#新卒#うつ#精神科#休職#命の恩人#退職#工場バイト#引越し#恩師#結婚

なんやかんや、生きていればいろんなことが起こるらしい。

私の人生逆転劇が、どうか苦しむあなたのもとへ届きますように。

 

1. #新卒 #うつ

 大学院を修了して、新卒でとある会社へ入社した。好きなことを仕事にできたと思っていたし、まわりから期待されていろいろと任せてもらえるのが嬉しかった。しかし、職場の人員不足もあって、いつの間にか自分のキャパシティをとっくにオーバーしてしまっていた。それでも仕事はどんどんふってくるし、上司からは仕事が遅いとねちねちと言われ続けた。休みも不定期だったし、2週間連続で勤務していたこともある。やっと休日になったとしても、家で仕事をしなければどうやっても間に合わなかった。東北の実家から大学で東京へ出てきて、職場は東京より西の地域に配属されたから、まわりに友達もおらず、いつも1人ぼっちで誰にも相談できなかった。

 そんな生活をしばらく続けていると、帰り道で訳もなく涙が流れたり、明日のことが不安で眠れなかったり、出勤途中に車を運転しながら、このままガードレールにぶつかってしまったらどれだけ楽だろうか、などと考えるようになった。

 そしてある朝、どうしても布団から起き上がることができなくなった。上司に電話で連絡をし、しかし休むわけにもいかず、なんとか午後3時頃から出社した。そしてその日の就業後23時、取締役がわざわざ私の支社に来て、直属の上司と共に3人で面談をした。取締役は「お前は今病気にかかっている状態なのだから、すぐに明日病院に行きなさい」といって、その場で翌日は休暇となった。しかし取締役が帰ってから、直属の上司から、「新卒のお前に取締役が直接声をかけてくださるなんて、どれだけ期待されているのかわかっているのか」「病院に行ったらすぐに戻ってこい」などとくどくど説教をされた。本人は応援のつもりで話していたから、よもやこれが「パワハラ」になるとは思っていない。あくまで善意。こういう人が世の中にはまだまだ多いのではと思う。

 

2. #はじめての精神科 

 早速メンタルクリニックの予約を取ろうとしたら、1か月先まで予約で埋まっているという。私のような人がたくさんいるのかと思うとなんだか少しほっとした。しかし今日は病院にいくための休みなのだから、どうにかして今日診てくれる病院を探さなくてはいけない。調べてみると、家から車で1時間のところに、初診で当日受け入れてくれる精神科外来があった。ナビに従って車を走らせると、どんどん森の奥深くに入っていく。このまま神隠しにあうんじゃないか、それもまたありか、なんて考えながら、病院に着いた。

 精神科では、ストレスからくる重度のうつ状態、と診断された。薬も処方され、ひとまず2週間休職して、ゆっくり休んで様子を見ましょう、とのことだった。先生も看護師さんも、病院の人達はみんなびっくりするほど優しかった。

 精神科の先生は、「死にたい」と言いながらわんわん泣く私に対して、「そうだね、死にたいね。でも死ぬのはだめだよ。それだけは約束してね。」とあっさり、でも力強く、落ち着いて話をしてくれた。誰かに助けを求めたいけど、誰とも話をしたくない、という矛盾した思いを抱えてぐるぐるしていた当時の私には、干渉しすぎずに冷静に話をしてくれるあの先生の対応がありがたかった。

 

3.#休職

 休職して2週間は、東北の実家に戻って休養した。母は特になにも言わなかった。職場環境はどうだったのか、なにが問題だったのか、これからどうするつもりなのか、あのときにあれやこれや言われていたらきっとパンクしていた。一日中寝ていても何も言わず、普通に生活の世話をしてくれた。休日には「岩盤浴に行ってみたいからついてきて」と言われて一緒にいった。二人で無言のまま岩盤浴をしたあと休憩ルームで昼寝をして、アイスクリームを食べて帰ってきた。母は何も言わなかったけれど、誰よりも私の体と心のことを心配してくれていたのだけはよくわかった。

 休職期間もそろそろおわり、という頃、上司から電話がかかってきた。「もう少しで終わりだな、元気にしてるか?」から始まり、最近現場が人手不足で大変なこと、早く戻ってきてほしいこと、そのためにも病院では元気にふるまうように、との謎のアドバイスをいただいた。もちろんそんなアドバイスで元気になるわけもなく、それどころか悪化して、実家から帰る新幹線の中で人目もはばからず大泣きしながら、とりあえずは自宅へ戻った。

 復職前に病院へ行くと、「このまま復帰はできない。1か月休職期間を延長して、心が正常になってからいろんな判断を下しなさい」、とのことだった。そのことを上司に伝えることがどうしてもできなくて、看護師さんに付き添ってもらって、泣いて鼻水も垂らしながらなんとか伝えた。病院から会社に向けて、療養中は一切連絡をしないようにとも言ってもらった。

 

4.#命の恩人

 再び休職期間となってからは、自宅で1人、ほとんど寝たきりで生活していた。読書とか、映画とか、以前は楽しめていた娯楽が全然楽しめなくて、ただただ無気力だった。お風呂にも入れず、食欲もわかず、なんとなくお酒をガブガブ飲んで大泣きして、泣き疲れて眠る、という生活をしていた。誰ともかかわりたくなくて、カーテンも開けずに暗い部屋で1人、今日が何日なのか、朝なのか夜なのかもわからずにひきこもっていた。

 友人たちも気を遣ってそっとしておいてくれて、それがとてもありがたかった。ただ唯一、高校の同級生とは毎日連絡をしていた。同じ吹奏楽部だった彼は、以前から毎日くだらないメールのやりとりをしていて、私がうつになってからもやり取りが途絶えることはなかった。2人で遊びにでかけることもあったし、私の引越しを手伝ってもらったこともある。もはや親戚のような感覚だった。気を遣わなくて済む相手だったので、つらいことを全部さらけ出せた。毎日毎日ネガティブなことばかり送っていたけれど、それでも淡々と相手をしてくれた。

 ある日「死にたい」、と言ったとき、「それはだめだ」とか「そんなことは言うな」とか、私を責めることなく、「それはもったいないよ」とたった一言だけ言ってくれた。あの時の私はその一言で救われた。「もったいないよ」と言われたことで、なんだか妙に納得して、素直に「ああもったいないな」と思えた。彼のその一言で命をつなぐ気になったのだから、まさに命の恩人である。今考えれば、毎日毎日うつ病患者からメールが届くのだから、彼もしんどかったと思う。根気よく付き合ってくれて、必要なときに必要な言葉をかけてくれる人がいたことがとてもありがたかった。

 

5.#退職

 結局うつ状態と診断されてから2か月と2週間、休職をした。会社の偉い人から「希望する部署に異動してもいい」という連絡が来たり、お手紙が届いたり、お花が届いたり、泣くことでストレスが解消されるとのことで「泣ける本」が届いたりもした。お気遣いは大変ありがたいけれど、心配されなくても毎日泣いているのである。

 やはりどうにも職場復帰は考えられず、退職することにした。最終的な退職の決め手は、職場の先輩から、長々と送られてきた「激励」メールだった。「休んでいると復帰しづらくなるから早く帰ってこい!期待してるぞ!つらいのはお前だけじゃないんだ!がんばれ!」うつ病患者に言ってはいけない言葉ベストテンがすべて入っているような文章だった。きっと彼も善意で送ってきているから、やはりこの世の中にはまだまだ「こういう」人達がたくさんいる。そんな人たちのところではやはり働き続けることなどできない、と思い退職を決め、泣きながら人事部の人に連絡をした。実際やってみると退職するなんて簡単なことだった。なんだか少しすっきりして、少し寒い浜辺で海を眺めながらアイスを食べた。気が付くと夏は終わっていて、もう季節は秋だった。そういえば今年は暑いとか寒いとかあんまり感じなかったなと思った。

 

6.#工場バイト

 退職はしたけれど、実家から離れての1人暮らしを続けていたから、貯金も底を付きそうになってきた。変なプライドが邪魔をして、荷物をまとめて実家に帰るという決断もできず、ひとまずバイトでお金を稼ぐことにした。誰とも話さずに済むように、工場のバイトを選んだ。流れてくる青汁の箱に延々とシールを貼ったり、無限に段ボールを組み立てたりした。単純作業は苦にならないので、週に23回の勤務で、結局1か月ほどそのバイトを続けた。

 工場バイトは私のお母さん世代の人たちが多かった。23日のみの単発バイトには若い人も来るけれど、名前を知る前にみんないなくなる。見知らぬ若者がそれなりの期間働いている、ということでおばさんたちはそわそわしているのがわかった。最初は腫物をさわるみたいな扱いだったけど、1日に一言、二言、人と話すようになった。「仲良くなった」といえるほど会話はしなかったけれど、少しずつ職場には馴染んでいったと思う。これまでの経緯を話すと、「それは大変だったね」「まだ若いんだから辞めて正解だよ」と励ましてくれた。

 工場バイトの最終日は、みんながちょっとずつチョコやクッキーなどのお菓子をもってきてくれた。一番ベテランと思われる少し厳しいおばさんは、「あんた今日最後なんでしょ、食べな。」といって、ロールケーキをくれた。午後の15分休憩のときにポンと渡されたので、急いで食べた。

 人と話したくないと思って始めたバイトだったけれど、周りの人達が心地よい距離感を保ってくれたおかげで、「人と話す」ことのリハビリになったと思う。ついでに段ボールの組み立て方も上手になった。

 

7.#引越し

 工場バイトもなんとか馴染んできたけど、それでも体調によっては週に1日しか行けなかったりして、収入が安定しなかった。貯金も底を付きそうで、やはり実家に帰ることを決めた。母に連絡すると、「軽自動車に詰め込めるだけ荷物を詰め込んで、自力で運転して帰ってこい」とのことだった。

 ここから実家までは650㎞である。新幹線代を出すからとにかく帰っておいで、とか言われると思ったらそうでもなかった。干渉しないわりに保護もしないらしい。しかしいざ「帰る」と思うとなんだか元気になってきて、せっせと荷造りをした。お昼の12時に自宅を出て、実家についたのは深夜12時だった。荷物がパンパンのオンボロ中古軽自動車ではスピードが出るはずもなく、高速道路の「登坂斜線」を初めて使ったりして、のろのろと走った。ぎゅっとハンドルを握っていたせいか、着く頃には指と腕がしびれていた。実家につくと母は「本当に来れると思わなかった」と言って笑っていた。もう二度とこんな距離を運転することはないと思う。

 

8.#恩師

 実家に帰ってからもしばらくは寝たきりで、ちょっとしたことで悲しくなって泣くこともあった。それでも好きなことは少しできるようになってきて、地元の吹奏楽団に入れてもらって楽器演奏をしたり、好きな本を読んだり、のんびり過ごしていた。このまま地元で仕事を探そうかとハローワークに通っていたところ、大学院時代の指導教授から突然連絡がきた。母校で職員の公募が出ているから、応募してみてはどうかということの連絡だった。応募締切を聞くと、翌日の昼には郵便局に書類を出さなければ間に合わない。電話が来たのは夕方17時である。再び東京に戻ることに少し戸惑いはあったけれど、せっかくならばやってみようと思って徹夜で書類を用意した。

 結果、無事に採用され、母校で勤務することになり、1年越しに東京に戻ることとなった。恩師の一声からトントン拍子に物事が進んだ。人生何があるかわからないなあと身を持って感じた。

 

9.#結婚

 仕事も落ち着いてきた頃、例の命の恩人から、突然プロポーズされた。バラの花束を持ってきて、「結婚する?」と言うのである。「付き合ってください」の件をすっ飛ばしていきなりだった。ずっと親戚だと思っていたので戸惑ったけれど、よく考えてみれば、人生で一番つらかった時期を支え続けてくれたこの人以外に、他に適任がいるはずがない。命の恩人なのだから。

 「アリだね」と返事をしてあっさり結婚を決めた。昨年末に両親への挨拶をすませ、今年入籍予定である。

 

 どん底にいたときは、真っ暗闇の中で、まさか数年後こんな人生になっているなんて思いもしなかった。このまま暗い中で沈んでいくだけだと思っていた。でも、周りの人達がそれぞれのポイントで、暗闇に光を照らしてくれた。どんな場所でも、私のことを見てくれている人はどこかに必ずいて、そういう人たちが手を差し伸べて引っ張り上げてくれたおかげで今ここにいる。幸せだなあと思ってのんびり生きていくことができている。

 

 以前の私と同じように、真っ暗闇の中で今苦しんでいる人に届くように、私の人生逆転劇の記録をここに残す。どうか、遠くの誰かの救いとなりますように。

 

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