【超長編】異色の経歴の薬剤師。北海道の町工場から小笠原諸島から全国放浪して多くの人に出会い、時に笑い、時に死にかけたりと、波瀾万丈の人生珍道中ものがたり

本編は、長い。


他に比して、圧倒的に長い。


正直、他の方のように読む側を徹底的に意識した文章でもない。



実は、あまりにも長過ぎると思い、一回テーマを絞って書き直そうと思ったのだがやめた。



書き直せば、お涙頂戴狙いになってしまいそうだと感じたからだ。



自分がやりたいのは、それではないはずだと思った。




今回、この文章を書いた後に感じたのは


自信を失いかけていた自分にも、既に持っているものがあると再認すること


そして、


出会ってお世話になった、多くの人に捧げたい思いも出てきた。


彼ら彼女らの中には、この先、二度と出会うことはない人もいるだろうと思うからだ。




書いていて当時を思い出して涙が何度出たかわからない。自信がなく過小評価していた自分にも沢山のお世話になった人がいて、多くの経験を積んできたということがわかった。


ある日、フェイスブックで繋がっている高校時代の同級生に、勧められて書いたのがこの自分のストーリーだ。


書き始めてびっくりしたが、


何も楽しかった経験ばかりではない、オレだって人を恨んだり、ブチ切れたり、妬んだりしてきた一人の人間であることに変わらない。


小中高生は優等生だったが、大学あたりから一転して劣等生になり、自信を持てない日々が続いた。


そういう、一見するとマイナスに見えるような感情の動きも書けるだけ書いた。


書いてないだけで、もっと良からぬこともあった。


そういう経験もまた、糧になっていくのであろうと思う。





以下は、多くの人に出会い、多くの人に助けられ、あるときは苦しんだり、死にかけたり、喜んだりしながらも


なんだかんだで成長していってる、一人の人間の物語です



なんとなく興味を持たれた人


自信のない人


今の自分が嫌いな人


周りと比べて自分がどうしようもないと感じている人


劣等生だったと感じている人




何か、気づきを得られるものがあると幸いです。




そして、読み終わったら自分自身のストーリーを書いてみてください。


きっと、大きな気づきを得られるはずです。



そして、他の誰かの助けにもなるかと思います。





かなりの長編です。



なるべく、情景描写が浮かぶような文章にしてみましたが、




一度に読み切るのは無理やと思うので、



小説を読むような気持ちで、


何回も分ける


テキトーにゆったり読むなど




していただければ幸いです。











小学生時代


記憶のある頃から、好奇心旺盛だった。


小学校1年生の時に買ってもらった、機関車トーマスのリモコンで動くおもちゃは、当時一番興味のあったモーターなるものを見たくて、1日のうちにバラバラの再起不能にして、親に怒られまくった記憶がある。



2年生のとき、阪神大震災を経験した。



揺れる直前にバチッと目が覚めて、その後すぐに揺れだして


枕元の横の本棚から逃げるように


足元に避難して、布団を被っていた


ぐらっぐらっと本当に長く感じた


揺れが収まって布団から出ると


机の角2センチくらいに引っかかって本棚は止まっていたが


中の本が、棚のガラス戸を突き破って散乱して、枕にガラスと本が突き刺さっていた


隣の弟は爆睡。あの時、バチっと目が覚めてなかったら


数センチで引っかかってなかったら


弟と逆だったら


考えると恐ろしいが、運の強さも感じる。



だいたい、小学校二年生の子どもが朝の5時台にバチッと目が覚めるのも、よく考えなくても不自然だ



今でも、ヤバい雰囲気のトンネルなんかは雰囲気でわかるし




何かしら、そういう特殊能力のようなものがあるのかもしれない


もちろん、パソコンで文字を打っている今でもその時の机を使っている。


話を好奇心に戻して、お道具箱にある、算数の数え棒。


これを本来の目的ではなく、自由に組み立ててヘリコプター(のようなもの)や、戦車(のようなもの)を自由に組み立てていたこともあった。


バラバラの、ブロックだけのレゴを組み立てて、城やクルマや町並みを自由に作っていた


おおよそ、本来の数え棒の使い方とはかけ離れているが、こういう事を否定せずに育ててくれた両親に感謝したい。


近所の有名なお寺の池に亀がいっぱいいて


チクワをエサに、タコ糸で釣ったら、



ヤツらは腹減ってるからもう入れ食いで(笑)



大漁、大漁



と、一番でかいやつの甲羅をひっくり返して、生け捕り。兄弟でチャリの前かごに入れて持って帰って


オカンに見せたら


どこで捕まえて来たの~?と


○○寺の池!


・・・。


兄弟2人、がん首揃えて、暴れる大亀を添えてお坊さんのところに謝りに行かされた。


住職曰く


「殺生はいかんよ」


いや、殺してません・・・。





近所には、きったないドブが流れており


ザリガニがいっぱいいた


ヤツらは尻尾からバックするので、


後ろから近寄り、逃げようとバックした所を


これを底の泥ごとすくい上げるので


道路っぱたはいつも、すくい上げられた泥だらけだったし、皆、一回はこのドブにはまって、悪臭のするヘドロまみれになる洗礼を受けていた


今は、フェンスが張られており入ることもできなくなってしまった。


空き地の草むらには、カマキリやバッタがいっぱいいて


素手で捕まえまくって、図鑑を見ながら一匹ずつ照合しては


ニヤニヤしていたことを思い出す


トノサマバッタは、猫じゃらしの葉っぱが大好きな上に、この葉っぱを切らすと共食いをして羽だけのトノサマバッタを後日見ることになる。


しかも大量に飼っていたものだから、家の近くの猫じゃらしが激減したのは、言うまでもない。


オオカマキリのオスを投げて飛ばして遊んだりしていた


あれは、本当によく飛ぶ


大人になった今でも、近くに子どもがいればオスは飛ぶよと言って渡したり、




見つけた時自分一人のときでも




やはり、投げて飛ばす(笑)





インターホンで遊ぼ~


と近所の子どもに誘われても


家で遊ぶことが多かった


ただ、野球は好きで


冬前に土をおこした田んぼで


泥まみれで野球をするのが好きで、これは誘われたら喜んで遊んでいた


ズブズブと足が埋まり、まっすぐに歩くことすらままならない場所で、しかも野球をするのだから、いろんな感覚がこうした環境で鍛え上げられたものだと思う。


また、人に自慢できる唯一の特技が


縄跳び


で、なぜかこれだけ、はさほど苦労せずにできた


当時は極度の水恐怖症で、顔も洗えなかったのとは大違いだ。


そして、なぜか30過ぎた今でも


三重跳びも地面で出来る


頭が重くなって首筋を傷めそうになるのと、心臓がもたないのが当時との違いだろう。




他にも、田んぼを使って


新年早々、強風注意報時に、軍手はめて糸巻き全開で凧揚げしたり


コマ回したり


ドラゴンボールや幽遊白書のメンコやったり


鬼ごっこや泥警やったり


砂場でだんご作ったり


田んぼの藁や、セイタカアワダチソウで基地を作って


稲の掘り起こされた土ついたデカイ根っこを、手りゅう弾として投げ込んで戦いとか


ラジコン、零戦プラモ、リモコン戦車、ミニ四、ビーダマン、ヨーヨー・・・


好奇心のままに、いろんなことをやった。



学校の教材も、ご多分に漏れず、好奇心からくる改造の対象になった。



モーターにプロペラつけて飛ばす教材には、


ノーマルモーターのヘボさに呆れて、



5万回転のミニ四駆用モーター(注:ノーマルは8千回転くらい)



を取り付けて遠くまで飛ばしすぎたり、蛍光灯に勢い良くぶつけて、先生に怒られたことも。



理科の教材は、常に一番最初に作り上げて誰よりも楽しんでいた。



F1カータイプのコイルを巻くモーターの教材は、タミヤの2chリモコンを取り付ける改造をして、


普通はスイッチ入れたら前に進むだけの教材を、


リモコンで、前後動作が可能にしたりすることを勝手にやっていた。




この頃は、人目なんて気にせず、未来にも悩まず、本当にいろいろ自由にやってて




オーソン・ウェルズの映画の「市民ケーン」の”Rose bud”ではないが




一番楽しかったかもしれない。





小学校3年生で現在、教士7段の親父(当時6段)に強制的に剣道やらされることに。



そう、「やらされ」たのである。



兄弟正座させられて、



誰が書いたのか、剣道教室への記入済みの申込書を前にススッと出されて




おやじ「お前ら、剣道やるな? やるな??剣道!!」




「剣道やりたいか??」ではなく



モノスゴい剣幕で言われ



NOなんて口が裂けても言えない環境を作られ



広瀬兄弟「うん・・」



と答えるなり、広瀬先生の記念すべき一発目のカミナリが落ちる





この時、既におやじではなく、鬼の広瀬先生と化しており





広瀬先生「うん、やなくて、返事はハイ!やろーがぁーーーーーー!!!!!!」





広瀬兄弟「・・・・はい。」




稽古中はお父さんって呼ぶことを許されず、実の父親を広瀬「先生」と呼ばされる。



当時小学校1年生の幼気な、弟が、うっかり



弟「おとうさんっ・・・あっ・・・」



と呼ぶものなら、0.5秒後に



広瀬先生「おとうさんと呼ぶなぁー!! おとうさんなんか、おらん!!!」



という江戸時代くらいにありそうなありがたいご指導を、週3日受ける。


夕方の7時からのドラゴンボールZもドラえもんも見れず・・・


大人になってから見るはめになった。



でも剣道は大嫌いだった。闘争心がなく、家で1人で遊びたいタイプで、試合に出ても全く勝てず、広瀬先生の息子さんと呼ばれるも、剣道はまるで駄目だった。



あまりの剣道嫌いのあまり、喘息の発作を意図的に起こす技を身につける。喘息起こしたら、剣道行かなくて済むから。


中学校以降、喘息の発作は皆無だ



この時の経験により、この先子供ができたら、



間違っても親が子供に何かを無理やりやらせることがあってはならないという考えに至る。



ちなみに、剣道の経験が活きたと初めて実感したのは


30歳になってから初めてやった「薪割り」


だった。


薪に当てることさえ困難な人が多い中、正中線から一直線に割りに行く姿を見た、後述の日本人初のチベット医であり、薬剤師でもある


小川康先生が、「広瀬くんは、いい薪割りをする」


という理由で、広瀬くんのことを見直したよ~とその後色々とひいきにしてくださったことである。


先生は、来客(特に男性)に薪割りをやってもらってその人の本当の人格を見るという方で


どうやら合格となったらしい。


20年後に、想像もつかないことで役立ってきたので、あながち剣道をしていたことは無駄ではなかったようである。




そして、小6のときに


当時ブームになっていた


ペットボトルロケットクラブの初代部長をつとめる




当時は、インターネットなんてものは一般家庭になく、本しかなかった。


友達と、道路の高架下とかに集まっていっぱい作った


1機つくるのに、炭酸飲料甩ペットボトルが最低5本必要だ


気合で飲んだり、ロケットに興味ないけど炭酸飲料飲む人にもらったりして調達していた


スポンジテープを使い、上空で二つにばらけてパラシュートで降りてくるものや


500ミリのボトルで、同じくパラシュートつきの小型のロケットを飛ばしたこともあった。


新幹線の高架に入っちゃった友達なんて、当時は今みたいに大量の、のぞみ号はなかったから


ほとんど新大阪以西便がなかったのが幸いしたのだろう、無事取りに行けたようだったが


JRの人に、それはこっぴどく怒られたらしく


以後、JRの保線用出入り口は、鉄条網と監視カメラで厳重に監視されているのは


この事件がきっかけのような気もする。


入って事故起こしたら、取り返しつかないのでもちろん絶対にダメだ。ロケットでもなんでもが万一入ったら諦めるべし。





ロケットは、おかんが買ってくれた大人向けの本を見よう見まねで、作っていた


三角関数による高度割り出し計算式とか書いてあったから、かなり本格的だった


sincostanを理解できなくても、工作はできた


通販なんてないから、そのへんのホームセンターで買ってきたM8ワッシャーやシリコンコーキングなどの部品と、母方の祖父が職人のため、そのお下がりで家にあった工具フル活用で二段式ロケットを製作したことがある。



パラシュートに古い折りたたみ傘を分解して取り付けたが、あまりの落ちる速さを間近でみたとき、



傘は人間がぶら下がって、飛び降りてもスピードは絶対落ちないと確信した。



変な挑戦をせずに済み、おかげで今も生きている。



ちなみにこの時使っていた、ロケットの発射台や噴射口は、20年経った今でも残っている。


風化することのないプラスチックの噴射口を見るたびに、あの頃のことを思い出す。




中学生時代、もちろん剣道部だった。自分の意思なんて関係ない。



中学入る前に、オヤジに顧問の先生に挨拶に連れて行かれた。


そんなに剣道強くないけど、挨拶まで来て期待の大きい経験者だっただけに、実情がわかると、扱いはまあ悲惨だった


正直、あんな思いは二度としたくない・・・。


日体大卒の顧問に怒鳴るか殴るの二択の指導で地獄の休み無しの剣道の日々。



毎週どこぞに、



センスのないゴリラの絵がデカデカと描かれた



夏場にエアコン入れると天井の吹き出し口から水が垂れてくる、顧問が御自ら運転の



ボロボロのマイクロバス、通称ゴリバスで遠征。




今でこそ、体罰は大問題になるが、当時はひどいものだった。



うちなんて、まだマシで他の学校の体罰見て震え上がったこともしばしば。




顧問が変わって、地獄の土日遠征がなくなったものの


コイツが少林寺経験者で、体罰は顔面上段回し蹴りだった。


面の上でも耳にあたると痛いので、あるとき、いつもの回し蹴りが来る寸前に少し引いて、ジュラルミンの金属製の面金が踵にあたるようにしてやったら


飛び上がって、のたうち回って痛がっていた


それ以来、体罰は面の上から手でビンタとなった。


音はともかく、あまり痛くない。



ロボットなど電子工作も始める余裕ができたので、こっちにのめり込み始めた



はんだ付けなどは、一通り工具を揃えているので今でも出来る・・・はず



今みたいに、組み立て済みではなく、



当時は、たとえキットでも



「子供向けだろうが情け容赦ない、オール要はんだ付け」



であったが、ロボット作りにハマり、工学部や高専を目指すことになる。


好きだったのは、工作だけではない。


当時の英語の先生の授業形式で


英語の歌(ビートルズ、カーペンターズ、ビリー・ジョエルなどの歌)を流して


歌詞に、その時習う単語が( )で歯抜けになっていて、聞き取るという形式で


おかげで英語が好きになり、


ビートルズやカーペンターズ、イーグルスなど歌詞の意味もわからず、


おかんの持っていた洋楽のレコードやCDを聴いてとりあえず、



発音とノリを真似する日々だった。




これが、この先英語を聞いたり話す上で生きてくるとは思わなかったが。


中学時代も、非常に濃密だったが



忘れられないことがある。




中3の秋だったか、初めて火薬のロケットを飛ばした。




あれは、確か選択授業で理科になったとき。


自由にやっていいよと言われ


俺たちは、火薬のロケットを飛ばすことにした。


もちろん、ライセンスの不要なAタイプ。


それでも、丁寧に作れば100メートルは飛ばせる。


後述の、大学卒業後の植松電機で、毎日のように子どもたちが飛ばしていたロケットと同じエンジンだ。


この頃は、もちろん、家にインターネットなんてなかった。


しかも家の電話にはFAX機能すらついていない


同じ選択授業理科のメンツの中で、友達5人くらいでチームを組み


FAXのある家の子に代引きで頼んでもらい、割り勘して


厚紙やダンボールでロケットの機体を作った


逆噴射でパラシュートが出るので、小学校のとき散々作ったパラシュートと


その折りたたみ技術


折りたたみ技が、これがまた重要で、確実に開くように、かつ小さく折りたたむことが大切で・・・


とにかく知識をフル活用して駆使して作った。


発射台は、家の缶詰の缶などで製作


近所のホームセンターでスイッチなどを購入して発射スイッチも自作した


問題は、点火時に使う電源だった


小遣い少ない中学生なので、お金はかけられない


そこで知恵を働かせて、電源には理科の実験用の電源装置を使わせてもらうことにした


グランドの真ん中で打ち上げるので、体育の先生に頼み込んでコードリールを借りて体育館から電気を引っ張った


5 4 3 2 1 0 発射!!


・・・?


-1 -2・・・


あれ飛ばない・・・


と思ったら、時間差で


バシューーーーーっ


と飛んでいった。


見えなくなるくらい。


ライセンス不要でも上手く作れば、100メートルは飛ぶエンジンだけに本当によく飛んだ。


やがて、上空で青いゴミ袋でつくったパラシュートが開くのが見えて


同じ剣道部のよくふざけていた面白い友達がダッシュでキャッチした


できるできない関係なく、面白そうだとやり始めて


結果、やれてしまう。




あの時の感動や教訓は、おそらく生涯忘れることはないだろう。






あと、余談ではあるが


皆が背がよく伸びるこの時期に


中1から中3にかけて


6センチしか伸びなかった。


中3の4月で150センチだった。


今は、ちゃんと平均身長プラスαくらいあるが。


今思っても、何をしても人より成長速度が遅い


脇なんて、19歳の時3本しかなかった。


もう、高校生のときの水泳の授業の、体操の恥ずかしさよ・・・。


ただ、おかん曰く


おむつが取れるの早い子どもでも、その後もおもらし続出していたと聞くが、


オレの場合、取れるの遅かったが、おむつが一旦取れたら以後は漏らすことなく、ピターっと取れた


らしい。


なんやねん、その話はと当時は思ったが


人より成長速度遅くても、ちゃんと回収してきてるので、


生まれつきの性格で





大器晩成型ということにしておく。






成績はなぜか女子よりも、お裁縫が上手いと家庭科の先生に感動されて


相対評価で、クラスで2人だけの5段階「5」


を家庭科でもらったのもあり、泳げない体育以外は、わりかし成績は良かった。


先生に好かれていたというのも大きいだろう。




前述の通り成績もよく、ロボットにはまっていたので、将来はロボットの研究をやろうと高校は、推薦入試で理数コースに進学した。



試験には、数学と理科以外に、理科実験の実技や面接もあり、数学はあまり得意ではない上にひねられた問題だったし(試験問題回収)、実技は時間足りなくてテキトーに書いただけなので焦ったが、受かったことを考えると、


これも運命だったのかもしれない。




高校時代




元帝国陸軍の、職業軍人たる軍人の軍曹殿で、



白兵突撃とシベリア抑留から生きて帰ってきたという経緯を持つ



それはそれは厳しい父方の祖父(剣道7段)



オヤジの少年時代、ちゃぶ台返しや鉄拳制裁は、あたりまえだったらしい・・・。



から名字だけの刺繍入り紺色の綿袴が届いた。



高校も剣道続けろよのメッセージではあるが


この頃は、既に自分でものを決めれる年齢になっていたので



ガン無視して剣道辞めた。



理数コース数学担当の先生は、阪大理学部出身の熱血漢であり


また、剣道6段で剣道部の顧問だったので、それはそれはしつこく勧誘されたが


中学時代の、期待大きくて実際がっかりされたトラウマ的な思い出もあり


丁重にお断りした




袴は弟に強制的に贈呈してやった。


アイツは、高校生まで続けていたが辞めてしまったので


オレが弓道を再開しないと、武道血筋が絶えることになりそうだ。


ともかく、



剣道7段のオヤジと同じく、7段の祖父も激しく落胆していたらしい。




数学は地獄だった。高1で数(注:←数3ですよ)の微分終了と積分少々までいく速さで、


毎日朝7時半から数学強制補修があった。


当時の時間割を撮っておけばよかったが、スマホもガラケーもない時代で残っていないが


ほとんど数学だったことを覚えている。


面白い先生で


Xのことを


エッキス


と言った。


これがあんまり出ない確率や場合の数はともかく


高校数学の大半を占める、関数や微積などで


3エッキスの3乗+2エッキス2乗ー6エッキス+5を微分してやると、9エッキス2乗+4エッキス・・・


とエッキス連発になると、さすがにクラスから笑い声が漏れた


クラスの誰かが、わかっていて


「これ何て読むんですか?」


とわざとXの入った言葉を聞いたヤツもいて、判明したのが


Excelは、エキセル


Internet Explorerは、エクスプローラーというこだわりもあったようだ


毎日数学が2コマくらい、あった気がする


3コマの日もあったかな・・・。


朝、一分でも遅れたら、前述の先生から怒号と後ろに立たされる日々。



この時、大半を占める遅刻者は教室にいないので


定刻通り出席してる人間に


「お前らたるんどるんじゃーーーーーーー!!!! 理数辞めてしまえーーーーぃ!!!!」


と、授業開始直後に怒号が飛んで来るという謎の現象が頻発していた。




なんで、俺らが怒られるねんって。




この頃英語の歌、サイモン&ガーファンクルも好きになった。


毎日、レコード回して歌っていたな。



物理が難しすぎて、全くわからず、工学部行けんからってのでロボットあえなく断念。


そんなもん、コンピューターがやってくれるので、諦めるのはもったいないことだとは、今になって思うが・・・。


キルヒホッフの計算で、計算結果が正解になることはなかったのでセンスは皆無だったようだ。


真相はさておき、ロボットに関心が薄くなる一方で


高校では成績優秀な真面目な優等生顔して、家では様々なエアーガンを入手して改造して(当時の合法範囲内で)ニヤニヤしていたようなヤツだった。


高校生のときは、3年間クラスが同じだった。


席替えは皆命がけだったが、オレのポジションだけは希望がすんなり通った


誰もそこを希望しなかったから


そう、教卓の真ん前。


寝ることは皆無だった。


というより寝れない。


普段、まじめに授業受けてるので


試験勉強は直前にやって終わり


あとは、このエアーガンの改造や、英語の歌をCDやレコードに合わせて歌ったりするのに夢中になっていた。



当時、貯めていたお金をつぎ込んで、丹精込めて改造したスナイパーライフル。


その当時あたりから発売が始まった、東京マルイのボルトアクションエアライフルのVSR-10


トリガープル(引き金の引き加減)の、絶妙な調整


ホップアップのゴムも風化した虫ゴムで絶妙に調整できるようにした


バレルのテーパー処理や、内部の強化パーツなども組み込んで徹底的に精度を挙げていた


エアーガンだが、スコープだけは、実銃用を付けている。


おかんが買ってきたクリームチーズのキリを撃ち抜いては怒られるという日々が続いた。





15年近く経った今でも現存し、射撃可能なのが凄い。











この頃は、血で血を洗う(?)理数コースの成績トップ争いをやっていた



追いかける分は楽だが、トップになって死守するのが大変なのだ。



それでも何度かトップを死守した。



高3の2学期の終わり頃のある日、


そんな自分に対して、オレ何やっているんやろうと無気力になった時期があった


成績は半分以下の順位までガタ落ちした


思えば、あれが転機だったのかもしれないが


当時の、頭コチコチの典型的な優等生くんだったオレは


高卒就職なんて論外


大学進学は当然


専門や短大は屈辱


なんてふざけたことを、本気で信じていた


今では、もちろん考えられないが。


今、尊敬してる経営者の方々は


中卒や高卒の人たちが多いから、だいぶアタマは柔らかくなったようだ。


成績が落ちたのは3年の2学期くらいだったので



それまでの成績が、体育以外マジで良かった(体育以外オール5の評定平均4.74.8)ので、


評定も、卒業時には4.7はあった。



ご多分に漏れず、成績良好をいいことに医学部受験を進められ、おだてられて結局2浪することに。


この年、地方の医学部を受けて落ちたが開示すると


合格最低点から5点以内だったらしい。


これも、浪人に拍車をかけた



1浪目は、裏口の向かいにヤクザの組事務所のある予備校に通った。



もちろんこれが目当てではなく、知らなかっただけ。


たまに、そこの組ではないと思うが


いかにもやばい雰囲気のセルシオとクラウンマジェスタが前に止まり


組員で予備校の出入り口からクルマまで人の壁を作って


両脇の道に一人ずつ、紫のスーツに茶色レンズのメガネをかけてタバコをふかしているオールバックのオッチャンが立っているという光景。


絵に描いたような、めちゃくちゃイカツイその筋の人達が、予備校に通う坊っちゃんだかお嬢だかを迎えに来ていた。


予備校の記憶なんて、


トークのオモロい講師陣と


このヤクザ関連の記憶しかない。


そして、今は少子化で閉鎖されてしまったらしい。


 


この年はセンター試験失敗して、あえなく撃沈。


1浪目までは、ともかく


宅浪の2浪目は、モチベーション下がりすぎて、落ちこぼれる寸前だった。



ただ、この時、自衛隊の防衛大学校の受験は真剣に考えた。


血気盛んな年頃であり、祖父が職業軍人(祖父は、軍の学校出だが、一族にその道を勧めたような話は一切聞いていない)だったのもあったのか、興味はあった。


なんたって昔でいうところの士官、つまり幹部の道。


「チレンジャー」と呼ばれていると知り合いから聞いた、地方連絡部の人から毎日、電話がかかってきた。


毎日のようにではなく、毎日だ。


朝と夕方。1日2回。マジで営業精神ハンパない。


2週間悩んで断った。


幹部以外の道はないと当時から決めていた。


翌日、ポストには


予備自衛官補の募集案内が入っていた


ただでは起きぬ、さすが自衛隊



ちなみに、オレは今は薬剤師なので、予備役の技能区分で応募して、もし受かって予備自衛官補の訓練終了すれば


衛生の幹部の予備自衛官になれるらしい。


士官というか幹部がいざという時にすっぽかすことは、あり得ないと思っているので軽い気持ちで応募はしたくないのもあるが


単純に、人の命令を聞いて動きたくなくなってきたからというのもまま、ある。




この頃、20歳の誕生日の翌日に



視力回復の、レーシック手術を受ける。



親の承諾不要になるからという理由でこの日に決めていた。





たぶん、今から考えても



「20代で一番大きな決断」



だったと思う。



手術は目だけ麻酔なので、過程は全部覚えているが



アレをやるなんて今なら、死ぬほど悩み、迷うだろう。



この2浪目の入試に至っては、オヤジに


これで落ちたら、お前、就職しろよと言われてて


試験当日、謎の熱を出しながらヒーヒー言いながら受けて、



なぜか受かった。



大学受かったと、高校の先生に報告に行ったら





「よく、落ちこぼれなかったな。」





のありがたい一言をいただいた。




おめでとうの前に、それを言うんかよ・・・。




前にも述べたがオレは、理数コースのクラストップだったこともある。


当時の担任の先生は、なんと2浪目の時点で誰もいなかった。


みんな、転任していたのだ。




時代は変わって、オレが20代最後の年くらいに



高校卒業から10年経つか経たないかくらい・・・。



ワレワレで理数コースが最後、次代から課程が変わり(俗にいう「ゆとり」)、名前変わって、なんたらコースになっていたが、




少子化でそのコース自体が廃止になってしまったのだ。




オレらが、血で血を洗うトップ争いをしたコースは、もう存在すらしない・・・。






話を戻して。




この頃から、自分のやりたいことのために進路を決めなくなった。




いや、やりたいことをやるために、進路を決めていいということを知らなかった。



今の時代みたいに、好きなことやって生きようなんてオーラは


ミジンコほどもなかったし


成績のいい人は、どんどん志望校のレベルを上げろの一点張りだった。



大学でもなんでも進路は


自分のやりたいことを極めるためにあるもの


そのために大学がどうしても必要なら大学に行けばいいし


そうでなければ、行く必要もないし、行ってもあっという間に時間過ぎて無駄に過ごすだけで何も身につかん。


これは、オレがこの先も伝えていきたいテーマでもある


ただ、この頃は典型的な


小中高→大学→就職というベルトコンベア


以外考えつかなかったので



2浪したからには、フツー(?)の4年制の大学なんて行けない・・・。




2浪目は、もはや医学部受験する気力なく、、、




そやったら、なんとなく薬学部でしょ!?



というクソ以下の理由で薬学部へ進学したのだった。



しかも、弓道部があるという理由で大阪まで通わせてもらった




飛び道具がどうにも、好きらしい。




黙って行かせてくれた親父に本当に感謝している。




オヤジよ、息子は本当に感謝してるぜ!




オヤジは、大学に行ってないサラリーマンだが、


それだけに、大学は最高学府であるという意識が強かったのか、理由はいまだに聞けてないが


シベリア抑留中のことなど戦争のことは、ほとんど話さなかったという祖父を彷彿させる、


普段は頑固で何も語らない人間だから、本当にわからない。




本当に大きく感謝をしている。




他の大学とは違い、医学部薬学部など「単科」の医療系は地獄。安易に進学すべきではない。



いや、したらアカンよ、マジで。



以下比較を書いてみた


一般的な大学(国公私立;伝聞したもの)


夏休み、冬休み・・・各二ヶ月以上(長いっ!)


3年(回生)までの留年・・・ないところ多い


単位の取り貯め・・・できる


バイト・・・できる


朝から晩まで授業・・・ほぼない


バックパックの世界旅・・・長期でできる


卒業試験・・・ないところが多いみたいやし、何それ?と聞き返されたこともある



「単科」医療系大学(出身校の場合)


夏休み:二週間、冬休み12/281/7くらいまで。社会人と同じくらい。研究室期間はもっと少なく、とある友人は1年間の休みは二日間しかなかった。イチローかっ!


研究室の教授など、学生時代は除夜の鐘を聞きながら実験してたとか言ってたな。


留年・・・全科目必修。毎年必ず取らないと即留年。


単位取り貯め・・・全科目必修のため不可能


バイト・・・すると留年の確率が急上昇。実習、研究室配属期間中はまず無理。部活なしの下宿生であれば可能かもしれんが。


朝から晩まで授業・・・ほぼ毎日。筆跡鑑定で出席を取られたこともある。しかも、毎回バーコードの印刷された紙を変更するので代返もできない仕組みだった。


バックパックの世界旅・・・二週間でちょうどお腹壊す頃に帰国するレベルで可能


卒業試験・・・国試形式、朝から晩まで4日間




弓道部では会計をしていた。幹部になってから、旧来のシステムとかいっぱい変えたった。そういうのも、好きなんやろうと思う。



弓道やってる人なら誰でも知っている阿波研造先生だの、浦上栄先生だのYouTube動画だのブログだの、弓道座談会(ネットの掲示板)などをいろいろ、研究したりしていて同期のそういうのが好きな連中とよく話してたし、寒くても自主練なんかもしてたな~。


すぐに別のことにハマり始めたりしてオレは、パッとしなかったが


同期の一人は、大学から始めて、なんと在学中に大阪代表の国体選手になった


面白いことに全く意見が合わず、事あるごとに口論になったりして女子がうんざりしていたこともあった記憶がある


その努力する姿、真摯に取り組む姿は凄かった。


発する言葉に重みもあり、とても20代とは思えない良いことを言っていたし、説得力もあった


文武両道の鑑のような人間で学業面も非常に優秀で、後輩にも慕われていた、いいヤツだった。


久しく会ってないが、会えば会ったで、また意見が合わなくてあーだこーだと言いそうだが


これもまた、楽しみではある。



オレはちなみに早気気味で、二段を5回落ちている。


実技(審査ではなんといったか忘れた)で外してキレて、その後の学科を捨てて途中で帰ったこともあり、あとで会場まで戻らされて、応援に来てくれていただけの無関係の先輩や、ミスドのドーナッツを差し入れに持ってきただけの後輩も巻き込んで審査員の先生方に謝ったこともあった。


すんません。。。



今も弓矢や道着袴一式あるので、いつでも再開できるが、さていつになることやら。




つるんでいたグループが大阪人の友達のせいで、


昼休みの食堂で毎日一発芸の日々だった。


トレイ1枚、皿1枚、箸1本その辺にあるものを何でも使って一発芸をしなくてはならない。


本当に、よく毎日あんなことやってたなと懐かしく思う。




授業中は、高校生の時と打って変わり、後ろのグループだった。



成績上げたければ、前に座るべし。



いろいろやってたが、印象的なのは



エアーウォーターガンと水爆(水風船に水入れて投げるやつ)で校内(もちろん屋外)で5月の寒いときに大会をやった



ルール:翌日に風邪引いたやつ負け



結果:誰も風邪ひかず引き分け。アホは風邪引かないは、本当だった。



コーラにミンティアをぶっこんで、数メートルの高さまで勢いよく吹き出す泡を、じゃんけんで負けたやつ飲むってやつ。メントスではなかった。真似禁止。



デスソース(死ぬほど辛いやつ)をじゃんけんで負けたやつはカレーにどばどばかけて食べる


昼休みに食べたやつは、30分以上トイレに行ったきり帰ってこなかった・・・


これも真似禁止。



これ、当時はそんな習慣なかったが


YouTubeで配信していれば、近大ならぬ薬大ボーイズみたいに話題にはなったかもしれないと今では思うこともあるが


当時は、YouTuberなんて言葉は日本に存在しなかったし、たぶん、あのヒカキンさんですら今ほど有名でなく、てかほとんど知る人もない状況下で一人で地道に頑張られていた頃だと思うので、難しかっただろう。




などやってるうちに、時間が経つのは早く、気づいたら試験という感じで、過去問のコピー大会などやってるうちに、あっという間に4回生になってしまった。





資格があれば、一生安泰だよねっていう雰囲気が好きにはなれなかった。



平家物語。



諸行無常の響きありって、暗唱したやろ・・・。



他人事やと思っとるやろ、まったく・・・。





ふつーの薬剤師には、絶対なりたくないし、






かといってそれ以外の生き方も分からず悩む日々・・・



てか、今もか・・・。





そんな折、たまたま、3回生の時に女性学の外部講師の授業でやった




バングラデシュ(インドの横)のグラミン銀行の創設者ムハマド・ユヌス氏の話に



スーパー感動!





その日のうちに、バングラデシュのグラミン銀行のホームページを調べたら、全編英語表記であったが



どうやら、無給のインターンップ制度があるようだとわかったので



英語で履歴書を書き、インターンシップに行くことを決意。


ちなみに、英語で履歴書はCVとかResumeeの上になんか乗ってる表記)で、これすらわからんかったのには驚いた。


カリキュラム ヴァイティだかヴィタイのつづりは書ける自信はないが、今はもちろん読めるのだが。




英語で履歴書を書いたら、日本で取った資格が何も書けんことにも驚いた




英検も漢検も2級持ってたけど、書けん。


漢検2級なんて、高1のときに受けたが


とりあえず、前日に予想問題集をテキトーにやってたら


当日、同じような問題が出まくって


ウハウハ心の中で叫びながら解いて


高1で校内トップになって、盾までもらって表彰されたこともあったのに。


海外では通用しない。


運転免許も、当時はないけど今はある薬剤師免許も


日本でしか使えない。


運転免許は、国際免許は取れるが、


それでも・・・だ。





日本では、なんだかんだ言われる資格も、海外ではことごとく通用しないと実感できたのは大きかった。





それまで海外渡航経験はない。



記念すべき、初めての海外が・・・




バングラデシュ。




よくネタにしている。




日本語なんて当然、通じないので英語を必死で独学した。



通学には毎日片道2時間半、5回乗り換えをやってたので、


JRと阪急、バスの中で、


iPod touchで、家のWi-FiでダウンロードしておいたポッドキャストのCNNStudent Newsを聞いたりしていた。


あれは、いい。10分程度で短く、学生向けでわかりやすく、はっきり発音してくれるので集中力が続きやすい。


BBCなどは30分もあり、5分でギブアップするから時間は重要だ。


大学入試以来の、Duo3.0の単語帳を引っ張り出してきて単語覚えたり


発音特訓したり、創設者ユヌス氏の著書を英語原文で読んだり、音読本を音読して特訓しまくった。



ネットにポッドキャストに、無料で色んなものを学ぶには、今は本当にいい時代だ。




入国審査のとき



現地語で挨拶したら、印象良くなるっていう情報を聞いていたので



それとなく、数少ない知ってる現地語(アッサラーム・アライクム!)で、満面の笑みで挨拶したら




審査官も、満面の笑みで、現地語=ベンガル語で審査開始。




何言ってるのか、もうマジでわからん。




隣の帰国者のバングラ人のおっちゃんが、あきれながら英語に訳してくれて




例→審査官「!#&%$?*??」


オレ「???」


隣のおっちゃん"How long are you going to stay?"


オレ"One month"


審査官「&%$!*@」←オッケー、オッケーって笑いながら・・・





初めから、英語でやってくれ。


 


なんとか通過。


税関のおっちゃんに止められたが、


ジャパニーズ!


というと、


オー!ジャパニーズ! オッケーオッケー!


と何もなく通してくれたのには、感動した。



出ると、金網と鉄条網が張られており、ウォーキング・デッドさながら金網にぶらさがる多くの人々


送迎のクルマが出るのが遅いと、ライフルを肩から下げた警官がやってきて


日本で言うと、ドラマとかで見る、警察署の前で木の棒持って立ってるお巡りさんのあの、木の長い棒みたいなやつ



あれで、


ぼご~~~~~ん!!


とクルマをぶん殴る



クルマ凹む


っていう凄まじい光景を目の当たりにした。



海外に初めて来て、まず見た光景が




お巡りさんが、国民のクルマを木の棒でぶん殴ったら凹んだというシーン




若いオレには十分すぎる衝撃だった。



衝撃はそれだけではない


走ってるクルマのほとんどが日本車だ


ただし、白い天然ガスタンクがトランクに有り、改造されている


自国で天然ガスを調達できるので、バスやトラックもみんな天然ガス仕様で、ガソリン車はない


道路を見るとトヨタ車ばかりで、一見、日本のように思える


たまに、BMWか何か忘れたが高級ドイツ車も走っていて


おっと思うと、


ドイツの国旗たなびく大使館の車だった


あと、言葉。鬼のようになまった


Rをル、chをシュのような、英語とは思えん現地人の英語(?)発音にはめんくらった


アメリカ英語で練習してきたけど、なんじゃ!?これは!と。


ほんと、ネットラジオなどで、現地なまりの英語も勉強した方がいい。



1秒間に5回は鳴っていると思われるクラクションの喧騒は想像を絶していた



首都ダッカやと、要するに24時間鳴り止むことはない



5メートルくらい積み重なった生ゴミ山



のために強烈な悪臭を放つ道路


鼻が曲がるとは、このことかと思った。


最初の1週間は本気で曲がると思った。



これが至る所。



歩道橋で乞食の子供に凄まじい力で足にしがみつかれたこともある


あの力、どこから出るんやっていう力。



必死で振り払って帰ってみると、茶色い小さな手形が呪いのごとく、くっきりとズボンについていた



ペットボトルは、その辺に捨てていいというか、持って帰らず捨てろと言われた


なぜか


それは、貧しい人が拾ってお金に変えるからだ


投げるのは心もとなかったので、隅に立てて置いておいた。


確かに、ペットボトルはどこにも落ちていない。



この国には、今は知らないが当時はごみ処理施設も、下水処理施設もなかった


そう、その辺に・・・。



物乞いの方もそうだ


イスラム圏では、金持ちが貧しい者に寄付をするのは当たり前で


小銭などを渡すと、


無表情の無言でひったくられて終わり。


うん、当然って感じでもらっていく


「ありがとうございます!」


なんてない。


今の日本では、100%炎上しそうな行いだらけ。



日本の常識なんて簡単に吹っ飛んだ




やはり、海外には若いうちに行くべきだろう。



色んな人や事を飲める、器のようなものが身につく気がする。



日々是喧嘩!のような騒然とした日常に愕然とするも




こち亀の両津勘吉も顔負け、ゴキブリ並の適応力でなんとか




3日で慣れる。



慣れ方は至ってシンプル


「これがバングラデシュと受け入れる」


ただ、それだけだった。


しかし、その後30歳をすぎると常識が固まってきたのか、受け入れがどんどん困難になってきているのを感じる。


初心忘るべからずとして、肝に銘じておく。




あと気になったのは、現地のごきぶりがデカすぎることだ。



日本の3倍はあると思う。




見た目もはや三葉虫・・・。



トイレで巨大な三葉虫が張り付いているのを見た時、小学生以来の昆虫博士魂が戻ってきて


よく観察して気づいたが


羽がなかった。


デカイのでよく見なくても、羽はないが。


外見がむき出し。


それで、三葉虫に見えるのだろう。


デカくてグロいが、日本のアレのように、高度な飛翔力はないように思えた。






インターン生には、グラミン銀行の社員の中でも英語に長けた人間が


インターンシップコーディネーターとしてインターン生一人につき、一人ついてくれる


オレには、フマユンさんという年配の男性がついた


帰国前にインスタント味噌汁と10色カラフルボールペンをプレゼントしたが、ジェットストリームにすべきだったと後悔しているのはさておき


電話番号を教えてもらい、電話でやりとりすることが多かった


携帯は、現地購入だ。そっちの方が通話料が桁外れに安い。


その携帯に日本製品はなかった。


有名な韓国メーカーの製品ばかり。



どの機種にもワンタッチでONLEDの懐中電灯機能が付いていた。


停電の多いバングラデシュで、通話の次に使った機能が、この懐中電灯機能だったことは言うまでもない。


もちろん、ベンガルなまりの英語なので、いい聞き取りの訓練になった


身振り手振りは最終手段だ


電話では、テレビ電話しない限り通じない


他のコーディネーターの一人に


Ken,(注:当時はオレはケンと名乗っていた。)


Everyday is bargain!


と言われた


エブリデイ イズ バールゲン!


と。



この意味がなんとなく、わかったのはリキシャ(チャリンコ型ド派手人力車)に乗ったときだった。 



毎日リキシャ乗りの、にーちゃんと値引きの口喧嘩にあけくれた。


リキシャを呼んで、オッケーのサインがわかりにくい。


首をちょこんと軽く横に、無表情で振る


どう見てもNO!だが、オッケーだ。


あかんときは、アカンような態度をあからさまに取る


交渉例)


オレ ◯◯まで、10タカでお願い (◯◯?? ドーシュ タカ ディベン)


にーちゃん 「オッケーオッケー


目的地に、迷いながらもなんとか着く。


オレ ここでいいっすよ (エカネエカネ~)


オレ はい10タカ ありがとう。


にーちゃん 受け取るなり、もっとよこせ(首振って、手を差し出す)


オレ 10タカって言ったやんけ、何ゆーてんねん、アホかホンマに~・・・


関西弁まくしたて開始






とりあえず関西弁でまくしたててるうちに、



にーちゃん爆笑して根負けして引き下がってくれて必勝のパターン。


お金持ってる側の人間なので、素直に2倍でも3倍でも払っても問題なかったが


あえて、現地人になりきることにした


現地人も毎日交渉しているのだから。


これも文化。


こんな経験二度とできんやろうと。


このため


1~10、15、20、25、30、40・・・100以降のカウント法


右、左など簡単な単語



あと、1~10のベンガル数字表記も覚えた


ちなみに、


右手で親指立てるとdに見えるので、ダンリケ(dan…


左手で親指立てるとbに見えるので、バンリケ(ban…


と覚えやすい。




ベンガル特殊発音英語実例(日々の生活で、これかな~と独習)


例)アッダルワイズ otherwise(さもないと)

 

ブランシュ マネジャル branch manager(支店長)

 

ヨール カントリー イズ リーシュ カントリー your country is rich country(あなたの国=日本は豊かな国ですね)

 

アフタル ランシュ タイム after lunch time(昼食後)


これ、電話で話されると当初はマジで混乱した。


それでも数日で慣れるのだから、人間というものの適応能力侮れない。



トラックを改造しただけで


バスっぽい形の、ぼっこぼこの板金のフタ≒ボディのようなものをかぶせただけのバスなんて、


停留所で止まらず、ゆるゆる進むなか逆走車に気をつけて


ジャンプ乗り&降り。


ジャンプ乗りすると、車掌の若いにーちゃんが引っ張り上げてくれる


ドアなんてもちろん、ない。


ファイト一発みたいな感じ。


タウリンは入ってないが、欲しくなる。


インディー・ジョーンズかっ!という毎日。


ちなみに、イスラム教が関係しているらしいと聞いたが、わりと女性に優しい


女性専用席が前の方に有り


モヒラ ランボー(女性、降ります)


というと


ピターっと


止まってくれる


野郎には容赦ないだけだ。


女性に優しく、野郎には容赦しない


それだけは、万国共通のようだ。


ちなみに、自分が降りるときは


車掌のにーちゃんが、ウットラウットラ


ウットラ地区=オレの滞在場所、空港の北


というと


アミ ランボーと叫んで、飛び降りる準備をする必要がある


「ピンポン、次止まります」


なんてボタンはない




アミ ランボー!と叫んで、ドアというものが本来あるべき位置に待機して、パラシュート降下する空挺部隊の隊員よろしく飛び降りるのがバングラ式だ





ちなみに着地失敗時、当然流血、南無阿弥陀仏・・・。



バスの乗り降りも命がけ。



インディー・ジョーンズ先生もびっくりするだろう。




滞在途中お腹壊して、文字通り死にかけたことがある。



下痢ピーは日本のとは比較にならないほど強烈だった


毎夜、ウトウトすると


ビキーっと、コの字(上と左右)に痛む


キョンシーかゾンビみたいに、ぎぃーやーっと叫びながら90度に起き上がる


大腸をやられていたのだろう


日本から持ってきたポカリの粉を、現地のミネラルウォーターに溶かして飲んでいたが


あるとき、コップに入れてのんでいて、しばらくしてから、再びコップで飲もうと注ぐと


大量の黒いつぶつぶが・・・


蟻だった。


途上国、恐るべし。


ちなみに、この下痢ぜんぜん良くならなかったので、日本の医学部で勉強したって先生に診てもらった


いわゆる赤ひげ先生で


治療代は、海外の医療機関は法外な値段がかかるものだが


この先生は、薬代(ニューキノロン系抗生物質とバングラの経口補水液の粉末)だけ


500タカ(350円位)


だけだった。


抗生剤は、さすが抗菌スペクトルの広いニューキノロン系だけあって、劇的に効いてまたたく間に良くなった。


バングラの経口補水液の粉末なんて


多少、日本語が出来る先生なので


「多めに、お願いします」


と言うと


先生、「オオメニー!ははっ(笑)」



え?何がおもろかったんやろ??



「オオメニー!!!!ははは(笑)」



????



何がツボに入ったんか全くわからんかったけど、多めに~でウケたんは人生で初めてやった。


2日分しか、経口補水液の粉が入ってなかったので、



「多めに」はちゃんと伝わっていたのか、今でも謎だ。



この抗生剤の経験もあり、オレは漢方は好きだが、西洋医学の否定はしない。


日本でのことだが、救急車も呼んだことある。


それぞれに、得意・不得意はあって、それぞれの得意分野を合わせればいいという考えだ。




バングラデシュに話を戻し、


赤ひげ先生は、話に聞くと、旅行保険効くから頼むから請求してくれと


頼み込んでやっと、少額受け取るそうだ。




以下は、そのダッカの赤ひげ先生のところに行く、前の日の話。




この日、いつものように蒸し暑い日だった。


ボッロボロのバスもどきの車内でダッカ大学(日本で言う、東大のような存在)


の学生と英語で話していた


彼に聞かれて、質問の意図がよく分からず、何度も聞き返したのが




「日本は、大学の授業は何語か」




という質問。




え??いや、日本語やけど・・・




と答えたが



ダッカ大学は、授業は全て英語らしい



これもショックを受けた




日本もそういえば、大学の年配の教授たちが我々の学生時代、教科書は英語だったと言っていた


これは、要するに


君らは試験が大変というが、我々が学生の頃は教科書が英語だった。


日本語の教科書で試験勉強できるだけ、ありがたいと思えと、まあそういうことである。


小説「坂の上の雲」にもあるように、昔の明治の頃、海軍兵学校は、かの秋山真之が在学中の授業は英語であったようだし、まんざらありえない話ではないが



学校の授業が母国語であるのは、幸せな証拠だと実感した



ダッカ大学生が降りたあと、その後ろで聞き耳を立てていて


オレが日本人だと知った、バングラデシュ人が話しかけてきた


日本語で話しかけてきて


外国で日本語で話しかけて来る人は怪しいは常識だ。


当初、めちゃくちゃ、怪しんでいたのだが



「ワタシ、メグスリノキのケンキュウをトウダイでシテマシタ」



っていうすごい人だった。


内容がポスドクがどうのこうのなど、かなり理系だったのと、悪い人ではないと野性の勘でわかったので


話しこんでいた。



その時、



下痢の脱水症状だろうか



突如、目の前が紫色になり、身体がしびれてきて、手の指が伸び切って反り返って痙攣していた


後でわかったが、危険な低ナトリウム血症らしい。


思い当たるフシがあったので、これ以後は塩を入れた小瓶を持ち歩いていた。


この頃はそんなこと知る由もない。ただ、危険やと思い、ひとまず降りることにした。


一緒に降りましょうか?


と言われて、お願いしますと頼んで助けてもらった


水とバナナを買ってきてくれて、なんとか生き延びた


水を買ってきてくれる間、気持ちよくてあっという間にうとうとして、トンと落ちた気がする


その後すぐに、ハッと目が覚めたのだが、


一回死んだのか、気を失っただけなのか




いずれにせよ、幸運であることには間違いない。




この日の目的は、ダッカ市内の中央郵便局で日本から自分で送った荷物を受け取ることだったが、ワイロをひたすらせがまれることになった。



箱代よこせ(オレの箱じゃ、ボケー!)


税金よこせ(オレの荷物受け取るのに、何の税金やねん!)


お釣り当然帰ってこず、受け取るなり



「困ったときは俺に言え」と満面の笑み。



さらに、あろうことかダンボールのテープを巨大な包丁でぶった切って


恐れ多くも人様の荷物を勝手に、しかも包丁で開けようとする、クレイジー職員たちを一喝。



二度とおっさん達には頼むか、ボケーっ




20回以上たらい回し&ワイロでなんとか受取。


あの~、オレの荷物なんですけど・・・。



このワイロ地獄の郵便局は、英語が全く通じなかったため、生命の恩人に通訳してもらって受け取れた


彼も、もうすぐカナダかどこかの外国へ研究者(ポスドク)として赴くとかで、書類を中央郵便局で差し出すためにきていた。


そう、バングラデシュに限らず途上国は、切手を剥がされて郵便物は捨てられ届かない。荷物も然りだ。


ポストに投函して届くのは、当たり前ではない。


荷物を郵便局の窓口で普通に受け取れるのは、普通ではない。


バングラデシュなど途上国にEMSはやめたほうがいいかもしれない


送れても簡単に受け取れない。


賄賂を要求されるから。


いや、あえていい経験になると、高価ではないものでやってみる価値はあるかもしれない。


そして郵便局のトイレ、かの、三葉虫型ごきぶり推定数百匹、いや1000匹単位かが壁にびっしりいた・・・


もう、ガッサガサという凄まじい音


今でも、幻かオレの記憶違いかと思うことがあるが


何もいなければ記憶にも残らんはず


やはり、、、



いたのだろう・・・。



そして、彼は何より生命と荷物受け取りの大恩人だ


帰りも住んでいる場所が偶然近くと判明し、一緒にCNG(緑色のオート三輪みたいなん)の値段の交渉もしてもらったが、さすがプロだと思った。


CNGの運ちゃんは、マリオカートのように、針で縫うような命がけの荒い運転ではあったが、我々は信じられん格安の値段で帰ることができた。


この後、後述のタンガイルへの住み込みの研修が入ったのでまた、その後会いましょうと別れた


だが、翌週より連絡が取れなくなり、消息を知りたくてその方が留学経験もあった東大に、



帰国後、こういう方探してますとメール連絡するも(東大に)



ガン無視されて(東大に)、未だ命の恩人に再会できずにいる。


彼は、Dr.カリムと名乗ってい