私が入学した中学が先進的だった

私が中学に入学する時代は、いわゆる「校内暴力」の時でした。

地元の中学は、荒れていて、トイレにはタバコが捨ててあったり、廊下ではバイクが走っていたり、ガラスも割られている状態だったそうです。(尾崎豊のイメージ)

私は、何の疑いもなく、その地元の中学に行くつもりでした。

ところが・・・

ここで、「スーパーお母さんスキル発動」です。
(亡くなった母は、たくさんの「スーパー列伝」を残してくれました。また書きますね(^^)/☆)

秋頃から、母は水面下で活動していたようなのですが、私にはわかっていませんでした。

そして、年末です。

母: 「景子、年明けに蔵前の中学に校長先生に会いに行くからね。」
私: 「???」「え?え?」

んー、そういえば、秋頃、ご近所の区議会議員さんに会っていた?その娘さんも地元の中学ではないところに行っていた? 謎。

年が明けて、1月4日だったでしょうか。

身支度を整えて、母と蔵前に向かいました。当時は、まだ蔵前に国技館があったかな。

駅から歩いていくと中学が見えて。そこが、私が通うことになる公立中学でした。

校長先生、母と私で面談をしました。

何を話したかは覚えていませんが、校長先生に母と私を見てもらったのだと思います。

人物的に問題ないかなど。

あとからわかったのですが、この公立中学は、いわゆる「越境入学」を認めていて、都内の他の地域や千葉県、埼玉県からも生徒を受け入れていたのでした。(裏口入学ではありません)

校長先生との面談が無事に終わり、また私は元の生活に戻りました。んー、よくわからないな。

2月に、母は台東区の教育委員会に呼ばれていました。他のお母さんもたくさんいたようです。
当時の仕組みがどうだったのかは全くわかりませんが、どうやら、教育委員会の人に、子どもを入学させる理由の作文が必要だったようです。

「母が台東区に働くため」
「PTAには積極的に参画する」
「きちんとした教育を受けさせたい」

などの内容を入れて文章を作成。それを教育委員会の方に見てもらい、NGだったら何度も書き直し。OKであれば、通過でした。

そして3月。そろそろ卒業の時期になり、中学がどこという話題になっている頃です。
当時は、私立中学や区域外の中学に行く人は、ほとんどいませんでした。

母:「景子。どこの中学に行くかは、みんなには内緒にしてて。」
私:「はい。」

子どもながら、何かを察知し、母の言うことは絶対。

近所の友達にもあいまいにはぐらかしました。

それでいよいよ蔵前の中学に入学することが決定してから、友達に話すことが許されました。

友達も友達のお母さんも呆気にとられていました。そのぐらいめずらしいことでした。

同じ小学校から、もう1人同じ中学に行きました。


その中学は、正確な言い方はわからないのですが、「新しいことを積極的に導入していく」中学でした。

自主性も重んじられていました。

よく覚えているのは、遠足などの外出の時です。

学校から行くのではなく、集合は、現地集合でした。そしてグループごとに自由行動。

中学生なのに、大人のような「冷静さ」を求められる学校でした。

だからといって、暗いというような雰囲気はありませんでした。

ただし校則は厳しかったです。

しかし、地元の中学のような非行は一切ありませんでした。


母は、生前、

「偏差値の低い学校へ行ったら、たとえ1番でもそれなり。」
「偏差値の高い学校へ行ったほうがもまれる。もまれたほうがよい。」

と、ごく普通の人だったのにステキな教育哲学をもっていました。

母は、私のコントロールも上手でした。

母:「景子。成績が悪いと中学を追い出されちゃうよ。」

今から思うと、そんなことは絶対にありえないのに、当時の私は必死でした。

「そうか。がんばらないと追い出されちゃうんだ。がんばろう。」

純粋だった私はマジメでしたね。疑うことなく、けっこうがんばりました。

授業や試験もそこそこ難しかったと思います。

臨海学校や修学旅行などには、実行委員会を生徒が運営し、いろいろなことを決めました。

修学旅行の行動は、もちろん自由行動でした。

また当時、台東区では、土曜の午後に区内中学校の各2名を一同に理科室に集め、ふだんではできないようなとてもおもしろい実験をさせてくれました。(当時、理科が好きだったこともあり、行かせてもらえました。)すごく貴重な経験でした。

「化石をきれいに見せるためのクリーニング」
「血液反応(ルミナール反応)がわかる実験」などなど。ワクワクする時間でした。


中2の夏休み明けからです。同級生の挙動が変わってきました。すごく家庭科や技術科をがんばるようになってきていたり。

そうです。「内申点」を意識しての行動です。ボランティアにも積極的に参加します。

学習塾へ行く子も増えました。

またまたそこで、純粋な私は、周りを見ても、「へー」という感じでした。淡々。マイペース。

母も約束通り、PTAをがんばっていました。
毎朝、私に手を振って笑顔で見送りをしてくれました。感謝です。


結局、私は塾に通わずじまい。ほとんど学校の勉強だけで、無事に高校に合格できました。

高校受験では、再び、「スーパーお母さんスキル」が発動したのです。


思考の柔軟性のない私は、高校は、台東区の学生が行く公立高校に行くものだと思っていました。

ところが、母は、葛飾区の学区に戻したのです。

理由は、「台東区の学区のトップは、元女子校だから。葛飾区の学区のトップは、元男子校だから。」

今から思うと私のことを誰よりもすごく考えてくれていました。

スイッチングがすごい。

こうして、無事に都立元男子校に合格できたのでした。



母は、もう中学に私を入れる時から、先を読んでいたのでしょうね。どうしていくか。

私は敷かれたレールに乗っていっただけ。このあとの学生生活も母がレールを敷いてくれました。

(社会人になって、私が敷かれたレールではなく、自分で歩むようになった時に人生の波乱が幕を開けます。)


あの中学に行けたことは、本当に貴重な経験でした。
そうでなければ、今の私はなかったと思います。別の道を選んでいたと思います。

何よりも優先して、私や弟のことを考えてくれたことに感謝です。
お母さん、ありがとう。


ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。​

私の高校の授業




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