未来への二段ロケット - 絶対になりたくなかった歯科医師の道

継ぐつもりのなかった歯科医師という道

私は歯科医師をしています。ハーバード大学をはじめ、世界中で講演をさせていただいたり、国内外問わず歯科治療のルール作成にも尽力させていただきました。有難い事に、私は歯周病のガイドライン策定の委員会に数少ない臨床家として参加し、このガイドラインは、日本の厚生労働省のガイドラインにも起用されています。海外からも、ありがたい事に多数の患者さんが来院されています。
そんな私ですが、実は歯科医師になるつもりはありませんでした。
私の父も歯科医師でしたが、厳しく理不尽な父の事はずっと嫌いでしたし、世襲は親のスネをかじるようで、絶対したくないと思っていたからです。

でも、結局歯科医師になりました。そして今では、歯科医師の枠を超え、病院の再建や起業家育成などの事業にも力を入れています。ではなぜ、世襲したくないと考えていた私が、歯科医師になったのか。STORYS.JPでは、そんな私の半生をお伝えできればと思っています。

振り返れば、死を覚悟したことも何度もありました。
それでも、なんとか這い上がってこれました。

そんな自分を支えてくれたのは「辛い時こそ未来を見据える」ということ、そして、私が人生で出会った方々の教えです。もしあなたが今の状況に苦しんでいるなら、このストーリーが少しでもヒントになれば幸いです。

医療一家。厳しすぎる父への反発

私は、医療一家の長男でした。父は歯科医師、祖父は薬剤師で、曽祖父は鍼灸医。父の実家は静岡にあり、今から40年前の当時ですら築100年程の古い家。寂れた田舎で、道は舗装されていないし、周りは豚小屋やうなぎ養殖場、お茶畑ばかり。蛇の抜け殻がよく転がっていました。

家の裏にはお墓があって、そこにはご先祖様たちの名前が彫られており、さらにはまだ生きている父の名前もすでに彫られていて、赤く塗られていました。

父「将来お前もこのお墓に入るんだぞ」

父をはじめ、家族はみんな長男の私に期待していました。
歯科医師だった父は猛烈に厳しい人で、何をやっても褒めてくれることはなく、何を望んでも全てに「ダメだ」と言い放つ、理不尽極まりない人物。

小学生の頃、コツコツとお小遣いを貯めて念願のプラモデルを買おうとした時も、

父「ダメだ。贅沢だ。やめろ」

高校生の頃、自分でアルバイトしたお金で自転車やオートバイを買おうとしても、

父「ダメだ、おれが許可していない。返してこい。」


必死に勉強して、高校で学年トップクラスとなり、有名私大の工学部の推薦が決まりかけたとき

父「裏口入学するのか!?正規の受験日より先に入るのは卑怯者だ!!」

本当に理不尽極まりない父親でした。大嫌いでした。

医療一家で長男だったのもあり、家族からは父を継いで2代目の歯科医師になる事を求められましたが、私はこんなド田舎の家を継ぎたくないし、世襲なんてスネかじりな事もしたくない、ましてや、こんな父親のあとを継ぐなんてまっぴらだと思っていました。

「なんとかここを抜け出して、僕は僕の人生を自分の力で切り拓くんだ。」
それが小さい頃からの思いでした。

高校生3年生になり進路を意識するようになりましたが、
歯科医師にも親父の二代目にもなりたくない想いに、変わりはありませんでした。

遊び呆けて浪人生になり、医療系以外に進学する事だけを考えていた浪人時代。人生最初の転機が訪れたのは、そんな浪人時代に言われた父の言葉がきっかけでした。

「Aが嫌だからA以外を選ぶ。それじゃあ、何のために生きているのか、全然わからんぞ」


浪人生活を送っていたある日、父に突然呼び出されました。

父「お前はなんで勉強してるんだ! お前の人生は、なんのための人生なんだ!」

私「何なんですか!大学に行くんですよ。ただし、医療系には行きたくありません。
    あとを継ぐなんて親のスネかじりです。私は私の人生を自分の力で切り拓きます。」

父「私の事が気に入らないとか、あとを継ぐのが嫌だからとか、長男なのが嫌だからとか、そういうのは単なる反発なんだ。Aが嫌だからA以外を選ぶというのは、なんのために生きているのか全然分からん!お前は何のために生きているんだ!」

私「・・・」
父「お前はアウフヘーベンを知っているか?アウフヘーベンはヘーゲルが提唱した概念だ。AとBが対立したら、AかBが勝つのではない。Cを産むのだ!」

私「・・・」

父「そもそもお前は、私がどういう人間かわかっていない。
  お前はおれが町の歯医者をやっていると思ってるんだろう?」

私「そうじゃないんですか?」

父「違う。私は歯科医師であると同時に、科学者であり教育者でもあるんだ。」

私(何を言っているんだこの人は...。)

父「私が大学で授業をするから、一晩手伝いなさい。」

私「大学...?」

私は父に言われるがままに、スライドの整理を徹夜でやらされるハメになりました。

確かに院長である父の部屋には、歯科医療に関するスライド資料がズラッと敷き詰められていました。35ミリの写真。昭和後期、当時は写真も簡単に撮れるものではなかったのに、何万枚と全て自分の手で症例を撮影し、切り取り、スライドフィルムにして保存されていました。

今まで見たことのなかった父の姿


翌日。浪人生だった僕は父に連れられて大学に足を運びます。講義の時間が始まると、父は登壇して学生たちを前にプレゼンし始めました。僕は手袋をつけ、父の横でスライドを扱い、「右に二つ送りなさい」といった父の言葉に合わせスライドを動かし、原稿通りに計4時間ぐらい、スライド係を務めました。

その講義は、学生に限らず教授の方々も聴講しており、講義後には懇親会も開催され、父は沢山の方から挨拶を受けていました。初めて見る父の姿でした。

父「私はな、あとを継げと言っているわけじゃないんだ。ただ、二代目になることは、ロケットで例えるなら二段目になることなんだ。それだけは理解しておきなさい。」

私「ロケットの二段目ですか?」

二代目とは、“ロケットの二段目”になること


父「そうだ。ロケットの一段目は大気圏から出るのが仕事だ。だから、私は静岡の田舎から出てきて横浜の地に来ることまでしかできなかった。でも、ロケットの二段目は、その後、月や火星に行くことができる。私は、地域医療には貢献している。でも、それを世界のレベルでやるのは今の私にはできないんだ。」

私は父の情熱的な物言いに圧倒されながら、ただ黙って話を聞いていました。

父「もしお前が歯科医師になるなら、30年間私が治療してきたカルテがある。カルテは一枚たりとも捨てていない。全部あるんだ。一般的な医院では患者さんを治療して終わりだ。しかし、その症例が10年も20年もデータとして残っていたら科学になるんだよ。お前は歯科医師になったと同時に、述べ何千、何万人という症例を使えるんだ。」

父「継承というのはな、楽をするためものじゃない。さらに先に行くためのものだ。診療所を継ぐ必要はない。しかし、もし同じ仕事をするのであれば、スタートラインが違うんだ。その事は理解しておきなさい。」

私は、あとを継ぐことが「楽をすること」だと思っていました。更に、自分の人生は自分で切り拓きたいとも。しかし、父の言う様に、あとを継ぐことはより険しい道への挑戦にも成り得るし、そもそも僕は自分の人生を選んでいる様で、ただ逃げているだけだった事に気が付きました。浪人をしながら漫然と勉強をしていた私は、父の言葉を受けて将来を考え直すことになったのです。


私「わかりました。自分の選択肢の中に、歯学部に行くのを組み込みます」

その後、大学受験では他の学部も受けてみましたが、運が良いのか悪いのか結局歯学部しか受かりませんでした。

私はそこでようやく歯科医師になる道を選びました。これが、人生最初の転機です。


父との仕事、そして決別


とはいえ、父の院で働くのは絶対嫌で、卒業後は歯科医師として大学病院に勤務しながらアルバイトをしていました。

しかし、父に呼び出されます。

父「敏明、手伝いなさい。」

私(始まったよ・・・。結局あとを継がせるのかな。)

しぶしぶ臨床の現場で父を手伝うようになった訳です。
しかしながら、父は経営があまり上手ではありませんでした。真面目に仕事をしているけれど、患者さんが物凄く減っていました。ひどい時は1日に患者さんが2人、3人しかいない日さえもあり、私はやむなく本腰を入れ、経営を立て直すために尽力する事を決めました。

結局7年間、あれだけ嫌だった父と一緒に働きました。上手くいかず心底辛い時もありましたが、「未来のために今を頑張ろう」と強く想い、根気よく経営改善を続けました。その結果、1日5、60人ぐらいの患者さんが来てくれるようになり、父と母とパートのおばさんだけだった院が、非常勤の先生だけでも5,6人、総勢15名程のスタッフの歯科医院になりました。

しかし、父にまたとんでもない事を言われます。

父「私はこの地域でやっていくけども、お前は自分で発展したいんだったら、出て行け」

私(出て行けって、歯科医院も立て直したし、借金も随分返してあげたのに何を言ってるんだ…。)

私「出て行けと言っても、開業費用で銀行から融資を受ける際の保証人や担保等には、協力していただけるんですよね?」

父「そういうのは一切しない。頑張れ、口で応援するだけだ」

私「・・・」


独立資金のため、サラ金から一億5千万円の借金


父の院は横浜の住宅街にありましたが、独立する自分の院は、JR横浜駅の真ん前に開業することにしました。立地が良い反面物凄くお金がかかり、猛烈な金額の借金をしました。当時で1億5千万円。担保も何もないので、利息がとてつもなく高い、サラ金みたいなところから借りてきました。金利で最高の物はなんと20%です。

みんなは「無謀だ、絶対無理だ」と言い、税理士さんに経営コンサルティングしてもらってた際にも、

税理士「一番うまくロケットスタートを切れても、6ヶ月でキャッシュアウトですよ。借りたお金がなくなります。」

私「6ヶ月...」

そんな状況でした。
さらに、開業初日に以前から予定していた用事があり、青森に講演に行かなくちゃならなかったんです。開業初日は、まさかの院長不在スタートとなりました。


院の理念は「誠意と真実と敬い」


借金山積み、院長も不在で危なっかしくスタートした小さな院でしたが、開業当初から決めている理念が一つありました。それが、「誠意と真実と敬い」です。どんな事があってもこれだけは必ず守ろうと決めていました。私の人生のテーマでもあります。

誠意「全くの赤の他人に全身全霊をもってその人のためだけに命懸けで接すること。そして全くの見返りを期待せずにその人のためだけに尽くし、愛すること。」

真実「真実とは即ち、うそをつかないこと。自分の中にある辛い気持ち、苦しい気持ち、恥ずかしい気持ちと戦い、常になにが真実であるかを自分に問いかけ、苦難から絶対に逃げない強い勇気と心をもつこと。」

敬い「全ての物、事、人、事象、いわんや病気そのものに対しても尊び、
決して恨んだり嫉妬したりせず、時間も含め自分に降りかかること全てに対して敬意を払う、たおやかな心をもつこと。」

この3つが無ければ、真の医療はできないと私は信じています。

誠意を持ち、真実であり続けることが信用を生みやがて信頼になる。
そして、10年以上信用と信頼を積み重ねてようやく、人は人から尊敬されるようになる。

「誠意と真実と敬い」

借金だらけの院でしたが、それだけは必ず守ると心に決めていました。

慶応大学教授からの電話に救われた


そんなある日、慶応大学の教授でいらっしゃる中川先生から思いも寄らない連絡がありました。

中川先生「今度TV局の取材を受ける予定で、開業祝いと言ってはなんだけど、吉野先生代わりに出てくれないかな?」

代わりに出てくれというのは謙遜で、要は助け舟を出してくださったのです。
今でこそ医療番組は沢山ありますがその頃は珍しく、中川先生のおかげで一度出演させていただいたところ、患者さんからの電話が殺到。多い時は1日で100件ぐらいも電話をいただきました。

あっという間に1年後まで予約が埋まって、お金が底を尽くどころかとても増え、借金も借り換えにより、20%の利子が最終的に0.65%にまで下がった程です。

しかし、またもやピンチを迎えます。


嘘をつくのが嫌で、保険診療をやめた


治療をする中で、どうしても違和感を覚える事がありました。
それが「保険診療」です。

私は、保険診療をやめることにしました。

そして絶対に、保険診療をやめる切り札として「保険医返上」という選択をします。
保険診療は、患者さんの治療費負担を3割まで軽減できるもの。
それを辞めると言うのだから、院のみんなには猛反対され、気違いだと言われました。

でもなぜ、私がそこまでして保険診療を辞めたかったのか。
それは、保険診療をするためには、小さな嘘を重ねなくてはいけなかったからです。

例えば、あなたが風邪を引いて頭が痛いということで、CTスキャンを念のため撮ってほしいとします。しかし、CTスキャンを撮るためには、本来「脳梗塞」とか「脳腫瘍」とか「くも膜下出血」とか、そういった病名がなくてはいけないんです。ただの頭痛でCTスキャンを撮る際は、全額自費負担する必要があります。

そこで医師が何をしているかというと、ただの頭痛であってもカルテに「脳梗塞の疑い」と記すんです。それが保険医療制度の現状です。本来は怪我や病気の人をみんなで助け合うためのものだったのに、今は患者さんが要求した薬の処方や検査を、小さな嘘をついて実施するものに変わってしまっています。

日々この様な小さな嘘を積み重ねていくと、私は人間性が破綻してしまうと思いました。

「誠意と真実と敬い」

自分には嘘をつかない、どれだけ辛い事があっても嘘をつかない生き方をしたかったんです。

保険医の登録を解除、患者数が8割減少。倒産を覚悟する

結果、患者さんの約8割がいなくなりました。
売り上げもみるみるうちに下がり、今日このお金がなかったらそのまま倒産する、という日までやって来ました。銀行の残高が40万円しかなく、診療所の家賃120万円の引き落としがあるから、もうアウトです。

当然、自分の預金や自分の保険を切り崩したりもしていました。でも、もう崩すものが何もない。自分の給料も3ヶ月ぐらい貰っていませんでした。

「参ったな。どうしようか。ここまでか。」と悩み、私は師匠の1人である、小西浩文さんという有名な登山家の方に相談してみることにしました。

彼は、無酸素登頂といって酸素ボンベ無しで世界最高峰のエベレストに挑む方です。
8,000メートルのエベレストでは、酸素が地上の3分の1しかなく、普通の人であれば15分くらいで即死です。そのような過酷な場所で、彼は3、4ヶ月生存して、自分の肺と心臓だけで登って帰ってくる訳です。

私「...という事情で、明日倒産するかもしれないんです」

私がそう小西さんに相談すると、彼は私のことをトシちゃんと呼ぶのですが、

小西さん「トシちゃん、それはいい話だよ。」

と言いました。


倒産の危機と、恩師・登山家 小西さんの言葉。
「人間ってのはね、○○○が凄く大事なんだよ」

小西さん「登山している時もそうなんだけどさ、登山家の中には、窮地に立たされた時に仲間同士で食料を奪い合ったり、喧嘩をしてボンベを取り合ったりする連中もいるんだよ。登山家と音信が取れなくなった時に僕らは捜索によく行くんだけど、死に方はね、その人の“最期の姿”に現れるんだ。死に方が悪いと、その人が生前どれだけ凄い記録を持っていようともダメなんだよ。人間ってのはね、死に際が凄く大事なんだよ。」

小西さん「トシちゃんは、日本海軍の潜水艦が沈没する時に、艦長がどう振る舞ったか知ってるかい?」

私「いえ、知らないです」

小西さん「潜水艦が沈没している時、艦長はね、自分の体を荒縄で艦長席に縛ったんだよ。艦長がそうやるから、通信班などをはじめ艦内のみんなが体を縛って自分の持ち場から離れなかった。数十年後、彼らは自分の持ち場で仕事をしている状態で白骨化しているのが見つかったんだよ。」

小西さん「トシちゃん、会社が倒産するってのは会社が死ぬってことだ。その死に際っていうのは凄く大事で、その死に際が上手ければ、もう一回やり直す事ができるかもしれないよ。」

私「死に際、わかりました…。では、どうしたらいいですか?」

小西さん「まずは、ちゃんと死装束を身に纏うんだ。」

電話をしたのは深夜12時ぐらいでしたが、小西さんはとても丁寧に、窮地に立たされた私がどうあるべきかを教えてくれました。

布団に入る前に、綺麗に畳んである寝巻きを着る。
布団に入った時に正しい姿勢で寝る。
朝起きた時も、取り乱す事なく布団を出て、布団を出たらちゃんと畳む。
丁寧に身支度をし、外出する際は靴紐をちゃんと締めて、道を歩く際も、ちゃんと正しい所をカッポカッポと、正々堂々と胸を張って前を見て進む。
人に挨拶をする。ちゃんと正直に物事を伝える。...

私はやれる事を全てやりました。

小西さん「トシちゃんはこれまで『人を敬い、誠実で嘘をつかない』というのをモットーにしてきたでしょ? だからこそ、最後の最後で悪あがきをしてはいけないよ。」


私「わかりました。私はもう、殉職するつもりでやります。」

会社が倒産してしまうかもしれない事実を受け入れ、私はただ治療に専念する事にしました。すると、今でも忘れることはありません、不思議な出来事が起こったんです。


患者さんの奇妙な行動。首の皮が一枚つながった。


その日は、朝から「別にもう明日ダメになっても仕方が無い」と思いながら、粛々と仕事をしていました。

すると、

従業員「先生、大変です!原田さん(仮名)が現金400万円を渡すって言って受付でもめてます」

と、従業員がすっ飛んできました。

原田さんは60代の女性の患者さんです。上下の歯を全部インプラントにするという事で、数百万円の治療費をいただく予定でした。もちろん、治療費をいただくのは治療が完了した後で、治療が始まったばかりの原田さんからお金をお受け取りする事は出来ません。

私「原田さん、どうされたんですか?」

原田さん「私、治療費を今日全部払いたいの。」

私「それはダメですよ。約束通り、全て治療が終わってからお支払いいただきます」

原田さん「違う!私は自分が社長で経営者だから分かるけど、あなたの顔は全然そういう顔じゃなくなった。本当の本当に、嘘をつかない人になったって思ったから、持ってきたんです。」

私「・・・そうですか。でもそれは約束違反だからダメですよ。やっぱり、全部治療が終わってからにしましょう。」

原田さん「じゃあ、ここに現金400万円を忘れて帰る!そして、もう一回払えといったらもう一回払いますよ。」

私「そう大人気無い事を言わないでくださいよ。・・・仕方ない、そしたら、このお金は預かり金にしましょう。こちらで預かり証を出しますから、治療が本当に終わった時になったら、その預かり金を私が入金させていただいて、領収書を出します。私は絶対に、このお金を預かっているんだから、返せと言っていただいたら、明日でも明後日でも返します。その約束だったらいいですか?」

と言いました。

原田さん「それならいいわ。でもあなた、自分で鏡を見てごらんなさい。本当に一晩寝たら人格が変わったような顔をしてるわ。私も自分で色んな苦労をしているから分かるのよ。」


原田さんからお預かりしたお金は、もちろん口座に入れて保管する必要がありました。
会社の預金残高が40万円の所で、首の皮が一枚繋がったんです。
そして、更に不思議な事に、何故だか似たような事をする人が何人も現れたのです。今でも覚えています。

開業して2年目の9月の事でした。この9月に倒産するはずだった診療所ですが、なんとその9月の売り上げが、今までで最高となったのです。

この体験で、私は小西さんに教えて頂いた事がよく分かったんです。
本気でやるのと、口先で「誠意と真実と敬い」と言うのは全く違うという事が。

小西さん「トシちゃん、分かってくれてありがとう。僕もそうやってるから、ヒマラヤでは死なないんだよ」

小西さんはそれだけ危険な登山を行っているにも関わらず、凍傷どころか骨折や擦り傷もない人でした。

小西さん「『ヒマラヤの頂上に行く』これを目標にしてる人がいるから、多くの人が死んでるんだ。違うんだよ。生きて、安全に、五体満足で擦り傷切り傷なく戻って来るのを第一目標にすべきなんだ。」

恩師の言葉に重なった父の姿。2人から学んだ事


小西さん「そして、第二目標は、僕たちを支えてくださっている方々への恩返しだよ。山を登るのには非常にお金がかかる。無酸素登頂を数人で行うのも数千万円がかかる。ボンベなんか持っていったらすぐ2億3億が飛んでいく。僕たちは、お金を出してくださったスポンサーの方たちに、5年10年かけて、頂いたご恩を返さなくちゃいけないんだ。挨拶するのは当たり前。お礼状を出すのも当たり前。その人から講演依頼を頂いたら、喜んで無料でやりますと言い、丁寧に丁寧にやって、5年10年かけて恩をお返しするんだよ。」

小西さん「それが第二目標だ。第一目標、第二目標を行うのが前提で、もしよければ、登山に成功しなくてはいけない。山頂に登るのが第一目標の人は、下山中に死んでしまう事が多いんだ。ダメなんだよ。死んではダメなんだ。オペは成功したんだけど患者は死にましたっていうのと同じなんだ。手術が成功してインプラントが入って嚙めるようになったら、5年経っても10年経っても『吉野先生噛めるんです、食事ができるんです、発音ができるんです』そういう風に、成功の基準を術後10年に持っていかなくちゃダメなんだ。」

小西さんは今までの過酷な登山体験を以って、私にそう語ってくれました。

それは、父の姿とも重なるように思えました。歯科医師の父が何十年分もの症例データ丁寧に集めを大切に保管し続け、継続することの重要性を訴えていたのは、そういう事だったのだと。

小西さんや父から教わった、

辛い時こそ、正しい行動をしなきゃいけない、という事。

そのことを、私は心から理解できました。

父が父でなくなった日

小西さんをはじめ、私は人生の師となる人に多く出逢う事ができました。仙台におられる、慈眼寺・塩沼亮潤大阿闍梨様というお坊さんも、その内の1人です。

会社が倒産しかけてから6、7年が経った頃、阿闍梨様が横浜のホテルでご講演されることがありました。私たちも従業員全員で阿闍梨様の講演を聞きに行き、その会に自分の父と母も招待しました。

講演後、阿闍梨様が懇親会に来てくださり、父に一言挨拶をお願いしました。

私「院長先生、今日阿闍梨様が来てるので、私が前勤務してたところの院長、私の先輩として、乾杯の挨拶を一言お願いします。」

父は分かったと言い、マイクスタンドの前へと歩き、話し始めました。
阿闍梨様をはじめ、社員一同見守っています。


父「今日の講演を聞いて、私は非常に安心しました。みなさんの社長である吉野敏明先生。私は彼を育てた訳ですけども、彼は本当に子供の頃から破天荒で、自分がやりたい事はバーっと突っ走ってしまう子でした。子供のうち、若いドクターであるうちは、私が制限を加えていればいいけれども、親と子で歳は離れているので、いつか面倒を見れなくなる時がきます。

10年前、彼が独立し開業したのも誇らしかったですが、非常に危険だとも感じておりました。多額の借金をしたり、綱渡りのような事をしていたからです。」

私(それはあなたが、保証人になってくれなかったからでは…) 

父「私がこの世に出てきた目的というのは、自分の息子である吉野敏明の人生に節目をつけてやる事だと思っておりました。竹の節のように。もがきながらも確かに成長できるように。だから、彼には沢山の試練を与えてきました。テストの点数を取っても認めないとか、欲しいものがあっても買わせないとか、厳しく接し無理難題を与えて、どうやって解決すればいいんだろうと考える機会をこれまで作ってきました。
しかし、今日、ここにいる塩沼亮潤大阿闍梨様という方が、これからはその様にしてくれると思ったので、私は今日をもって父親を本当に引退するつもりになりました。」

私(なんだよ、今まで味わった無理難題はそういう事だったのか...!!!)
 (なんで、30何年も黙ってるんだよ。言ってくれればいいのに。)

父の30年来の無茶は、すべて私を育てるためだった


父はその講演会以来、一切、私に無茶な事を言わなくなりました。
厳しい事も言わず、私に難題を突き立てる事もなく、私の事を「吉野敏明先生」と呼ぶようになりました。以前は「敏明!」と呼ばれていたのに。

父「これからは同じ臨床医として、仲間として、ライバルとして、発展して行ってもらいたい。私はもう自分の事を父親とは思わないから。自分で辛い目にあったり、痛い目にあったりした時は、小西さんや阿闍梨様といった人たちに助けて頂きながら、自立した1人の人間として、組織のリーダーとして、ちゃんと経営をして行きなさい。」

父は、何十年にも渡って、私の人間としての成長を密かに考えてくれていたのでした。


「私は一体何のために生まれたのだろう」


父の言葉を聞いて、私は一体何のために生まれたのだろうと、ふと思いました。
私が浪人生だった時に、父が私に投げかけた「お前は一体何のために生きてるんだ。」という言葉。30年経った今、今度は自分に投げかけました。

私は歯医者の二代目。祖父が薬剤師で、曽祖父が鍼灸師。たまたまそういう家に生まれて、長男という事で家を継ぐのも期待されていたけど、「このお墓にお前も入れ」そういうのが嫌で反発していた訳です。ですが、父の歯科医師としての取り組みを知り、考え方が変わり、受験の結果も相まって歯科医師の道に進み、今までこうしてやってきました。

父が「私はもう自分の事を父親とは思わないから。」「自立した1人の人間として、組織のリーダーとして、ちゃんと経営をして行きなさい」と言いました。

「自立した1人の人間として」

 私はなぜ生まれ、なぜ生きているのか。

その時、もう一つの記憶が蘇ってきました。小学校の頃の、父との会話の記憶です。
その事を30年ぶりに父に聞いてみる事にしました。

私「院長先生、ちょっとお話しがあるんですけど。」

父「どうした」

私「以前、僕が小学生ぐらいの時に、巻物みたいものが持ってきて
 『お前がなぜここにいるのか教えてほしいか』と言われたじゃないですか。」

父「そうだな」

私「あの時、私は『いやだ、聞きたくない!』って言ってしまいましたけど、よろしければもう一度、30年以上経ってしまいましたが、僕に話を聞くチャンスをいただけませんか」

「本当に30年以上待ったぞ」父が明かした真実


父「そうか。本当に30年以上待ったぞ。」

父「お前はな、本当は2代目ではないんだ。」

私「え、どういう事ですか。」

父「お前はな、本当は2代目ではなく11代目なんだよ。鍼灸漢方医として、11代目なんだ。あの巻物には、その歴史が綴られている。私たちは、ずっと医療をやってる一族だ。昔は内科の先生とか外科の先生とかがいないから、鍼灸漢方医が世の中でいう医者だったんだ。ひいおじいさんがずーっとここまでやってきたんだよ。
私たち一族は、鍼灸もやっているし漢方もやっているから、ひいじいさんが鍼灸医で、お前のおじいさんが薬剤師だったんだ。たまたま鍼灸医の息子が勉強して薬剤師になったんじゃなくて、両方とも、少なくとも、280年前から続く家業なんだよ。」

確かに実家には桐のタンスがあったり、ゴリゴリと材料をすり潰すための器具があったり、秤があったりしました。思えば私も、物心ついた時から、曽祖父に鍼の治療を教わったりもしていました。

父「ここ数十年を見て、二代目は嫌だと言っていたかもしれないけど、お前は少なくとも11代目で、もしかしたら我々一族は医業を30代40代もやってるかもしれない、そういう遺伝子や意志を背負ってお前は生まれてきてきたんだ。だから、お前は、絶対に世界へと発展していかないといけない存在なんだ。」

30年間胸に秘めた思いを、父はようやく打ち明けてくれました。

その頃の私はすでに、父の言葉を現実化することができていました。私の師匠のおかげで冒頭の様に、ハーバード大学をはじめ、ミラノ大学、ミシガン大学、タフツ大学など、世界を代表する大学で講演させていただいたり、自分の研究で世界で2位の賞を頂いたり、海外でも様々なルールを制定し、日本では厚生労働省のガイドラインを策定したりといった事もありました。


しかし、それらはすべて、父が浪人生だった自分に言ってくれた「2段ロケット」のおかげなんだと感じています。


すべて偶然には思えない。

私は歯科医師の他に、病院の再建や経営者の勉強会の開催もある種「副業」として行っていますが、父によると、ご先祖も代々副業を行ってきたそうです。
また、このストーリーに記載した他にも、今まで様々な困難が降りかかりましたが、小西さんや阿闍梨様を始め、さまざまな方に出会い助けていただき、乗り切ることができました。その全てを振り返ると、スピリチュアルな話ですが、ご先祖様たちが見えない力で私を守り導いてくれている様にも感じるのです。

自分の意志で選んでいると思っていたことが、本当は自分の意志ではなく、自分の天命だったのかもしれない。40歳、50歳にしてやっと気が付いたことです。

孔子の言葉に「(前略)四十にして惑わず、五十にして天命を知る…」とあります。

私の歩んできた人生は、私だけのものでなかった。
感謝と共にそれを今実感できるから、私はもう迷うことはありません。

浪人生の時に「逃げずに自分の意志を持つこと」ができ、倒産寸前の時に「死を受け入れ、心を込めて生きること」を教わり、30年の時を経て父から「自分の生きる理由」を知るきっかけをもらいました。

「誠意と真実と敬い」

子供の頃の自分は、ずっと親を継ぐのが嫌で反発していましたが、
今の自分は、自分に与えられた天命のもと、親をはじめ代々の意志を受け継ぎ、本当に世の中のためになることをやっていきたいと、心の底から願っています。





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