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私が自由を求めるワケ④

Image by Olia Gozha

高校2年の12月の初め、

私達家族にショッキングな出来事が訪れました。



所属している卓球部で、今度行われる県大会に

私も出場できると先輩から言われ、

ドキドキするけど嬉しい心持ちで家に帰った私は、

「明日か明後日には東京に行かなくてはならない。」

と、聞かされました。


最初は全く意味がわかりませんでした。


聞くと、

父が連帯保証人になっていた養豚業者が倒産し、

その借金を父が払わなくてはならなかったのですが、

もともと我が家も商売を失敗し、

子供に進学をさせられないほどの家庭です。

それを返せるアテなどありませんでした。


夜逃げするしかない・・・。


父の兄姉が鹿児島に何人かいましたが、

そこはおそらく追手がくるだろうとの事。


なので、鹿児島から遠く離れた母の実家のある

東京に逃げようという事になったのです。


せっかく、県大会に出られるチャンスなのに!


でも、それどころではありません。


翌日、学校や周りの友達に、

父の仕事の都合で急遽引越しをする事になった。

行き先は告げられない(追手にバレるので)

とだけ言い残し、

その次の日には、

なるべくお金をかけない為に、

宮崎から船に乗って東京に向かったのでした。


東京で居候をさせてもらったのは、

母の兄の家でした。


年の近い従弟妹が二人おり、

皆さんとても良くしてくれましたが、

4畳半で家族4人の寝泊まりは

文字通り肩身の狭い思いでした。


引越し荷物はキチンと整理できる

余裕などなかったので、

どの箱に何が入っているかわからない状態で、

他にも2人居る母の姉の家にも分散して

置かせてもらいました。


食事や入浴などはさせてもらえましたが、

さすがに家族4人分の洗濯物まで出す事は出来ず、

母と二人でコインランドリーに通う日々が続きました。



何よりも真っ先にしなければならない事、

それは私を受け入れてくれる高校を探す事でした。


なるべくお金がかからない、

公立の歩いて通える場所で探すしかありませんでした。


いくつかの高校に頭を下げてお願いに行きましたが、

学年途中の転入は受け入れていないと断られ、

何校かまわって、ようやく1つの高校が、

試験に合格すれば3学期から受け入れても良い、

と言われ、

二度目の高校受験をたった一人で受けました。


運よく入る事は出来ましたが、

12月のほぼ1ヶ月は学校を休んでしまいましたので、

単位が足りなくてこのままでは進級できない、

と言われ、3学期の間は放課後、補修授業を受けました。

また卒業する為には3年生の選択科目で

単位が足りていない科目を選ばなくてはいけない、

と言われ、自分では絶対選ばない科目を

選択せざるを得ませんでした。


その後は、学費や新しい制服・教科書をはじめ、

自分の物は全て自分で稼がなくてはなりませんでした。



高校に入って部活動を始めてから食欲旺盛になっていた私は、

中学時代よりあっという間に10kg程体重が増えていました。


おじさんの家の食事はカロリー高めのご馳走が多く、

常に甘いお菓子がたくさんありました。

その時はもう部活動をしていませんでしたが、

食欲だけは旺盛で、

あっという間に更に10kg程体重が増えました。


着れるサイズの洋服が無くなった私は、

仕方なく男物を着る様になっていました。


男物を着た大柄でショートカットの私は、

よく男の人に間違われました。


度の強いメガネのせいで、

目は細く小さくなっていました。


典型的なブスでした。


コンプレックスの塊で自己評価の低い私が

出来上がりました。



年が明けて、

私達は新居に引越しました。


普通の大きさの一戸建てを

1階と2階に分けて貸し出していた

2階部分に私達家族は入居しました。


6畳の和室が2間、3畳ほどのキッチンにトイレ。

お風呂はベランダにむき出しのまま置かれた、

1畳ほどの大きさのユニットバス。

脱衣室などない和室の部屋で服を脱ぎ、

ベランダの窓を開けて、お風呂に入るのです。

追い炊き無しの北向きのベランダに置かれた

その場所はとても寒く、

でも、居候の居心地の悪さが無いのが救いでした。



それからは学校とバイトの日々でした。


たまたま入った高校でしたが、とても良い学校で、

友達や先生に恵まれ、楽しい学校生活を送れました。

最初はこんなブスでコンプレックスだらけの私を

受け入れてもらえるかどうかが不安でしたが、

皆暖かく迎え入れてくれ、

学校で淋しい思いをする事はありませんでした。



その後当然進学出来るハズもなく就職しましたが、

就職先も父の指定した場所でした。


当時住んでいた都内で職場を決めたのに、

またもや入社式の3日前に千葉に引っ越す事になり、

ほとほと親の身勝手さにあきれ返りました。



会社を決める際、

何箇所か応募をしましたが、

典型的なブスでコンプレックスだらけの私は、

試験すら受けさせてもらえない事も多く、

門前払いをされる事で更にコンプレックスを

増幅させていきました。


しかし、ある大手の会社は見た目で私を判断せず、

キチンと入社試験を受けさせてくれました。


42人中トップの成績でその会社に入社した私は、

その会社の中でもエリートの部署に配属されました。

運よく、

父が選んでくれたその会社はとても良い会社でした。


課内の人達は、私を見た目で判断せずに、

一人の人間として誠実に接してくれました。

キチンと教育を受けた人達に囲まれ、

私は色んな事を吸収して行きました。


後で聞いた話ですが、

他の課では、

なんであんな冴えないブスを入社させたんだ!

という陰口を叩かれていたそうです。



そんな時、父が倒れて入院しました。

働いたお金はほとんど家計に入れました。


世の中はバブルで浮かれていましたが、

私には別世界の出来事でした。


親のお金で大学に行かせてもらって、

ブランド品を持ち、海外旅行に行く人達は、

自分とは人種が違うのだと思っていました。



どんなに残業をして帰っても

家事をするのは当たり前でした。


土日に出かけて私が家事をしていないと、

途端に母の機嫌が悪くなり、

そこから1ヶ月ほど口を聞いてもらえない事も

よくあることでした。


父は退院しても、

しばらくは体調が優れない期間が続き、

仕事ができずに家に居る事が多くなりました。


そのストレスからか、

父の疳に触れる事があれば殴られ、

翌日顔を腫らして会社に行き、

皆に驚かれる事も数回ありました。


夫婦仲も悪く、母は口癖の様に

「離婚する」と言っていました。

(いまだにしていませんが)

2〜3ヶ月の間、

夫婦の会話が全く無い日も珍しく無く、

その間は息がつまりそうでした。



いつの頃からか私は、

ストレスから暴食をする様になっていました。

ますます醜くなって行く恐怖に怯えながらも、

やめられませんでした。


父は私を「牛かと思ったら、お前か!」と嘲り、

人の目には私はその様に映っているのかと、

ますますコンプレックスを募らせて行きました。


これ以上太って醜くなるのは嫌だ!


そして、私は吐く事を覚えました。




つづきは、また次回へ。





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