心とは〜2000年以上進展のなかった心についての新体験!〜
心とは
「誰もが興味を持ち、誰もが興味を持たないもの」
繋がらない男の言葉
心は心臓にはない。心は脳にもない。気持ちは心ではない。気持ちは脳によるもの(後述)。つまり、感情も脳によるもの。心は脳が情報を認知して、もしくは脳が思考して初めて起きる現象です。つまり、脳があって心が起きる。そして心が脳から自立する。心が起きる原因となる思考が脳の許容を超えていればいるほど心は自立して暴走すると思われる。その逆はない。どんなに一瞬で心が起きても筋道としてまず必ず脳を通っている(人はあまりの速さに心が先に起きていると錯覚する)。そして心が起きたとき脳がそれを認知する。脳→心→脳です。心は思考しない。思考するのは脳である。その結果に心がある。また意識と無意識は脳の問題であって心ありきではない。そのためここでは意識と無意識については触れません。
心は臓器的なものではない。心は心である。それは一般的に感じる心と僕が体験した宇宙的な心(後ほど詳しく触れますが心が宇宙と関係しているという意味ではない)の2種類に分けられる。心は決して霊的なものでも魂のようなものでもない。脳と心は繋がっている。ただ僕の体験をもってしても脳が心をつくっているのか、それとも脳とは別に心があるのかは断言できないということにしたい。現実的(かつ物理的)に考えるのであれば、前者が有力です。また僕の体験からも前者が有力です。
心の在りか
心は胸のあたりにあると答える人が多い。いろいろな感情が起きたとき胸のあたりに心を感じる。心は輪郭を持たず、形や範囲そして数を曖昧に変える。僕の体験から心には基点があると思われる。”心の基点”は胸の真ん中、みぞおちの上(正面から立っている人体を見てみぞおちの上という意味)にある。正確には胸ではなく、胸の下です。胸の下かつみぞおちの上にある。平面的な場所を専門用語で表すなら、胸骨の剣状突起の上、胸骨体の下部です。ただ一般的に感じる心の在りかはその上らへんです。しかも一箇所とは限らない。基点を知るにはまず心のある現象を体験する必要がある。僕はこの現象を”心のブラックホール”と呼んでいる。自分には「ない」という認識から生まれる「ない」に対する強烈で強大な「執着心」と「孤独感」と「恐怖心」が相まって心が吸い込まれるような現象が起きる。ブラックホールが起きるほどの「執着心」だと考えてください。と言いつつ、それを想像することは無理です。今の僕が想像できないからです。精神障害者である僕の当時の執着心は異常なほどのものです。ただの執着心という言葉で片付けたくない。うまく説明できませんが、それはまるで違う思考のコースからやってくるので抗うことはできない。自分の意思とは関係ないコースにあるものだから触れることはできない。触れることができないものを止めることはできない。そして深く深くどこまでも深く考え込んでしまうのです。どこまでもです。そして支配されてしまう。しかしそれは別の僕が存在するということでもない。物理学的に言うと、ある対象(一点)に対する「執着心」は引力(重力)に当たる。つまり重力が惑星の中心に向かってどんどんどんどん大きくなっていくと惑星はブラックホールに吸い込まれてしまう。その現象は「苦しい」ではない。一言で言うと「ヤバい」です。とにかく「ヤバい」。僕の場合、その現象の発生要因は最初の彼女です。長年確固たる比較対象として僕の頭の中に棲みついた元カノの「ある」に対して自分の「ない」を病的に意識したときに発生します。もしくはその場面を自分の意思に反して想像しようとするとそうなる。つまり、彼女の情報が一つでも僕の頭の中に入ればほぼ終わりです。その一歩手前というのもありました。まるで違うコースからと話しましたが、僕の意思と綱引きをするようなこともありました。
僕は彼女と別れてから心のブラックホールを何度か体験している。心のブラックホールは自殺したくなるほどの「ヤバい」現象です。その中で僕の精神状態が非常に危険で異常であったとき、同時に心のブラックホールが発生しており、その「ヤバい」を和らげるために母に心を押さえるように頼んだ。自分で押えても和らげることはできない。はじめ母は心臓を押さえた。僕が押さえてほしかったのはそこではなかった。それでは「ヤバい」を和らげることができなかった。次に胸の中央の下を押さえてもらった。つまり、先ほど説明した箇所です。それで少し和らいだ。はっきりと心を認識しました。そこで僕は心の基点を確認しました。「ヤバい」状態の中で「そこか」と思いました。心の基点を確認できたのはその一回だけでした。なぜ母に手で押さえられることによって心のブラックホールが少し和らいだのかは正確には説明し難いということにしておきたいです。それ以前の初期に発生したブラックホールについては元カノがブラックホール発生時にそばにいて手を繋いでくれてれば和らいだと思います。実際は全て一人で耐えるしかありませんでした。とにかく今は心のブラックホールは「ヤバい」という記録だけが僕の頭の中に残されています。残しました。
心のかたち
心は一般的に漠然と胸のあたりに発現する。感動したとき、失恋したとき、、心に穴が空くような苦しみを体験した人も多いでしょう。とてもとても苦しくて辛い。それらは僕も様々な形で体験しました。しかしこれから話すのはそれらとは一線を画します。それ以上のことだということではなく、まるで別種だということです。僕が心のかたちをはっきりと捉えたのは2種類です。一つは”心の球体化”。これは過剰な「不安感」と「孤独感」を脳が抱いているときに起きます。ここで言う過剰とはみなが想像するそれよりもはるかに、はるかに大きなものです。20年以上ため続けた代物です。発生要因に過剰な「不安感」を挙げた理由は、最初の頃は偶然的に抗不安薬のデパスがその球体化を和らげたからです。しかし、その後心は思考から独立し、暴走したときは薬が全く効きませんでした。心が基点を中心に直径約10cmの輪郭のない球体になる。見事なまでの球体でした。だが輪郭はない。そしてそれは継続する。この現象が起きているときも苦しいという表現は当てはまらなく、やはり「ヤバい」です。感覚的には宇宙的に「ヤバい」のです。ただし、心のブラックホールとは異なる「ヤバい」です。まるで違います。種類が違います。当時の私のメモにはこう書かれています。「心が異空間にあるようなヤバさでとにかくヤバい。それが起きているときは無形(非物質的)なのでどうすることもできない」、「宇宙の起源と同じくらいの謎が僕の身に起きている。心の異空間状態」。当時の僕はその無形の「ヤバい」に対してとにかく嘆き、もがいていました。非物質的なので体をどう動かしても手で抑え込んでもその「ヤバい」を全く和らげることはできませんでした。同時に、夜中の雨音、暗さ、時計の音、この世の全てが異常にこわかった。自分の心が宇宙の裏にあるような強烈な恐怖を感じていた。僕があまりの「ヤバい」と恐怖で子供のように大泣きをするほどのものでした(同時に僕の心(ここで言う心は一般的な心を意味します)はその頃完全に折れていた)。家族に緊急病院に行こうと何度も言われましたが、こんなものどうやって説明すればいいんだと、こんなの病院に行ってどうにかできる次元のものじゃないと、家族には意味がないと嘆きながら訴えました。またあらゆる神経が非常に過敏だったため深夜に吠える犬の鳴き声にも苦しみましだが、耳を塞ぐのもこわくてできず、どこにも逃げられない状態でした。怖しくなり、下手に音楽を聴くことすらできませんでした。そんな状態の中で体験した心でした。僕はいろんな問題を抱えてる中で当時大きな大きな大きな不安を持っていました。そこに妄想の反動が加わった。僕は本気で考え(しかも論理的に)、妄想を信じ、数年間一途に努力をした。自身の障害を治そうと。そして妄想に気づいた。その時のその分の反動は人には想像もできないものだと思います。絶対にできない。緊急病院に行き、内科の先生に心が球体になってると伝えました。意味がないと思いながら。先生も「ん〜」といった感じで、精神科の先生がいないからと話していましたが、仮に精神科の先生が私を見ても結果は変わらなかったでしょう。私の心の球体化についての当時の話は浦安の順天堂大学病院のデータに記録されています。だからと言って公開されることはないでしょう。診察室に入り、仰向けになり、一応腹部を押したりして内臓に問題がないか調べられました。結局内科でも出せる抗不安薬のデパスを処方してもらいました。僕は診察台に仰向けになっていた時、あらゆる不安から一時的に解放され、心の球体化は治まっていました。ここに来るまでには車の助手席で言葉で表現することのできない異常、聞いたこともない異常と闘っていました。体を静止させておくことができないほどの異変が起きていて、僕はそれに苦しみました。耐えきれず体をウネウネさせました。その中で病院に行く行かない、意味がない、そんなやりとりを普通ではない状況で母と繰り返しました。そして再び家に戻ると、心の球体化がまた始まり、僕は母を前に顔を歪めてまた子供のように嘆きました。「うぇ~ん」と。心の球体化は意味不明の生き地獄でした。この頃脳を始めとした様々な異変を体験した僕は常に「パラドックスすぎんだろうが」と思っていました。
心の球体化の前、先に述べたように僕の精神と神経は非常に敏感になっており、孤独という強烈な恐怖を抱え、一人でいると心が危なくなる状態でした。そのため起きるとすぐに父をリビングに呼びました。母はパートに出ている時間帯、父はちょうど会社を辞めていた頃。様々な不幸と不運が連鎖していました。そして夜中になると安定剤と睡眠薬を飲みました。それを飲まなければ寝られないのもありましたが、一人で夜寝ることが非常に精神的に危ない状態であって、精神も心も危なくなるため、すぐに自室のベッドで意識を失えるようにしていました。薬の効果は4時間ほどで消え、起きると同時に異常な精神状態と孤独感と暗い静けさに対する強烈な恐怖と心の危ない状態などがやってきて、僕は起きた瞬間にすぐにまた安定剤と睡眠薬を飲めるように机に水の入ったグラスと薬をきれいに並べて置いておきました。起きてすぐに一切の無駄のない流れで薬を飲めるように。1秒でも遅れたらいけない異常な状況でした。寝る前は必ず1時に寝るようにしました。精神異常と神経過敏とピークを迎えた妄想(主に誇大妄想と関係妄想)に深夜1時まで耐えました。でなければ早い時間帯に起きてしまうからでした。できるだけ意識がない時間帯を朝の遅い時間帯にズラす必要があったのです。それは二度目の睡眠後に朝早い時間帯に起きないようにするためでした。朝早く起きてしまうと、早朝という状況的に恐怖が倍増する。だから1時まで待ち、薬を飲み、そして覚醒し、体を震わせながらまた薬を飲み、怯えながら、様々なものに耐えながら布団の中に潜り込み、意識を失うのを待ち、朝遅めの時間に起きる。その流れがその頃はベストでした。その頃どれだけ精神と神経が過敏だったか。精神鎮静効果のある熱いお茶を密封された状態で隙間から湯気とともに嗅ぎ続けなければいけないほどでした。
二つ目の心のかたちの認識は心が基点を中心に横に広がる現象です。縦に狭く横に広がる。これは精神状態が危険で異常なときにうたた寝しようとすると起きた。目をつむると脳が自動的に思考を始める。無意識に過剰な「不安感」を抱くのです。この現象はかたちが違えど心の球体化と同類の現象と言えます。やはり「ヤバい」、とにかく「ヤバい」。だからそれがある時は目をつむることができませんでした。意識を失う以外。ただし一つ目は自殺を強く考えさせられるほどの現象でした。何度も言いますがその頃は一人でいることなんて考えられないほどの精神状態でした。外に出ることも非常に危険なことでした。ここでは触れませんが、他にも様々な危険な精神状態と体の異常を経験しています。端的には僕しか経験してないと思われるもの以外で他の精神障がい者の方々が経験することは大方経験したのではないでしょうか。よく生き残っているなと思うほどです。本当によく耐えた。というより耐えるしかなかった。先が全く見えなかった。いつ終わるのかと。これがずっと続くのはキツすぎるぞと。それが経過の中で何種類もありました。毎晩嘆き苦しみました。嘆いて、嘆いて、もがいて、もがいて、、、耐えた。耐えた。正確には耐えたという言い方は正しくないかもしれない。ただ地獄を味わい続けたといった感じでしょうか。周りから見れば何も起きてないように見えるものでも、僕の中ではすごいことになっており、そんな中で一人耐えるということも多々ありました。先ほどの心の状態が終わり、新たな状態、心から全身にシーンとなる状態、これはとても説明できるものではありませんが、とにかくこれも「ヤバい」状態でその時にヨガを勧められてやりましたが、死ぬかと思いました。チーンと音を講師が鳴らすたびに僕はそのシーンとなる「ヤバい」に苦しみました。何が言いたいかというと、その状態の時の僕には本来なら癒しの効果となる様々なもの、精神を統一するような様々なものがただ僕をさらに苦しめるものでしかなかったということです。特に宇宙を連想させるようなものは危なかった。その頃、宇宙に関わるグロテスクなエイリアンのような映画や電脳世界に入り込んだ類の映画を観ましたが、内容が内容でそのシーンとなる状態がより強さを増し、観れたものではなかったし、ただただそのシーンとなる「ヤバい」に必死に耐えた。そのシーンとなる状態はしばらく続いた。ジムに連れてかれたが、走ることもままならなかった。シーンとなって、あー、、ヤバい、ヤバい、、、と。
これらの少し前、僕は病院の精神科でロールシャッハテストを受けました。僕が連想したものはデビル、地獄の生き物でとても危険な飛行生物、ウルトラマンを倒したゼットン、コウモリ、怪物、化け物、潰された蚊などです。他には色つきのものは心、妖精、裏の世界(虹色のぐにゃぐにゃした空間)などです。さらにその前には、レストレスレッグス症候群や甲状腺がんや1日に30回以上排尿するなどといったこともありました。それらも本当にキツかった。排尿は夜中にまで及び、夜中にピークを迎え、絞り出されるような不快感と痛みの中で息を荒くし家の廊下に倒れ込んだくらいでした。
追記
・心のブラックホールの発現にはもう一つの要因があります。それは元カノの「ある」を確認でき「ない」状態であること。それによってさらに「ない」に対する病的な執着心が増す。僕はこの長年の執着心をある方法で決着をつけ、落ち着き、そして再燃し、そしてまたしばらくして落ち着きました。その時僕は元カノには会わず、決着をつけました。その件に関しては結果的に元カノに多大な迷惑をかけました。正確には多くはなく、一つですがその一つがものすごい大きいといった感じです。ただその方法しかその執着心を消す手段がありませんでした。元カノには会っていません。迷いに迷いましたが、僕の意思とは関係なく引き込まれる異常すぎる執着心に耐え、綺麗に終わらせました。今ではその方法に恥を感じています。ただその時は妄想の中にいたのもあり、それ以外は考えれませんでした。犯罪者のような執着心とは違います。それをはるかに超えています。深く深く深く深くどこまでも深く。そして今、長年逃れることのできなかった彼女に対する強烈で不可避な執着心は幸いにもほぼ消えました。本当に良かった。本当に。本当に助かった。記憶に関しては今でもフラッシュバックしてその度にヘコみます。
・冒頭で気持ちは脳によるものと話しましたが、脳から心に事象が発展したとき、脳と心が同時に起きていると感じる点から気持ちは心も含めると言えます。つまり、気持ちは脳によるものでありながら、脳と心を合わせたものも気持ちと呼べます。また後者が一般的に解釈されている気持ちというものに当たるでしょう。当たります。
夢について
夢日記をつけ、妄想を経験し、そして至った答えは、夢は単なる思考の整理であるということ。あくまで僕の結論ということにしておきたい。起きている時の思考、想像、不安、恐怖、経験、情報、知識、欲などバラバラになっているものを睡眠時に整理するその過程で脳の想像力が働き夢(物語)を見る。ちぐはぐな夢も見る。それは思考の整理でしかありません。その延長に予知などがありますが、これも脳がいろいろな情報を紡いで予想して、たまたま当たるだけです。もしくはその予知と事実を無意識にか意識的にか近づけて、あたかも予知が起きたように感じるだけだと思います。原理としては起きているときに何かを予測するのと同じです。そのため人生が薄っぺらい人は薄っぺらい夢しか見ない。現実的な物語しか見ない。過去の僕の夢は歪んではいましたが多彩でした。今の僕の夢は全て現実と同じです。最近は言うほど浅くもないと思います。現実的な夢しか見ないのは人が想像して生み出すものに対して一切の恐怖がなくなったからです。いろいろな情報があればあるだけ、想いが強ければ強いだけ夢は良くも悪くもバラエティと深みを増します。ただし、夢は単なる思考の整理だと思わない方がロマンチックです。こう言う僕も豊かな人生を送るにはそちらを推奨します。
僕は夢にもいろいろな形で散々苦しめられてきました。精神状態が異常で危険な時にこんな夢を見ました。マンホールの下、僕がいる。暗い。上には太陽の光の中人々が歩いて通っていく。僕の声は届かない。僕はそこから地上に出ることができない。一生。この夢を見た後の僕は強烈な恐怖と心の異常を体験し、苦しむ。怯える。それがしばらく毎日続いた。普通の悪夢のように起きたら終わるのではなく、起きてもその苦しみが続くのです。障害でコミュニケーション能力を失われた僕は人に社会に適応できず、甲状腺の手術の時に声がなくなってしまえばいいのにと強く思いました。そうすればコミュニケーションで中途半端に困ることはないからです。
科学的見解
僕は精神障害者でです。紙面上では統合失調症です。脳のネットワークをまとめることが困難で社会的能力、コミュニケーション能力、運動能力、記憶力など様々な能力に制限がかかる病気です。ただ僕は他の統合失調症の方とは異なると思います。というよりそう強く感じてきて今に至っています。心を知る様々な体験(心のブラックホール以外)は僕が自分で脳の神経伝達を統合しようと独学で、つまり自己流で努力し、精神を追い込んだ結果の先にある現象です。努力の結果ではありません。その結果の先の現象です。つまり、そんなことが起きるなんて全く予想していなかったということです。そのため僕が体験したことは全て神経伝達(電気的なもの)における不具合だと結論づける見方も可能です。心を生み出すのも神経伝達の結果ということです。しかしどちらにせよ、僕が体験した事実は変わらない。一つ確かなことは、脳は心ではない。心は心です。脳とどういった関係があるにせよ、心の場所は脳ではない。ちなみに、僕が精神を統合しようと行ったことは演技でです。演技とは人間をやること。その演技の中で不具合が起きればそこをいかに修正するかを過集中に取り組みました。そして結局統合できないという結論に至っています。
脳は人によって違いますが、心に違いはありません。心はもっと単純なもの、現象、結果です。また何度か「宇宙」と書いたと思いますが、今の僕は心が宇宙と繋がっているとは思っていません。あくまで僕という個(物体)が脳の回路の異常によって体験する現象だと思っています。ただ、心と宇宙に関係性はないと思いますが(心が宇宙のようだということに関してはそのように形容することに対して否定はしません)、体は宇宙と関係を持っていると思います。例えば、引力、月の満ち欠けなどです。もちろん太陽光とかは当然の話なので割愛します。現に僕は体の異常を経験していたとき、例えば満月に向かって排尿の回数が増え、間隔が短くなっていき、その後集束していきました。妊婦さんにも月の満ち欠けが関係していると統計で出ています。だから僕はその点は否定しません。関係がある場合とない場合があると考えています。
さいごに
結果的に人生を、未来を、時間を、繋がりを、自分の能力と才能と性格の全てを犠牲にして(漫画的な言い方をすれば、あらゆる人間力を封印されて)、そして様々な無限地獄と引き換えに体験した心(そうゆうことにしないと僕の人生の全てが否定されてしまう)。その体験から言えるのは、魂はない。神もいない。それらは全て人間の想像力によるものであるということ。あくまで僕の至った結論です。神や魂に対する恐怖はやはり人間の想像力に強く起因します。しかし、僕は神や魂を病的に信じ込んでいた時期がありました。誇大妄想(ただ誇大妄想を抱いたのでは全くなく、あくまで論理的にと言っておきたい)に囚われていた頃の一時期。そこからいろいろ思考と経験を重ね、苦しみ、自分の中での確かな証拠とともにその結論に至っています。この心の体験談の趣旨に添わないと思うのであまり多くは語りませんが、人よりも神を信じ、人よりも神に喧嘩を売り、そして最後は神にひざまずいたいろいろな過程を経て、全て否定され何もかもどうでもよくなり、かつ前述の通り精神状態が普通ではない状態の中にあった時、浅草寺で仏に向かい「ファ◯ク」と言ったこともあります。まっすぐ生きてきたのにあまりに意味不明な異常が続いたのでそんな言葉を吐いた。でも何もなかった。何もなかった。正直もう一度する必要はありませんが、またやれと言われたら何度でもやれます。ただ今の僕にはそんなことする気持ちはありません。もう神もお化けも全く怖くない。その恐怖は人間が自分で作り出したものに過ぎないからです。しかし、しかしです。魂や神というものが本当か否かは別にして、何かを強く信じることは信念となり、人を強くします。弱さから救けます。可能性が広がります。そしてそれを目標として自身を鍛えることには具体的な効果があり、その想像力はいろんなかたちで人生を豊かにします。またそれに関わる儀式は美しいと思っています。意味がある意味がないというものではなく、それらは人生における一種の娯楽とも言えるでしょう。僕は文化を否定しません。今の僕でも辛いときは神様と言いたくなるものです。
僕は断言します。脳がなければ心はない。いや、現状では心は起きないと言った方が正確でしょうか。ただし、脳があれば心は起きるとは言っていません。今、僕が言えるのは感情を持つことのできる脳が心をつくりだすということです。
これは考えではなく、体験談です。
※小さな子供に前世の記憶があるという事例についてはここでは論外なので触れなません。
拝読ありがとうございました。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?

著者のMori Aidanさんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます