私が「自由」を求めるワケ①

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 初めまして、

「ふり〜だむライフコーチ」の
「ふり〜だむKayo」です。

ここでは、
私が「自由」を求める様に
なったワケを、
今までの人生をふり返る事で、
数回に渡ってアナタにお伝えしたいと
思います。

私が生まれたのは、
1967年8月20日。
鹿児島県の隼人町にある病院だそうです。
母子手帳など見た事も無いので、
正確な時間はわかりません。

私の一番古い記憶は、
多分3歳くらいの時の事です。
現在50歳ですので、
ウロ憶えで正確ではないかもしれませんが、
鹿児島県の種子島に住んでいた時の
エピソードです。

3歳の私は、
2歳年上の兄と一緒に保育園に
通っていました。
ある日、
種子島なのに雪が降り、
途中退園になったのですが、
親は迎えに来ず、
兄に手を引かれて二人きりで
帰った光景が一番古い記憶です。

同じく3歳の時に母は私たち兄妹を捨て、
私たちは父に連れられ、種子島を出て車で
流浪の旅を始めました。
私には母に甘えた記憶が一切無く、
当時から顔もよく憶えていませんでした。
幼少の頃に受けなければいけない予防接種
なども受けておらず、
幼少時の私は病気になる事で免疫力を
つけてきました。
歯磨きの習慣も教えられなかったので
虫歯だらけでした。
現在の歯並びの悪さも、幼少期になんの
メンテナンスもしていなかったツケだと、
親を恨みました。

最近になって聞いた話ですが、
私の赤ん坊の頃は天井から哺乳瓶を吊るして、
それを自分で飲む様にしており、
いつもほったらかし状態だったという事を
父に聞きました。

2歳の頃、
あまりにもほったらかしにされ、
泣き叫んでも泣き叫んでもほったらかしにされ、
とうとう泣きすぎで脱腸になり、
手術したそうです。

しばらく流浪の旅を続けた後、
広島の小さなアパートを借り、
3人で住み始めました。

父は仕事をしなければなりませんので、
同じアパートの住人の家に日替わりでお邪魔して
面倒を見てもらっていました。

しばらくして、
あるお姉さんがちょくちょく
遊びに来る様になりました。
お姉さんは東京からたまたま遊びに来ていて、
父と知り合ったそうです。
いわゆるナンパというやつですね。

父は、
自分の仕事が自由に出来る様に女手が
欲しかったそうで、
色んな人に子守を頼んでいたそうです。

私は憶えていないのですが、
そのお姉さんが
新幹線で東京に帰る時、
私は「帰らないで〜、帰らないで〜」
と泣きじゃくって、
とても切なくなったらしいです。

おそらく、
私をとても可愛がってくれた
からなのでしょう。
母と別れる時は、
泣かなかったらしいですから。

4歳の春、
私は幼稚園へ兄は小学校へ入りました。
父の帰りが遅い時は、
兄妹でよくアパートの階段下で、
暗くなるまで父の帰りを待っていました。

お姉さんが色々な本を買ってくれたので、
家でお留守番の時は本を読む事が
多くなりました。

ディズニーの「バンビ」「おしゃれキャット」、
そして大のお気に入りの世界各国のお話を集めた
全16巻くらいの物語集。

「日本のお話」「アメリカのお話」
「フランスのお話」「中国のお話」など、
国ごとに分かれていて、
それぞれ10話くらいずつはあったと思います。

とってもお気に入りで、
大きくなってもたまに取り出して読むほどでした。

それぞれの国によって、
物の考え方や風習・文章の雰囲気などが
違うのが面白く、
私のその国のイメージは

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