっと「芸術とは何なのか」を考えて生きてきた。芸術が何かを知るために、世間の流れにどうしても着いていけない変わり者ばかりと友達になり、大学卒業後は工芸品の会社に勤め、美術館でバイトをした。なぜか始めることになってしまったラジオの仕事では、ミュージシャンを中心に芸術を追及する人にふれて、ずっとずっと芸術とは何かの答えを探してきた。自分でも絵を書くことで画家の気持ちを実感しようと決め、今度、初個展まで開くことになってしまった。

 

 それでは、人見知りメガネの身の上話をば。

 私の記憶は中国地方のある田舎町からはじまる。私は近所の子供達と草原をかけまわり、シロツメクサで花冠を編んですくすく育っていた。意地悪な子なんてひとりもいなくて、小さい頃から兄弟のように近所の子供と遊んでいた。確か「マルサン」とか言うスーパーがあって、名前がかわいくて好きだった。両親からは私が丸顔なので「まるちゃん」と呼ばれていたので親近感があった。

 家族で実家のあるX市に戻ることになった時、近所の友だちと離れることと、マルサンにもう行けなくなるのがさびしかった。

 X市の方が都会だったせいか、幼稚園ではちっとも自分を出せなかった。少女たちはもうすっかり女なのである。幼稚園では少女の間で、鬼太郎ごっこが流行っていて、夢子ちゃんの役をできるのがステイタスだった。一番大きい派閥の女子から「夢子ちゃんをさせてあげるから、昼休みはいっしょに遊ぼう」と誘われた。転校して初日の朝の出来事だ。よくわからなかったけれど、夢子ちゃんの役をしたかったので喜びいさんで、昼休みに鬼太郎ごっこをしているチームに加わろうとすると、二番手のチームのリーダーの女子から「行かないほうがいいよ。夢子ちゃんをさせてくれるって言うのは嘘だから」と言われた。私はとりあえず、「ごめんね、私、夢子ちゃんの役はしなくていいや」と一番の派閥の女子に謝って、鬼太郎ごっこには参加しないでおいた。

 小学校もそんな感じで、派閥争いが怖くて、お友だちができなかった。人前でしゃべることがとにかく恥ずかしいのだ。休み時間はひとりでお絵かきをしていると、「絵が上手だね」と少女たちがたまに見に来てくれる。私ははにかみ、瞳が大きく髪が長い女の子の絵を描き続けた。

 でも3年生になってとびきり明るいあっちゃんと友だちになった。母の少女趣味で毎日みつあみをして通学していた私を見ていて「毎日みつあみをしている面白い子がいる」とずっと思っていたらしい。私みたいな暗くて友達がいない子を面白いと思っていてくれていたなんて。ものすごい感激だった。あっちゃんは私の人生を変えた最初の女神で、当時はあっちゃんに恋をしているのではないかと思うぐらいに、ひとりじめしたかった。あっちゃんは天真爛漫で楽しい子なので、どの派閥の女子にも気に入られて、みんながあっちゃんと休み時間に遊ぶことを求めていた。あっちゃんは道化師になりきり、工藤静香のものまねをし、外国人にハローと話しかけ、カラスに「カーカーアホー」と話しかけ、芸人のように笑いをとるのだった。特筆すべきはレズのふりをしていたことだ。あっちゃんは女子の派閥争いが怖いので、自らレズのふりをして「○○ちゃん、かわいー。大好き」と言ってみんなと交流していたのだ。「レズのふりをしておけば楽」と語るあっちゃんの気持ちはよくわかったけれど、私にはできなかった。アンルイスさんの息子さんの美勇士さんもホモの真似をして子供時代を乗り切ったと語っていた気がする。

私とあっちゃんは親友でありながら、いかにクラスの笑いを多くとるかというライバルのような関係でもあった。お互いを一番大事な気の合う仲間だと口に出しては絶対にいけない不文律があり、女の子同士のいっしょにトイレに行く友情ではなく、少年同士の交流のような、いっしょに何か大冒険を求めているような関係だった。時はものまね四天王全盛期、一番面白いテレビ番組はものまね歌合戦だったので、ものまねタレントにいつかなるべく、我々は技術を磨き、トレンディドラマやバラエティを見て流行りを勉強した。あっちゃんは自分が主役のまんがをよく書いていてそれも私には新鮮だった。他の子は、かわいい女の子やアニメのキャラクターを描いているのに、あっちゃんだけは自分がサングラスのギャングに狙われる絵を書いて、私を笑わせるのだった。小学校時代のあっちゃんとふたりで遊んでいた記憶は、ふたりのちびまる子ちゃんが仲良くしているような感じだ。ごく普通の庶民の家でぐうたらと暮らしながら、クラスでは中間層として、自分の面白いことを地味に追及していた。

私とあっちゃんの当時の夢はものまねタレントになることだったが、ダブル浅野が大好きだったので、テレビドラマのプロデューサーにも憧れていた。母が長嶋茂雄さんのファンだったので、長嶋さんが通った立教大学に行って欲しいといわれていたし、東京の私大に行き、テレビのプロデューサーになることが夢になった。女子アナブームもあり、東京の美人女子大生になり女子アナになるのが女性として一番華々しい生き方に思えたけれど、さすがに超難関だろうし、頭脳も器量も自分のレベルでは無理だと悟っていた。とにかく80年代は女子大生ブームだったので、東京の女子大生になって篠山紀信さんが撮る週刊誌の女子大生モデルになることも夢になった。

 あっちゃんは読書家でもあり、ムーミンのスナフキンが理想の人だった。これにも影響されて、どこか影のある、熱き心を持つ旅人のような男が私の理想となった。あっちゃんとは図書館の本を競い合って借りた。あっちゃんは少女小説、世界の文学、大人が読むような暗い本も読んでいいた。私はあっちゃんの一番の親友でいたくて、よく同じ本を借りて読んでいた。

あっちゃんが同じクラスにいる時はいじめはなかったけれど、クラス替えで別れればまた自分の居場所を作れなくなり、クラスのいじめで友人をいじめたりいじめられたりがあってつらかった。

 

 中学になるとX市で一番のマンモス校に行くことになり、とにかく不良が多かった。あっちゃんはテニス部に入り、私はとても無理なので美術部のユーレイ部員となった。同じ部活であることが最も強い絆を生むため、あっちゃんには別の親友ができ、私にも別の親友ができた。親友と慰めあいながら、過酷な中学生活に耐えていた。

小学校の時もいじめはあったし、私もいじめられたし、私も仲のよい子をいじめなくてはいけなくて、自分を守るために友をいじめてしまったこともたくさんある。しかし、中学は不良が多いので、いじめの質がえげつなく、登校拒否になる子が多かった。私のクラスは男子が女子をいじめるクラスだった。ヤクザの子供ではないかと噂されていた男子が、女子を見た目で選別し、ブスだといじめるのである。ブスはもう学校に来るな、と、クラスで一番のブス扱いされていた子がよくおどされていた。だから男性の芸人さんが女性の芸人さんをブスと言う時にぞっとする。全然面白くない。女性の芸人さんも自分がブスで笑いをとるのはやめてほしい。先輩芸人にブスと言われたら、おじさんと言い返して欲しい。ブスな女性とおじさんの男性、どっちに価値があるだろうか?

 

中学生の頃、クラスで一番のブスとされた子は仲が良かった子だったので、私も同じブスチームとして、なるべく目だたないように生活をした。鏡を見て、自分のどこがブスなのかを研究すると、鼻の形がきれいでなかったので、鼻の整形をしたいと母に訴えたが拒否された。今も鼻はきれいな形ではないけれど、そんなことはどうでもよくなった。だけど、あの隔離された中学の空間では、ものすごく恐怖だったのだ。あの頃、自分を守るためにいじめてしまった友達、ひとりになるのがさびしくてただつるんでいた仮の友達、ストレスをぶつけるように心ない言葉で傷つけてしまった友達がたくさんいる。少女時代の傷は大人まで残るものだから、私を恨んでいる人もいると思う。誰かをいじめてしまったことは、謝って許されない罪だ。青い時代で仕方がなかったといえばそうだけど、そういう自分に吐き気がする。そんな思いを子供にさせたくないし、自分が生きているだけですごく苦しいから、生涯子供は欲しくない。

 

 高校になると成績でクラスが分けられるので、中学でいじめをしてばかりいた不良とはちがう学校に入れた。私が通った高校は中堅の進学校で、地元の国立大学を第一志望にしているような生徒が多く、自由な校風で部活をがんばっている子が多かった。いじめもなく、受験校だから勉強をがんばっている子が多くて、人それぞれという雰囲気だった。しかも90年代で、女子高生の全盛期だ。ルーズソックスを履き、カラオケで安室ちゃんを歌い、顔をきめてプリクラを撮影し、早く東京に出る日を夢見ていた。志望校はもちろん立教!ただ田舎娘の私が都会的な大学で上手くやっていけるのかが不安で、タモリさんなど多くの有名人を輩出している早稲田に惹かれるようになった。 

 私の初恋である先輩が早稲田を第一志望にしていたことも大きい。先輩は男版のあっちゃんという感じだ。自分の独自の面白さを追及していて、大きなトランクで学校に通い、先生からは寅さんと呼ばれていた。休み時間はみんなで相撲をとるなど独自の遊びしか興味がないようだった。先輩の将来の夢はコピーライターで、個性的だから実現しそうに思えたし、そういう大それた夢を描く人はやっぱり学生時代から変っているのだと思った。私は友人からは不思議ちゃん扱いされていたけれど、そこまでの変わり者でない。将来の不安がすごくて、受験勉強もつまらなくて、結局もんもんとしたまま、東京の私大は全滅して、地元の国立X市大学にのみ合格した。私立に受かるのには、その私立の問題を徹底的に対策をとらなくてはいけないことを知らず、ただ真面目に学校の勉強をしていたのも敗因だ。私の時代にビリギャルの本が出ていたら、人生がちがっていたかもしれない・・・

 大学に入れたのはよかったけれど、東京に行けなかったのがショックすぎた。なんせ小学校の時から東京のブランド私大に行き、テレビの仕事をするのが夢だったから、初めての挫折だ。入学説明会の時は、他の学生の顔が3倍ぐらいに大きくて見えて、ふくわらいのように、目や鼻や口が歪んで見えた。今考えれば幻覚を見たのだった。あまりにも大学に行くのが嫌過ぎて同級生がモンスターに見えた。

 入学してからは同じ高校の男子が、うちの大学で一番かっこいい一年生としてもてはやれていた。その男子はうちの高校だと、ベスト30ぐらいの男子で1位ではない。1位の男子は東京やら都会に出てX市からは消えているのだ。それでも遊びを目的とするサークルのコンパに女子大生らしく参加して、なんとか花の大学生活を謳歌しようとしたけれど、やっぱり東京にいたはずの自分と比べるとあかぬけない。遊びに行く場所も子供の頃から行っていた繁華街で、なんの変化もない。お酒を飲んで恋愛やファッションの話をすることにも、こんな田舎でやる意味のない話にしか思えない。

 私は私服がおしゃれなチームに最初は在籍したけれど、早々と脱線した。そして、同じ高校出身で同じ大学に受かったけれど、美大を受けなおすという村っちとよく遊んでいた。村田だから村っち。かわいい女子はだいたい下の名前で呼び合うが、私たち地味系の女子は男子と同じでだいたい苗字で呼び合う。村っちとは確か6時間千円とかのお好み焼き屋さん兼カラオケ屋でよく授業をさぼって歌っていた。村っちは歌が上手くて基本はTMNだけど、宇多田ヒカルのファーストラブなんて、まだ本物の恋を知らない女二人なのに、涙ものだった。男と女の機微を完全に表現できていたし、私もその世界に没入してうっとりと聞いた。私は主にhide、尾崎豊、ブランキージェットシティーを本人になりきり歌い、相川七瀬、華原朋美など自立した強い女性を描いた曲を歌っていた。村っちとのカラオケが一番の楽しみだったけれど、村っちは無事に美大に受かってしまいもう遊べなくなった。

村っちが夢を追う姿に刺激され、私は篠山紀信さんが撮る週刊誌の女子大生モデルオーディションに応募することにした。この企画はいったん無くなっていたものの、確か週刊朝日から今をときめく週刊文春に企画が移り、当時開催されたのだと思う。初めての東京なので父がいっしょに着いてきて初めて飛行機にのった。うちは一人娘なのでとても過保護なのである。オーディションまで時間があるので、皇居と東京タワーを父と見物した。昼ごはんは文芸春秋のそばにある定食屋でハンバーグ定食を食べた。よく出版社の人も来ると言うので一口一口が観光の味に思えた。そこまで高くなく、味もまあまあだった。東京のハイカラな店に入っていたら私の心は折れていただろう。それぐらいに私は田舎者の自分を恥じていて、東京に憧れを持っていた。しかも文芸春秋といえば、純文学系の大出版社だ。本好きにとって出版社に行けるなんて夢のようだ。オーディションのスタッフは女性がしていて、キャリアウーマンを見るのが初めてでかっこよく見えた。

オーディション会場は彼氏がいそうな女子大生ばかりだった。ストッキングにハイヒールを履き、香水をぷんぷんさせて、茶髪のロングヘアーをかきわけている有名私大の女子ばかりだ。準ミスヤングマガジンの子がいて、キャミソールに短パンを履き、体をくねくねさせて、上目遣いで篠山さんに迫っていた。お色気むんむんである。

篠山さんは「僕はね、入ってきた瞬間にわかるんですよ。だから、質問しないでもいいぐらいなんだけど、きょうはせっかく着てくれたから質問していきます」と言った。私も同じだ。入った瞬間に自分は絶対にダメだと思った。一番さえないのは私だった。篠山さんは私に「X市はどういうところですか」と質問した。私に全く関係のない質問だ。それまでの子は自分の趣味や特技を聞かれていたのに、私は出身地のことだ。ここで面白い答えができたら挽回できたかもしれないけれど、私にとってX市はただの田舎だったし、「きれいな町です」ぐらいしか答えられなかった。今ではラジオの仕事でX市の魅力を知り尽くしているので一時間は語れるが、当時は何も知らなかった。本当はきれいな街なんて全然思っていない。出て行くはずの捨てるはずの街だ。当時は寺山修司が描く、東京に憧れる青年の本ばかり読んで心を慰めていた。

 

敗北してくそ田舎のX市に戻り、唯一の心許せる友人である村っちにオーディションについて話すと、篠山さんは見る目がないと怒ってくれた。だけど私は、何の個性もない田舎者である自分がみじめで、東京の人からも同じように思われていることにしっくり来ていた。自分に対する評価と他人からの評価が見事に一致していて、ただただ憂鬱だった。

しかし、篠山さんよりも断然アラーキー派になっていく。アラーキーのモデル秋桜子さんを真似て、紅緒子というペンネームをつけ絵や文章を書き、ネットに詩をあげるようになっていく。

 

美大生になった村っちは自転車でひとり海によく行っていて、「女の子が危ない」とお母さんに注意されていた。女の子がひとりで誰もいない海に行くのは確かに危険だけど、けれどどうしても時々海を見たくなる村っちは、スケッチブック片手に一時間も自転車を漕いで、海まで行くのである。また、村っちはカラスをきれいだと言い、恍惚とデッサンしていた。私にとってのカラスはごみをあさる不潔で卑しい鳥なのに、美大生の感性からすると漆黒のフォルムを持つ絵になる鳥なのである。

 

村っちは私も美大に進むようによく薦めてくれた。

村っちは美大の課題で「目」をテーマにして作品を出すことになった。そこで私は、葉っぱの「芽」と「目」をかけて、瞳の花が咲く植物のオブジェを作ることを村っちに提案した。村っちは、私こそ美大に行けばいいのに。美大には私ほど変わった人はいないよ、と言ってくれたけれど、できなかった。せっかく入った大学を中退してまで、なんの保証もない芸術の道を歩むなんてリスクはとれない。それでも何かを作り出したい欲求はあり、コスプレをするようになった。清水ミチコさんと森村泰昌さんを足して2で割ったようなコスプレだ。この人達は有名人のものまねコスプレをしていた。だから私もオードリーヘップバーン、ヴィヴィアンリー、松田優作、宝塚の男役、白雪姫、サザエさん、鉄腕アトム、オリジナル作品の大根の妖精など、家にある服やごみとして捨てるダンボールや発砲スチロールを工作して、コスプレの道具にした。撮影はうちの母でただ写真にとって自分の記念として持つだけだ。

 

 友だちのいない大学で唯一の慰めはラジオになった。中島らもさんの深夜放送や、AV女優の人がドラァグクイーンや俳優、小説家、映画監督など濃い人々にインタビューする番組をよく聞いていた。まさにサブカルオタク。デビューしたばかりの椎名林檎に共感し、坂口安吾、山田詠美、吉本ばなななどを愛読して、小説家を目指すようになった。一方で、BSまんが夜話にはまったのをきっかけに、まんが博士になる新しい夢を見つけて本屋で立ち読みばかりしていた。青年マンガから少女マンガまで、まんが博士になるからには様々なジャンルを網羅しなければいけないので、せっせとまんがを読んでいた。まんが家さんは神である。絵も書き、ストーリーも考える、ひとり映画監督だ。私はまんが家さんを世界で一番尊敬していた。

 キャンパスを大声でおしゃれをして歩き、授業は後ろの席で友だちとかたまって聞いている人への興味が全く無くなり、むしろ前の席でひとりで授業を聞いている人と、話をしてみたくなっていた。

 そこで前の席によくいる人に話しかけてみたところ、まんが大好きな友人夏ちゃんと出会った。夏ちゃんの彼氏は建築家志望の外国人で、これから東京大学の院に進み、安藤忠雄さんに学ぶという。夏ちゃんは彼氏とは英語で話すので、英語がかなりできるようになっていて、サブカルが大好きだった。初めて話しかけてみた日、夏ちゃんは私と話してみたいとずっと思っていたと言ってくれ、当時も今も私が最も愛するマンガ「ハンターハンター」についてバスの中で熱く語り合った。夏ちゃんの人生は私とは全くちがいとてもドラマチックだったのある。

 この夏ちゃんと友だちになったことで、あの人は変っていそうだなというオーラがある人に自分から話しかけるようになり、独自の世界を築いている友達が大量にできていく。国際平和を夢見て国連に勤めることを目標とする友人。現代の侍になることを夢見るまんが家志望の女性。絵の才能がものすごくて「絵を書くと死ぬ」と本気で言っている躁鬱病の友。絵の修行のために街で通行人の似顔絵を勝手に書いて、プレゼントしていた友。宮台真司とニーチェが好きで東京の勉強会に参加している人。男社会でコネや賄賂が横行する医学会に嫌悪し国境なき医師団に入ろうとしている女性、高校生でかけおちして羽毛布団のセールスをしていた人、彼氏の家の押入れでドラえもんのようにこっそり生活する女性、自分が天才でないことに苦悩し自殺未遂を繰り返し生きのびてきた人、カフェの主人やダンサーなどなど。この中には、あまりに素敵すぎて恋にも堕ちてしまった人もいて、世の中にはいろんな人が一杯いることを知り、大学に行くのが楽しくなっていった。本来X市は芸術家が多く住み、ディープな人間がごろごろいる街なのだ。

子供の頃から一流大学に入り、一流企業でクリエイターの仕事をするのが夢だったけれど、海外で仕事をしたり、どこにも属さずフリーランスで自由に生きるスナフキン的生き方を求める人達に多く会うことができて、気持ちが変化していった。

 

小説家を目指し初めて応募した少年犯罪の物語が第一次選考まで通り、調子にのった。自分は絵描きで詩人でエッセイストで哲学者で小説家だと思うようになっていった。絵や文章を書いて食べて生きたい。銀色夏生さんのエッセイに母娘ではまっていたので、こんな風に自分の世界を表現して暮らせたらどんなにいいだろうと夢見始める。そして画家の小説を書き始めるのである。主人公はものすごく変わり者で、旅をしながら絵を描く。まさに現代のスナフキン、山下清と岡本太郎を足して2で割ったような天才画家の誕生である。私は寝ても冷めてもこの架空の画家のことを書いて生きてきた。

しかし芸術とは何かの答えが出ず、まだ未完成だ。構想したのが二十歳だから、もうあれから18年も経って、今では38歳になってしまった。そこで、自分が芸術家になってみることにしたのである。

 

大学在学中に文芸誌で賞をとり、デビューしたかったけれど無理だった。しかし大学4年の終わり、二十二歳の時に文芸誌に応募した詩が佳作になり、編集長が私の担当になってくれた。編集長は吉本ばななさんも担当していたので、かなり浮かれた。アートな文芸誌で、カメラマンやミュージシャンが連載をしているような新しいジャンルの文芸を目指している雑誌だった。その文芸誌に載った選評があるから、ずっと夢を見てこられた。編集長は「紅緒子がグランプリになれず残念。そのスピードは信じられないほど速いため、時代が彼女に追いついていない」、出版社の社長は「この類まれなる天才が書き続けることを心から祈る」と書いてくれていた。

やっぱりそうか。私は天才だったのだと思うと同時に、侍になりたがっていた漫画家志望の友人が出版社の人に「すごい。宮崎駿を抜くかもしれない」と言われていたので疑ってもいた。出版社の人はみんな誉めすぎるのではないか。トキワ荘じゃあるまいし、こんな田舎で身近に二人も天才がいるはずがない。

 

 編集長に電話でこれからどんな作家になりたいかと聞かれて「林真理子さんみたいになりたい」と告げると「いいですね。やるならメジャーリーグですよ」と返された。大ファンだった、松井秀喜さんが頭に浮かんだ。

詩は過激すぎて文芸誌に載せてもらえなかったこともあり、自分では文章よりも、絵の方が万人受けするのではないかとちょっと自信をもっていた。だけど編集長は「絵はクラフト的ですね。文章の方がいいです。小説を書いてみてください」と言われ、私は絵を書くのを辞めた。

 編集長からは一度東京に来てほしいといわれたけれど、怖くていけなかった。ちょうど大学を卒業したばかりで地元の工芸品の会社に就職していたので疲れてもいた。私はとにかく挨拶が嫌いだった。「おはよう」とみんなと同じ言葉を朝から言うのが気持ち悪かった。詩人を目指していたから、自分だけが持つ言葉を求めすぎていたからなのだろう。仕事は中々覚えられずミスばかりで、とにかく若くて元気で明るくがんばっている姿を見せて、許してもらわなくてはいけない。本来の自分とは全然ちがう自分を会社用に作り出すのだ。スクールカーストの一番上の女の子たちのように演技をしないと、社会人としてはやっていけない。それは、他人も、自分も騙して大嘘をつく悪女のような行為に思えた。

それから出版社の人の期待を凌ぐような文章が書けないまま、二年余りで結局その文芸誌はつぶれてしまい、編集長は退職してアートの仕事をはじめていた。私は別の出版社で担当を見つけるために、色んな賞に応募を始めたけれど、もはや第一次選考に残ることもなくなっていった。若い頃の自分に、大人になった自分が負けているのである。どんどん世間の常識に侵食されて、自分だけが持っていた特別な世界が消えていく気がした。小さい頃、ジブリの「魔女の宅急便」で知ったユーミンの「やさしさに包まれたなら」の歌詞のような感じだ。この曲は私の頭の中に少女時代からずっとリフレインしている。小さい頃は神様がいて、不思議に夢を叶えてくれて、毎日愛を届けてくれて、目にうつる全てのことはメッセージで奇跡が起こっていた。そういう純粋さがどんどん穢されていき、目が濁っていく感じがした。

会社では最初は営業で入ったけれど、社長に営業は向かないといわれて、営業事務に行き、最後は経理をした。もう何にも経理の知識は覚えてない。毎日パソコンで数字を打つ仕事が苦痛でしかなかった。経理の先輩はプロフェッショナルで、経理の仕事に誇りを持ってやっていた。先輩たちはみんないい人で、部下の私のミスは先輩である自分たちのせいだとかばってくれるような理想の先輩が多かった。

 

今、工芸品はどのジャンルも死にそうだ。工芸は売れないしそれ一本で食べていけないので、なり手が減っている。職人さんがどんどんいなくなり、工芸品になる前の段階、工芸品の材料を作る職人さんがたった一人というケースも珍しくない。その人が死んだら、その材料を作れる人はいなくなってしまう。機械化もされていない、人の手のみで作られている材料だ。

私が勤めていた工芸品の会社は、海外へも打って出ていたし、工芸を化粧品や建材にも利用し、生活用品だけでなく、幅広い使い道を作り出し、生き残ろうとしていた。生活用品はすべて100円ショップでおしゃれで使い勝手のいいものが購入できるから、高価な工芸品は本当に売れない。だから別のモノに加工して売るのである。社長は女性で、一代で会社を築いてきた人で、美人で話術にたけ、カリスマ性があり、みんな社長が好きだから厳しい仕事に耐えているような会社だった。社長と同じように会社と商品を愛して、常に仕事のスキルアップを求められる。働いたことはないけれど、外資系の企業はこんな感じなのかもしれない。とにかく個人に求められるものが大きくて、私は経理として資格をとり、プロフェッショナルになることを求められていた。それは全くやりたくない仕事で、時間と労力の無駄にしか思えなった。工芸品が好きで、美しい工芸に囲まれたい、工芸の仕組みを知りたい、工芸に詳しくなりたい、かっこいい女性社長から学びたい。そんな軽い気持ちで入った職場なので、私には向いていなかった。

私は仕事の傍ら、脚本を書きはじめていた。向田邦子さんや内舘巻子さんに憧れてのまた新しい夢だった。昼間のOLはあくまで仮の姿で私の本当の夢は別のところにある。そう思うと、つまらない仕事もなんとかこなせた。

社長はよく社員に「世界は広い。世界を見なくてはだめだ。会社にいて座っていたらわからない。どんどん世界を見なさい」と語っていた。

経理のプロを目指して資格試験の勉強を始めようとしない私に、上司が「このままでは普通の女の子になってしまうよ」と注意してきた。

私が一番恐れていたことだった。子供の頃の私は、なんとか普通の女の子になって友達を作ることが目標だった。けれど、成人になった私にとって、普通の女の子として生き、このままおばさんになってしまうことがなによりも恐怖だった。絶対に普通の女の子になんてなりたくない。

けれど、私の仕事は紙に書いてある通りの数字を打ち込み、毎日の帳簿をつける誰にでもできる仕事だった。進学校に行き、国立大学に行かなくても、できる仕事だった。会社の外の世界に行くのは、銀行に行くぐらいだ。休日は疲れきって、どこへも行く気になれないし、行ったとしてもデパートぐらいでこのちっぽけなX市という箱庭で息をひそめるしかなかった。

社長に刺激されて転職する人も多く、私も日増しに自分しかできない仕事をしたい思いが強くなっていった。転機のひとつは「ブリジットジョーンズの日記」という映画を見たことだ。さえないブリジットが転職して、なぜかテレビのリポーターになり、弁護士の素敵な彼と恋に落ちる話である。私も紅緒子ジョーンズとなって冒険してみたい。

社長に「小説家になりたいから会社を辞めたい」と告げると「今は経理の仕事をしてもらっているけれど、紅緒子さんは発想が面白いからいつかは企画をしてほしいと思っていた。社内の仕組みをしっかり知ってからと思っていたから残念だけど仕方がないね。きっと成功すると思う。私は松本清張の本が好きなの。点と線が特に好き。点と線がつながっていくのが面白いのよね」と送り出してくれた。

私の小さな人生の点と線も星座のようにつながっていくことをこの時はまだ知らなかった。

「私は社長の物語をきっと書きます。そして朝の連続ドラマにしてもらいます」

「楽しみに待っているね。何かあったら必ず報告してちょうだいね」

 やさしい先輩たちには止められたけれど、社長は許してくれて円満退社となった。当時はまだ終身雇用の時代、就職浪人もたくさんいた就職氷河期でもあり、せっかく正社員で採用された会社を2年足らずで辞めるなんて、大きな決断という風潮だった。私はまた自分が人生の落ちこぼれになった気がした。

 

 小説のネタ探しに、ブリジットジョーンズを真似て、地元のモデル事務所に入ってみた。テレビのリポーターの養成講座があったのだ。初めてのオーディションで中尾彬さんの物まねをしたら、テレビ局のリポーターになれてしまった。温泉に入ったり、漁船にのって刺身を食べたり素敵なファッションで変身したり、手作り体験をしたり小旅行に出かけたり、リポーターらしいことは全部させてもらい、スタッフの人も面白い人ばかりでとても楽しい仕事だった。しかし、今となっては、である。

 初めてテレビに出た日、テレビカメラを前にして、にっこりキメ顔で微笑むのが難しくて散々だった。コメントを求められても、全然気のきいた返しができない。トホホな結果で毎週のはずだったレギュラーはすぐに隔週に変更された。2ちゃんねるを検索すると「新しいレギュラーはビミョーな子ばかり」と書かれていてひどく落ち込んだ。今はこうしたネットでの検索はいっさいしないのだけれど、せっかくテレビに出たので当時はやってみたのだ。ネットで嫌なことを書いてあるのを見るとすごくへこむので見ないようにしている。目にすることがあると、大好きなマンガ「彼氏彼女の事情」のセリフを思い出す。「おまえのことを守ってくれもしない。おまえのことをよく知りもしない。他人の言うことを気にするな」みたいな感じのセリフだ。今はSNSでのいじめが子供達の間で増えているから、これを声を大にして言いたい。私はネットに書かれていることで傷ついたことがあるから、子供達の気持ちを少しだけわかることができた。これが私がネットで嫌な思いをした意味だと思っている。

 

 テレビ局のえらい人にまず最初に教えてもらったのは、「テレビのバラエティを見ているとみんな何も考えずにただしゃべっているように見えるよね。そうじゃなくて、みんなすごく考えてしゃべっているんだよ」ということだった。ここからテレビの見方が全く変わっていった。

 例えば食レポ。まず見た目に興奮するのが仕事だ。「おいしそう!!」と大声をはりあげて、絶賛しなくてはいけない。そして一口食べてすぐに今まで食べた中で一番の美味であるように褒めたたえなくてはいけない。完全に演技の世界だ。いかにもわざとらしい人と、自然にできている人がいて、ベテランの女優がする旅番組での食レポはやはりすこぶる上手い。

 リポーターの場合は、誰かがレストランを取材した映像に対して、「ずるい、うらやましい、私も食べたかった、どうしてスタジオに持ってきてくれなかったんですか」と言わなくてはいけない。どこのテレビ番組でもなくならいこのやりとり。もはや水戸黄門の印籠のようで、視聴者は飽き飽きしているのに、絶対になくならないやりとり。地元のレストランなら自分で行けるし、誰かのことをうらやましい気持ちを口にするなんて、高倉健さんに憧れる私としては絶対にできなかった。私は不器用なのだ。

王様のブランチのような番組だったので、女性のリポーターがたくさんいて、みんなが目立つために競い合っていた。私のように、友近さんのテレビリポーターのネタを真似ている気分で参戦している人は誰もいない。スクールカーストの上にいて、恋愛とファッションの話を楽しんでいたような女たちと戦うことになる。私は戦力もなければ、闘争心もないので、ぺちゃんこにやられた。

 「おいしい」「かっこいい」「行ってみたい」などなど、何を紹介するにせよ、明るい女性たちがまず先に、あたりまえの感想を大声で言ってしまう。だから私は最初の一声を捨てた。テレビ的には雛壇芸人のように、若い女性たちがキャーキャー「おいしそう」「かっこいい」「行ってみたい」とハートマークをつけて言うのが求められている。私もそのような表情をして小さい声で言うけれど、目をきらきらさせて甲高い声で素敵女子たちが堂々と言う姿には完全に負ける。だから私は明るい女子が普通の感想を言い終わって、息継ぎをする間にかけた。ここに、自分なりの言葉を入れるのである。

 お菓子ならば「このお菓子でお菓子の城を作って住みたい」とか、ファッションであれば、「この服を着て女優気分で歩きたい」とか、自分なりに面白いと思うコメントを入れるようになった。すると、明るい女性たちの顔が歪むのである。自分たちが話した後、息継ぎするタイミングで、私が目立つのが許せないのである。特に目立ちたがり屋の女の子マリモちゃんの圧がすごかった。

「紅緒子ちゃんのコメントはぽーんって投げつけているだけ。誰も拾ってあげられない。いい?テレビはコミュニケーションなの。みんなで会話を作っていくの。もっとみんなに合わせて話さないと、だから出番も減っているんだよ。それに、コメントが幼稚すぎる。紅緒子ちゃんは老けてみえて、29歳にしか見えないのに、コメントが幼稚すぎて見てて恥ずかしくなる。あの子、何を考えているの?ってみんな言っているよ」

 楽屋や廊下、色んなところでこの子にはお説教された。彼女は私より二歳下だったけれど、芸能界と同じでキャリアが上の人が先輩になるため、マリモちゃんが私にタメ口で、私が敬語を使った。最初はすごく明るくてスタイルも良くて素敵な女の子に見えていたので、ショックが大きかった。彼女の人生観は「人間はみんなずる賢い」なので、常に人間に警戒していた。そして彼女はえらい人へのごますりの名人で、瞬く間にえらいおじさんのお気に入りになってしまい、この子の出番が増えまくっていった。えらいおじさんのお気に入りなんだから、私なんて相手にしないでいいのに、自分より目立つなんて絶対に嫌なようだった。私は落ち込んでしまってますます話せなくなり、ただニコニコしているだけで、この番組に呼ばれるのは月に一回が、二ヶ月に一回、三ヶ月に一回と減っていった。マリモちゃんはその分番組に出る回数が増えていき、彼女がいない時は出演者もスタッフもみんな彼女の悪口大会だった。あからさまにおじさんに媚びて仕事をとったことが許せないらしく、スタッフもみんな彼女に冷たい態度をとっているらしい。彼女がいる時やテレビの中では仲良しそうにしているのに、裏ではこんな風に悪く言っていることも、子供のいじめのようでうんざりした。えらいおじさんは彼女に本気に恋をしてしまったようで、ストーカーのようになってしまったらしい。おじさんを馬鹿にする声も多かったけれど、おじさんはえらいままだった。女の子は私にとって世界で一番かわいい生き物だったのに、女の子の怖さを思い知ってしまった。都会だともっとこういう競争がすごいだろうし、やっぱり東京に出て行くなんて私にはできないことだったのだ。

 マリモちゃんが怖いとスタッフに相談したら、彼女に注意してくれたのだけど、その後「○○さんに言ったって無駄なんだからね。みんな、私に筒抜けなんだから。紅緒子ちゃんのためを思って言ってあげてるんだよ。他の人に言ったら、紅緒子ちゃんは何を考えているんだろうねって言ってた。せっかく言ってあげてるのに、普通はこんなこと誰も言ってくれないよ。注意してほしくないなら、もう言ってあげないからね」とマリモちゃんにきつく怒られてしまった。私はものすごい屈辱を感じながら、「ごめんなさい。また言ってください」と年下の彼女に謝った。

 マリモちゃんが私に言った言葉は意地悪もあったけれど、かなり正しくテレビでの話術を捕らえているものだ。

       年相応の発言をしないとお馬鹿キャラや天然キャラになってしまうこと。

       会話の流れに合った発言をしないと、空気が読めない人になってしまうこと。

       もしも個性が際立つような発言をする場合は、自分でボケツッコミをするなどをして流れを作り、周りの人に迷惑をかけないようにすること。

 芸人さんのテレビでの話術はまさにこれだ。明石家さんまさんのような笑いの神であれば、どんな間が悪く面白くない発言でも上手く料理してくれるだろうけれど、普通の司会者にはそれはできない。当意即妙に、自分だけが目立つのではなく、みんなが楽しくなる発言をするのが大事なのである。テレビに出ている共演者同士は運命共同体。会社で同じ部署のようなもので、みんなで面白い番組になるよう心をひとつにするのだ。

マリモちゃんは今もテレビに出ていて、あの頃よりもずっとみんなに知られる存在になった。でも、あの頃、売れる前の彼女は必死だった。仕事にかけていて、人を落としてでも、自分が上がりたかったのだ。彼女はとりたてて美人ではないが話術があり、とてもファッションセンスがある。それだけで充分に魅力的だったのに、まさに若気の至りだ。フェイスブックで彼女から友だち申請が来たが無視した。テレビで見かけると、私もがんばろうと思うが、やっぱり嫌いだなと思う。彼女はまだ自分より下の人間をないがしろにしているらしく、画家の友人も彼女に雑に扱われたことを根に持っていた。その勝ち気さや悪女ぶりは小説家志望としては観賞の対象として大変素敵だけれど、彼女の人生にとってはもったいないことだ。ひとりでもファンを増やして生きていく方がずっと幸せになれるのに。でも、そうやって自分にメリットのある人にだけ媚びる行き方に憧れる。人に嫌われてもいいから、他人を蹴落としてものしあがるパワーや自信。私に足りないものだ。

 

当時、彼女と共演していた頃の話に戻る。

私はマリモちゃんが影の支配者となっているその番組にまた呼ばれた時に、しっかり話せるように特訓をはじめた。友人からラジオパーソナリティの女性を紹介してもらったのである。そのラジオパーソナリティの紹介で、定年退職したアナウンサーにアナウンス教室を開いてもらえることになった。

ラジオパーソナリティの女性と近所のファミレスで初対面したあの日は、まちがいなく私の人生の分岐点だった。ラジオパーソナリティだけあって、言葉がすらすらでてきて話がとても上手い。この方に私もラジオの仕事がしたいと伝えると、ラジオがいかに楽しいかを語ってくれた。

私は彼女に、テレビの世界でライバルに影で悪口をスタッフに吹き込まれたり、意地悪をされていることを相談した。

彼女が言ってくれたこの言葉を私は今もよく思い出す。

「本当に一流の人はみんな、いいひとなの。残る人は芸能人でもいい人。インタビューした○○さんもすごくいい人だったよ。そういう人は相手にしたらだめ。自分がその人よりも上に行けばいいんだから。その人の相手をしたら、自分をその人と同じぐらい貶めることになってしまう。チャンスの神様は前髪しかないって言うでしょう。チャンスはそれぐらいつかみにくいの。でも前髪があるんだから、いざという時はきっとつかめる。そう思って私はやっているよ」

 この時のわくわくした気持ち。本物のラジオパーソナリティと話せた。いつか自分だってチャンスをつかめるかもしれない。しかも、すごくいいことを教えてもらえた。私がうじうじした性格で暗くて弱虫だから、ライバルに全く言い返せなかったけれど、それで結果的によかったのだ。

教えてくれたことをメモしたらすごく喜んでくれた。

その方が開いてくれるアナウンス教室に、フリーアナウンサーの友人も呼んであげたいと伝えると、「私は紅緒子ちゃんを応援したいからするの。みんなでいっしょに仲良くの世界じゃないんだよ」と注意された。自分の甘さを痛感する。その人のせっかくの好意をむげにするような態度だし、そういうライバルや友人を蹴落としてでも自分が行ってやるというガッツが自分には欠けていることを感じた。

 そして、アナウンス技術がお金になることを初めて知った。

あるフリーアナウンサーの女性は二時間の講座に十万円もの金額を要求してきたらしい。当初、若いアナウンサー志望の女性が彼女に個人的にアナウンス教室を依頼すると、彼女は「私は人に教えないの。それに、私は、高いわよ」と断ってきた。しかしどうしてもとお願いした結果、通りいっぺんのことしか教えてくれず、十万円の価値が全くなかったらしい。

このアナウンサーの女性のレッスンは私は別の正規の講座で受けたことがあった。個人的ではない公の講座だったからか、ちゃんと教えてくれた。だから、人によって態度を変えていることがわかり、がっかりしてしまった。

 この方から教わったのは「声は心の鏡です。その人の性格が声に出るのです」という呪いのような言葉だ。この方が考えたわけではなく、アナウンサーの世界でよく言われる言葉だけど、私はいつもこの言葉におびえている。大した性格でない、私の欠点が声に反映されているかもしれないから。そしてこの方は本当に美声なのだ。まさにプロのアナウンサーらしくいい声なのです。いつも思うのだけど、その時は真剣にきれいな心で話すので、その一瞬だけはきれいな声を作れるのかもしれない。お母さんが子供を叱る時の声と、電話でよそいきの声を作る時が別人になるような感じかな。

とにかく私は人前で話す技術に自信がなくて、ラジオパーソナリティの人が紹介してくれたプロのアナウンサーに有料で定期的に教えてもらうことにした。もういくら払ったかは覚えていない。確か千円から五千円の間ぐらいだったろうか。格安である。その方は無料でいいと言われたけれど、そういう訳にはいかないと言うことで、少しだけ払った。本物のアナウンサーの講座は全然ちがった。強調したい言葉はゆっくり言うとか、大きな声で言うとか、一般に流通しているアナウンサーの本にも書いてあるような、誰でも調べればわかる知識を教えてくれた。だけど、実際に見本としてベテランアナウンサーに話してもらうと、その深い声色、めりはりの効いた発声法、息づかい、まさにプロだった。この方には現役のアナウンサーからこの発音ってどうでしたっけ?とか質問の電話が時々かかってくるらしい。私にも困ったことがあったら無料で電話相談をしてくださるとのこと。なんてやさしい仏のような方なのだろう。いいアナウンサーの人の声には本当に暖かさがあって、大地のお父さんみたいな声である。

最近は中々お会いできず、ある日電話したら受話器から「うーうー」となんだか不気味な声が聞こえて、切ってしまった。後で知ったのだけど、脳梗塞か何かで旅立たれたそうだ。もしかしたら病床で私の電話をとってくださったのか。きちんともっとお礼を言いたかった。頂いた親切を思うと生半可な気持ちでマイクの前に立てない。

こうして私は自分なりにチャンスの前髪を待っていった。

 

そしてついに、ニュース番組のお天気おねえさんのオーディションがあり、仲間由起恵さんのものまねをしたら受かった。中学の時は地味でブスでおとなしかった私がお天気おねえさん!?完全にここでもまた友近さんのコントをやる気分だった。当時お天気おねえさんで人気だったのが小林真央さんだ。真央ちゃんを研究して明るくかわいらしくしゃべるようがんばった。だから真央ちゃんは私の二十代のアイドルだった。真央ちゃんのニュースを聞くと、テレビの前と普段の真央ちゃんがいっさい変わらないようだ。もはや世界が認めた日本を代表するミューズとなった。どんなに上手く隠していい子のふりをしても、やはりメディアの仕事にはその人の本当の姿が映し出されるのだと思う。もう私は真央ちゃんになりたいと思わない。あんなに素晴らしい生き方は絶対にできないし、ただただ尊敬する大ファンのひとりだ。

 

しかし、お天気お姉さんのコントに出ているような気分では申し訳ないぐらい、やはりニュースの現場なので、スタッフの人の番組作りへの熱がすごかった。天気をただ読むのではなく、ディレクター業務も兼務していた。季節のネタを探して、カメラマンといっしょに撮影に行き、それを原稿にして夕方のニュースで紹介するのである。もともとテレビの裏方志望なので俄然やる気が出た。コンサバな服を着てかわいいふりをしてお天気おねえさんをする自分は気持ち悪かったけれど、テレビの映像を作るのは楽しい。出演者だけでなく、カメラマンや照明、音声などのスタッフの人が大勢いて、みんな癖のある人ばかりで、ちびまるこちゃんの大人版みたいだ。会話が面白いから、普通の返しじゃだめなのだ。洋画のコメディーの吹き替え版のようだった。トボケたり、大げさに言ったり、日ごろから会話のセンスを求められる。私はいつも頭をフル回転して、クラスで笑いをとるのをがんばっていたように、スタッフの皆さんが笑ってくれるように苦心していた。

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