空へ届けるフラダンス
楽しく生きましょう

2016年の2月
父が旅立ってから1ヶ月。車椅子(ストレッチャー)の弟をなんとか連れて、お墓まいりに行った。
お墓を綺麗にした後、母はふと空を見上げた。そして、私たち兄弟に放った言葉
「楽しく生きましょう」
その顔は優しく、そしてとても力強かった。2月にしては天気がよく、その時の太陽が母を明るくてらしていた。
それからしばらく経ち、チアリーダーの私は、いつものようにチアのイベントを大成功に終え、帰宅した。

イベントでとても楽しかった様子を伝えると、母が急に立ち上がって一言。
「ママはフラダンスをやる!」
そんな話いままで聞いたこともなく、いきなりの発言にビックリしていると、母はすぐにお教室を検索しはじめた。
教室に通いはじめてから毎日のように家では発表会だった。フラダンスの曲を、きっと私は1000回以上聞いた。

地元で小さなイベントが開かれることになり、母はそこでデビューすることになった。私はチアの先輩とステージを見に行った。
あんなに緊張満点の母の顔は初めて見た。
帰り、近くのレストランで一緒に食事をした。
「ママね、もう20年くらい前から、フラダンスがしたかったのよ」
母が、ぽろっと言った。
その時、20年前というと、私は7歳。弟は4歳。そんな話、1ミリも聞いたことなかった。
産まれて1歳で重い脳性麻痺になった弟。はじめての連続の毎日で、家が本当にバタバタしていた頃だ。
「自分のどんなことを犠牲にしても、我が子を、家族を守る。」
多分、ずーーっとそう思ってきたのだと思う。
母の口から、あれがしたいこれがしたいとは、あまり聞いたことがなかった。
自分が、心から楽しいと思える1日を過ごすこと。
多分、それが、今日という1日を誰よりも生きたかった父への1番の供養だと思ったのではないだろうか。
だからこそ、ずっとやってみたかったフラダンスを始めたのかな。
母が行っているフラダンス教室の2年に一度開かれる大きな発表会に出演することになった。
その大きな舞台に出演すると決めてからさらに練習に熱が入っていた。
より美しく見せたいからと、体重を2ヶ月でなんと10キロも落とした。
私は家で撮影係となり、母は自分の踊っている姿を見ては、よりキレイに見えるようにと研究に研究を重ねた。
発表会当日
ステージでの母は、すごくイキイキしていて、すごく、すごく、優しい笑顔だった。
その笑顔をみて思った。
「あ、これは、父におくるフラダンスなんだ」
それが、自分のため。
自分のために行動する母をみて、私はすごく、すごく嬉しかった。
母の周りにかけつけてくれた20人近くの応援団たちも、みんなみんな、笑顔だった。
お墓の前の大きな、優しい決意を、母は今日も、実行しつづけている。

今日という日を生きたかった人がいる。
あなたも、今日という1日を、わくわく、笑顔で、一生懸命に、生きてください。
著者の松本 真奈美さんにメッセージを送る
メッセージを送る
著者の方だけが読めます