一本の映画を撮るように、人生をプロデュースする話。(第4章:歴史と勘右衛門 編)

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第4章:歴史と勘右衛門編(35〜44)


35

”勘右衛門(かんえもん)”と言う男を知っているか?

佐賀県武雄市の郷土史の中に出てくる人物だ。


そっか、知らないか。

では、歴史の授業を始めよう!

ちなみにオレは塾では英語を教えることが多いが、

教員免許は、”中学社会”、”高校地理歴史”、”高校公民”を持っている。

先生の話をよ〜く、聞くように!(笑)


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享禄三年(1530年)。

時はまさに”戦国”。

豊臣秀吉が1590年に全国統一を成し遂げる60年前の話だ。


島原半島を制した敵将”有馬晴純”は、
自ら大軍を率いて武雄領主”後藤純明”に挑む。


有馬晴純は武雄の塚崎城を攻め、山内の住吉城まで迫る。

後藤純明は勝利を黒髪山に祈り、三間坂の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲する。



奇襲は成功。

敗走する有馬軍。​


その有馬郡の殿(しんがり)を務めるのは、

”勇将”林田左馬之助。


殿(しんがり)というのは、
後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊だ。


敵の追撃を阻止し、本隊の後退を援護することが目的である。


そのため、本隊からの戦闘加入を受けることも出来ず、

限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない、最も危険な任務であった。

このため、古来より武芸・人格に優れた武将が務める大役とされてきた。


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奮戦する林田左馬之助。

追撃する後藤純明。​


その後藤純明の家臣に、

弓術に優れており​、

領内でも”剛勇の士”と一目置かれる存在の男がいた。

それが、勘右衛門だ。


勘右衛門は決して位が高い武士ではなかった。

徒歩武者(かちむしゃ)・・・いわゆる足軽だ。


ゆえに立身出世の思いも強かったのだろう。

領主のために命がけで戦った。



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川良(かわら)を超えて、
白水原の打詰谷(うつつめたに)に出た”敵将”林田左馬之助は矢に当たり落馬。


駆け寄る勘右衛門



挑みかかる勘右衛門に、林田左馬之助は問う。


「母衣(もろ)をかけた武者の、首の討ちゃんとようは存じているか??」



母衣というのは、大名や精鋭の武士、
本陣と戦線部隊の間を行き来する使番(つかいばん)に着用が許される名誉の軍装だ。


問われて勘右衛門は戸惑ったに違いない。


彼は位の低い武士。

古式な作法など知るわけがない。


林田左馬之助は、敵の勘右衛門に作法を教えた上で、

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