ケアマネを新人のうちに辞めた理由は職場のサイコパスおばさんでした

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Iさん:「あのさ、利用者さんのことで相談があるんだけれど…」
「(なんだ。普通に仕事の話か…。)」と思いながらも、普通にIさんとの久しぶりの会話を楽しんだ後、電話を切ろうとしたときのことだった。
Iさん:「…あ、ごめん。最後に一つだけ伝えたいことがあったんだよ。この前、君の施設を訪ねた業者さんが君のことを悪く言っていたから気をつけた方がいいよ。
ぼく:「?????」
いきなりそんなことを言われたから、頭の中が真っ白になった。
トラブルやクレームは一つもなかったはずだし、ぼく自身に思い当たる節が何もなかったからだ。
言葉を選べずに、どもってしまったぼくに向かって、Iさんはさらにこう告げた。
Iさん:「その業者さんが挨拶をしたときに、君の感じが悪かったんだって!『以前は、あんなにニコニコして働いていたのに…』って、業者さんが心配してたよ。
その話を聞いて、もしかしてHさんの近くで働いてるから感化されちゃったのかな?と思って、私も心配になったんだよ。
あのな、絶対にHさんみたいな人間にはなるなよ。
この言葉を聞いて心臓が止まるほど、はっとさせられるものがあった。
同僚たちにも恐る恐る最近の自分について聞いてみると「うん。たしかに、最近話しかけにくかったよ。」なんて言われて、この事実は真実であることが証明された。
そう、間違いなくぼくは「嫌なやつ」になっていた。
「保身のため」とはいえ、Hさんの言動に同調するという選択を安易に選んでしまった自分が心底嫌になった。
それからというもの。
ぼくは、意識的にHさんとの距離をとるようになった。
でも、明らかに距離をとるようになったぼくの変化をHさんが見逃してくれるはずもなく…。
Hさんのぼくに対する言動は、日に日に冷たく先の尖ったアイスピックのようになっていった。
そう…。
いよいよ、ぼくが「ターゲット」になったのだ。
・分からないことがあって質問をしても返事は投げやり。
・ぼくが事務所に帰るとわざとらしく会話を切り替える。
・ありもしないことを社長や専務に密告する…etc
それら全ては、今までぼくが見てきた「Hさんのやり方」だった。
「気にしなければ良い。」と思ってはいたものの、至近距離で働く環境や、業務の都合上100%は避けては通れない。
だけど、声をかけると冷たい言葉しか返ってこない…。
こんな毎日はボディーブローのように、少しずつぼくの心を蝕んでいった。
そして、そんなぼくにトドメを刺すような出来事が起きた。
それは、Hさんと二人っきりの静まり返った事務所内でいつものようにデスクワークをしていたときのこと。
いきなり、Hさんから「あんたケアマネに向いてないと思うよ。」と言い放たれたのだ。
さらに、Hさんはぼくにこうも告げた。
Hさん:「あんたみたいに音楽なんて半端なことやってる人は、どこに行ってもケアマネなんて務まらないんだからね。ケアマネにプラベートなんてないんだよ。休みでも、夜中でも呼び出されたら必ず出勤するのが常識でしょ?」
これには、さすがに言葉を失った。
ぼくの会社では「夜中に利用者さんに何かあったときは、オンコール(緊急連絡用の携帯電話)を持っている看護師が駆けつけること」というルールが決まっていたのに、Hさんは自分の中での価値観をぼくも強要させようとしてきたのだ。
しかも、ぼくにとっての生きがいであり、なくてはならない存在である「音楽」を罵倒してまで…。
怒りを超えて、ぼくの思考は完全に停止した。
ケアマネという仕事に責任が伴うことくらい理解をしていたが、さすがに「プライベートなんかない」とまで言われるのは勘弁してほしい。
ぼくには、帰宅を待つ愛する妻も息子もいる。
…でも、Hさんには家族がいなかった。
勘違いしてほしくないからあえて書くが、ここで言いたいことは、家族がいない人を否定しているわけではなく、自分と違う境遇の人を理解しようとする気持ちのかけらすら持ち合わせていない人間が存在していたことに対する“衝撃”だ。
正直、Hさんがここまで狂った人間だとは思っていなかった。
「いつか、また前みたいに楽しく過ごせる日々が戻ってくる」という希望に似た感情を、ぼくはまだ捨てきれずにいたのだ。
この日を堺に、ぼくの心はあの日のIさんのように、どんどん黒く錆びついていった。
会社に行こうとすると、身体が震えて立っているのも辛くなった…。
机に座ると身体は勝手に貧乏ゆすりをするようになった…。
息子の誕生とともに止めていたタバコにも手を出すようになった…。
そして…
帰宅後に「家族で囲む夕飯」も、「息子と入るお風呂の時間」も、ぼくの顔からは笑顔が消えた。
そのときはじめて、妻から
「病院に行ってみよう。」
と言われた。
情けなかったし、悔しかった。
「なんでおれが…」って何度も思った。

今の自分には、生後半年になる息子と、建てたばかりの家がある。
「ここで逃げたらダメだ。」ってたくさん考えた。
だけど、もうこれ以上は“無理”だった…。
「ごめん。もうケアマネ辞めてもいいかな…?」
「…なんとかなるよ。大丈夫。」
あの日、妻がぼくに見せた「優しさ」と、一人の母としての決心を宿らせたかのような強い「目の光」をぼくは一生忘れないだろう。
それから数日後。
ぼくは、会社に「退職届」を提出した。
社長室で無念を叫びまくって、自分が大人であることすら忘れてしまうほど泣きじゃくった一日だった。

黄色の花

一通りの引き継ぎ作業を終わらせて、有給を消化したあと、ぼくにとっての「最後のケアマネ」の日がやってきた。
ケアマネとして自分が担当させていただいた入居者様一人一人の居室を周り、たった2年3ヶ月ほどの歴史を噛み締めた。
なかには泣いてくれる人もいたし、いつものように微笑みだけを返して下さる方もいた。
事前に連絡のとれたご家族様には、一通りご挨拶もできた。
あんなことがあって会社を辞めるわけだから、決して華々しい旅立ちではないんだけれど、ぼくなりに「飛ぶ鳥跡を濁さず」ってやつはある程度実行できたんじゃないか?と思えた。
誰かが辞めるときは、いつも夕方のミーティングで花を送る。
17:20
定刻通りはじまったミーティングでは、お約束とおりの花束が登場した。
「お世話になりました。」
と頭を下げて、Hさんにもタイミングをみて最後の声をかけた。
お菓子を手渡して感謝を伝えると、「はいはい。お疲れ様でした。」それだけのそっけない返事が返ってきた。
ハッピーエンドのようなものをついつい期待してしまった自分が恥ずかしく感じたけれど、現実はやっぱり“こんなもん”だった。
でも、そんなぼくのところに以外なサプライズプレゼントが届いたのだ。
それは、大きな大きな「黄色い花束」だった。
あんなに大きな花束をもらったことは、人生で初めてだったし、正直職場からもらった花束よりも立派だった。(笑)
送り主は、東京に住む入居者さんのご家族様。
「生前、父がお世話になりました。父はあなたの歌が大好きでした。」
(たしかこんな感じだったと記憶している。)
花束を贈って下さったこのご家族様のご両親は、二人とも施設に入居していたが、旦那さんが先に旅立たれ、奥さんだけが残っていた。
亡くなった旦那さんには強い認知症があり、息子さんの顔や名前ばかりか、同じ部屋に住んでいた奥さんのことすらも理解できなくなるほどだったが、僕が作った「あなた」という介護をテーマに作曲したオリジナルソングの歌詞とメロディはなぜか覚えて下さって、数日間はぼくの顔を見るたびに、たどたどしくも、その歌を口ずさんで下さったことがとても印象的だった。
そんな思い出深い利用者さんのご家族さんからいただいた花束は本当に嬉しかった。
でも、サプライズはそれだけでは終わらなかった。
他部署の仲間たちからも、花束やプレゼントを沢山いただいたのだ。
自慢のように聞こえるかもしれないけれど、基本的には誰かが退職するとなっても、同じ部署内でしか花束は準備されたりしない。
この出来事でぼくは、今まで気付くことができなかったあることに気づいた。
それは…
「ぼくは、こんなにも愛していただけていたんだ」ということだった。
身体が震えるようになってしまうほど、精神的なストレスを感じていたけれど、その原因はHさんだけだった。
何十人もの方に愛していただけていたのにも関わらず、ぼくの心はたった一人のサイコパスおばさんに負けたのだ。
やっぱり、このエピソードは「悔しい思い出」なんだけれど、それ以上にケアマネとして働くことができた2年3ヶ月で、みんなからもらった「愛」だけは、絶対に忘れることはないだろう…。
いや、「忘れてはいけない」のだ。
なぜなら、ぼくはまだまだ「介護の仕事」を辞める気なんてないからだ。

めざせNHKみんなのうた

会社を退職する数ヶ月ほど前に、ぼくはこっそりと「ブログ」というビジネスを副業で始めていた。
ケアマネを辞めることを決意してから、「次は何をしようか?」と色々考えたけれど、ちょっと心が疲弊しすぎていたから「介護」からは離れてみたくなった。
そこで、そのときのぼくには他に稼ぐ手段が「ブログ」しかなかったから、思い切ってブログで「起業」する選択を選んだ。
こんな話をすれば「ブログで飯は食えないだろう」とどこからかツッコミが入りそうな気がするので、少しだけ付け加えておくけれど、大丈夫ブログで飯はちゃんと食える!
でも、ぼく自身が“こんな状態”になるだなんて想像もしていなかったし、ましてや会社を辞めるプランなんて全く考えていなかったわけだから、起業に向けてなんの準備もしてこなかった。
専門学校からずっと介護しかやったことがないぼくにとっては、全てが「未知の領域」。
そこからしばらく必死にあがいた。
今思えば、この生活はかなりしんどいものだったけれども、あの出来事で傷ついてしまった心をいたわる暇もなかったおかげで、ぼくは以前の明るさを自然に取り戻していった。
その結果、今ではコンサルタントとして、「WEBを活用した働き方」をお伝えするお仕事ができるようにまでなっている。
箕輪康介さんが出版した著書「死ぬこと以外かすり傷」があるが、まさにこのときのぼくは、この極限まで自分を追い込むような生活を送っていたと思う。
これは、独立起業をしたことがある方になら共感してもらえるかとは思うが、フリーランスになると自分が動かなければ「お金」は一切入って来ないというスリリングな毎日が待っている。
1分1秒でも仕事をしていないと不安になるのだ。
しかし、そんな生活の中でもぼくは絶対に辞めなかったものがある。
それは「音楽」だ。
ありがたいことに、プロとして音楽活動をすることができるようにもなっていたから、音楽は仕事の一つでもあったんだけれど、それ以上にぼくが音楽を辞めなかったのには、大きな理由があった。
そこには「絶対に叶えたい夢」があったからだ。
ぼくが未だに叶えたいと強く願って止まない夢。
それは、「介護をテーマに作曲した『あなた』という歌を『NHKみんなのうた』に選んでもらうこと」
そう、あの認知症が強かった利用者さんでも数日間も忘れずに、口ずさんで下さった思い出の歌だ。
この歌は、10年間というぼくの介護職経験を全て詰め込むことができた渾身の一作であることは間違いない。
そして、ぼく自身がそう思うだけではなく、あの利用者さんをはじめ、この歌に出会って下さった方とは、なぜか深いご縁を作ることができる不思議な歌なのだ。
「この歌には力がある。」
ぼくは、名実ともにこの歌を「みんなのうた」にしたいと本気で思っている。
この歌を「介護」に関わる少しでも多くの方に届けたい。
この歌に込めた「介護の仕事は最高だ」というメッセージとともに。
だから、ぼくは息切れを起こしそうな激しい毎日の中でも、ギターを置くことはしなかった。
すると、徐々にそんな活動を知ってくれた介護施設から慰問ライブのオファーもいただけるようにもなってきたのだ。
この活動を繰り返していく中で、「『慰問ライブ』は、今のぼくにできる『介護の仕事』なんじゃないのか?」という答えにも行き着いた。
ぼくはまだまだ「介護の仕事」を辞める気なんてないし、今だって辞めていない。
この最高の名曲「あなた」を「NHKみんなのうたに選んでもらって、介護に関わる一人でも多くの方に届ける」というミッションがあるのだから。
そして、「おっはようございまーす!」と毎日元気よく、施設という家に住む「家族」のみんなに会えるのが、楽しみで楽しみで出勤が待ち遠しかった頃の僕のような人や、会社や上司の「歪んだ常識」と戦いながらも、「いつかきっと」と心の炎を絶やさずに、利用者さんの笑顔を願いながら働く介護職の方々にこの歌を届けたい。
たまに「なんでNHKみんなのうたなの?」と聞かれることがあるけど、正直言って、これはただの「思いつき」だ。
だけど、子供が「大きくなったらヒーローになる!」と本気言う言葉に理由をつけるのが難しいのと同じくらい、ぼくも自分の中に湧き上がったこの夢を説明することは難しい。
だからこれ夢は正確に言えば「思いつき」ではなくて「直感」なんだと思う。
「『直感』とは、自分が自分のために思いつくものだ」とぼくは思っているから、この気持ちが間違いなはずがない。
「めざせNHKみんなのうた」
この夢は簡単に達成できるものじゃないからこそ、ぼくにとっては最高に面白くて、この人生で成し得たい目標の一つともなっている。

おわりに

この夢を叶えるために、ぼくはNHKに手紙を出したり、電話をかけたり、挙句の果てに夜行バスに乗って直接本社にまで行ってみたりもしたけど、今のところ何かが起こりそうな予兆は見られない。
そして、SNSでもたくさん拡散して、多くの方がぼくの夢を応援するチラシを配ってくれたりもしているから、あの日突然介護を辞めてしまったぼくのことを「?」と思っている方は多くいるだろう。
「せっかく応援してやったのに、なんで介護辞めたんだよ。」
「現役ケアマネ+ミュージシャンだったから面白かったのに…。」
という言葉もたくさんいただいた。
これに関しては、ごもっともだと思うし、覚悟をしたうえでの選択だったわけだから仕方がない。
だけど、予想していたとはいえ、実際に言われてみると胸の奥で何かが潰れてしまいそうになるような想いが溢れた。
それでも、ぼくはこの「NHKみんなのうたに選ばれたい」という夢を捨てる気は全くない。
例え、ゴールまでに何年かかったとしても…。
サイコパスおばさんとの出会いにより、この夢が少し遠ざかったように感じたことも確かにあったけれど、「これとそれとは全く関係がない」と今ではしっかり割り切ることができている。
なぜなら、この夢はあくまでぼくのSTORYであって、「誰かのせい」にして諦めてしまうような安っぽい「夢物語」ではないからだ。
意外な形で幕を閉じることになったぼくの「ケアマネ」としての日常…。
もしかしたら、このSTORYを読んで下さった方の中には、同じような心境で悩み・苦しんでいる方もいるかもしれない。
そして、その中には今、目の前にある現状を「全部自分の責任」と考えてしまっていたり、「自分がいなくなったら周りに迷惑がかかる」と感じてしまっている人もいるだろう。
逃げ出すように現場を去ることしか出来なかったぼくの言葉には、あまり力はないのかもしれないけれど、「どうしようもならないこと」は世の中に存在しているから、逃げてみてもいいんじゃないか?って、ぼくは思う。
さらにいうなら、「職場を去ること」は、=「逃げること」なんかじゃなくて、「現状回避」という人生をさらに良い方向にへ改善していくための「作戦」なんだ。
あなたの中にある「本当にやりたいこと」は、絶対にあなたの人生を切り開くための「鍵」になる。
ぼくの場合、関わり方は変わったけれど、本当にやりたいことの一つだった「介護」という存在は、今でもぼくの側に寄り添ってくれている。
では最後に、ここまでぼくのSTORYを読んで下さったあなたへ、お礼と感謝を込めてぼくから「一つの言葉」をプレゼントさせていただきたい。
これは、ぼくが最終的に「退職」という選択を決意することになった入居者の男性からいただいた言葉です。

おい。元気か?「金」や「信用」は取り戻せる。だけど「健康」は取り戻せないぞ。無理するなよ。
【この写真は、上記の言葉をぼくに下さった入居者さんが、退職後に行ったぼくのライブへこっそりと応援しに来てくれたときの様子です。】
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日めくりシンガーソングライター優斗

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