【超長編】異色の経歴の薬剤師。北海道の町工場から小笠原諸島から全国放浪して多くの人に出会い、時に笑い、時に死にかけたりと、波瀾万丈の人生珍道中ものがたり

本編は、長い。

他に比して、圧倒的に長い。

正直、他の方のように読む側を徹底的に意識した文章でもない。


実は、あまりにも長過ぎると思い、一回テーマを絞って書き直そうと思ったのだがやめた。


書き直せば、お涙頂戴狙いになってしまいそうだと感じたからだ。


オレがやりたいのは、それではないはずだと思った。



今回、この文章を書いた後に感じたのは

自信を失いかけていた自分にも、既に持っているものがあると再認すること

そして、

出会ってお世話になった、多くの人に捧げたい思いも出てきた。

彼ら彼女らの中には、この先、二度と出会うことはない人もいるだろうと思うからだ。



書いていて当時を思い出して涙が何度出たかわからない。自信がなく過小評価していた自分にも沢山のお世話になった人がいて、多くの経験を積んできたということがわかった。

ある日、フェイスブックで繋がっている高校時代の同級生に、勧められて書いたのがこの自分のストーリーだ。

書き始めてびっくりしたが、

何も楽しかった経験ばかりではない、オレだって人を恨んだり、ブチ切れたり、妬んだりしてきた一人の人間であることに変わらない。

小中高生は優等生だったが、大学あたりから一転して劣等生になり、自信を持てない日々が続いた。

そういう、一見するとマイナスに見えるような感情の動きも書けるだけ書いた。

書いてないだけで、もっと良からぬこともあった。

そういう経験もまた、糧になっていくのであろうと思う。




以下は、多くの人に出会い、多くの人に助けられ、あるときは苦しんだり、死にかけたり、喜んだりしながらも

なんだかんだで成長していってる、一人の人間の物語です


なんとなく興味を持たれた人

自信のない人

今の自分が嫌いな人

周りと比べて自分がどうしようもないと感じている人

劣等生だったと感じている人



何か、気づきを得られるものがあると幸いです。



そして、読み終わったら自分自身のストーリーを書いてみてください。

きっと、オレのように大きな気づきを得られるはずです。




かなりの長編です。


なるべく、情景描写が浮かぶような文章にしてみましたが、



一度に読み切るのは無理やと思うので、


小説を読むような気持ちで、

何回も分ける

テキトーにゆったり読むなど



していただければ幸いです。



小学生時代

記憶のある頃から、好奇心旺盛だった。

小学校1年生の時に買ってもらった、機関車トーマスのリモコンで動くおもちゃは、当時一番興味のあったモーターなるものを見たくて、1日のうちにバラバラの再起不能にして、親に怒られまくった記憶がある。


2年生のとき、阪神大震災を経験した。


揺れる直前にバチッと目が覚めて、その後すぐに揺れだして

枕元の横の本棚から逃げるように

足元に避難して、布団を被っていた

ぐらっぐらっと本当に長く感じた

揺れが収まって布団から出ると

机の角2センチくらいに引っかかって本棚は止まっていたが

中の本が、棚のガラス戸を突き破って散乱して、枕にガラスと本が突き刺さっていた

隣の弟は爆睡。あの時、バチっと目が覚めてなかったら

数センチで引っかかってなかったら

弟と逆だったら

考えると恐ろしいが、運の強さも感じる。


だいたい、小学校二年生の子どもが朝の5時台にバチッと目が覚めるのも、よく考えなくても不自然だ


今でも、ヤバい雰囲気のトンネルなんかは雰囲気でわかるし



何かしら、そういう特殊能力のようなものがあるのかもしれない



話を好奇心に戻して、お道具箱にある、算数の数え棒。

これを本来の目的ではなく、自由に組み立ててヘリコプター(のようなもの)や、戦車(のようなもの)を自由に組み立てていたこともあった。

バラバラの、ブロックだけのレゴを組み立てて、城やクルマや町並みを自由に作っていた



近所の有名なお寺の池に亀がいっぱいいて

チクワをエサに、タコ糸で釣ったら、


ヤツらは腹減ってるからもう入れ食いで(笑)


大漁、大漁♪


一番でかいやつの甲羅をひっくり返して、生け捕り。兄弟でチャリの前かごに入れて持って帰って

オカンに見せたら

どこで捕まえて来たの~?と

○○寺の池!

・・・。

兄弟2人、がん首揃えて、お坊さんのところに謝りに行かされたな。

住職曰く

「殺生はいかんよ」

いや、殺してません・・・。




近所には、きったないドブが流れており

ザリガニがいっぱいいた

ヤツらは尻尾からバックするので、

後ろから近寄り、逃げようとバックした所を

これを底の泥ごとすくい上げるので

道路っぱたは、いつも泥だらけだったし、皆、一回はこのドブにはまる洗礼を受けていた

空き地の草むらには、カマキリやバッタがいっぱいいて

素手で捕まえまくって、図鑑を見ながら一匹ずつ照合しては

ニヤニヤしていたことを思い出す



オオカマキリのオスを投げて飛ばして遊んだりしていた

あれは、本当によく飛ぶ

大人になった今でも、近くに子どもがいればオスは飛ぶよと言って渡したり、



見つけた時自分一人のときでも

やはり、投げて飛ばす(笑)




インターホンで遊ぼ~

と近所の子どもに誘われても

家で遊ぶことが多かった

ただ、野球は好きで

冬前に土をおこした田んぼで

泥まみれで野球をするのが好きで、これは誘われたら喜んで遊んでいた




また、人に自慢できる唯一の特技が

縄跳び

で、これはさほど苦労せずにできた

当時は極度の水恐怖症で、顔も洗えなかったのとは大違いだ。

そして、なぜか30過ぎた今でも

三重跳びも地面で出来る



他にも、田んぼを使って

新年早々、強風注意報時に、軍手はめて糸巻き全開で凧揚げしたり

コマ回したり

ドラゴンボールや幽遊白書のメンコやったり

鬼ごっこや泥警やったり

砂場でだんご作ったり

田んぼの藁や、セイタカアワダチソウで基地を作って

稲の掘り起こされた土ついたデカイ根っこを、手りゅう弾として投げ込んで戦いとか

ラジコン、零戦プラモ、リモコン戦車、ミニ四、ビーダマン、ヨーヨー・・・

いろんなことやったな~。


学校の教材も、ご多分に漏れず、好奇心からくる改造の対象になった。


モーターにプロペラつけて飛ばす教材には、

ノーマルモーターのヘボさに呆れて、


5万回転のミニ四駆用モーター(ノーマルは8千回転くらい)


を取り付けて遠くまで飛ばしすぎたり、蛍光灯に勢い良くぶつけて、先生に怒られる。


理科の教材は、常に一番最初に作り上げて誰よりも楽しんでいた。


F1カータイプのコイルを巻くモーターの教材は、タミヤの2chリモコンを取り付ける改造をして、

普通はスイッチ入れたら前に進むだけの教材を、

リモコンで、前後動作が可能にしたりすることを勝手にやっていた。



この頃は、人目なんて気にせず、未来にも悩まず、本当にいろいろ自由にやってて



オーソン・ウェルズの映画の「市民ケーン」の”Rose bud”ではないが



一番楽しかったかもしれない。




小学校3年生で現在、教士7段の親父(当時6段)に強制的に剣道やらされる。


兄弟正座させられて、


誰が書いたのか、剣道教室への記入済みの申込書を前にススッと出されて



おやじ「お前ら、剣道やるな? やるな??剣道!!」



「剣道やりたいか??」ではなく


モノスゴい剣幕で言われ


NOなんて口が裂けても言えない環境を作られ


広瀬兄弟「うん・・」


と答えるなり、広瀬先生の記念すべき一発目のカミナリが落ちる




この時、既におやじではなく、鬼の広瀬先生と化しており




広瀬先生「うん、やなくて、返事はハイ!やろーがぁーーーーーー!!!!!!」




広瀬兄弟「・・・・はい。」



稽古中はお父さんって呼ぶことを許されず、実の父親を広瀬「先生」と呼ばされる。


当時小学校1年生の幼気な、弟が、うっかり


弟「おとうさんっ・・・あっ・・・」


と呼ぶものなら、0.5秒後に


広瀬先生「おとうさんと呼ぶなぁー!! おとうさんなんか、おらん!!!」


という江戸時代くらいにありそうなありがたいご指導を、週3日受ける。

夕方の7時からのドラゴンボールZもドラえもんも見れず・・・

大人になってから見るはめになった。


でも剣道大嫌いだった。闘争心がなく、家で1人で遊びたいタイプで、試合に出ても全く勝てず、広瀬先生の息子さんと呼ばれるも、剣道はまるで駄目だった。


あまりの剣道嫌いのあまり、喘息の発作を意図的に起こす技を身につける。喘息起こしたら、剣道行かなくて済むからね。

中学校以降、喘息の発作は皆無だ


この時の経験により、この先子供ができたら、

間違っても親が子供に何かを無理やりやらせることがあってはならないという考えに至る。



そして、小6のときに

当時ブームになっていた

ペットボトルロケットクラブの初代部長をつとめる



当時は、インターネットなんてものは一般家庭になく、本しかなかった。

友達と、高架下とかに集まっていっぱい作った

1機つくるのに、炭酸飲料甩ペットボトルが最低5本必要だ

飲んだり、ロケットに興味ないけど炭酸飲料飲む人にもらったりして調達していた

スポンジテープを使い、上空で二つにばらけてパラシュートで降りてくるものや

500ミリのボトルで、同じくパラシュートつきの小型のロケットを飛ばしたこともあった。

新幹線の高架に入っちゃった友達なんて、当時は今みたいに大量の、のぞみ号はなかったから

ほとんど新大阪以西便がなかったのが幸いしたのだろう、無事取りに行けたようだったが

JRの人に、それはこっぴどく怒られたらしく

以後、JRの保線用出入り口は、鉄条網と監視カメラで厳重に監視されているのは

この事件がきっかけのような気もする。

入って事故起こしたら、取り返しつかないのでもちろん絶対にダメだ。ロケットでもなんでもが万一入ったら諦めるべし。




ロケットは、おかんが買ってくれた大人向けの本を見よう見まねで、作っていた

三角関数による高度割り出し計算式とか書いてあったから、かなり本格的だった

sincostanを理解できなくても、工作はできた

通販なんてないから、そのへんのホームセンターで買ってきたM8ワッシャーやシリコンコーキングなどの部品と、母方の祖父が職人のため、そのお下がりで家にあった工具フル活用で二段式ロケットを製作したことがある。



パラシュートに古い折りたたみ傘を分解して取り付けたが、あまりの落ちる速さに、


傘は人間がぶら下がって、飛び降りてもスピードは絶対落ちないと確信した。




変な挑戦をせずに済み、おかげで今も生きている。


ちなみにこの時使っていた、ロケットの発射台や噴射口は、20年経った今でも残っている。

風化することのないプラスチックの噴射口を見るたびに、あの頃のことを思い出す。



中学生時代、もちろん剣道部だった。自分の意思なんて関係ない。


中学入る前に、オヤジに顧問の先生に挨拶に連れて行かれた。

そんなに剣道強くないけど、挨拶まで来て期待の大きい経験者だっただけに、実情がわかると、扱いはまあ悲惨だった

正直、あんな思いは二度としたくない・・・。

日体大卒の顧問に怒鳴るか殴るの二択の指導で地獄の休み無しの剣道の日々。


毎週どこぞに、


センスのないゴリラの絵がデカデカと描かれた


夏場にエアコン入れると天井の吹き出し口から水が垂れてくる、顧問が御自ら運転の


ボロボロのマイクロバス、通称ゴリバスで遠征。



今でこそ、体罰は大問題になるが、当時はひどいものだった。


うちなんて、まだマシで他の学校の体罰見て震え上がったこともしばしば。



顧問が変わって、地獄の土日遠征がなくなり


ロボットなど電子工作も始める余裕ができたので、こっちにのめり込み始めた


はんだ付けなどは、一通り工具を揃えているので今でも出来る・・・はず


今みたいに、組み立て済みではなく、


当時は、たとえキットでも


「子供向けだろうが情け容赦ない、オール要はんだ付け」


であったが、ロボット作りにハマる。

当時の英語の先生の授業形式で

英語の歌(ビートルズ、カーペンターズ、ビリー・ジョエルなどの歌)を流して

歌詞に、その時習う単語が( )で歯抜けになっていて、聞き取るという形式で

おかげで英語が好きになり、

ビートルズやカーペンターズ、イーグルスなど歌詞の意味もわからず、

おかんの持っていた洋楽のレコードやCDを聴いてとりあえず、


発音とノリを真似する日々だった。



これが、この先英語を聞いたり話す上で生きてくるとは思わなかったが。



中3の秋だったか、初めて火薬のロケットを飛ばした。



あれは、確か選択授業で理科になったとき。

自由にやっていいよと言われ

俺たちは、火薬のロケットを飛ばすことにした。

もちろん、ライセンスの不要なAタイプ。

後述の、大学卒業後の植松電機で、毎日のように子どもたちが飛ばしていたロケットと同じエンジンだ。

この頃は、もちろん、家にインターネットなんてなかった。

しかも家の電話にはFAX機能すらついていない

同じ選択授業理科のメンツの中で、友達5人くらいでチームを組み

FAXのある家の子に代引きで頼んでもらい、割り勘して

厚紙やダンボールでロケットの機体を作った

逆噴射でパラシュートが出るので、小学校のとき散々作ったパラシュートと

その折りたたみ技術

折りたたみ技が、これがまた重要で、確実に開くように、かつ小さく折りたたむことが大切で・・・

とにかく知識をフル活用して駆使して作った。

発射台は、家の缶詰の缶などで製作

近所のホームセンターでスイッチなどを購入して発射スイッチも自作した

問題は、点火時に使う電源だった

小遣い少ない中学生なので、お金はかけられない

そこで知恵を働かせて、電源には理科の実験用の電源装置を使わせてもらうことにした

グランドの真ん中で打ち上げるので、体育の先生に頼み込んでコードリールを借りて体育館から電気を引っ張った

5 4 3 2 1 0 発射!!

・・・?

-1 -2・・・

あれ飛ばない・・・

と思ったら、時間差で

バシューーーーーっ

と飛んでいった。

見えなくなるくらい。

ライセンス不要でも上手く作れば、100メートルは飛ぶエンジンだ。

やがて、上空で青いゴミ袋でつくったパラシュートが開くのが見えて

同じ剣道部のよくふざけていた面白い友達がダッシュでキャッチした

できるできない関係なく、面白そうだとやり始めて

結果、やれてしまう。

あの時の感動は、おそらく生涯忘れることはないだろう。





あと、余談ではあるが

皆が背がよく伸びるこの時期に

中1から中3にかけて

6センチしか伸びなかった。

中3の4月で150センチだった。

今は、ちゃんと平均身長プラスαくらいあるが。

今思っても、何をしても人より成長速度が遅い

脇なんて、19歳の時3本しかなかった。

もう、高校生のときの水泳の授業の、体操の恥ずかしさよ・・・。

ただ、おかん曰く

おむつが取れるの早い子どもでも、その後もおもらし続出していたと聞くが、

オレの場合、取れるの遅かったが、おむつが一旦取れたら以後は漏らすことなく、ピターっと取れた

らしい。

なんやねん、その話はと当時は思ったが

人より成長速度遅くても、ちゃんと回収してきてるので、

生まれつきの性格で



大器晩成型ということにしておく。





成績はなぜか女子よりも、お裁縫が上手いと家庭科の先生に感動されて

相対評価で、クラスで2人だけの5段階「5」

を家庭科でもらったのもあり、泳げない体育以外は、わりかし成績は良かった。

先生に好かれていたというのも大きいだろう。



前述の通り成績もよく、ロボットにはまっていたので、将来はロボットの研究をやろうと高校は、推薦入試で理数コースに進学した。


試験には、数学と理科以外に、理科実験の実技や面接もあり、数学はあまり得意ではない上にひねられた問題だったし(試験問題回収)、実技は時間足りなくてテキトーに書いただけなので焦ったが、受かったことを考えると、

これも運命だったのかもしれない。



高校時代



元陸軍の、職業軍人たる軍人の軍曹殿で、


白兵突撃とシベリア抑留から生きて帰ってきたという経緯を持つ


それはそれは厳しい父方の祖父(剣道7段)


オヤジの少年時代、ちゃぶ台返しや鉄拳制裁は、あたりまえやったらしい・・・。


から名字だけの刺繍入り紺色の綿袴が届いた。


高校も剣道続けろよのメッセージではあるが

この頃は、既に自分でものを決めれる年齢になっていたので

ガン無視して剣道辞めた。


理数コース数学担当の先生は、阪大理学部出身の熱血漢であり

また、剣道6段で剣道部の顧問だったので、それはそれはしつこく勧誘されたが

中学時代の、期待大きくて実際がっかりされたトラウマ的な思い出もあり

丁重にお断りした



袴は弟に強制的に贈呈してやった。

アイツは、高校生まで続けていたが辞めてしまったので

オレが弓道を再開しないと、武道血筋が絶えることになりそうだ。

ともかく、

剣道7段のオヤジと同じく、7段の祖父も激しく落胆していたらしい。



数学は地獄だった。高1で数Ⅲ(注:数3ですよ)の微分終了と積分少々までいく速さで、

毎日朝7時半から数学強制補修があった。

当時の時間割を撮っておけばよかったが、スマホもガラケーもない時代で残っていないが

ほとんど数学だったことを覚えている。

面白い先生で

Xのことを

エッキス

と言った。

これがあんまり出ない確率や場合の数はともかく

高校数学の大半を占める、関数や微積などで

3エッキスの3乗+2エッキス2乗ー6エッキス+5を微分してやると、9エッキス2乗+4エッキス・・・

とエッキス連発になると、さすがにクラスから笑い声が漏れた

クラスの誰かが、わかっていて

「これ何て読むんですか?」

とわざとXの入った言葉を聞いたヤツもいて、判明したのが

Excelは、エキセル

Internet Explorerは、エクスプローラーというこだわりもあったようだ

毎日数学が2コマくらい、あった気がする

3コマの日もあったかな・・・。

朝、一分でも遅れたら、前述の先生から怒号と後ろに立たされる日々。


この時、大半を占める遅刻者は教室にいないので

定刻通り出席してる人間に

「お前らたるんどるんじゃーーーーーーー!!!! 理数辞めてしまえーーーーぃ!!!!」

と、授業開始直後に怒号が飛んで来るという謎の現象が頻発していた。



なんで、俺らが怒られるねんって。



この頃英語の歌、サイモン&ガーファンクルも好きになった。

毎日、レコード回して歌っていたな。


物理が難しすぎて、全くわからず、工学部行けんからってのでロボットあえなく断念。

そんなもん、コンピューターがやってくれるので、諦めるのはもったいないことだとは、今になって思うが・・・。

キルヒホッフの計算で、計算結果が正解になることはなかったのでセンスは皆無だったようだ。

真相はさておき、ロボットに関心が薄くなる一方で

高校では成績優秀な真面目な優等生顔して、家では様々なエアーガンを入手して改造して(合法)ニヤニヤしていたようなヤツだった。

高校生のときは、3年間クラスが同じだった。

席替えは皆命がけだったが、オレのポジションだけは希望がすんなり通った

誰もそこを希望しなかったから

そう、教卓の真ん前。

寝ることは皆無だった。

というより寝れない。

普段、まじめに授業受けてるので

試験勉強は直前にやって終わり

あとは、このエアーガンの改造や、英語の歌をCDやレコードに合わせて歌ったりするのに夢中になっていた。


当時、貯めていたお金をつぎ込んで、丹精込めて改造したスナイパーライフル。

その当時あたりから発売が始まった、東京マルイのボルトアクションエアライフルのVSR-10

トリガープル(引き金の引き加減)の、絶妙な調整

ホップアップのゴムも風化した虫ゴムで絶妙に調整できるようにした

バレルのテーパー処理や、内部の強化パーツなども組み込んで徹底的に精度を挙げていた

エアーガンだが、スコープだけは、実銃用を付けている。




15年近く経った今でも現存し、射撃可能なのが凄い。










この頃は、血で血を洗う(?)理数コースの成績トップ争いをやっていた


追いかける分は楽だが、トップになって死守するのが大変なのだ。


それでも何度かトップを死守した。


高3の2学期の終わり頃のある日、

そんな自分に対して、オレ何やっているんやろうと無気力になった時期があった

成績は半分以下の順位までガタ落ちした

思えば、あれが転機だったのかもしれないが

当時の、頭コチコチの典型的な優等生くんだったオレは

高卒就職なんて論外

大学進学は当然

専門や短大は屈辱

なんてふざけたことを、本気で信じていた

今では、もちろん考えられないが。

今、尊敬してる経営者の方々は

中卒や高卒の人たちが多いから、だいぶアタマは柔らかくなったようだ。

成績が落ちたのは3年の2学期くらいだったので


それまでの成績が、体育以外マジで良かった(体育以外オール5の評定平均4.74.8)ので、

評定も、卒業時には4.7はあった。


ご多分に漏れず、成績良好をいいことに医学部受験を進められ、おだてられて結局2浪することに。

この年、地方の医学部を受けて落ちたが開示すると

合格最低点から5点以内だったらしい。

これも、浪人に拍車をかけた


1浪目は、裏口の向かいにヤクザの組事務所のある予備校に通った。


もちろんこれが目当てではなく、知らなかっただけ。

たまに、そこの組ではないと思うが

いかにもやばい雰囲気のセルシオとマジェスタが前に止まり

組員で出入り口からクルマまで人の壁を作って

両脇の道に一人ずつ、めちゃくちゃイカツイ人が立っていることもあった。

予備校の記憶なんて、

トークのオモロい講師陣と

このヤクザ関連の記憶しかない。

そして、今は少子化で閉鎖されてしまったらしい。

 

この年はセンター試験失敗して、あえなく撃沈。

1浪目までは、ともかく

宅浪の2浪目は、モチベーション下がりすぎて、落ちこぼれる寸前だった。

ただ、この時、自衛隊の防衛大学校の受験は真剣に考えた。

血気盛んな年頃であり、祖父が職業軍人(祖父は、軍の学校出だが、一族にその道を勧めたような話は一切聞いていない)だったのもあったのか、興味はあった。

なんたって昔でいうところの士官、つまり幹部の道。

「チレンジャー」と呼ばれていると知り合いから聞いた、地方連絡部の人から毎日、電話がかかってきた。

毎日のようにではなく、毎日だ。

朝と夕方。マジで営業精神ハンパない。

2週間悩んで断った。

幹部以外の道はないと当時から決めていた。

翌日、ポストには

予備自衛官補の募集案内が入っていた

ただでは起きぬ、さすが自衛隊


ちなみに、オレは今は薬剤師なので、予備役の技能区分で応募して、もし受かって予備自衛官補の訓練終了すれば

衛生の幹部の予備自衛官になれるらしい。

士官というか幹部がいざという時にすっぽかすことは、あり得ないと思っているので軽い気持ちで応募はしたくない。



この頃、20歳の誕生日の翌日に


視力回復の、レーシック手術を受ける。

親の承諾不要になるからという理由でこの日に決めていた。




たぶん、今から考えても


「20代で一番大きな決断」


だったと思う。


手術は目だけ麻酔なので、過程は全部覚えているが


アレをやるなんて今なら、死ぬほど悩み、迷うだろう。


この2浪目の入試に至っては、オヤジに

これで落ちたら、お前、就職しろよと言われてて

試験当日、謎の熱を出しながらヒーヒー言いながら受けて、


なぜか受かった。


大学受かったと、高校の先生に報告に行ったら




「よく、落ちこぼれなかったな。」




のありがたい一言をいただいた。



おめでとうの前に、それを言うんかよ・・・。



前にも述べたがオレは、理数コースのクラストップだったこともある。

当時の担任の先生は、なんと2浪目の時点で誰もいなかった。

みんな、転任していたのだ。



時代は変わって、オレが20代最後の年くらいに


高校卒業から10年経つか経たないかくらい・・・。


ワレワレで理数コースが最後、次代から課程が変わり(俗にいう「ゆとり」)、名前変わって、なんたらコースになっていたが、



少子化でそのコース自体が廃止になってしまったのだ。



オレらが、血で血を洗うトップ争いをしたコースは、もう存在すらしない・・・。





話を戻して。



この頃から、自分のやりたいことのために進路を決めなくなった。



いや、やりたいことをやるために、進路を決めていいということを知らなかった。


これは、オレがこの先伝えたいテーマでもある



大学でもなんでも進路は

自分のやりたいことを極めるためにあるもの

そのために大学がどうしても必要なら大学に行けばいいし

そうでなければ、行く必要もないし、行ってもあっという間に時間過ぎて無駄に過ごすだけで何も身につかん。

ただ、この頃は典型的な

小中高大学就職というベルトコンベア

以外考えつかなかったので


2浪したからには、フツー(?)の4年制の大学なんて行けない・・・。



2浪目は、もはや医学部受験する気力なく、、、



そやったら、なんとなく薬学部でしょ!?


というクソ以下の理由で薬学部へ進学したのだった。


しかも、弓道部があるという理由で大阪まで通わせてもらった



飛び道具がどうにも、好きらしい。



黙って行かせてくれた親父に本当に感謝している。



オヤジよ、息子は本当に感謝してるぜ!



オヤジは、大学に行ってないサラリーマンだが、

それだけに、大学は最高学府であるという意識が強かったのか、理由はいまだに聞けてないが

シベリア抑留中のことなど戦争のことは、ほとんど話さなかったという祖父を彷彿させる、

普段は頑固で何も語らない人間だから、本当にわからない。



本当に大きく感謝をしている。



他の大学とは違い、医学部薬学部など「単科」の医療系は地獄。安易に進学すべきではない。


いや、したらアカンよ、マジで。


以下比較を書いてみた

一般的な大学(国公私立;伝聞したもの)

夏休み、冬休み・・・各二ヶ月以上(長いっ!)

3年(回生)までの留年・・・ないところ多い

単位の取り貯め・・・できる

バイト・・・できる

朝から晩まで授業・・・ほぼない

バックパックの世界旅・・・長期でできる

卒業試験・・・ないところが多いみたいやし、何それ?と聞き返されたこともある


「単科」医療系大学(出身校の場合)

夏休み:二週間、冬休み12/281/7くらいまで。社会人と同じくらい。研究室期間はもっと少なく、とある友人は1年間の休みは二日間しかなかった。イチローかっ!

研究室の教授など、学生時代は除夜の鐘を聞きながら実験してたとか言ってたな。

留年・・・全科目必修。毎年必ず取らないと即留年。

単位取り貯め・・・全科目必修のため不可能

バイト・・・すると留年の確率が急上昇。実習、研究室配属期間中はまず無理。部活なしの下宿生であれば可能かもしれんが。

朝から晩まで授業・・・ほぼ毎日。筆跡鑑定で出席を取られたこともある。しかも、毎回バーコードの印刷された紙を変更するので代返もできない仕組みだった。

バックパックの世界旅・・・二週間でちょうどお腹壊す頃に帰国するレベルで可能

卒業試験・・・国試形式、朝から晩まで4日間



弓道部では会計をしていた。幹部になってから、旧来のシステムとかいっぱい変えたった。そういうのも、好きなんやろうと思う。


弓道やってる人なら誰でも知っている阿波研造先生だの、浦上栄先生だのYouTube動画だのブログだの、弓道座談会(ネットの掲示板)などをいろいろ、研究したりしていて同期のそういうのが好きな連中とよく話してたし、寒くても自主練なんかもしてたな~。

すぐに別のことにハマり始めたりしてオレは、パッとしなかったが

同期の一人は、大学から始めて、なんと在学中に国体選手になった

面白いことに全く意見が合わず、事あるごとに口論になったりして女子がうんざりしていたこともあった記憶がある

その努力する姿、真摯に取り組む姿は凄かった。

発する言葉に重みもあり、とても20代とは思えない良いことを言っていたし、説得力もあった

文武両道の鑑のような人間で学業面も非常に優秀で、後輩にも慕われていた、いいヤツだった。

久しく会ってないが、会えば会ったで、また意見が合わなくてあーだこーだと言いそうだが

これもまた、楽しみではある。


オレはちなみに早気気味で、二段を5回落ちている。

実技(審査ではなんといったか忘れた)で外してキレて、その後の学科を捨てて途中で帰ったこともあり、あとで会場まで戻らされて、応援に来てくれていただけの無関係の先輩や後輩も巻き込んで審査員の先生方に謝ったこともあった。

すんません。。。

今も弓矢や道着袴一式あるので、いつでも再開できるが、さていつになることやら。



つるんでいたグループが大阪人の友達のせいで、

昼休みの食堂で毎日一発芸の日々だった。

本当に、よく毎日あんなことやってたなと懐かしく思う。



授業中は、高校生の時と打って変わり、後ろのグループだった。


成績上げたければ、前に座るべし。


いろいろやってたが、印象的なのは


エアーウォーターガンと水爆(水風船に水入れて投げるやつ)で校内(もちろん屋外)で5月の寒いときに大会をやった


ルール:翌日に風邪引いたやつ負け


結果:誰も風邪ひかず引き分け。アホは風邪引かないは、本当だった。


コーラにミンティアをぶっこんで、数メートルの高さまで勢いよく吹き出す泡を、じゃんけんで負けたやつ飲むってやつ。メントスではなかった。真似禁止。


デスソース(死ぬほど辛いやつ)をじゃんけんで負けたやつはカレーにどばどばかけて食べる

昼休みに食べたやつは、30分以上トイレに行ったきり帰ってこなかった・・・

これも真似禁止。


これ、当時はそんな習慣なかったが

YouTubeで配信していれば、近大ならぬ薬大ボーイズみたいに話題にはなったかもしれないと今では思うこともあるが

当時は、YouTuberなんて言葉は日本に存在しなかったし、たぶん、あのヒカキンさんですら今ほど有名でなく、てかほとんど知る人もない状況下で一人で地道に頑張られていた頃だと思うので、難しかっただろう。



などやってるうちに、時間が経つのは早く、気づいたら試験という感じで、過去問のコピー大会などやってるうちに、あっという間に4回生になってしまった。




資格があれば、一生安泰だよねっていう雰囲気が好きにはなれなかった。


平家物語。


諸行無常の響きありって、暗唱したやろ・・・。


他人事やと思っとるやろ、まったく・・・。




ふつーの薬剤師には、絶対なりたくないし、





かといってそれ以外の生き方も分からず悩む日々・・・


てか、今もか・・・。




そんな折、たまたま、3回生の時に女性学の外部講師の授業でやった



バングラデシュ(インドの横)のグラミン銀行の創設者ムハマド・ユヌス氏の話に


スーパー感動!




その日のうちに、バングラデシュのグラミン銀行のホームページを調べたら、全編英語表記であったが


どうやら、無給のインターンップ制度があるようだとわかったので


英語で履歴書を書き、インターンシップに行くことを決意。

ちなみに、英語で履歴書はCVとかResumeeの上になんか乗ってる表記)で、これすらわからんかったのには驚いた。

カリキュラム ヴァイティだかヴィタイのつづりは書ける自信はないが、今はもちろん読めるのだが。



英語で履歴書を書いたら、日本で取った資格が何も書けんことにも驚いた



英検も漢検も2級持ってたけど、書けん。

漢検2級なんて、高1のときに受けたが

とりあえず、予想問題集をテキトーにやってたら

当日、同じような問題が出まくって

ウハウハ心の中で叫びながら解いて

高1で校内トップになって、盾までもらって表彰されたこともあったのに。

海外では通用しない。

運転免許も、当時はないけど今はある薬剤師免許も

日本でしか使えない。

運転免許は、国際免許は取れるが、

それでも・・・だ。




日本では、なんだかんだ言われる資格も、海外ではことごとく通用しないと実感できたのは大きかった。




それまで海外渡航経験はない。


記念すべき、初めての海外が・・・



バングラデシュ。



よくネタにしている。



日本語なんて当然、通じないので英語を必死で独学した。


通学には毎日片道2時間半、5回乗り換えをやってたので、

JRと阪急、バスの中で、

iPod touchで、家のWi-FiでダウンロードしておいたポッドキャストのCNNStudent Newsを聞いたりしていた。

あれは、いい。10分程度で短く、学生向けでわかりやすく、はっきり発音してくれるので集中力が続きやすい。

BBCなどは30分もあり、5分でギブアップするから時間は重要だ。

大学入試以来の、Duo3.0の単語帳を引っ張り出してきて単語覚えたり

発音特訓したり、創設者ユヌス氏の著書を英語原文で読んだり、音読本を音読して特訓しまくった。


ネットにポッドキャストに、無料で色んなものを学ぶには、今は本当にいい時代だ。



入国審査のとき


現地語で挨拶したら、印象良くなるっていう情報を聞いていたので


それとなく、数少ない知ってる現地語(アッサラーム・アライクム!)で、満面の笑みで挨拶したら



審査官も、満面の笑みで、現地語=ベンガル語で審査開始。



何言ってるのか、マジでわからん。



隣の帰国者のバングラ人のおっちゃんが、あきれながら英語に訳してくれて



審査官「!#”$”&%$?*??」

オレ「???」

隣のおっちゃん"How long are you going to stay?"

オレ"One month"

審査官「&%$”!*@」オッケー、オッケーって笑いながら・・・




初めから、英語でやってくれ。

 

なんとか通過。

税関のおっちゃんに止められたが、

ジャパニーズ!

というと、

オー!ジャパニーズ! オッケーオッケー!

と何もなく通してくれたのには、感動した。


出ると、金網と鉄条網が張られており、ぶらさがる多くの人々

送迎のクルマが出るのが遅いと、ライフルを肩から下げた警官がやってきて

日本で言うと、ドラマとかで見る、警察署の前で木の棒持って立ってるお巡りさんのあの、木の長い棒みたいなやつ


あれで、

ぼご~~~~~ん!!

とクルマをぶん殴る


クルマ凹む

っていう凄まじい光景を目の当たりにした。


海外に初めて来て、まず見た光景が



お巡りさんが、国民のクルマを木の棒でぶん殴るというシーン



若いオレには十分すぎる衝撃だった。


衝撃はそれだけではない

走ってるクルマのほとんどが日本車だ

ただし、天然ガスタンクがトランクに有り、改造されている

自国で天然ガスを調達できるので、バスやトラックもみんな天然ガス仕様で、ガソリン車はない

道路を見るとトヨタ車ばかりで、一見、日本のように思える

たまに、BMWか何か忘れたがドイツ車も走っていて

おっと思うと、

ドイツの国旗たなびく大使館の車だった

あと、言葉。鬼のようになまった

Rをル、chをシュのような、英語とは思えん現地人の英語(?)発音にはめんくらった

アメリカ英語で練習してきたけど、なんじゃ!?これは!と。

ほんと、ネットラジオなどで、現地なまりの英語も勉強した方がいい。


1秒間に5回は鳴っていると思われるクラクションの喧騒は想像を絶していた

首都ダッカやと、要するに24時間鳴り止むことはない


5メートルくらい積み重なった生ゴミ山


のために強烈な悪臭を放つ道路

鼻が曲がるとは、このことかと思った。

最初の1週間は本気で曲がると思った。


これが至る所。


乞食の子供に凄まじい力で足にしがみつかれたこともある

あの力、どこから出るんやっていう力。

帰ってみると、茶色い手形がくっきりズボンについていた


ペットボトルは、その辺に捨てていいというか、持って帰らず捨てろと言われた

なぜか

それは、貧しい人が拾ってお金に変えるからだ

投げるのは心もとなかったので、隅に立てて置いておいた。

確かに、ペットボトルはどこにも落ちていない。


この国には、今は知らないが当時はごみ処理施設も、下水処理施設もなかった

そう、その辺に・・・。


物乞いの方もそうだ

イスラム圏では、金持ちが貧しい者に寄付をするのは当たり前で

小銭などを渡すと、

無表情の無言でひったくられて終わり。

うん、当然って感じでもらっていく

「ありがとうございます!」

なんてない。


日本の常識なんて簡単に吹っ飛んだ


日々是喧嘩!のような騒然とした日常に愕然とするも



こち亀の両津勘吉も顔負け、ゴキブリ並の適応力でなんとか



3日で慣れる。



あと現地のごきぶりデカすぎだ。日本の3倍はあると思う。



見た目もはや三葉虫じゃ・・・。


トイレで巨大な三葉虫が張り付いているのを見た時、小学生以来の昆虫博士が戻ってきて

よく観察して気づいたが

羽がなかった。

デカイのでよく見なくても、羽はないが。

外見がむき出し。

それで、三葉虫に見えるのだろう。

デカくてグロいが、日本のアレのように、高度な飛翔力はないように思えた。





インターン生には、グラミン銀行の社員の中でも英語に長けた人間が

インターンシップコーディネーターとしてインターン生一人につき、一人ついてくれる

オレには、フマユンさんという年配の男性がついた

帰国前にインスタント味噌汁とボールペンをプレゼントしたが、ジェットストリームにすべきだったと後悔しているのはさておき

電話番号を教えてもらい、電話でやりとりすることが多かった

携帯は、現地購入だ。そっちの方が通話料が桁外れに安い。

その携帯に日本製品はなかった。

もちろん、ベンガルなまりの英語なので、いい聞き取りの訓練になった

身振り手振りは最終手段だ

電話では、テレビ電話しない限り通じない

他のコーディネーターの一人に

Ken,(注:当時はオレはケンと名乗っていた。)

Everyday is bargain!

と言われた

エブリデイ イズ バールゲン!

と。


この意味がなんとなく、わかったのはリキシャ(チャリンコ型ド派手人力車)に乗ったときだった。 


毎日リキシャ乗りの、にーちゃんと値引きの口喧嘩にあけくれた。

リキシャを呼んで、オッケーのサインがわかりにくい。

首をちょこんと軽く横に、無表情で振る

どう見てもNO!だが、オッケーだ。

あかんときは、アカンような態度をあからさまに取る

交渉例)

オレ ◯◯まで、10タカでお願い (◯◯?? ドーシュ タカ ディベン)

にーちゃん オッケーオッケー

着く。

オレ ここでいいっすよ (エカネエカネ~)

オレ はい10タカ ありがと。

にーちゃん 受け取るなり、もっとよこせ(首振って、手を差し出す)

オレ 10タカって言ったやんけ、何ゆーてんねん、アホかホンマに~・・・

関西弁まくしたて開始





とりあえず関西弁でまくしたててるうちに、


にーちゃん爆笑して根負けして引き下がってくれて必勝のパターン。

お金持ってる側の人間なので、素直に2倍でも3倍でも払っても問題なかったが

あえて、現地人になりきることにした

現地人も毎日交渉しているのだから。

これも文化。

こんな経験二度とできんやろうと。

このため

1~10、15、20、25、30、40・・・100以降のカウント法

右、左など簡単な単語


あと、1~10のベンガル数字表記も覚えた

ちなみに、

右手で親指立てるとdに見えるので、ダンリケ(dan…

左手で親指立てるとbに見えるので、バンリケ(ban…

と覚えやすい。



ベンガル特殊発音英語実例(日々の生活で、これかな~と独習)

例)アッダルワイズ otherwise(さもないと)
 
ブランシュ マネジャル branch manager(支店長)
 
ヨール カントリー イズ リーシュ カントリー your country is rich country(あなたの国=日本は豊かな国ですね)
 
アフタル ランシュ タイム after lunch time(昼食後)

これ、電話で話されると当初はマジで混乱した。



トラックを改造しただけで

バスっぽい形の、ぼっこぼこの板金のフタ≒ボディのようなものをかぶせただけのバスなんて、

停留所で止まらず、ゆるゆる進むなか逆走車に気をつけて

ジャンプ乗り&降り。

ジャンプ乗りすると、車掌の若いにーちゃんが引っ張り上げてくれる

ドアなんてもちろん、ない。

ファイト一発みたいな感じ。

タウリンは入ってないが、欲しくなる。

インディージョーンズかっ!という毎日。

ちなみに、イスラム教が関係しているらしいと聞いたが、わりと女性に優しい

女性専用席が前の方に有り

モヒラ ランボー(女性、降ります)

というと

ピターっと

止まってくれる

野郎には容赦ないだけだ。

ちなみに、自分が降りるときは

車掌のにーちゃんが、ウットラウットラ

ウットラ地区=オレの滞在場所、空港の北

というと

アミ ランボーと叫んで、飛び降りる準備をする必要がある

「ピンポン、次止まります」

なんてボタンはない



アミ ランボー!と叫んで、ドアというものが本来あるべき位置に待機して、飛び降りるのがバングラ式だ




ちなみに着地失敗時、当然流血、南無阿弥陀仏・・・。


バスの乗り降りも命がけ。


ジョーンズ先生もびっくりするだろう。



滞在途中お腹壊して、文字通り死にかけたことがある。


下痢ピーは日本のとは比較にならないほど強烈だった

毎夜、ウトウトすると

ビキーっと、コの字(上と左右)に痛む

キョンシーかゾンビみたいに、ぎぃーやーっと叫びながら90度に起き上がる

大腸をやられていたのだろう

日本から持ってきたポカリの粉を、現地のミネラルウォーターに溶かして飲んでいたが

あるとき、コップに入れてのんでいて、しばらくしてから、再びコップで飲もうと注ぐと

大量の黒いつぶつぶが・・・

蟻だった。

途上国、恐るべし。

ちなみに、この下痢ぜんぜん良くならなかったので、日本の医学部で勉強したって先生に診てもらった

いわゆる赤ひげ先生で

治療代は、海外の医療機関は法外な値段がかかるものだが

この先生は、薬代(ニューキノロン系抗生物質とバングラの経口補水液の粉末)だけ

500タカ(350円位)

だけだった。

抗生剤は、さすが抗菌スペクトルの広いニューキノロン系だけあって、劇的に効いてまたたく間に良くなった。

バングラの経口補水液の粉末なんて

多少、日本語が出来る先生なので

「多めに、お願いします」

と言うと

先生、「オオメニー!ははっ(笑)」


え?何がおもろかったんやろ??


「オオメニー!!!!ははは(笑)」


????


何がツボに入ったんか全くわからんかったけど、多めに~でウケたんは人生で初めてやった。

2日分しか、経口補水液の粉が入ってなかったので、


「多めに」はちゃんと伝わっていたのか、今でも謎だ。


この抗生剤の経験もあり、オレは漢方は好きだが、西洋医学の否定はしない。

日本でのことだが、救急車も呼んだことある。

それぞれに、得意・不得意はあって、それぞれの得意分野を合わせればいいという考えだ。



バングラデシュに話を戻し、

赤ひげ先生は、話に聞くと、旅行保険効くから頼むから請求してくれと

頼み込んでやっと、少額受け取るそうだ。



以下は、そのダッカの赤ひげ先生のところに行く、前の日の話。



この日、いつものように蒸し暑い日だった。

ボッロボロのバスもどきの車内でダッカ大学(日本で言う、東大のような存在)

の学生と英語で話していた

彼に聞かれて、質問の意図がよく分からず、何度も聞き返したのが



「日本は、大学の授業は何語か」



という質問。



え??いや、日本語やけど・・・



と答えたが


ダッカ大学は、授業は全て英語らしい


これもショックを受けた



日本もそういえば、大学の年配の教授たちが我々の学生時代、教科書は英語だったと言ってたし

小説「坂の上の雲」にもあるように、昔の明治の頃、海軍兵学校は、かの秋山真之が在学中の授業は英語であったようだし、まんざらありえない話ではないが


学校の授業が母国語であるのは、幸せな証拠だと実感した


ダッカ大学生が降りたあと、その後ろで聞き耳を立てていて

オレが日本人だと知った、バングラデシュ人が話しかけてきた

日本語で話しかけてきて

外国で日本語で話しかけて来る人は怪しいは常識だ。

当初、めちゃくちゃ、怪しんでいたのだが


「ワタシ、メグスリノキのケンキュウをトウダイでシテマシタ」


っていうすごい人だった。

内容がポスドクがどうのこうのなど、かなり理系だったのと、悪い人ではないと野性の勘でわかったので

話しこんでいた。


その時、


下痢の脱水症状だろうか


突如、目の前が紫色になり、身体がしびれてきて、手の指が伸び切って反り返って痙攣していた

後でわかったが、危険な低ナトリウム血症らしい。

思い当たるフシがあったので、これ以後は塩を入れた小瓶を持ち歩いている。

この頃はそんなこと知る由もない。ただ、危険やと思い、ひとまず降りることにした。

一緒に降りましょうか?

と言われて、お願いしますと頼んで助けてもらった

水とバナナを買ってきてくれて、なんとか生き延びた

水を買ってきてくれる間、気持ちよくてあっという間にうとうとして、トンと落ちた気がする

その後すぐに、ハッと目が覚めたのだが、

一回死んだのか、気を失っただけなのか



いずれにせよ、幸運であることには間違いない。



この日の目的は、ダッカ市内の中央郵便局で日本から自分で送った荷物を受け取ることだったが、ワイロをひたすらせがまれることになった。


箱代よこせ(オレの箱じゃ、ボケー!)

税金よこせ(オレの荷物受け取るのに、何の税金やねん!)

お釣り当然帰ってこず、受け取るなり「困ったときは俺に言え」と満面の笑み。


さらに、あろうことかダンボールのテープを巨大な包丁でぶった切って

恐れ多くも人様の荷物を勝手に、しかも包丁で開けようとする、クレイジー職員たちを一喝。


二度とおっさん達には頼むか、ボケーっ



20回以上たらい回し&ワイロでなんとか受取。

オレの荷物なんですけど・・・。


このワイロ地獄の郵便局は、英語が全く通じなかったため、生命の恩人に通訳してもらって受け取れた

彼も、もうすぐカナダかどこかの外国へ研究者(ポスドク)として赴くとかで、書類を中央郵便局で差し出すためにきていた。

そう、バングラデシュに限らず途上国は、切手を剥がされて郵便物は捨てられ届かない。荷物も然りだ。

ポストに投函して届くのは、当たり前ではない。

バングラデシュなど途上国にEMSはやめたほうがいいかもしれない

送れても簡単に受け取れない。

そして郵便局のトイレ、かの、三葉虫型ごきぶり推定数百匹、いや1000匹単位かが壁にびっしりいた・・・

もう、ガッサガサという凄まじい音

今でも、幻かオレの記憶違いかと思うことがあるが

何もいなければ記憶にも残らんはず

やはり

いたのだろう・・・。


そして、彼は何より生命と荷物受け取りの大恩人だ

帰りも住んでいる場所が偶然近くと判明し、一緒にCNG(緑色のオート三輪みたいなん)の値段の交渉もしてもらったが、さすがプロだと思った。

CNGの運ちゃんは、マリオカートのように、針で縫うような命がけの荒い運転ではあったが、我々は信じられん格安の値段で帰ることができた。

この後、後述のタンガイルへの住み込みの研修が入ったのでまた、その後会いましょうと別れた

だが、翌週より連絡が取れなくなり、消息を知りたくてその方が留学経験もあった東大に、


帰国後、こういう方探してますとメール連絡するも(東大に)


ガン無視されて(東大に)、未だ命の恩人に再会できずにいる。

彼は、Dr.カリムと名乗っていたことは覚えている。

お元気にされていることを祈る。





3食毎食カレー。手で食べた。

パッサパサのご飯をてんこ盛りにして

スプーンで、好みの何品もあるカレーを少量ずつ、ごはん皿の端に置いて

ねちょねちょ混ぜて

ショベルカーのバケットのようにすくって、親指で送り込む感じ。

それを一ヶ月・・・。意外と飽きない。美味いんすよ。

ただ、日本のカレーと違い、水分はない。

あ、水分♪

と思ったら、大量の油だったという記憶がある

途上国は若いうちに行ったほうがいいと思うのは

この油のこともある

年取ってからやと、この油は胃にもたれて、きついだろうと思った


魚は、川魚で全くクセがなくて美味しかった。イリシュマスってやつが特に。

ダルスープも美味しかったな~^^

くそ辛いカレーは

鼻水を垂らしながらヒーヒー言いながら食べるか

この辛くない、豆のスープであるダルスープで洗って食った


バングラデシュは人口が首都近辺に集中していて、頻繁に電力不足になるため、


毎日一定時刻になるとプツンと電気が途絶える。

それまでに、シャワーや携帯電話の充電などを各自済ませるのがポイント。


ダッカ郊外のタンガイル地区の支店で1週間の住み込み研修の話。

部屋は支店の2階、宿泊スペース(のようなところ)で寝泊まりした

蚊帳で守られてはいたものの、日本のように天井ではなく壁についている長い管の蛍光灯には、びっしりと蛾がへばりついており暗く

夜、トイレに行こうと廊下に出ると、停電してる上にウシガエルより大きなカエルがどっすんどっすん跳ねてたり

トイレは停電してるので真っ暗だが、懐中電灯で照らすと、壁から天井から大量のヤモリに、例の三葉虫みたいなごきぶり、それを狙う巨大クモなどがわんさかといた。

日本のゴキブリ見て、びっくりする人は、トイレで気絶するだろう。

バングラデシュはイスラム系なので何から何まで違う

例えば、イスラム圏の救急車の月マークは有名だが、そんなものが存在していた記憶がない


曜日は、日曜スタートの木曜終わりで金土が休み

花金ならぬ花木だ

つまり日曜が、こちらの月曜にあたる

もとより、日曜休みはキリスト教の日曜礼拝が起源とされているからイスラム圏には関係がないのだ

あと、当然だが豚肉と牛肉がない。

カレーは

ほとんどがチキン、マトン、フィッシュだ

あとご飯物はヤギの油使ってるという、一回食べれば、美味しいけどこの先一ヶ月は食べんかなと思うビリヤニ

ドリンクも、スプライトではなく、7アップ。

ヒンズー教も人口の1割程度を占める

この支店の支店長もヒンズー教徒で

挨拶も、ノモシュカールって俺らはしてた

ヒンズーの人はヒゲを剃ってるのが特徴で、髭の人にはアッサラーム・アライクムと言って区別してたが外したことはないので、案外見極めの基準にはいいのかもしれないが、子どもはわからんので、わからんときは、ハローでごまかすしかない。

職員の一人は、オレより年下にして、太い眉毛がつながっていた。

特殊英語発音例で書いた、 Your country is rich countryのおにーさん。

ヨール カントリー イズ リーシュ カントリー

オレと

え? Rice country??

NO NO リーシュ country!

・・・書いてください^^;

RICH

それ、リッチですよ!?

イエス、リーシュ!

え、、、いや、そこは・・・

(結局、オレが折れる)

と語り合ったこの若者は

両津勘吉以外で、現実に今まで出会った人間で後にも先にも、ただ一人の眉毛がつながっていた人間であった


そして、びっくりしたのが

このなまりになまった英語らしきものでも、他の外国人インターン生たちは、ふんふんと聞いていた

正確で完璧でなければ、会話を避ける日本人の概念が崩れた。

失礼だが、こういうのでもええんやと思えたのは、英語を話す大きな自信につながった

外国人に話しかけられたら、話すようにしている。


この国の男性は、ルンギといってスカートのような長い反物を腰に巻く習慣があり

夜、リキシャでルンギ屋に皆で出かけて買いに行って巻いて、

支店長とバングラの両津勘吉、オレと同じインターン生で、コスタリカ人のアーノルドと

上裸の男ども4人で記念撮影した写真は今でも残っている

ルンギ屋からの帰り道、コーランが流れていて、イスラム教の現地の人に

あれ、コーランですか?と聞いたら

うん

と言ったきり、あの独特の、地面に伏せて拝む様子もなかった

イスラムと言ってもわりかし、ゆるいようだった。



タンガイル滞在最終日の夜のことだ



オレと、1日5ドルか7ドルで雇う英語ーベンガル語通訳のマティンと、エリアマネージャー、そして、コスタリカ人のアーノルドの4人で机を囲んでいた。


停電中やから、オレのジェントス閃の、くっそ明るいLED懐中電灯を天井に反射させてライト代わりにして英語で談話中だった。



その時、なぜグラミン銀行のインターンシップに来たかという話題になり、



アーノルドが言った言葉が今でも強烈に残っている。



ぼくの国=コスタリカは貧しい。今も、ぼくはUZIサブマシンガンを護身用にもっている。それくらい治安が悪い。

だからこそ、祖国を豊かにするために、少しでもこのグラミン銀行のシステムを学んで帰りたい。

だから、12月(この時は9月下旬)までこの国に滞在して、めいっぱい学んで帰るんだ



興味本位で来ました~^^と言えない俺は、当然頭を抱える。



が、バレないように、満面の笑みで平静を装っていた。




この考え方は、日本では司馬遼太郎氏の有名な作品「坂の上の雲」の秋山兄弟らに代表される、海外留学して学んだ知識や経験を日本に、出来る限り早く、また持ち帰ったぶんだけ日本が発展するということを使命としていた明治の先人の心境であり、


また戦後、空襲の焼け野原から復興させていった祖父らかその少し上の世代にはあった考え方だったが、豊かになった現代の日本では絶滅した考え方そのものだ。


そういう雰囲気は日本に絶滅していてないので、他の国の若い人から聞けたのはかなり貴重な経験だった。



タンガイルの話はまだある



その前に宿でキムさんという、年配の在日2世の方に会った。聞けば、世界一周してるとのことだったが

日本人で、バングラデシュに来る人は意外と少なく、町中でもまず日本人は見たことがなかった

お隣のインドは多いのだが。

瞬く間に仲良くなり

オレがグラミン銀行のインターンで、来週から住み込みですと言うと

自己責任で行くから、同行させてくれないだろうかとのことで

コーディネーターに電話でその場で頼んで、銀行は一切責任とりませんという誓約書を後日書いて同行を特例で許可してもらった。

英語が話せないキムさんでも、バングラデシュ人やアーノルドにMr.キムと呼ばれてかなり好かれていた

ある時、グラミン ベガー プログラム(物乞い救済プロジェクト)の元物乞いのおばあさんに話を聞きに行くということで

キムさんや、先ほどのアーノルド、通訳のマティンとともに行った

キムさんが、

あのさ、けんちゃん(オレのこと)、通訳してほしいんだけど


「もしもっとお金を得たら、次に何をしたいですか?」って聞いてくれない?


と言われたので、英語でマティンに聞いて、ベンガル語に訳してもらった


余談だが、江戸時代、ペリーが黒船で来た時もこんな感じだったのだろうかと、ふと思った。

日本語オランダ語英語・・・英語オランダ語日本語の流れ。

当時、日本は鎖国しててオランダ語通詞しかいなかったから、こんな思いでやっていたのかなと。


すると、おばあさんからの返事がない

オレの英語ミスったかと、マティンに聞くと

大丈夫、伝わってる、と。

でも、おばあさん、考え込んだきり困った顔をして応答がなくて、我々もバツが悪くて

笑顔で、いいっすよ、いいっすよと言ってその質問をなかったことにした

帰りしに、キムさんがぼそっと言った言葉が印象的で

「あのおばあさん、村人や行員に強く勧められて救済プログラム受けたって言ってたけど

返事できなかったあたり、おばあさん、もしかしたら物乞いやってた時のほうが幸せだったのかもしれないね、本当のところはわからないけどもね・・・」

オレも近いことを感じていたので、物乞いを救う素晴らしいプロジェクトやと思ってただけに考え込んでしまった。

皆に好かれていた、本当にいい人だったキムさんとはタンガイルで別れた

皆、「Mrキムは無事帰ったか、ケン??」と聞いてくるほど、本当に好かれていた

在日ということもあり、かつて酷いイジメを苦にして学校を辞めた話を聞いていた

オレは在日ではない日本人でそういう経歴はないが、日本のややこしい事情や、イジメの話をバングラデシュ人達に話した時、彼らは信じられないという顔をしていた。

だが一同、あの優しいキムさんにもそういう事情があったかと思うと、考えこまずにはいられなかった。

だが以後電話が全く通じず、不安に思っていた。

その翌年、年賀状をもらったときは無事帰れたとわかり、嬉しかった。今でもその年賀状は保存してるし、元気にしてるかなと時折思い出す。



いよいよ、タンガイルの支店を去る時

そういえば、毎日、我々の料理を作ってくれていたのは、近所の子連れのおかーさんなのだが

銀行の建物の外の、薪とかまどで、背中に子どもをおんぶしながら作ってくれていた。

おそらく、日本も昔はこんな光景が広がっていたのかと想像した。

その横の同じ敷地内で、自転車のホイールを棒でスルスルと押して遊ぶ子どもたち。

オレもやってみたがあれは、結構難しい。

この辺の完全に地域に溶け込んでるあたりが、グラミン銀行の成功の秘訣の一つだろうと

インターン終了後、全員に提出を求められる英文レポートに書いた記憶がある

毎日のご飯は、美味しかった

黄色いご飯の、サフランライス

ターメリックのにおいがないから、サフランかなと。

外国人来たから、貴重なスパイスで、もてなしてくれたんだな~と


ありがたいな~と思っていた。

エリアマネージャーがやってきて、私は別の支店に行きます、皆さん、また会いましょうと挨拶した後

彼は水を飲むために、あの日本でもよくみかけるポンプ式の井戸で、コップをかざしていた。

そして、キコキコ・・・

すると井戸水が出てきたのだが

コップに注がれた井戸水は






黄色かった。





北部のボグラへ行ったときのこと。

かの有名な、ヨーグルトのダノン社が

グラミン ダノンとして、栄養価の高いヨーグルトを安く売るプロジェクトをしてるので泊りがけで行くことに。

試食したが、かなり美味しかった。

聞けば、砂糖をあまり入れない主義のダノン社が、甘いものが好きなバングラ人に合わせて、工場の設備上、入れられる最大量の砂糖を入れてるらしいが、甘さはいたって日本の普通の加工品のヨーグルト程度だった。

なんたって、砂糖菓子に練乳ぶっかける国民性だ

以前、バングラ菓子をオレも一口食って、カルピスを原液で少しのんだような、喉が焼けるような感じがして、

オレもたいがい甘党だが、さすがに以後、バングラ菓子は食べていない。

このヨーグルトでも、甘くないって思うかもしれない。

ここは首都ではないので、市内含めていよいよ日本人は当然オレしかいない、フルMAX英語。

いろんなゲームをしたが、なぜか通じた。

Never have I ever…って言って、やったことないこと白状するゲームとかね。

クルマの中でSピーXしたことないとか。しょうもないことばかりやったけど面白かった。

いつものように計画停電した後、ホタルが出たぞってので皆で外に出た

本当にいっぱいいた。

光り方が日本と違ってビカっビカっと明るく黄色く激しくて、クリスマスのイルミネーションみたいだった

それも何百匹と飛んでるから、もう、もの凄い光景だった

みな、ドライバーのにーちゃんも、インターン生もみな興奮

ホタルは、世界共通で皆興奮するものだ

停電がやみ、街灯がつくと

あれだけいたホタルが一斉に消えた

あれは、幻だったのか

いや、捕まえたりしてたから現実だったと思う。

もう一度、見たい光景だ。


世界最貧国といっても、首都ダッカでは、みな携帯電話を持っており、普通に1メガくらいのスピードでネットもできた。

貧困がわかるのは、雨の日の田舎だ。

傘もささず、ボロボロの服を来た、ガリガリの裸足の、濡れてたたずむ親子

カメラを向ける気すらわかず、生涯忘れ得ぬ光景だった


リキシャを漕ぐにーちゃん達もだ

皆、ガリガリでみすぼらしい感じだった

一回、ズボンを掴んですがまれて、拝むように頼むから、もう少しくれ

と半泣きのような顔で、迫られたことがある

オレは日本人だ。

一介の学生でも、彼らからしたらお金持ちだ

彼らの稼ぎの半分近くを、元締めに渡さなければならないと聞いたことがある

渡したのか渡さなかったのか覚えていないが

最貧国と呼ばれる所以を、垣間見れた気がする



印象的だったのは


子どもたちの笑顔


純粋で本当にいい笑顔だった

バングラデシュ人に会うと、必ずこの話をするくらいだ

あなたの国の子どもたちの目は輝いていて、本当に笑顔が素晴らしかったと。

凄惨な事件もあったが、基本的に親日の国だ。

日本人というだけで、当時は映画スターのような扱いを受けた

サインくれって人までいた。万一の際に悪用されんように、いかにもサインっぽくしたようなものやけど、差し上げた。

グラミン銀行の正門の、警備員のおにーさんとは、なぜかかなり仲良くなれたし。


いろいろあったが、新興国独特の、今は貧しいが発展させていってやるぞ!という満ち溢れた強烈なエネルギーに、若くして触れることができたのは貴重な経験となった。


グラミン銀行の創設者、ムハマド・ユヌス氏は当時、外国に頻繁に出かけていたり、政治的なことをされていたりと忙しくて会えなかったのが残念だった。


バングラデシュ・・・


第3くらいの故郷、泣いて別れ。



帰国して、美しい関空リムジンバス、ゴミの落ちてない日本の美しさに感動。全てがキラキラ輝いていた。

本当に、3割増しくらいで輝いていた

豊かさしか知らぬ日本人なら、生涯に一回は途上国に行ったほうがいいと思う。





同じ4回生のとき、学校の正門前で元気よく挨拶してるおじさんに会った

見た目50代、実際70歳という信じられないハツラツさで

この方は、笑顔の素晴らしい人で挨拶する時に、オレも気になっていたので

バングラデシュのおみやげを渡したのをきっかけに、

なんと後日

直筆の手紙とボールペンをプレゼントしてくださった

ものすごく上手な字で書かれた手紙は、今でも置いている

この方には、本当に色んなことを教わった

若い頃、単身、大阪に出てきた時の、まだ治安の悪かった頃の話

独学で建築学んだ話

自分の設計した名所の建物のこと

なぜ、元気よく挨拶しているのか

など、修羅場をくぐってきた人生の先輩の話は本当に面白いものばかりだった

この方には、二度食事に誘っていただいた

一度目は卒業時

二度目は国試合格の報告の後だ

ご家族にも嬉しそうに語ってくれていたらしく、オレ自身も本当に嬉しかった。

24歳当時で70歳だったから、もう、80近い70代後半となられてるはず

お元気であることを切に願う。


話を戻し



バングラデシュに行ったのは4回生、そう


就活を意識する時期・・・。


6年制で、まだ先やけど、とりあえず、自己分析でもやったれや


と、


自己分析にオススメの本チョイスしたよ!


 
みたいなランキングサイトで、本のタイトルを眺めてると


これで、安心!自己分析みたいなん


うん、おもんない。


絶対に、勝てる就活のための自己分析みたいなん



まったく、おもんない。


最後。



「幸せな小金持ちへの8つのステップ」



ん、なんじゃ!? こりゃー!?




即座にチャリに飛び乗り、15キロ先のジュンク堂明石店で




在庫、残り1冊をお買い上げ。






これが、、、





作家の本田健さん(ユダヤ人大富豪の教え、20代にしておきたい17のことなど著書多数)との出会い。感動。



健さんのセミナーや講演会の学生ボランティアスタッフなどに

研究室をサボって参加。

5回生のときには、幻の

八ヶ岳での学生限定合宿にも参加した。


副作用で、他と同じように就活できなくなってしまった・・・。


研究室では、先生の指示通り、結果のわかりきった事を繰り返しやり続ける


実験という名の


単純労働


に耐えきれず、逃げる=長期欠席を繰り返す


しかし、俺らは真面目にやってるのに


なんで、アイツはさぼりまくって単位もらえるんやと、


研究室の面々や他の研究室にも噂は行ってて



まともに相手されない、嫌われ者になったのもこの時期だ。



オレも、どうやったらこの単純労働を楽しめるだろうとか


一生懸命、適応しようとしてもできず、



極度の自己嫌悪になり、ストレスから



風呂に大量の髪の毛が浮き、



 すね毛が、はだしのゲンみたいにスルスル抜けるから



面白がって抜いた所、5年経った今でも、そこはツルツルのまま・・・。



 そして、胃潰瘍の一歩手前の、びらんになる。


もう、あのときはあまりの痛みに脂汗が出て、胃カメラ見たときはびっくりした。

癌かどうか調べるために、生検までしたくらい何箇所もあった。



長い、自分責めの始まり。



このとき成績ついにビリ。


当時は、毎月行われる国試形式の模試の成績がこれみよがしに貼られており

国試の勉強クラスもこの成績で決められていた

上位30%は青で学籍番号と名前が塗られ、授業数も少ない

中位は黄色

下位30%は赤で、授業数が多く、土曜日も強制出席の授業があった

そして、下から10人位は

色を変えて血より赤黒いような色で、文字が見えなくなるくらい塗りつぶされているので

目を凝らさないと読めない。

オレは、血より赤黒いところ。

生まれて初めて、下から見たほうが速いという成績順を目の当たりにする

他人にはネタとして話すが、今でも親には話していない。

話せない。

授業料出してくれてるのにという罪悪感は、社会人になりお金を稼ぐ身となったときから来る。

罪悪感ではなく、最近は感謝の気持ちを持てるようになってきた気はするが。

はっきり言って、こういうことする位なら大学に進学すべきでない。

成績クラストップとビリを両方体験するという、貴重な経験をしたことになるが。



こういう暗い話はさておき、



この頃、人生で初めてヒッチハイクをした

面白い経営者の方に会いに行き、その帰り

ヒッチハイクのメッカっていう、東京の用賀のマクドの前でスタート

目の前、東名高速の入り口。

にもかかわらず・・

なかなか止まってくれない・・・

スケッチブックの関西方面を消して

静岡方面・・・

これでもあかんから

西へ!!

で、暗くなってきたから、チャリンコのテールランプの赤いチカチカを付けてPR

すると、

止まってくれた!

そして一言。



「下道だけど、行く?」



目の前、東名高速の入り口。



当然、即答。





「お願いします!!」





結局、中央道の府中かそんな名前のインターの前のコンビニで下ろしてもらった

なんで乗せてくれたんですか?と聞いたら

人畜無害な顔してたからと、あと、一回乗せてみたかったと

人畜無害・・・

いや、これ確かに重要かもしれん

さすが、ヒッチハイクのメッカ

他にも何人もいて

オレの横のおっちゃん、帽子を目深に被って

ワイシャツめくった腕をにゅっと突き出して

無表情で、親指立ててたけど

あれやと、あかんということなんやろな~

コンビニ前でおろしてもらったものの、

夜で暗く、さすがに通るクルマもいなくなってきたので

コンビニに止まってたクルマを、1台ずつ

トントンとノックした

神戸ナンバーのおっさん、無視してた

ともかく、1台

声かけてきたら、乗せてあげようと思ってたって人に乗せてもらえた

この方は、某コンビニの方で色々カンパしてくれた

一番人が多いところということで

談合坂サービスエリアで下ろしてもらって、お礼を言って分かれた時

いよいよ、後戻りできなくなったと感じた

府中までは、最悪、夜行バスで逃げれたけど

ここまで来たら、いよいよやるしかないと腹をくくった

中央道て・・・

この先長野やんけ!!!!

と、さて帰れるのだろうか・・・。

調べると岡谷から、名古屋方面に行き、名神に乗れば帰れる!

スマホ神!

この先からは、大きなサービスエリアやパーキングに下ろしてもらった

共通していたのは

こちらから、声がけしないとダメだったということ

目的地書いて、ニコニコ笑ってるだけやと、駄目です

話しかけないといけません。

ただ、いよいよ駄目か、野宿かと思ったところで声かけてもらったりしたことも。

乗せてくれた理由を聞くと

好奇心と

何よりも

人畜無害っぽい顔

やはり、人畜無害が一番です

なんだかんだこんな感じで、滋賀の大津まで連れて行ってもらって、もうええかなとあとは電車に乗って学校へ行った。

その日の授業に出れたらと考えていたが、ちゃんと出れた

あわよくば、学校までヒッチで送ってもらっても良かったかと後になって思ったが、まあそれはいい。

このヒッチハイクは、本当に良い経験になった



目的地を決めていれば、必ずたどり着くことが出来る



しかも、一見、道から外れたように思えても。



そう、東名高速しかダメ!ではなく

中央道経由でもちゃんと帰れた

目的地さえはっきりしていれば、なんとでもなるということ。

寄り道も面白い。


そして、あの、最初に止まってくれた感動を忘れたら、駄目になるんだろうなとも思った


季節は変わり、


この秋、やりたいこともよくわからず悶々としていた時期に


叔母さんから、実家に電話が。



いとこが、テレビに出るという。


ボクシング、当時で日本ランク3位。


最終的には、その上までいったはず。



その、いとこは、同い年で19歳の時に


オレは医学部受験で浪人(ヘヘッて感じ。ホンマにアホ。)


いとこは、高卒後、東京のラーメン屋でバイトしながらボクシング始めたらしいと、親から聞いた。



オレヘヘッ。まじかよ、バイトしながら、プロボクサー目指すなんて何考えてるんやろ。オレは、医学部受験だぜ~


7年後。


オレ。26才。19、20才浪人。行きたくもない薬学部で、やりたいことわからず、悶々とする日々。成績ビリ。研究室の嫌われ者。自己嫌悪MAX



いとこ。26才。プロボクサー。日本ランク3位。決定戦かなんか。テレビ中継。



試合中のいとこ見て、オヤジ、いや~叔父さんに似てきたな~と、ひとこと。



結果、いとこが勝った。ランクが、確か上がったか、3位のままか忘れたけど。




二階に上がって泣いた。



悔しくて悔しくて。


枕に顔押し付けて。


今のオレ、何やねん、と。




いとこのフェイスブックページに、勇気もらったよ、応援してるよという


意識高い系の書き込みをする自分の不甲斐なさ・・・。


さて、いよいよ最後の卒業試験は、国家試験形式2セット=朝から晩まで4日間


オレは、マーク式2問完答は、1と3


一択は4


で、縦一列美しくならんだマークシートを投げるように提出した時、刺すような視線を感じていた。


退学の準備。

 



卒業は絶望的だったがなんと、150年に1度くらいの特例措置があり、マジで奇跡の卒業を果たす。




己の強運を改めて自覚した。

薬剤師国家試験の

「受験」資格は、6年制の薬学部薬学科「卒業者」のみ

そう、卒業してないと国試の受験すら許されない



運命とは不思議なものだ。

オレにはこの先、薬剤師免許が必要なんだろう



お前の運の強さにはあきれると周囲から拝まれる。




誰が薬剤師になるかボケ~と、


俺は0から1を創りだすと意気込み、




ものづくりの世界に行くことを決意。

ん、この年の国試落ちたから資格ないよ。。。



そして、何より

広い社会を見たかった

学生時代、バイトもできない詰め込み教育の反動で

色んな世界を見たかった

色んなことを経験したかった

色んなことを知りたかった

という、マンガ「鋼の錬金術師」の『フラスコの中の小人;ホムンクルス』

みたいな理由で、薬剤師とは全然関係ない世界にも行ってみることにしたのだった


北海道赤平市の、全国で講演してテレビにも何回も出ている、


植松電機の植松努専務に手紙を9枚書いて、お気に入りの映画「遠い空の向こうに”October sky”」のDVDと、難しめの折り紙を気合で折ってレターパック500で直接送る。

あ、このやり方たぶん、今はもう駄目です。あしからず。

インターンシップに来いやとなり、そのまま植松電機に勤める。

しかもオレはインテリやし、職人肌で口数少ない、超絶気難しい雰囲気の人が多かったが

なぜか、可愛がってもらえた

お隣の滝川市から、空知川沿いの国道38号線をひたすら

片道8キロ以上を、

ホーマック特製、タイヤ厚5ミリの北海道仕様の装甲タイヤママチャリで通勤

ある日社長(植松専務のお父様)に、おい広瀬、100キロウォーク出ろやと言われ、

いや~、オレもやってみたかったんスよ~


と安請け合いして

人生で初めて100キロ歩くという

地獄を経験した。

この日のために

古武術研究家 甲野善紀先生の情報などから研究していた

なんば歩き

そして、前日にネットで仕入れた

50キロいけたら60キロいける、60いけたら70いける・・・90いけたら100いける

を念仏のように唱えて歩き

股関節の痛みに耐えるため、奥歯から舌を、噛み切らないようにどけてから、強く噛みながら立ち上がり

痛みと疲労と睡眠不足により、理性は奪われ

常にリタイヤが頭をよぎり、

本能むき出しの、時に白目をむき、意味もなくブチ切れるが

わずかに残った理性で、怒りという本能を抑える

何のために歩くのか、この苦しみに何の意味があるのかと嘆き

そんな中、僅かに残った理性の出した答えは

足を前に出すこと

だった。

足を一歩前に出す。

これの積み重ねがゴールだと。

この、くそ苦しいときに

さすがは、わが理性。

時に国道12号の歩道の道路っぱたで寝て

なんとか完歩。

100キロウォークは、1%の体力と99%の精神力という格言を創る

もちろん、二度とやらぬ~。

おまけに、同じ会社の人が2位なんて結果叩き出すもんやから、

社内でも、なに?完歩した?当然でしょみたいな感じ。

元自衛隊の普通科の人で、フル装備で30キロ行進した経験のある人が

歩くのは意外と大変だからな。いや、よく頑張ったな~と褒めてくれたのが嬉しかった。



ゴールを意識すると挫折しそうになったが

足を一歩前に出すことくらいなら、できると思ったので

それを繰り返した

気づくとゴールしていた

これは、本当に深い。



町工場ならでは、工具全般、溶接、グラインダーは扱えるように。

危ないと思ったら逃げる

回転系工具は、素手でメガネ着用、軍手厳禁など身体で覚えた工具の扱いは今でも遵守している


そこで専務の行っていた小中高生向け教育事業に、提供する側として触れることができたのも、教育を考えるきっかけになった。


その1年後、北海道に向かう飛行機内で知り合った若い学生は、教員試験のために帰る途中だった

飛行機の折りたたみ式の机に、指でなぞりながら試験問題を解いていたのでよく覚えている

聞けば、植松専務の講演を中学生の頃に聴いて感銘を受け、教員を目指すことにしたのだという。

なんという連鎖だろう

時差で、それも彼が教育者になって、また影響を受ける人が現れて、その人も・・・

その連鎖は長いタームではあるが、教育というものが想像もつかぬ影響を与えることを感じたのはいうまでもない。




以前から興味のあった、写真をやりたいっすとひたすら言いまくってたら


そこで一眼初めてって散々言ってるにも関わらず、プロ向けのカメラである


往年の名機、フジS-5Pro



を貸してやると渡され、


北海道の大自然に触れて、風景写真に目覚めたのだった。



あまりいい辞め方ではなかったが、会社を辞めた。


風景写真家になろうかと思った。


この時、お世話になった方がいた

生保の営業の年配の女性で

オレが辞めた時

あなたは、ぜったい営業やったほうがいいと

会社探してくれて、面接まで付き合ってくれた

最初に会ったときは、この子大丈夫かしらね~という印象だったらしいが

あの癖のある社長があなたのことを、ずっと話してる

話題にものぼらない人がいる中で珍しい。

それであなたに一目を置くようになったと教えてくれた。


面接後、家まで送ってくれて、北海道の伊達市の桃だから食べてと渡された桃の美味さは

生涯忘れないだろう。


クルマが見えなくなるまで、涙を地面に垂らしながら90度の最敬礼をして見送ったのを覚えている


結局、面接の方はお祈り手紙&履歴書返却だったが、

この後もこの方は定期的に手紙をくれたりして、オレも近況を話したりしていた



写真は、尊敬する美瑛町の世界的写真家の白石ケント先生の講座に行ったこともあるが、基本独学だ。


アンリ・カルティエ=ブレッソンや、前田真三先生の写真集、ナショナルジオグラフィック発行の構図や露出の指南本や写真集、カラーマネージメントの本などを買ったり

印象派の画家や、ターナーの絵画など展示があれば美術館へ行ったり、絵画集を図書館で借り倒して独学した。

個人的に、印象派の絵とターナーの絵は写真に近いものがあると感じている。



北海道は、大好きだ

特に東は、スピード違反の取り締まりの厳しさはハンパないが

車中泊で、津別峠の雲海を撮りにいったこともある。

なんとトイレが数日前の落雷でぶっ壊れていて、山道10キロ我慢するのはさすがにキツかったが・・・。

美瑛とか美馬牛は、チャリンコで走り回ったな~

坂と丘で心臓破裂するかと思ったけど

礼文や利尻もママチャリで走った

礼文なんて、風強くて乗ったままチャリ倒されたけど、にーちゃん昆布やるわっ!て、地元の漁師さんに肉厚高級礼文昆布もらったし

住んでいた滝川や赤平近辺も、少しクルマを走らせば、雨竜沼湿原など自然の豊かなところが多かった気がする

片道70キロ以上、38号線をママチャリ漕いで、残雪の大雪山連峰を富良野方面へ撮りに行ったこともあったかな。



風景写真を始めたのが北海道で本当に良かった。



その後、初めて勤めた会社を短期で辞めたショックで実家に引きこもっていたが


同じく尊敬する、全く分野は違うがプロ写真家の

宅間國博先生のマンツーマンワークショップに参加して、大いに啓発され


やはり、写真が好きだから風景写真を撮りたいと思った。


一応、国試の出願だけはしとくことにした。


自然の豊かな所=小笠原諸島やなという


単純な発想で、

小笠原諸島父島に片道キップで行った

交通手段は船のみ。

船で、当時は25時間30分。

船は基本的に週に一便。最悪、親の死に目にも会えない、ある意味で世界一遠い場所。

世界中で、行くのに1週間かかるところが、何箇所あるだろう。

行きは、なんと、この時期30年ぶりくらいというナギ。

波もなくおだやかで、

あまりに星が綺麗だからと

時間限定で船が明かりを消してくれて、大海原で満点の星空を外に出て味わうことができた


ママチャリ一台を足に撮影はもちろん、

宿の肉体労働や、カヤックツアーの準備

小笠原丸(船)清掃など

バイトかけもち


住み込みガイド見習いとしてシーカヤックツアーなどで、漕ぎ方の手本やしんがりを勤めた。

最初、じゃあ、けんちゃん、見本見せて!といきなり手本やれと言われたときは微妙やったけど、

帰る頃にはだいぶ、上手くなった。


撃墜された米軍戦闘機(急降下爆撃機)の残骸の側の道路を、


日本軍が作ったっていう道路を、トンネルを


いや、トンネルは当時は敵性外国語なので


隧道(ずいどう)を、
 


夜にママチャリで走ったときの、怖さは生涯忘れない。

トンネルの上には、第三隧道などと書かれている

トンネル内に響く、カシャーンカシャーンっていう自転車をこぐ音

よりによって、チャリにミラーつけてたから

トンネル内はもちろん、夜はミラーを折りたたんで走った


日本軍の三八式歩兵銃の弾を拾ったりしたこともある

もちろん、持ち帰らずとりあえず、酒かけて供養した

これは、独特の口径やリム径など、特徴がWikipediaの情報と全て一致したので間違いない。


有機栽培の農家のボランティアもさせていただいたこともある。

島に長期滞在してる人間は、誰しもが一度はお世話になる有名な農園。

お礼に野菜などがもらえた。

戦前から変わらないという島みかんは、味が濃くて種が多くて、いかにも栄養価満点の味

ビタミン不足はもらった有機野菜と、これで乗り切った

ちなみに翌年、国試合格の報告をすると、たくさんの野菜と手紙を送ってくださった

まだ、恩返しできてないが、必ずさせていただきたい。

元自衛隊は、かの第一空挺団にいたという人にも会った

めちゃくちゃおもしろい人で、オーストラリア滞在中に身に着けたという、金属の器具に灯油を浸し、火を付けて振り回して舞うファイヤーポイの技は凄かった

酒を飲むとスイッチが入って、その人の将来がわかる特殊能力があるらしく


「けんちゃんは、新しい医療つくるよ!」


結構、当たるんだよと言ってくれたが、これは今でも本当にそんな感じがしている



癖のある、同じく住み込みのおっちゃんにロープワークなど仕込まれたな。

このおっちゃんの話。

小笠原が好きな人で、奥さんも理解があるらしく、毎年この時期に来てるってことで

同じ、住み込み仲間ということになった。

北海道出身で、オレもつい最近まで北海道いたということで仲良くなった

本当に癖のある人で、ある日酒に酔ったとき

けんちゃん、もやい結びできっか?


いや、できませんというと

だめだよ、カヤック乗りが、もやいもできんようじゃ~

いいか

「もやい」

「まき」

「いかり」

の3つの結びは必須だから、一回だけ見せてやる、

パパパパっと

わかったか!


わからんわ!早すぎるわ!とツッコむオレ

ま、しっかり練習しとけと。

実際、この結び方は大事やった。

Youtubeにあるような、もやいの結び方ではなく

波が来て揺れる船でも使える、きわめて実践的な結び方を教わった

ツアーのカヤックが波に流されないように、木に、もやっておくだけで安心感が全然違う

放っておいても、安心して陸でのツアーが出来た

オレは工具が先述の通り使えたから息があったし、時に怒られたり、おすすめのスポットに連れていってもらったりした。

島を出る別れ際、ベッドに、ロープでいかり結びとまき結びをしてくくっておいた。

いかり結びは、もやい結びの応用だけに、これの意味はおっちゃんだけにわかる方法。

しばらくすると、外されていたのでわかってくれたのだと思う。

オレ(おっちゃん)は、しみったれるの嫌いだから見送りいかないよ、ここでお別れだ

ありがとうね!

と満面の笑みで握手して別れた。

翌年に国試合格した後に電話がかかってきて、なんでもヨット作っていて、3年したらヨットで内地に行くと言ってたが元気にしてるだろうか。


現地のおばあちゃんとか、漁師さんに料亭直行の高級魚やら海亀やらなんやら、たくさんごちそうになった。

ある時、濱江丸(ひんこうまる)という戦時中のサイパンから来て沈められた沈没船が見える場所で、彩雲という雲が太陽の光で虹色に輝く現象を撮っていたところ

「おい、にーちゃん、何撮ってんだい?」と声をクルマからかけられた

「彩雲っす。吉兆ですよ」

「おい、にーちゃん、うち来て飯でも食え」

「え?いいんですか? オレ、ほんまに行きますよ」

とチャリでついて行って、ごちそうになった。

マグロやオナガダイなどたくさん。

オナガダイは高級魚で料亭直行だけに

丁寧に、一枚ずつ刺し身をおしいただいてると

「コラ!男が、何を女みたいな食い方してんだい!オトコなら、箸でガバッと4,5枚位すくって、まとめて食え!」

と怒られた。

仕方ない、がばっとすくって刺し身を食べたのは、最初で最後かも。

ウミガメの手と胃袋を、塩と酒だけで煮込んだという料理もいただいた

とんでもない味かと思いきや、かなり美味しかった

どこでどんなエサを食べたかが味を左右するらしく、甲羅を開けてみないとわからないらしい

ちなみに、ウミガメつながりだが

農園で知り合った人が、昔、丸鋸でこの指をふっ飛ばしたと見せてくれてたが

繋がっていて、普通に動いていたし、オレより握力があった

え?

と聞くと

指を氷漬けにして内地で治療を受けたが、医者が一番びっくりしていて

全国から、多くの医師がこの珍しい「事例」を見に来たらしい

仮説として、島の人はウミガメをよく食べる

亀は、多くの人が知っている通り、生命力の高い生き物だ

それが関係しているのではないかと。



他にも、何度かごちそうになっていっぱいお話をさせていただき

去る間際には弁当までもらった。

好意が身にしみて、本当にありがたかったな~。

内地に帰ってから、手紙を送ったが、一緒に撮った写真も同封した。

その写真はもう一枚現像し、恩人からの手紙ファイルに大切に保管している。




送迎もしてたので、修学旅行の高校生になぜか好かれたり


波酔いしても、カヤックを転覆させずにリバースする方法をマスターしたり、


シーカヤックのしんがり(一番後ろ)をやってて、沈没船の側で、声聞こえたから振り向いたけど


誰もいない・・・なんてこともあったな。


坂がきつい道路は、真っ暗な夜道を何時間もかけて歩いて、頭のブラックダイヤモンドの登山用ヘッドライト一本を頼りに写真を撮りにいった。

250キロ先のかの硫黄島ほどではないが、戦跡がいたるところにあるから、ほんまに、めちゃくちゃ怖かったけどね・・・。

星が綺麗で、島の唯一のダム、時雨(しぐれ)ダムに行って完全に明かりがない状況で、しぶんぎ座流星群を見たときは感動した。




島の生活はなんか、イーグルスの名曲「ホテルカリフォルニア」の歌詞を思い起こさせた

最後の

「いつでもチェックアウトできるが、ここを立ち去ることはできない」

You can check out out any time you like, but you can never leave.

のところ。

時間はゆるやかに流れていくが、確実に時間は流れている

島に来て気づくと、5年10年経っている・・・

そんな感じがした


やっぱり国家試験だけは20代のうちに受かろうと思って帰ることにした。

今思っても、いい決断をしたと思う。


30年ぶりと言われた、行きのナギとは違い、帰りの船は空前の低気圧とバッティングした。

全窓は、大砲でも撃ち込まない限り穴が開かないような分厚い扉でフタ&ロックをされ


地獄のような船酔いにさいなまれた。


基本這って移動、酔い止めは飲んでなかったので、トイレで過ごすはめに。


 
酔い止めを売店まで這って買いにいき、慌てて飲むなり




粒ごとリバース。




出すものがないと、えーっえーっと胃がひっくり返る時の勢いで声帯が振動して謎の声が出る

もちろん、出したくて出した声ではない

胃のひっくり返る衝撃は、容赦なく体力を奪っていく。


船室に戻れず、体力奪われて白目の状態でひらめいたのが

船尾なら、揺れる時の軸で揺れないんでは?

と。


トイレのある船首は揺れは地獄だったが

実際、船尾は揺れがマシで邪魔にならんようにその辺で


サンダルを枕に寝た。

船酔いしたら、船尾に行くべし。

そして、特等一等二等関係なく、船尾側のお部屋を予約するべし



途中の、ウワーンっていうエンジンフルスロットル音と、


フワっと船首が浮いて、バコーンと波を叩き砕く音、


時折聞こえるバキっていう三角波の当たる、不吉な音は生涯忘れられない。



自販機なんて、


アニメのワンピースのブルックのネタみたいに45度位傾いて
 


肩で自販機を押しながらじゃないとひっくり返されそうだった。



このときの、二回目落ちた国試は今でも覚えている。

国試受けずに帰るより、落ちても国試を受けようと思って、日を合わせて帰っていた。

国家試験は二回落ちていて、マジで勉強してなくて二回とも記念受験となるのだが・・・。


優等生のあるあるで

え、全然勉強してないから自信ない~とかいって、95点くらいしれっと取ってくるやつ

アレは、オレも元優等生なのでよく使ったが、半分は本音で、自信のある科目に限って、点をくだらないミスで落としたりしてたから。

もちろん半分は、その、ほんまにあかんかった時の保険&保身。


ただ、今回のは本当に手付かず。


無勉なのでとりあえず記念受験して、自己採点して結果を見ると、自分の得点域に、棒グラフがない。


平べったいぞ・・・。


平均点近くに多くの人数が集まる、ピラミッドのような形の棒グラフになるはずが・・・



画面を拡大すると、グラフの、ピラミッドの三角の底辺の、左端の0に限りなく近いところにあった(笑)



得点があまりに低すぎて、他に誰もそんな低い点の人がいなくて、グラフの横軸と棒グラフの高さが同じほぼ0になっていたということだ。



結論から言えば、この翌年の大荒れの国試で上位10%代で合格するわけだが、このときにはそんな片鱗も見られなかった。



さんざん、放浪した後に机に向かっての勉強は、それはもう





苦痛の帝王




みたいなもんだった。

けど、嫌なことばかりでもなかった。

淀川沿いに住んでたので、ヘビはアオダイショウやヒバカリ、鳥は猛禽類のチョウゲンボウ、天然のスズムシなどがいて、自然がまあまあ豊かで風景写真やランニングには事欠かなかったし

ラーメン激戦区だけに、本当に美味いラーメン屋が多かった

ここで、味のベースラインを作ったようなものだ

ベースラインがないと、どんなに美味いラーメンを食べても、

へー。こんなもんか。

で終わる。

試験前は、一ヶ月前まで毎日、友達と近場のバッティングセンターに通った

これも、凝り性なのでYouTubeなどで研究していた

そのせいか、120キロの球を見て打つことが出来るようになった。


あと予備校にあの、ベトナム戦争の枯葉剤の後遺症の代名詞のような存在

ベトちゃんドクちゃんの

ドクさんが来たときがあった。

オレが小学生のときは、少年でちゃんづけだったが

今やドクさん、結婚もされてたはずやし、立派な成人男性である

予備校の社長の知り合いの知り合いらしく、オレも貴重な機会やと質問させてもらったりした。

オレ自身も同じ、男2人兄弟なのだが、かつて共に生きていたお兄さんが亡くなられた後、ドクさんはどのような思いで生きられているのですかという内容を聞いた記憶がある

彼が持ってきたベトナムからのおみやげで、ベトナム語の書の色紙

「智慧」

おなじ「ちえ」でも

Wisdomの知恵ではない。

仏教の六波羅蜜の智慧だ。

これは深く印象に残り、オレも以前ある人に

君は智慧を使う仕事に向いていると言われたことも有り

智慧という意味の解釈をずっと、そして今でも考えている


しっかしながら


学生時代成績ビリ、不勉強期間でブランク5年は長すぎて、諦めて11月に捨てようとしたことがあった

これは9月に

たまたま、梅田で好物の


タピオカミルクを外で飲んでた時に話しかけられただけなのか、逆ナンされたのか謎だがとにかく

それが縁で知り合った女性達のうちの一人

の一言に燃えて、図書館で本借りたり、猛勉強することになるのだが。


彼女は、実はオレが風景写真にハマっていたのがきっかけで、その後も交流があった。


風景写真をやってなければ、国家試験合格もなかった・・・。


スペースを間借りして、彼女が管理しているという雑居ビルの一角に


写真の展示もさせてもらったことも。

そこの写真が落ちて剥がれたので、一緒に直した後に

福島のラーメンの名店

三く

でラーメン食べてたとき

オレ「・・・という理由で、絶対受かりません。時間無いです。もう、資格捨てます。受けません」

女性「受かるよ」

オレ「(心の声)ラーメンうますぎて、聞いてなかったな、よし、再度、いかに無理か説明や・・・」

女性「うん、受かると決めてやれば、受かるよ」

オレ「・・・!?」

男は単純だ

単純で良かった

この言葉に感銘を受けて、やることにした

既に、出身大学での出願可能期間は終わっていた上に

予備校の授業もあるし、大学に行けても窓口は閉まってる。

担当課に電話で頼み込んで、近い日にたまたま夜に会議あるということで時間作ってもらって出願した。


ハマるものには、意味がある。


ハマったもののちから、言葉のちから、女子のちから、いと凄まじきものなり。


もう、11月下旬にして国試の命と言われる過去問10年分もほぼやってないし、というか10年分とかマジでやれないし、10年無理でも



これだけは必須と言われる直近3年分も全くやってない。



というわけで、




残り時間を考えて




「なぜ、そうなるのかという原理原則」




を徹底的にやった。


もちろん、計算問題とかは過去問を使ったが、全部は無理だったので絞った。



大阪市立図書館は蔵書が豊富で、図書館で、物理化学などを噛み砕いて説明する本や医療従事者向けの本なども借りて勉強。



原理原則を学ぼうとすると、


アホみたいな丸暗記と違って




学問として非常に面白く、むしろその面白さにハマって、勉強が加速度的にはかどった。





あ~、これが学問や!って腹の底から確信できるレベル。



カレンダーに毎月「不退転」とデカく書いて、文字通り朝から晩までやっていた



国試の勉強というより、それを通して原理原則を吸収していくのが面白かったからやっていた



有機化学や薬理なんかはそういう意味で面白かったが、最後まで

法律

だけは、無機質で面白くなくて苦労した。

この法律を教えていた先生が、面白おかしく解説してくれるのがなんとか救いだったが

あんなものを、あれだけ面白く伝えれるのは才能やと思った。

不退転。

毎日が、今さら、引き下がることなどできない。前進あるのみ!っていうイメージだった。



2ヶ月後の1月に受けた模試で

226点(合格点は225点)

を叩き出した

今まで、成績ビリで警告の意味で、学籍番号を血より赤黒く塗り染められていた学生時代の点数は

90点にも満たなかった

足切りもなく生まれて初めて、合格点を叩き出したときは

妙に自信が沸いた

しかし、順風満帆ということでもなく

試験2週間前に自律神経失調になり昼夜逆転して頭にハリを打ってもらったり



試験数日前に、食中毒で救急車で運ばれたり

後で知ったが漢方でいう、死ぬ一歩手前のケッチン病の状態で、手足の先が氷のように冷たくなり死にかけていたが

つながれたリンゲルの点滴を見るなり、

点滴は試験範囲やないかぁ~!と

意識がすーっと戻ってきて、点滴バッグを手に取り、裏面見て試験範囲のmEq(メック;濃度)の計算し始めた記憶がある。


違う意味で病気だったのかもしれない。


当日、会場のトイレの水が一滴も出なかったり

いや、ほんまの話。

会場のメインドアが、誰かが出入りする度に

にーーーっ、バタン!

と稲川淳二氏の怪談の効果音みたいな音で集中力なくなる

駅から会場まで、2日連続雨で、1キロ以上の狭い歩道を傘ぶつかりあいながら行列行進



という試練に見舞われながらも



お前は絶対受からないと言われたにもかかわらず逆転合格。


大荒れと言われた、第100回国試で上位10%代でだからなおさらだ。


順位は最大手の予備校の、自己採点で結果が出るのでわかるのだ


ちょっとビリギャル的経験をした。


時折、慶応でも小論文と英語だけやん、元から進学校出身やんと批判されている著者の気持ちがわかる気がした。

オレも国試合格なんて、薬学部卒なら当たり前って言われそうだが、というか言われるが、

その人にとって、絶対に不可能と言われたことをひっくり返したということ(しかも一人ではなく、いろんな人のお陰で)に意義があるのであって、表面的なことは関係ないとオレは思う




このときに、遅咲きながら受験勉強ではない、「基礎学問」の面白さに目覚めることができた。

大学行くならこれくらいの気持ちで行かないと、行く意味ないし学費の元は取れないだろう。



漢方にも興味があったので、薬剤師免許ゲッツを機に漢方薬局にも勤めることにした。



色んなメーカーの、色んな漢方薬を2倍とか3倍とかのんで試して、効くメーカーと、一通りの主な副作用は経験することができたのは大きい。

とある勉強会の後の懇親会で、言われたのが

君はどうやってこの漢方(注:オレが学んだ漢方。特定されると元勤務先に迷惑掛かりそうなのでちょっと、先生の名前は出せません)

を知ったのか?と聞かれて

いや、知るも何も勤めた先がこの漢方で・・・

と答えると

君は運がいい、私は10年遠回りした

と言われたくらいの漢方で、実践的で本当によく効いた

辞書みたいな分厚い本を買って勉強したり、先生のカルテというか薬歴を読んで研究したり、カゼでも下痢でもアレルギー性鼻炎でもなんでも症状出たら、さっそく自分で試した


あとは、星の数ほどもある健康食品の中から、効くモノを知ることが出来たのも大きい。

漢方薬局で、生き残る商品は本当に良い商品だけ。

そういう商品は、まずその辺に売られてないし、製品を作る側も売る相手=薬局・薬店を選んでいる場合が多い。

健康食品でも効くものは本当に効くんだなと。


20代にして、しこたま、キロ単位で漢方を飲んできたので、どんどん元気になっている・・・


癌や自己免疫疾患など難病の意外に多い原因は


「がんばりすぎ」


にショックを受ける。


がんばりすぎるストレス溜まる生活が不規則になるの連鎖で、免疫がおかしくなるのかもね。


今でも漢方は、体調管理に使用している。おすすめは小太郎(コタロー)漢方だ。


セルフメディケーション=自分で自分の健康を管理する、というのがある。

最近、セルフメディケーション税制といって、政府も本腰を入れ始めたので、聞いたことあるという人もいるかと思う。

また、WHOによって国際疾病分類に漢方など伝統的な東洋医学の項が追加される動きもある。

以前は漢方は、自分や親族だけの体調管理だったが、

セルフメディケーションに漢方は最適なので、これが世間に広まっていくような活動もしていきたいと、最近は思うようになってきている。



漢方で、個人的に面白いと思う考え方は

瘀血(おけつ)

の概念だ

西洋医学にない概念で、要は血の巡りの悪さが原因ということ

むち打ちも打撲も内出血も腰痛も、そして癌や自己免疫疾患も瘀血だという考え方もある

とくに、打撲系のむち打ちや、湿布しか対策法が無いと思われてる腰痛などは、瘀血対策が得意な漢方が選択肢に入ることで

救われる人がどれだけいることだろう。


オレも、事あるごとに瘀血を下す漢方を飲んだが

鼻血の色が変わったのには驚いた

ドス黒かったのが、きれいな赤色になっていた

あと、走ると右の横隔膜のあたりがキューッと締め付けられるような痛みも消えた

カゼも本当に引きにくくなった。



瘀血の概念を知っているかどうかは、生涯のQOL(生活の質)を左右するだろうと思う。



ある時、経営者の方と意見が合わなくなった。

オレは自分の中で、他はともかくそこは譲れないというところを、譲れないと貫いた結果

激しい口論になった。

ほぼ喧嘩別れ・・・。うん。クビですわ。

最後は、君の前途を応援するよと言って、飲みに連れていってもらい、泣きながら別れたのだが。



これで、人生2回目の、クビ。

経験者は語るだが、安心してほしいのが

クビになっても、死ぬわけではない

ということ。

よく世間で言われてるほど、ドラマでみるほど、そんなに怖いものではない。




ここで、

漢方薬局時代のことでもう一つ、書いておきたいことがある。


夏休みを利用して北海道で旅をしていた。

車中泊での撮影旅行。

そして、以前住んでいた滝川にも寄り

北海道で会社辞めたときに、

あなたは、ぜったい営業やったほうがいい

と言って、面接まで付き合ってくれた方にも再会した

少し痩せたかなとも思ったが

漢方薬局にいることもあり、ご友人がガンで、抗がん剤のことを色々聞かれた

ので、漢方を補助的に使うことを話したり、

また、ご友人はもとより頑健でスキーなどもこなしていること

抗がん剤の副作用はあまりつらい状況ではないなど聞いたので

抗がん剤使うたびに、確実に免疫や体力は落ちるから、気をつけないとなど正直に話した

また、ガンや自己免疫疾患に強い系統の漢方薬局や医院を紹介した。

また、話聞かせてね、会おうねと言われたが、

最後、どういう別れ方をしたのか

ちゃんと顔を見て、別れたのか

覚えていない




辞めた後、物件解約の違約金など数カ月分の家賃払を払うために、山梨県は八ヶ岳のふもとの清里へ住み込みに行くことになった。

 ここで、面白い面々と知り合うことになるとは知りもせず、なんとなく直感的に決めたのがきっかけ。

山梨県北杜市高根町清里。ここは1300mの高地。

寒い、10月になれば真冬のように寒い

清里の寒さは、なんか厳しさが違う

近いところで数キロ先の清里駅近くのビールとカレーが有名なロックやコンビニ付近とも微妙に違うし

10キロほど先の長坂とは明らかに気候が違う

この頃は、先の一件で人が信じられなくなっていて、毎日、仕事が終われば

ボッロボロの、トイレの床が腐って落ちる寸前の築半世紀以上の寮の個室に引きこもって、YouTubeで昔のルパン3世を見ていた

ここは、5つあるうちの別の部屋に、いわゆる「この世のものでないもの」が出ると聞いていた

ある日、いつものように引きこもっていたところ

にーーーーっと、

これまた稲川淳二氏の怪談のような音で、ドアが開いた

オレがのぞくと、住人の人がいて

あ、今から飲み会やりますけど、どーっすか?

と言われて

あ、行きます!

といって、部屋を出た

そこから、面白い面々との交流が始まった

絶対音感を持ってて、多芸多才な人

教育者になるために生まれてきたような、多才な人

ピアノが上手で、よくビリー・ジョエルのHonestyを合わせて歌わせてもらった人

めちゃくちゃ面白い高校生

料理が天才的に美味かった、めちゃくちゃ仕事のデキる人

ヤンキーっぽいけど、実はめっちゃいい人の40歳位の人

などなど

ほんまに、面白い人達に囲まれていた

気づけば、人嫌いも吹っ飛んでいた

彼らとは、今でも交流がある。


貴重な仲間ができた



これは、余談だが

ドアが開いたとき、

「あれ?開けた?」

と聞いたら

「え?開けてませんよ。開いてて顔が見えたんでお誘いしました」

とのことだった。

引きこもるために、確かにきちんと、パチっとラッチの音がするくらい閉めたはずだったが・・・。



まあ・・・いい。



みんなで撮った写真は、今でも大切に飾ってある



これ以外にも、ヨドバシカメラでのニコン一眼販売スタッフ、リゾートホテルのスタッフや、一流高級ホテルの配膳など全国を転々として写真を撮っていた。

ニコンの販売をやっていたときは、オレはどちらかというと

高額なフルサイズカメラを売るほうが好きだったし、よく売れた

まず、話を聞く。

で、その人にふさわしいモノを損得抜きで紹介した。

カメラを売ろうとして売った記憶はない。

この人には本がふさわしいと思ったら、カメラではなく本コーナーにつれていき、本を紹介したこと多々もある。

あるときは、おにーさんから買いたいと来てくださった人もいた。

始めて間もない人で、プロ向けのカメラを迷われている人には

オレがカメラを買ったとき、それはそのカメラの前の機種でD800だったが、始めて2か月で買った。

箱から出す時、手が震えた

オレは、このカメラにふさわしいのか・・・と。

しかし、同時に誓った。

オレは、このカメラにふさわしい人間になろうと。

だから、いっぱい研究したのもあるし、実際、カメラが引っ張り上げてくれたような感覚があった。

そういうところを話したところ

総額で60万円以上分をお買い上げいただいたのだが

言われた一言は

「背中を押してくれてありがとう」

だった。

そう、もう決めておられたのだが、踏み切る自信がなかったのだ。

スペックも一応語るときは語ったが、これくらいのカメラになると

スペックよりも値段よりも、また別の所で悩む人が多かったように思える。





ホテルでは、一癖も二癖もある厨房の人から、なぜか好かれた

ホテルの厨房の人、マジで怖いっすからね~

挨拶なしに通ろうものなら

「オイゴラァ、てめー! 挨拶ぐらいしやがれ、この野郎!!!!」と怒号。

以後はとりあえずデカイ声で、あいさつしてたら、この方含めて好かれた。

他のところでも好かれたから、挨拶は大事だ。


住み込みはさんざんやったが、最後の住み込みになった、スキー場のことも書いておきたい。


福島県の、某スキー場に住み込みしてたが

まあ、面白かった

とにかく、いろんな背景を持った人が集まる

住み込みはどこも基本的に若い人が圧倒的に多いが、スキー場は他の住み込みと違い、年齢層の幅が広いのも特徴だ

事実上の陸の孤島で、猿が道端で毛づくろいしてるような道を、駅からバスで1時間走る先にあるから

当然お金を使う場所もないので、よほど浪費しない限り、貯まる一方なのが特徴だ

オレは、レンタル係で

希望した理由も

このときは、オーロラ撮影のためのお金を貯めることが目標だったが

「スキーの調整も自分でできるし、休みの日に、タダで滑れるから」

という裏テーマもあった。

しかし、この年は記録的な雪の少なさで

12月末にして、福島県内22ヶ所くらいのスキー場のうち、

ウチを含めて、4ヶ所しか開いていない状況だった

当然殺到

毎日大行列で、へっとへとで、休みもないしスキーどころではない。

どんどん人が辞めて、まるで戦争映画で一人一人いなくなっていくイメージ

レンタルは遅いので、入浴時間は寮の全体ルールで決まっていたが、特例で

鬼瓦のような寮長に、時間過ぎてもレンタル係だけ、入るのを許してもらっていた

この風呂は、最初に熱くて入れないくらいのを沸かした後は追い焚きがないので

我々の入る頃など、ぬるい。

風呂のメンツが、ひとり、またひとりと減っていく

残った人にかかる負担の大きさも増える

さすがに今さら辞めたいなんて言えないし、さらにここの社員の人

オレより若かったが、元ボードのセミプロの凄い人で

マジで、弱音を吐かなかった

社員だからと偉そうでもなかったし、謙虚で本当に弱音を吐いたのを見たことがない

アスリートは凄いと思った

正直、自分がスキーヤーだけに、スキーヤーあるあるで

ボーダーはチャラチャラしててウザい(すんません、ボーダーの人)

と思っていたが、その社員の人は違った

休みの日に滑る時の姿はシュッとしていて、明らかに雰囲気が違って、デキるというのが空気で伝わってきたので、ボーダーに対する見方が変わったのは言うまでもない。

相変わらず、チャラいのは好かんが。

文字通り、俺達は朝から晩までやっていた

なんだかんだ続けていくうちに

自分用の道具を自腹で買い、

気づけば、お客さんの板の修理までやっていたし

何より、毎日何百枚ってスノーボードを増し締めするが

バインを持った瞬間

あかんわ、これ

と、見た目が一見大丈夫でも、直感的にわかるという技まで身についた

中を開けると、形成線に沿って割れてるので確かに見た目ではわかりにくい

しかし、なんというか

持った瞬間にわかるのだ

これは何百枚と日々、数をこなすことによる

正確無比なカンというべきか・・・。

以前、住み込みしてたホテルの料理長と話した時のことを思い出した

若い料理長だったが

この業界は、厳しいから10年続ける人は少ない

しかし、数をこなし、一旦基礎を身に着けたら応用がいくらでも効く

しかし、そこまで、続けられるかもまた大切なところだ

と語ってくれたことを思い出した。

ここのスキー場は、いい人たちばかりだったので、良い思い出が多い。

雪がしっかり降り、他もオープンしだして落ち着くと休みも増えて

文字通り、朝一番のゴンドラに乗り、リフトが止まるまで滑っていた

オーストリアからスキーのDVDを航空便で取り寄せて、寮の二段ベッドで毎日のように研究していた

オーロラのことなどすっかり忘れて、スキーの面白さにのめりこんでしまった


住み込みバイトは、人間扱いされるギリギリのラインなので、申し訳ないが働く人間も結構ひねくれてる場合が多いので、場所によっては当たり外れの差が極端なのも事実だ。

スキーにはまるきっかけをくれたし、ここでハイグレードで出してた板と同じモデルを別のところで購入して履いてるのが、今使っている板であるサロモンのオールマウンテンのQ98だ。


と、スキー場の話はここで終わらない。


ある時、久々に、以前北海道にいたときお世話になった保険の営業の人から電話があった

その日は、ちょうど休みで、しかも滑った後の休憩中で

「あんた、今何してるの?」

「スキー場で住み込みしてます」

「ちょっと、まだ、そんなことしてるの?薬剤師やる気ない?」

「あなたの性格知ってるから、短期間でもいいから、ね。病院の薬剤部なんだけど、知り合いが薬剤部長だから後で、電話するように言っとくね」

と。

その後、寮に戻ると約束の時間に本当に、とある大病院の薬剤部長から電話があった

「でも、病院の薬剤部で短期間とか無理ですよね~」

「そう・・・ですね~」

と断ったが、保険の営業の方には電話をしなかった。すればよかったと思うのだが、

人間はそういう生き物なのだろう、まあ、ええかとしなかった。




色んな仕事を経験してきた結果


環境はマジで大事


という教訓を得た。置かれた場所で咲くなんて、とんでもないことで、、、


同じ自分という人間なのに環境が違うだけで、がらりと扱いや仕事の不出来の評価が変わったのには驚いた。


持論だが、仕事は

出来るか、居場所間違えてるかのどっちかで

仕事できないと言われた瞬間、それは居場所を間違えてることだと思う。

そこで、ナニクソとがんばると

いや、お前さん、そこ居場所でないよと言わんばかりに、身体やメンタル壊す気がするのだ



ちなみに、置かれた場所で咲けなんてのは、ウツ状態で限界の人を、さらに奈落の底に突き落とす言葉なので注意が必要だ。

逃げたければ逃げてもいいと思う。





このスキー場住み込みバイトを最後に


指示を結局待つことになる派遣ばっかやとあかんと思った。

いや、慣れるんですよ

派遣っていう働き方はホンマに・・・。



働き方を180度変えようと決意&環境探しをやった



オレの性格を考えて、誰からも指示されず、自由に動けるところを探して、縁あって富山県某市にやってきた。

地域おこし協力隊というもので、オレの場合、起業型としてこちらで起業するという形で住むことになった


富山に来て


その中でも、典型的な中山間地域というか、


周りに里山と田んぼしかない

ところの古民家に住むことになった。

来た瞬間から、なぜか自治会の役員に任命されていた

自然が豊かすぎて

ある日、家の前の道路をランニングしてたら

地元の人に止められて

「おい。この先クマが出るから、あんまり夕方走るなよ~」

と。

え???

家から500メートルくらいなんですけど・・・・

家の庭に、柿の木6本あるんですけど・・・

そして、網戸がない上に、6年空き家やったから

しばらく窓を開けて解放してたら

夜中にタヌキに侵入されて

よりによって

スーパーはしごして必死で探してきた、無添加パン粉を外まで引きずっていって食われた形跡があった

軒下に、ネコがオレに無許可で住み着いている

雪に可愛らしい足跡が、軒下まで続いているから、丸バレだ。

後述の歴史的な北陸豪雪のあと、少し心配だったが、後日、日向ぼっこをしていたので安心した。

ちなみにオレは、イヌ派だ。

タヌキが庭の横の裏山に、家族で住んでいて、

クルマのヘッドライトに照らされる、庭に逃げ込むタヌキの姿が・・・

なんて日も。

庭にかわいい、ニホンアナグマも現れたな

キュン死レベルの可愛さだった。

ちなみに実は獰猛らしい。

ネコを被っている。

天井裏には、ハクビシンがたまに来ていることもある。

天井つついて、全力で追い出すが。

準絶滅危惧種のトノサマガエルはじめ、アマガエルやシュレーゲルアオガエルもいっぱい住んでいて


それを狙う、猛毒を持つヘビ、ヤマカガシなんかも庭に住み着いていた

ヤマカガシは人間を見ると逃げるが、面白かったのが

逃げる際、こちらに目を合わせつつ、するするとバックして逃げるのだ

家の中にもカエルやトカゲがいて

もう、まさに動物園だった

地域の草刈りもやってたから

草刈り機はオリジナルにカスタムしていた

新宮商行の丈夫な草刈り機をベースに

ジズライザー、葛の絡みをぶった切るヘキサゴンブレード、斜面用のループハンドルなど

角度までこだわってカスタムしていた

地域の人たちは、想像を絶するタフさ

うつ病なんて、絶対に無縁そうなタフな人たちで

面白い人達ばかりで、時に可愛がっていただいた

地域にはマムシ取り名人がいて

マムシをもらって、なぜか家にデフォルトで装備されている囲炉裏の炭火で炙って食べたこともあった

名人は軽トラのワイパーにマムシを干すらしいが、

時々、トンビがやってきてかっさらっていくという。

生やと薬のような、保健室のような臭いがする

名人が慣れた手つきで首から指を入れて皮をむくと、内臓とともに皮が取れて、

生の開きのウナギのようになる

その辺にあるヨモギの葉っぱをちぎって、しごいて下処理完了。

皮は乾かすと反鼻(Hanpi;ビではなく、ピ)という生薬になるので、膿んだ傷口に貼ると良いらしい。

うなぎのように、白身になったヘビ

これを2~3センチの短冊にして、1日上限二切れを炭火で焼いて、味噌をつけて食べるのだ

串を差す瞬間が緊張する

うっかり指に刺すと、毒回っちゃうから

タンパク毒なので、よく加熱すれば熱変性するから大丈夫だ。

焼きあがったマムシは、一転して、本当にいい香りがする

背骨と小骨だけになっており

名人いわく

マムシは骨を食べるものらしい

中の髄は、特に味がするでもなく、味はよくわからなかったが

24時間起きても平気だったことを考えると

効果は抜群だ

そして、夜目も効くようになるらしい

なるほど、皆さん肌ツヤよくて元気なわけだ・・・。

イノシシの対策用のフェンスを張っていたときも

お手伝いさせていただいたが、地元の大工さんに

正しい「しの」の使い方を教わったり、小さい頃この山を駆け回って遊んでいた時の話などを聞いたりしていると、面白かった。



冬になると、全てが一変した

毎日、室温が冷蔵庫より寒い12、時に0台が続き、曇天で晴れないので、毎日薄暗く、

さすがにメンタルに堪えた

湿度が日本海側で高く、毎日、布団や毛布が、鼻息が急速に冷やされた水蒸気でビチョビチョになっていた

毛布にくるまるために、ビチョビチョになっていないところを探すのが日課だった

布団の下にキャンプ用のサーマレストマットを敷き、さらに電気毛布をシーツの上に、そして羽毛布団と毛布、ありったけの夏用の布団などを被せて、冷蔵庫より寒いのをしのいだが

頬に当たる、降りてくる冷気が痛くて、寝付けない夜もあった。

家の中が氷点下になると、キッチンのシンクに氷ができる日もあった

シンクの水分は全て凍る

凍結防止のために、水をキッチン用の給湯器から抜いていたが、分岐の水道のパッキンが老朽化していたのだろう

給湯器からポタポタと水が垂れていたのだが

なんと、垂れた雫で氷が出来ていて、鍾乳石のように白く、数センチの高さに白く氷が成長していた

家の中に秋芳洞

10何LDKの、200平米もあって、広い家もいいが

冷暖房効率も考えた家にしないと後悔するなと思った。

そして、今はいないが、将来、奥さん子どもができたら

凍えさせないと誓った

やはり家は、暖かいものでなければならない。

さすがは、古民家

夏の熱を逃がすことしか考えていないのでスカスカだ

灯油のファンヒーターをつけても、12度以上に上がらなかった

ファンヒーターの熱まで、しっかり逃がす


室温が0℃台で飯を食うと、まず金属製のスプーンが持てない

なんというか、張り付くような嫌な痛みを感じるので

軍手をして、飯を食った

ところが、スプーンはいいものの

軍手した手で箸を持つと、上手く使えない

何より、飯がすぐに冷める

そんな葛藤もあった

記録的な低温が続いたときは

なにぶん、家も何もかもが寒冷地仕様になっていない上に、断熱材も巻かれていない配管むき出しなので

チョロ出しできない水道管、例えば小便器など

から吹っ飛んだ

それも、時間差で一週間してから吹っ飛んだ

2箇所も吹っ飛ばしている。

凍ったときに、割れ目が入り、その後の水道の圧で少しずつ傷口が開き、時間差で破裂する

チョロ出しで凍結予防できますと言われているが、それでは不十分だ

そんなこともあると、経験できたのは大きい。


断水して、水のありがたみを感じた

おそらく、断水経験のある人は同じことを思うはず

風呂や洗濯はお金でなんとかなるが

男でもトイレの大や、女性のトイレ全般、食器洗いができないのが辛い

こればかりは、その場で知恵を出して乗り切るしかない

大は目の前の溝の水をバケツに汲んで、食器は、箸も含めてラップで包み

コップは、たまたまイベントで使った残りの紙コップを使った

ラップと紙製品は何かと便利なので、買っておいたほうがいい。

この後にも書くが、この年の北陸は記録的な大雪や低温などの、災害が多かった。

こういう時はとにかく、

今、あるもの

に必然的に目を向けることになる



「今、あるものに目をむけること」



これは、自分に大きな教訓を与えてくれた




話を戻して。



オレがまだ、関西にいて富山に来るちょうど一ヶ月くらい前に

その前に受けた本田健さんのセミナーが縁で知り合った方が

たまたまフェイスブックでいいねした記事の人が

日本人初のチベット医にして、薬剤師の小川康先生だった

気になって、調べてみると、なんと小川先生が大阪に近日来られるという

一応、申込みしてみたら

なんと参加できることに。

初めてお会いした時から、やたら話が合った。

オレは、まず北海道に行って、小笠原諸島に行き、しばらくして八ヶ岳近くの清里にも行ったが

先生も、北海道に行き、佐渡ヶ島に行き、八ヶ岳近くの野辺山にも行ってたらしい。

行動パターン似すぎだ。

先生は、旧帝大の薬学部を卒業して、国内を転々とされて、30歳くらいで現地でチベット語を学び、現地語でチベット唯一の医学校の試験を受けて合格されて、さらに卒業時には難易度の高い暗唱試験にも合格されている凄い人。

要は日本に、日本語を話せない外国人が来て、日本語を1から学び、日本の医学部医学科を日本人と同じように受けて合格して、卒業して医師国試に受かるようなものだ。

オレも当時は29だったが、やはり触発されるものは大きかったし、自分の道を見つけて突き進んでおられたので内心、羨ましくもあった。

聞けば、小川先生はなんと、富山県のご出身。

富山に行くことになるときは、教えてねと言われて、そのご縁で富山でも二回ほどイベントをさせていただいた。

薬どころ富山と絡めて、先生がチベットで買ってきたムラサキで紫雲膏を作ったり、身近な原料で麻黄抜きではあるが葛根湯や、食品のみで構成される大建中湯を作ったりした。

大建中湯を作ったときは、住んでいる地域でやったのだが、地元の方も来てくださって、マムシの話などで大いに盛り上がって楽しいひとときだった。

先生の、するすると人を引き込んでいく軽妙なトークは大人気で、オレも好きだ。

時折、長野県上田市の先生の、その土地の杉の木を切り倒して製材して作ったという薬房に伺って薪割りなどをさせていただいたりするが、オレの剣道経験が初めて活きて、正中線で、筋肉にものをいわせずに薪が割れるので、気に入っていただけたようで嬉しい。

小川先生は、ご夫婦で二人三脚で活躍されており、身をもって今までにない新しい薬剤師の生き方を教えてくださった。

何宿何飯の恩義があることか。

ご恩返しは生涯を通じて行いたいし、

オレは勝手に師匠と呼ばせていただいている。



薬草といえば、市内で貴重な生薬である、かつては一級品の加賀黄連と呼ばれたキクバオウレンの自生地があるのを知り、オウレンを保護してみたり

あとは、冬の日本海に現れる幻想的な光景である「気嵐」の撮影をして世界中に公開したり

ブログ公開したり、動画を自分で撮って編集してYouTuberをやったりと、思いつく限りのことをやってみた。

しかし、オレの中でヒットするものは出なかった。



起業型として来ているのに、いったい何をしているんだろう



当初は、自分の持っているものを出していこうという純粋な思いで


出してきたが



なんか、出すもの出す