30歳を目前にして、自分が天涯孤独であることを受け入れる話
数年後、長男は言った。「あの家はおかしかった」と。
「やっぱりおかしかったよな」
がやがやと目の前の人間の声を拾うのさえやっとな喧騒の中、ビールジョッキを置いた長男は、数年ぶりの対面に笑いながらそう言った。
私の「うちの家、普通とちゃうかったやろ」という科白に対する返答だ。
長男とのさし飲みは、彼の内定祝いを兼ねてのものだった。
3年ぶりの長男からの連絡。
「内定出た」というメールに、私は大いに喜んだ。
その勢いのまま、実現したのがこのさし飲みだった。
長男とのさし飲みは、それが最初で最後のものとなる。
「やっぱりおかしかったよな」
彼は笑いながら言った。
「だっておれ、人に家庭環境いうとき、めっちゃ捏造しまくってたで」
「あるあるやなそれ。あれやろ、両親共働きやねんとかそういうやつ」
「そうそう。夜も遅いし、朝は早いから、あんま会話しいひんねんとか」
「会話つうか、そもそも住んでへんっていうな」
「ほんまそれ。てか小遣いとかもめっちゃごまかしてたし」
「なにそれ?」
「え、やから、じいちゃんとこにお金もらいにいくやん」
「あ~、それ、あれ、うちもやってた。水増しするやつやろ、ほんまは千円で済むのに」
「そんときは部活でいるもんあるからって1万もらってたな」
「言うていい?うちもその嘘使ってた」
きっと、そんなふうに笑いながら邂逅できたのは、彼が成人を越え、社会人になろうというときで、私が当時のことを客観視できるまでになったからだ。
でなければ、どうして禁句でもあるはずの「家庭環境」について、笑いながら振り返ることができるだろう。
「もし、さ。普通の家庭環境やったら、もっと違ったと思うで」
ハイボールからジントニックに切り替えた私は、コリンズグラスを置いてから、徐にそう切り出した。
「人に言えへん。育児放棄されてたことも、嘘つかなって思ってた」
「姉ちゃん死んだって、よう言わんわ」
「そら本人もよう言うてへんて」
「言うてたら引く」
「ほら」
「なに?」
「引くねんて、普通。やし、嘘ばっかになるやん」
ほんまは、言えるような人がほしいねんけどな。
あきらめたように笑う私を、長男はどんな顔で見ていたのだろう。
今となっては、思い出すことも叶わないでいる。
そうして天涯孤独は完成する。
6月。
弟が結婚した。
式に出てほしいと連絡がきたのは、3月のことだった。
私はそれにノーと返す。
親戚一同が集まることは目に見えていたからだ。
その場にいて、自分が苦しくならないとは思えない。
その頃の私は、すでに親戚一同と縁を切ったあとだった。
実母である彼女とは長男とのさし飲み後、メールひとつで絶縁の願いを出し、すんなりと受理された。
母方の祖父母とは私が自殺未遂をしたことですでに絶縁を言い渡されていた。
実父の連絡先は知らず、次男に関してはどこに住んでいるのかさえ知らないほど。
唯一、縁をつなげていたのが長男だ。
3月の頭。
結婚をするのだと連絡をよこしてきた長男に、私は精一杯、祝いの言葉を並べ、同時に、式への出席は仕事を理由に断った。
それでも彼のほうは諦めきれなかったらしい。
出席できないのなら、せめて会ってほしいと、結婚相手と3人での食事を提案してきた。
さすがの私でも、これには困ってしまう。
結局、これでもかというほどの結婚祝いを揃え、さらに金を包むと、指定された食事会の場へ赴いたのだった。
それが5月の出来事だ。
そうして彼は、6月。
ついに結婚することとなった。
「ね。昔話とか、家庭環境の話、聞いた?」
言っていないならそれまでだと思った。
私も言うことはないし、長男が言っていないのなら、それでいいとさえ思っていた。
けれど彼女は言う。
「家に2人で住んでいたんですよね」
聞きました。
彼女は同情するでもなく、ただ事実をそのまま口にしているふうだった。
その隣で、長男が口を開く。
「全部、言ってるから」
いつ、どこで、どんなふうに。
そんな野暮なことは聞けなかった。
どうしたら言える気になるのか。
どうしたら真実を話せるようになるのか。
そんな愚鈍なことは聞きだせるはずもなかった。
だから彼は結婚しようとしているのだろう。
「弟を、よろしくお願いします」
私にできることは、ただ頭を下げ、祝福することだけだった。
そうして私は、携帯を変えた。
天涯孤独が完成する。
そのことを自覚したのは、変な話が、それから3ヵ月後のことだった。
30歳を目前にして、天涯孤独であることを自覚した話。
今回、こんなふうに自分の半生をつづろうと思ったのは、弟の結婚がきっかけだったわけではないのだ。
私の勤めている会社には、毎朝、朝礼というものが存在する。
その朝礼では、およそ3分間のディスカッションタイムというものがあった。
テーマは日ごと変わっていき、経営理念・方針に基づくものであったり、好きなものや趣味に関することなど、そのジャンルは多岐にわたる。
「それでは、次に、ディスカッションタイムに移ります」
朝礼の司会役が声を張った。
今日はなにを話し合わされるのだろう。
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