30歳を目前にして、自分が天涯孤独であることを受け入れる話
幸子、28歳、独身。孤独死の文字が浮かび上がる。
きっと私は、結婚などできやしない。
そう思うのは、「親の離婚を見てきたから」という理由だけではないだろう。
それでも、もしも、と思わずにはいられない。
28歳。年下がどんどん結婚していく中で、思うのは、ただひとつの妄想だった。
「もしも、普通の家庭に生まれていたら」
そうしたら、私は、世間に身を染め、逸脱することなく、誰かと恋愛を育み、結婚をしていただろう、と。
私が育った家庭は、およそ一般的なものではなかった。
そうでなければ、どうして今、私は天涯孤独の身になっているのだろうか。
話は、14年前にまで遡る。
中学3年生。気づくと、弟の姿が消えていた。
それはある日突然だった。
あまりにも突然だったので、私は、哀しむこともなく、かといって誰かを糾弾することもなかった。
弟が一人消えたにもかかわらず、私はそれをただ「いなくなった」としか感じていなかったのだ。
当時、私は5人家族で一つの家に住んでいた。
3階建てで、部屋数は20は越え、各階にトイレが一つはついていて、さらには屋上までついているような大層な家だった。
そこに、父・母・私・長男・次男の5人が住んでいた。
最初にいなくなったのは、父だった。
次にいなくなったのは、次男の方だった。
なんのことはない、正式に離婚が成立し、父は次男を連れて出ていっただけである。
当時の私は中学3年生。
長男にいたっては中学1年生だった。
思春期真っ只中において、親の離婚に加えて、弟と引き離されるというのは、ショッキングな出来事に分類されるだろう。
だというのに、私も長男も、家族がいなくなったという事実に、大してなにも思ってはいなかったのだ。
朝起きると、鏡がこなごなに割れてしまっているような家だったからだろうか。
一度キレると手が付けられなくなり、子供の髪を掴み上げ、階段から突き落とそうとするような人が父だったからだろうか。
割れた茶碗の隣に座りこみ、泣き喚く母の声が日常茶飯事だったからだろうか。
それとも、耳の聞こえない次男を、心のどこかで宇宙人のように思っていたからだろうか。
きっと、そのすべてだったのだ。
私は、暴力的な父がいなくなったことに安心した。
聾唖者だからと、必要以上に過保護になってしまい、常に心配の種だった次男がいなくなったことに安心した。
祖父に反対されたにもかかわらず、父と結婚をし、自責と疲労とを蓄積していた母が。
階段から転げ落ちたことで難聴が発覚した次男に、自責と疲労とを蓄積していた母が、ようやく解放されることに安心した。
5人で過ごしていた大層な家は、3人で住む家となった。
そうして次は母がいなくなる。高校2年のことだった。
母に男がいる。
そのことに勘付いたのは、私の方が先で、そのことを糾弾したのは、長男の方が先だった。
「ッ二度とあのオトコを家に入れるな!」
これは私が母から直接聞いた話である。
とある朝、長男は母をそう怒鳴りつけたらしい。
らしい、というのは、その日、私はすでに家を出て、学校に向かっていたからで、そのすべてを聞かされたのは、翌日のことだった。
母は言う。
「怒られちゃった」と。
哀しむような声色で告げられた言葉に、詳細を知らぬ私は、首を傾げるばかりだった。
「誰に」
「ヒロキに」
「なんかしたん」
「したというか、バレたというか」
「……そら……、……怒鳴るやろ」
バレたという科白が、すぐさま、怒られたという話に繋がった。
驚くべきことに、そのときの私は、たった2往復の会話だけで、すべてを悟ってしまったのだ。
当時、長男は中学3年だった。
思春期真っ只中。
私が親の離婚に直面したときの比ではなかっただろう。
見知らぬ男が、家に入り込み、母と一緒の布団で寝ていたのだから。
「そら、怒鳴るわ」
私はもう一度呟いて、驚いたような顔をする母と目を合わせた。
「なんの話かわかんの」
「なにが。……てか、あれやで、こないだ玄関におったやろ。なんか人おんなって思ってたけど、隠れてるみたいやったからそっとしといただけやで」
「……そ」
母は、そっか、とも、そうなんや、とも言えない様子で、視線を落とした。
記憶の中を振り返っていたのか、それとも出鼻をくじかれたことで次の言葉を探していたのか。
母は私があまりにも明るい声で、事の詳細を受け入れるものだから、気を緩めたのだろう。
明るい声色で、まるで笑い話のように口にした。
「家に入れるなって、出てけって、すごい剣幕で怒鳴ったんや」
その結果どうなったか。
今思い出しても笑えるのは、あの女らしいなと皮肉たっぷりに思うからだろう。
母は男共々、家を出ていったのだった。
5人暮らしの家で、2人暮らしがはじまった。
母のいなくなった家で、長男との2人暮らしがはじまった。
当時、私は高校2年で、長男は中学3年だった。
諸々の支払いは母か、はたまた祖父のものか、口座の引き落としだったため、光熱費や携帯代、学費の支払いに苦しめられることはなかった。
けれど食費の問題だけはどうにもならない。
母がいなくなってから、最初の頃は、ポストに千円札が入れられる日々だった。
家の中にまで入らずに、ただポストにお金を入れていく母。
「お金入れておいたし」
メールで届くのはその一文だけで、母は長男の科白通り「家に入らない」ことを守っているのだと馬鹿らしくなってしまった。
どうしてその一言を真に受けるのだろう。
いや、真に受けたとしても、どうして彼女は家から出ていくことを良しとしたのだろう。
これ幸いとでも思ったのか。
彼女もまた疲れ切って、逃避行でもしたかったのか。
私ももう高校生だから大丈夫だとでも思ったのか。
長男の進学も決まったから問題はないとでも思ったのか。
だから彼女は、母親を辞めたとでも言うつもりなのだろうか。
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