戦力外通告を受けた『負け犬剣士』だった私が、国際線客室乗務員になった話。(後編)

前編: 戦力外通告を受けた『負け犬剣士』だった私が、国際線客室乗務員になった話。(前編)

リベンジの舞台に選んだのは航空業界

この日から、
私は狂ったように、
将来のことを考えるために、読書に走る。

高校3年生の夏まで、
剣道しかしていなかった女子学生だ。

今から大学受験の勉強に励んだところで、現役合格は間に合わない。
そんなに受験は甘くない。
コツコツと継続をしてきた人間は、強い。
この場合は勉強だが、それはスポーツ界でも同じだ。

でも、浪人をしてまで大学に行く、
という選択肢も無かった。
そこまで親に迷惑はかけられない。

このまま剣道部にいれば、
顧問が持つコネや人脈で、
大学にスポーツ推薦で行ける可能性は、多分あったと思う。

きっと当時、顧問だって、
私のことは心配していただろう。

・・・だが、私はこれを真っ向から拒否した。

スポ薦で大学に進学することは、
私にとって、ズルズルと過去の栄光にしがみついているように思えたからだ。

今まで散々、
格好悪い姿を晒し続けてきた。

プライドなんて最初から無かったが、これ以上は限界だった。

私がいるべき世界は、「剣道界」ではない。
この世界では、これ以上、上に行くことはできない。

竹刀はもう、死ぬまで握らない。

意思は固かった。

幸い、進学校だった母校は、
理系コース、文系コースとそれぞれ大学受験にむけて、無駄な勉強はしないようなコース選択ができた高校だった。

スポーツ推薦で高校に入る学生は、
基本的に「特国」(何の略なのかは知らない)と呼ばれるコースを選択する。

・・・というか、それしか許されない部分があった。(笑)

なぜなら、このコースは、ずば抜けて授業の時間が少ないのだ。

その分、練習時間に充てられる。

スポ薦で高校に来ている学生と言うのは、スポーツで高校の名前を売っていくのが仕事なので、基本的に「勉強」は免除だった。

スポーツ推薦組は、スポーツ推薦で「有名大学」に進学していく。

一般の受験生にしたら、
妬ましく思えるのかもしれないが、
受験生が死ぬ気で勉強している間、
スポ薦組は、死ぬ気で練習しているのだ。

フェアな世界である。

とにかく私はこの時、
このどの層にも当てはまらなかった。

だから、周りの大人はさぞかし心配していただろう。

自習時間が多く、
図書館に入り浸ることが出来た私は、一気に自己啓発本や、職業選択に関する本を爆読していく。

一日に一冊のペースで読んでいった。

朝から晩まで剣道のことを考えてきた生活を、読書に変換するだけだったので、全然辛くなかった。

なにより、
肉体的に「疲れた」と感じなかったので、大した負担でもなかった。
集中することには慣れていたし。
動いていなければお腹も空かないので、朝から晩まで、図書館にいた日もあった。

ほどなくして、私は一つの決断をする。

「航空業界に進む」

と。


専門学校を選択

航空業界を選んだのは、
剣道界とのギャップがあったから。

これだけである。爆

剣道部出身の人間は、
大抵の場合、警視庁か教員の道に進む。

だから、そこからできるだけギャップのある世界に飛び込んだ方が、自分の周りの人間にインパクトを与えることが出来ると思ったからだ。(笑)

なんとも単純な思考だと思う。

それに、理由はもう一つあった。

タイミングよく、
家に「航空業界の専門学校」のパンフレットが、届いていたのだ。
これは本当に、たまたまだった。

私は、この偶然を、必然にしようと決めた。

航空業界と言っても、
パイロット、CA、グランドスタッフ、整備士などなど・・・
色々選択肢がある。

でも私が重要視していたのは、
ステータスや給料ではなく「ギャップ」のみだった。(笑)

だから当時、
髪の毛が2~3cmしかない、
見た目男子の剣道女子が、
ここでCAやグランドスタッフを選択すれば、なお良いと思った。

・・・でもよく調べてみると、CAは160cm身長が無いとなれないらしい。
消去法で、グランドスタッフを選択した。

それからは本当に早かった。

早速、目星の専門学校の学校見学を始める。

学校見学程度なら別に高校の制服じゃなくても良いだろう、と思い、私が着ていったのは、ミズノのジャージ上下だった。

当時の私にとって、これは正装である。

・・・が、これはエアライン業界では、圧倒的に場違いだったらしい。

学校見学で、
まだ入学もしていないというのに、
エアラインコースを担当している先生には、

「あなたは整備士向きじゃないかしら?」

と、遠回しに拒否された。

その時の私はと言うと・・・
「それもそうか。確かに整備士カッコいいよな~。整備士になろっかな~(笑)」
とか思っていた。(発言したかもしれない)

無知とは凶器である。

私は今まで、
白か黒か、勝ちか負けか、の世界にいた。

だから「嫌味」というものが具体的になんなのか、心底理解していなかった。
だが、私のこの鈍感力は、後に大きな力を発揮する。



エアラインコース

無事、専門学校に入学し、
私はエアラインコースの学生となった。
当時、グランドスタッフコースと客室乗務員コースは、1年間だけ一緒のクラスで勉強するという制度。

私は身長制限に引っかかっていたので、グランドスタッフが第一志望だったが、授業を受けていく中で、だんだんその考え方は変わっていく。

CAの方が、待遇良くね?

これである。

給与、休暇、社員チケット。

これだけ考えても、
同じ労働(グランドの方がキツイと私はこの時から思っていた)なのに、この条件の差はなんだ?

エアラインに何の知識も無い人間が、この差を見ると愕然とする。

身長が無いだけで、この差になるのか?

嫌だ。

これが私の素直な感情だった。
だから私は、身長を伸ばして、CAを目指すことに決めたのだ。




アイブロー・コンシーラー・なにそれおいしいの?


私が専門学校の中で、
最も苦労したのが「美育」という授業である。

「美を育てる」

ばーん。

運動部のノリが分かる女性なら、
ご理解いただけると思う。

「美育」

これは、
どの角度から、
どれだけ控え目に言っても、

「ネタ」である。

ここに剣道部の同級生がいたら、
間違いなく、これをテーマに小一時間は笑っていられるだろう。笑。

この授業では、
自分に合ったメイクの方法や髪型、
などなどCA向きの「美」に関する知識や実践が行われた。

これがまた、大変なのだ。

講師の先生は、
「はい、コンシーラーで○○、その次に下地がどうとかこうとか・・・アイライナーは○○○○、アイブローが・・・」

日本語を話していないのだから。

なのに同じクラスの同級生は、
あまりにもナチュラルに、その指示に従っていく。

なんだこれ。
違う惑星か何かか?

もう一度言う。

講師が発している単語は、
概ね日本語ではない。

私は、CAどうこう以前に、
化粧とは何か?から始めなくてはいけなかった。

「メイク」「ファッション」

まさに修行。

だが、講師の先生は、
あまりにも場違いな私に、
厳しくも愛のある教育を施してくれた。

そのおかげで、数か月後には、
メイクの方法、その他、化粧道具の基本的名称は覚えた。

アルバイト先でも、
「メイク上手じゃん」と言われるまで、成長した。

教育のプロはスゴイ。


自分改造計画

私はCA受験生として、問題だらけの生徒だった。
身長、学力、英語力、見た目。
どれも当時のままでは、不合格判定。
誰も私がCAに内定するなんて思っていなかっただろう。

「CAになりたい」「いや無理だろ(笑)」

という会話がデフォルトだった。

でも、私はこの状況に、
不安や憤りを感じたことは一度もない。

見下されたり、馬鹿にされたり、
お前には無理だ、と言われることには慣れていたのもあるが・・・

客室乗務員という仕事をしている人は、日本だけでも、何千人といることを知っていたから。

今まで、本気で「日本一」を目指してきたのだ。
日本一とは、文字通り「日本で唯一の存在」である。

・・・だが、CAは違う。

日本だけで毎年、100人以上の人間を採用する。
しかも、チャンスは一度ではない。

私は、2005年に、
日本全国で二番目に強い学校の、
上位5人の選手に入ることは出来なかった。

だが、今から目指す業界は、
そんなに厳しくない。

CA受験とは、
死ぬまでに、その年の受験生の中で、上位100人に入れればなれるのだ。
(現在だったら上位600人程度でなれる)

条件さえ揃えれば、私にも勝ち目はある。

それに授業の中で、
CAは「接客」のために乗務しているのではない、と知った。

CAは「接客要員」以前に、
「保安要員」なのだ。

緊急時には、旅客の命を守る使命がある。

「え? 私、これ出来るじゃん。」

全国のCA受験生の中で、
私ほど運動神経が良い学生はそうそういない。

この学校だけで考えるなら、
飛行機が落ちた時に、
旅客の命を守れる可能性が一番高い人物は、
間違いなく「自分」である。

条件さえ揃えられれば、これは勝ち試合だ。

私の脳内は、当時、本気でこう解釈していた。爆

単純計算で、CAになることは、
スポーツで日本一を目指すよりよっぽど簡単だった。

だから、この時からすでに私には、絶対の自信があったのだ。

ということで。

現段階の問題点を拾い上げ、
それに対する対策法を、一つずつ、具体的にとっていった。

まず身長。
身長は、ストレッチや身長を伸ばすことに特化したヨガの実践で、158cmまで伸ばした。
厳しいとはいえ、合格圏内である。

学力。
CA受験のSPIの過去問を見る限り、小学校・中学校程度の勉強ができればいいのではないか?と言う結論が出た。
そこで、ドラえもんの参考書を買って、それを解くようにした。SPIの問題は怖くなくなった。

英語力。
教師の一人が、

「あなたの英語力は致命的だから、
このままではとても就活までに間に合わない。
留学で手っ取り早く英語を学んできなさい。」

とアドバイスをくれたので、アルバイトでお金を貯めて、親にも援助してもらって、6ヵ月の語学留学をした。

TOEICのスコアは、
この6ヵ月で、300点台から890点までに上がった。

見た目。
脚の筋肉が尋常では無かったので、まず「筋肉を落とす」ところから入らなくてはいけなかった。
痩身エステに通ったり、
お金は掛かったが、投資だと思い、日々、アルバイトに明け暮れた。

同時にダイエットも開始。
体重は、現役の選手だったころに比べ、15kg以上痩せた。

もともと体脂肪率自体は低かったし、
筋肉質だったので、デブと言われたことは無かったが・・・

「華奢になった」
と言われるようになった。

朝から晩まで剣道に明け暮れていた日々は、無駄ではなかった。
これら全てをこなしても、大して疲れなかったから。

人間は、2、3日寝なくても死なない。

そんな感じで、異常なスピードで色々やっていた。

怪我以降の高校生時代、
あれだけ長く感じていた1年間が、嘘のようだった。

時間はあっという間に過ぎていった。


就活

留学を終え、
日本に帰ってきてからほどなくして、就活が始まった。

私は専門学校の執務室で、
過去の先輩方が受けてきた
航空会社の過去質問を読みながら、
面接を通過している先輩の共通点を探していた。

就活では、
不採用通知をもらうとよく、
「ご縁が無かった」という表現をする。

私はこれを、当時から全く信じていなかった。

「遠回し表現」ってやつじゃね?
と、思っていた。

「遠回し表現」は、
私が今まで触れてこなかった世界の言語である。

社交辞令とか、
空気読む文化とか・・・

異次元の世界だ。

「結果」には必ず「原因」がある。

だから、不合格には不合格の理由がある。
当然、合格には合格の理由があるはず。

過去質問とにらめっこしているうちに、
私はある、「勝ちの法則」に気がついた。

「具体的」

質問に対して、より具体的なことを言っている人が次の面接まで進む。

これである。

ここから私は、
何もかも「具体的」に回答する練習を始めた。

自分の言っていることに対して、
相手が「・・・それは具体的にどんなことですか?」と言ってこれないような、
「誰が聞いていも、一発で腑に落ちる回答」である。

この成果だったのか、
面接官と対峙して、質問の受け答え形式で行われる選考は、ほとんどが通った。

私は客室乗務員を目指した理由が、
高校時代の周りにいた人を
見返すため「だけ」だったので、
最初から「CA」に憧れなど全く抱いていなかった。

だが、航空会社にとって、
自分がいかに役に立つ存在か、
CAという体力勝負の業務を、
いかに力強くこなせるポテンシャルがあるのか。

そこをアピールするのは、得意になっていた。


内定通知

最終選考の結果が来る日。
私は自宅にいた。

アルバイトのシフトは入れていなかった。

なぜなら、最終面接を勝ち抜いた内定者には、電話がかかってくるからだ。

私は携帯を自分の近くに置いておくのが怖くて、部屋に置き去りにし、逃げるようにリビングで本を読んでいた。

緊張していることも、
今日が結果発表であることも、
家族の誰にも、言っていなかった。

午後6時を回ったあたりだと思う。

急に、それまで自分の部屋にいた弟が、ドアを開けて私に叫んだ。

彼の部屋は、私の部屋の向かいにある。

「ねーちゃん、ケータイ鳴ってるよー。」

ドキッとした。

慌てて階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。

恐る恐る通話ボタンを押すと、
それは、最終面接会場で面接の流れを説明をしていた、人事部の男性だった。

「橘田さん、最終選考の結果、ぜひ、うちの会社に入社して頂きたいと思っています。」

大きく深呼吸をして、「はい」と答えた。

・・・正確には、「はい」としか言葉が出てこなかった。

「内定通知」を受けてからも、
しばらくふわふわしていたと思う。

ゆっくりと部屋から出て、
リビングに戻ると、
丁度、母が仕事から帰ってきていた。

私はよほど、変な表情をしていたのだろう。

母は、不安な顔を浮かべた。

「・・・・・・受かった。」

やっと出た言葉が、これだった。

母は絶叫とともに、私を強く抱きしめてくれた。

・・・この日、
インターハイ会場で手渡され、
呪いのように、机の目立つ位置に
置いてあったあの銀メダルを、
ようやく棚の奥底に封印した。

実は、この銀メダルは、
一度ゴミ箱の中に捨てたことがある。

あの時、
私に銀メダルをくれたのは、
顧問なりの優しさであったことは、
さすがに17歳の私にも理解できた。

私が努力し続けてきたのは、
顧問だってよく知っていた。

そんなまじめな生徒に、
チームの勝利のために必要な
「残酷な決断」を突き付けることは、
想像しただけでも辛いはずだ。

・・・でも、どうしてもその時、
私の心は、その優しさを受け入れられなかった。

だから捨てた。

でもそのメダルを、母は拾っていたのだ。

だから私は、捨てる代わりに、
このメダルを、自分を奮い立たせるための道具として、あえて見える位置に置くことにした。

目標を達成した今、
私にはこのメダルはもう必要ない。

捨てても良かった。

・・・だけど結局、捨てないでおくことに決めた。

メダルに対して「劣等感」しかなかった日々。
でも、3年後の今、気が付くとそこにあった感情は、「感謝」だったのだから。


最後に

長い長い物語を、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

私の挫折は、
挫折の中でも大したことがないというのは、
実は自分でもよく分かっています。

当時はまだ、
自分のことでいっぱいいっぱいでしたが、高校を卒業してから、周りがよく見えてきました。

世の中には、
スポーツ中の事故で下半身不随になってしまったり、それこそ、命を落としてしまったり。

もっと苦しい思いをしている選手は、たくさんいます。

その点、私は怪我をした選手の中でも、恵まれていました。
3か月で復帰できたんですから。

ただ、そのチャンスを生かせなかった、その程度の実力の持ち主だった。
それだけのことです。

ただし、その程度の人間でも、
経験の中で学んだことはたくさんありました。

最後のまとめとして、
私が学んだことを箇条書きにて書き出していきたいと思います。

・恥をかいても、人間は死なない。
・失うものが無い人間は、確かに強い。
・無駄な努力はない。無駄な努力は存在する。どちらも正解。
・結果には原因がある。
※この補足は、別記事で書く予定です。

実は、この高校時代の挫折を思い出すことは、12年経った今でもあります。
夢に出てくることもあります。

当時は本当に苦しかったので、今まで、きちんと思い出すことを拒否していました(笑)

現在私は、ブラジル人の男性と結婚し、日本の裏側、「ブラジル」で、子育てをしている母です。

娘を出産してから、親目線でこの挫折のことを振り返るようになり、今、苦しんでる選手に「挫折」の後には何が待っているのか、そしてその選手の親御さんには、「子供が何を思っているか」をお伝えしたくて、この記事を書くことにしました。

個人的な意見にはなりますが、私にとって、高校時代に「完敗」「挫折」をしたことは、結果的にとても良い経験でした。

でも、現役の時に、
「人生はスポーツだけじゃない」
「無駄な努力は無いよ」
「努力は報われるよ」
「あなたは頑張れば出来る」

と、自分と同じ立場ではない人に言われるのは辛かったです。
どんな慰めの言葉を言われても、「挫折」の渦中にいる思春期の子供は、受け入れられないと思います。
私は、黙って見守ってもらえるのが、一番ありがたかった。
お子様が「挫折」をしていたり、自分が挫折の渦中だったり。
そんな方に、この物語から、何かが届けばいいな、と思っています。

それでは!
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!



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