我楽田工房にいます。


本日は2018年の10月23日。なんだかこのところイベントやら新しい企画やらで忙しく、物置用に借りてしまった新しい部屋の家賃もあるので金稼ぎ仕事もゴリゴリ入ってます。平日の昼間にボランティアであちこち行ったりするので「いつ仕事してるの?」ってよく聞かれます。仕事はだいたい夜になってから始めるのですが「夜は飲んでるでしょ」って言われると返す言葉もなく・・・まぁ、どういうわけか、なんとかなっているのですよ、不思議なことに。

17:00から我楽田工房で STORYS.cafe というイベントがあるというので本郷三丁目から都バスに乗ってやってきました。我楽田工房は面白い場所で何度かイベントの際に遊びに来てるのですが、まだちょっと、というか、だいぶアウェイなんですよ江戸川橋は。実を言うと今日は「文京まちたいわ」のイベントに我楽田工房を貸してもらえないか横山さんに相談したくて様子を見に来たというのが本当の所なんだけど、横山さんSTORYS書き始めちゃったし、なんか話しかけずらいのでとりあえず自分もSTORYS書き始めました←この時点で18:00

私が地域活動のようなことを始めたのは一昨年の春頃からで、自分の事務所をコミュニティスペース的に人が集まる場所にしようとしていたんですね。で、区民センターで横山さんの話を聞いて我楽田工房をわりと目標にしたりして、いろいろなことをいろいろ試しているのですが、まだまだ道半ばというか、一応 「HONGO 22515」なんて名前を事務所につけてはみたものの、どうもスタイルを作りあぐねてもがき中の日々です。まぁ今日はちょっと目先を変えて何か一つ書いてみよう、的な。

江戸川橋というのは、私が大学を卒業した翌月にヴェルテックという会社を登記した創業の地でもあります。「卒業してすぐに会社を作るなんてすごいねぇ」とよく言われますが、会社づとめができない性格だったので仕方がなかったのですよね。今でいう発達障害だったのではないでしょうか。「決められた時間に決められた場所に居なくてはいけない」という状況に置かれることに耐えられないのです。今でもたまに「時間拘束あり」といって、決められた時間に決められた場所でする仕事を引き受けることもあるのですが、1ヶ月も続けると鬱病のようになってしまいます。

江戸川橋で会社を作って何をやっていたかというと、コンピュータを組み込んだ機器の設計や制作請負です。知り合いの知り合いとかから「こんなの作れない?」って話が振られて、作れそうなら「やります」無理そうなら「できません」という、まぁそんな感じで仕事をもらっていまして、当時はコンピュータを組み込んだ機械を家内制手工業的に作る所があまりなかったので便利につかってもらってました。30年ほど前の話です。ところがある時、ちょっと手に余る仕事を無理に引き受けてしまい、なかなかうまく仕上がらなかったことがありました。その時は運良く、同じプロジェクトの他チームも暗礁に乗り上げていて、私の担当部分は簡単なテストでOKが出てしまったんですが、ちゃんと結合テストをやっていたら動いてなかっただろうなぁあれは。それに懲りて開発の仕事を取らなくなりました。

江戸川橋から笹塚に引っ越して貯金で食いつなぎながらフラフラしていたら、ヴェルテックの会計を見てくれている税理士事務所から「遊んでるならウチを手伝いなよ」と誘われ、半年ほどアルバイト的に会計の事務仕事をしていた時期があります。複式簿記というのはよくできてますね。まだパソコンのデータベースソフトが30万円ぐらいした時期なので、会計用の専用システムは数百万ぐらいしたんじゃないでしょうか。そのシステムに伝票を入力して帳簿を出力して税理士の先生と一緒にお客さんの所に持っていって説明を聞くという、今考えたらすごい授業をお金をもらって受けていたようなものです。いまだに会社を潰さずにやっていられるのは簿記が分かっているからかも知れません。小さい会社というのは、潰れないようにやっていれば、そう簡単には潰れないものなんです。

そうこうしているうちに、パソコン通信でテクニカル・ライターの仕事を見つけて印刷会社から仕事をもらうようになりました。当時は技術が分かって文章が書ける人が少なかったので、ここでも便利に使ってもらいました。当時は1ページ8,000円ぐらいが相場だったんですけどね、300ページぐらいのマニュアルを1ヶ月で書くなんて仕事がざらにありまして、それだけで240万円ですよ!さすがにそういう仕事を毎月やっていたわけではありませんが(毎月やったら死にます)スタッフを雇って会社っぽくやっていたのはその時期ですね。学生時代は英語が苦手だったのですが、なぜか英文マニュアルの和訳は結構なスピードでこなすことができて、そこそこ儲かったのですよ。マイクロソフトも笹塚に引っ越してきたりして、稼ぎの多くの部分をマニュアルの英文和訳が占めるようになっていました。

ところがですね、機械翻訳という奴がだんだん出てきてですね、当初は英文とそれを和訳した和文のペアをデータベースに入れて同じ文章は自動的に英文を和文に入れ替えるという単純な方式だったのですが、発注元の会社でその変換をして、英文の残っているところだけを和訳するという酷い仕事が多くなってきたので翻訳も辞めてしまいました。考えてみれば、マニュアルなんて読みたいと思って読む人はほとんどいないんですよね。人に喜ばれないものを書くという仕事は不毛だよなぁ、という思いが強くなり、知り合いの勧めで筑波大学の大学院を受験したら受かったので事務所を畳んで筑波へ引っ越しました(ヴェルテック自体は畳まずに縮小)。

筑波で勉強したのは「自然言語処理」という分野です。ライターの仕事をしていると「マニュアルなんか読むより知ってる人に聞く方が早いじゃん」という話がよく耳に刺さるので、では人間の質問に答えるコンピュータ作ってやろうじゃないの、と思ったわけです。で、マニュアルをコンピュータに読ませて質問に答えるようなものを作っていたのですが、どちらかというと世間話の相槌をうつようなプログラムの方が面白いということに気がついたのですね。当時は「人工応無能」と呼ばれていたプログラムはいくつかありましたが、ユーザの入力をデータベースに入れてそのデータを元に対話するようなものはまだありませんでした。

筑波大のマスターを終わってしばらくは沖縄で暮らしてみたり、頚椎狭窄症で首の骨を切って広げるるという大きな手術を受けたりして千葉の実家で療養生活をしているうちに世間話の相手をするロボットがどうしても作りたくなってネットを検索してみると、まさに「相槌をうつロボットの研究」をしている研究室が東大にあるではないですか。業者として雇ってらえないかと研究室の先生にメールを書いて会いに行ったら筑波で私の指導教官だった先生を知っているとかであなた院試を受けなさい、ということになり大学院の入試を受けたらまた受かったのですよ。40代も半ばです。なんということでしょう。文京区に戻ってまいりました。

ただ、さすがに東大の大学院という所は簡単には研究の成果を認めるところではなく、基礎研究のようなことを地味にやっていると「そんな成果でD論が書けると思うのか」という圧力が半端なく、1年半ほど通った所で東日本大地震が起きたこともあり、ドロップアウトしてしまいました。ただ、あの時点でAppleのSiriのようなものがある程度動いていたんですよ。頑張って続けていたら今頃いいポジションを取れていたかも知れないと思うと少し悔しいですね。まぁ、今やっていることが楽しいのであの時やめて後悔はないのですが。

大学院をやめた後は部屋に籠もってJavaの本を書いたり、気晴らしに官邸前まで行って原発反対のデモに参加したり、相変わらずわけの分からない日々が続くわけですが、ある時、震災復旧のボランティアで東北まで行ってみたんですね。その時に体験した「ゲリラ側溝」と呼ばれていた活動が妙にしっくり来て、それが今につながっているのです。その時に感じたのは「お金のためではなくボランティアとして働くことの爽快感」なんですよ。「ゲリラ」というだけあって、誰に指示されるわけでもなく、人での足りてなさそうな所を勝手に手伝う方式で、疲れてサボっていても誰も文句を言いません。当たり前です。交通費や宿泊費など、身銭を切ってボランティアに参加しているのですから、誰からも文句を言われる筋合いはないのです。

今の時代は効率重視で、決められたことを決められた通りにしなければならないことが多く、少しでも勝手なことをすると文句を言われたりペナルティを課されたりと世知辛い世の中ですね。コンピュータが発達して人間に代わって仕事をする部分がどんどん増えているじゃないですか。コンピュータと競争して勝てるわけがありません。私は機械翻訳が出てきて翻訳の仕事をやめたわけですけど、それ以外の分野でも昔のようには稼げなくなった仕事はたくさんありますし今後も増えるでしょう。そろそろ「お金のために仕事をするのは当然」というパラダイムをシフトさせるべき時期に来てるのではないですかね。

というようなことを考えるようになったのが4年ぐらい前ですね。たまたま、宮崎にいる大学の時の同級生とfacebookでつながって「じゃぁ、こっちで何かやってみようよ」ということになり、年に何度か宮崎へ行っては、高齢者の生活支援や居場所づくりとか、バス停の検索システムとかネットを使っていろいろ作っているうちに文京区にの区民センターにフミコムができてそこに出入りするようになったのが冒頭にも書いた2年半前のことです。文京区に戻ってきてからは近所にほとんど知り合いがいませんでしたが6年経って晴れて区民デビューとなったわけです。

最初は区民課主催の未来カフェというイベントでした。宮崎でバスに少し関わったこともあり「B-ぐる友の会」のテーブルで文京区のコミュニティバスの話を聞き翌週入会。同じく区民課が地域活動のコーディネータを養成する講座を開くというので受講、そのOBを中心に「文京まちたいわ」というグループができてなんとなく成り行きで世話役的な立場をやっていたり、「こまじいのうちに学ぶ空き家利活用講座」を受講して「キーベース」の立ち上げに関わったり、「文京もちもち」というグループに参加して白山下の商店会のお祭りで店を出したり、認知症になっても暮らしやすい街を作るための「RUN伴」というイベントの実行委員をやったり、こうやって並べてみると結構いろいろやってますね。

更には事務所を借りているビルの5階がこの4月に空いたので、思い切ってそこを借りて自分の仕事の道具を全部5階に上げて1階をコミュニティスペースに改造中です。ここをベースに地域活動をつなげるための「文京メディア・ブリッジ」という会社も作りました。コミュニティ・スペースはその会社で運営しようと考えています。30年前に江戸川橋で起業したヴェルテックという会社はおそらく私の代で終わりになりますが、私が外れてもコミュニティ・スペースは残るようにしたいのです。小石川にミライ・ナガヤというコミュニティがあったそうなのですが、主催の黒須さんという方が亡くなって終わってしまいました。私は黒須さんにお会いする機会には恵まれませんでしたが、ミライ・ナガヤの話をいろいろな人に聞いて憧れ、勝手に心の師と仰いでいるのであります。ミライ・ナガヤのように面白い人が集まる場所を作り、自分が死んでもそれが残るようにしたいのです。

と、まぁそんなわけで、社会人になってからの30年のいろいろをえらいスピードでだらだらと書いてみました。「タケガタさんの本業は何なの?」とよく聞かれるのですが、そういう疑問にお答えするのが難しいという事情をお分かりいただけましたでしょうか。お時間もちょうどSTORY.cafeイベント終わりの21:00になりましたので、これにてお開きにしたいと思います。(横山さん読んでくれるかなー)

著者のSeiji Takegataさんに人生相談を申込む

著者のSeiji Takegataさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。