あけましておめでとうございます。
喜屋武ちあきです。
新年のお祝いムードの中、いきなりめちゃくちゃ重たい話をしだす私をお許しください。^^;
2018年末、一つやり残したことがあり、実家のある埼玉に行ってきました。
目的は、母親のお墓参りに行くこと。
母が亡くなってから丸15年。
墓参りは愚か、法事にも一度も参加して来ませんでした。20代のころはアイドル業が忙しく時間が取れなかったし、東京から1時間程度とはいえ実家に行くこと自体年に1、2回で。
ただ、これは本当の理由ではなく、きっと、母親に会いたくなかったんだと思うんです。
でも、なぜか今年、15年の芸能活動の中で一番苦しかった一年の中で、今までのことを思い返す時間がたくさんあって、ふと、母との決着をつけなきゃならない時がきたんだとおもいました。
私は、母を恨んでいるのだろうか、そして、母は私を恨んでいたのだろうか。私は真剣にそのことを考える必要があったし、その決着がつかないと、次の人生に進めないと思いました。
今まで、一度もみなさんに言わなかったことがあります。
これを言うことはとても勇気のいることですが、きっと誰かにとっては意味のあることかもしれません。
マネージャーにはそのことを公表することについて反対されているので、これを勝手に書いてどうなるかもわかりませんが、
私の母親は、うつ病の末に自殺しました。
これは、母の人生においての事実で、その前と後に何が起きたのか。
これから、私の家庭と、過程について、少しずつ書いていきたいと思います。
もし興味を持って読んでくださるなら、嬉しいです。
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上記の投稿へのコメント等々、ありがとうございました。
どんな反応が返ってくるかなと思っていたのですが、真摯に、親身に受け止めてくださる方が多くて有り難かったです。
少しずつになりますが、たぶん時系列の方がわかりやすいと思うので、まずは私の幼い頃の話からしていこかと。
(私と、2つ下の妹)
たいして面白い話でもないけれど、多分ここを書かないと本題に入れないという、土台のような部分ですね。何事も、基礎は大事。
とはいえ幼少期の記憶ってあまりなくて、断片的な記憶と周りから聞いた話を組み合わせる形になるから、ちょっと曖昧です。
幼い頃の私は、身のこなしが軽くて、3歳で跳び箱から一回転して降りるなどという、ちょっと今からは想像のつかないスーパー運動神経を発揮する一方、幼稚園という集団生活の中では内向的でどんくさい子供だった、らしい。
おゆうぎ会でかぐや姫を演じることになった時も、3人もいるかぐや姫の端っこに座り、ずっと手に持った扇で顔を隠してそっぽを向いていたという。そもそもかぐや姫はまさかの立候補制だったそうですが、一体何を考えて手をあげたのですか?当時の私よ。
そして幼稚園帰りに体操着から園服に着替えるお着替え競争ではいつもビリ。誰もいない教室で一人モタモタノロノロやっていたと聞きました。
大人になって母の気持ちを考えると、もうこの時点で病む。うん、病むよ。子育てって本当に大変です。
そもそも母は、幸せな家庭を作るということに強い夢を持つ人でした。
というのも、母が幼い頃、母の母親(私の祖母なので、以外祖母と書きますね)が美容院を経営していたため家庭にあまりコミットせず、幼い弟の面倒を見たり、家事をしなくてはならなくてそれなりに苦労したそうです。
詳細はわかりませんが、母自身は東京出身ということで、本来であれば祖母が色々フォローしてくれるような関係性も作れたと思うのですが、おそらく年に1.2度会うか会わないかくらいでしたし、とにかくもう、母は祖母が嫌いでした。
北九州生まれ、大阪育ち。東京の出版社で編集者として働く父と結婚。
埼玉に家を買い、そこで温かい家庭を築く。これはいつまでも少女のような母の夢で、いずれ私はその夢にとって"不要"であるという判断をされることになりますが、それはもう少し後のこと。
ひとまず父、母、私、妹、という小さな一般的な核家族は、この時点では幸せを保っていたのです。
そして、いよいよ小学生、私の人生の長い暗黒期へと進んでいきます。
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今のわたしを知る人は、このようなわたしの過去の話をにわかには信じられないといいます。
それは、とても嬉しいことではあって、
今、あの頃の自分を客観的に思い出しても、ヤバすぎて仲良くしたくない。
きっかけは小学校二年生の時。
なぜそうなったのか、自分ではもう原因はわかりません。周りと馴染まない雰囲気があったのか、甘えた根性が見えたからなのか、その他に理由があるのか。
そういった曖昧な記憶の中で、タナカという女性の担任教師から強く当たられていたことは覚えている。
タナカ先生は、授業中に教師用の大きな三角定規で私の膝を叩いたりした。
その度に私は泣いて、授業を中断させたりした。
だんだんと他にも些細なきっかけで泣くようになると、毎日泣き続ける私をみてクラスメイトも私のことを敬遠し始め、気付いた時には完全に孤立していた。
完全なる負のスパイラルの中で完全に情緒が不安定になってしまった私は、腹痛に悩まされ、爪を噛むのが癖になり、授業中も机の下に潜って出てこなかったり、教室を出て行くなどの奇行に走るようになっていった。
この負のスパイラルはものすごくて、一人は寂しくて、普通に周りの人に認められたい気持ちはあるのに、何が正解かわからなくて、とりあえずやってみる行動の全てが見事に裏目にでて、変なことばかりしてしまって変わり者というレッテルが強固になる。
おそらく、小学校3年くらいの時にはもう、2クラスしかない学年の中でわたしはある意味名前が知れていたと思う。
よくある話だけど「自由に二人組を作ってね」なんていう言葉はわたしにとっても最大の凶悪呪文だったし、そんな時は机に伏せて寝たふりなどをしてやりすごした。
ただ、それでもわたしは学校に行くことをやめはしなかった。
学校でのそんな姿を、親に話すのは嫌だというプライドがあったのかもしれない。
そして、私はこの極限の状況の中で、とあるツールを使って生きていく術を自然と身につけていくこととなる。
こうやって私自身の過去の話を書くようになって、SNSでフォロワーさんから読んでます!と言ってもらったり、感想をもらったり、はたまた似た境遇だと告白していただいたり。
そういった反応がとてもとても励みになるし、嬉しいです。
自分の為に書くというところもあるけど、結局は皆さんからの反応がすべてのモチベーションです、よね。
ここまできたらどんどん読んでもらうしかないべ!と思うので、ぜひぜひ、☆読んでよかったボタンを押していただいたり、Twitter、FB、Instagram等でシェアをしていただければと思います。
昨日も、Aマネージャーから「あれ、読んでるよ。文章おもしろいね。元々書いてたの?」と言っていただきました。
実際は、その時の気分で書き殴っているだけだからセオリーは無視だし、別に上手くはないと思うけど、もし思い当たるところがあるとしたら、その理由はちょうど今回お話ししようとしていた、”ツール”にあるんじゃないかと思います。
そのツールとは「本」でした。
わたしの父は編集者、母は本の虫だったので、幼い頃から自宅の本棚には小説や漫画がぎゅうぎゅうに詰まっていた。
毎晩寝かしつけに絵本の読み聞かせをしてもらっていたおかげもあり、わりと早いうちから一人でも本を読む習慣が身についた。
毎週のように日曜になると家族で図書館に出かけるのが習慣になり、学校でも友達のいない私はひたすら本を読んでいた。
特にファンタジー作品が大好きだった。児童文学の「ナルニア国物語」や「クレヨン王国」シリーズ、「果てしない物語」など。
この3作品の共通点は、いずれも現実から異世界に飛ばされるというストーリーで、現実に馴染まないわたしは、いずれ今の嫌な現実から離れて異世界に行くことで今の生活から救われる、と思いこむようになっていた。
学校では孤独を常に感じていた。
一人で行動することが辛くて、私は妄想の世界に友達を作り、授業中は当時母がハマっていたドラゴンクエスト5やファイナルファンタジー5の世界に入り込むという妄想ばかりしていた。
窓から外を眺めながら、今とつぜん暗雲が立ち込めて、魔王が現れて異世界に飛ばされる。目がさめると森の中にいて、あたりを探し回ったわたしは当時片思いをしていた男子生徒(話すと長くなるのでまたの機会に)と、適当なクラスメイト2.3人と旅をすることになる、というような内容だ。
そういった異世界妄想以外にも、色々なシリーズの妄想があった。
動物や子供はクラスメイトのようにわたしを気持ち悪がったりしないから好きだった。飼いたくて仕方がなかったけど、親から反対されていたので、毎日の帰宅路では、家に帰ると子犬が待っていて!といったものや、いつかクラスメイトを見返したい、という意味でテレビの中の華やかな世界への憧れなどもこの頃すでにあった
とにかく、完全に厨二病を小二から発症していた。
現実と妄想の区別もあまりついていなかったように思う。下手したら妄想の中のキャラクターとお話したり、ふわふわしていた。そして余計に気持ち悪がられた。
でも、こういった妄想のお陰で、どんな辛い状況も耐えることができたし、思わぬ副産物も生まれた。
例えば、小学校3年生の時の夏休みの自由研究は「消えた夏休み」という小説だったし、5年生の頃には小説コンクールに作品を応募して、特選をもらっていた。
この頃から、文章を書くことは好きだった。
先日、実家で見つけた卒業アルバムの「将来の夢」欄には「犬のトレーナーになる」と書いてあった。
小説家じゃないんかい。
この頃、学校で奇行に走って気持ち悪がられていた私のヤバめなエピソードは沢山あって、全部書いていくとキリがない。
とにかく9割の人間からは気持ち悪がられていた(と思っている)し、男子から菌扱いされたり(実際近づくと避けられていた)、ブスって言われたり、何か良くないことが起きると私のせいにされていたり、卒業旅行のディズニーランドでは一人で5時間彷徨ったり、そんな小学生だった。
そんな状況下で良く不登校にならずに頑張ったと褒めてあげたい。
私はなぜか希望を忘れなかった。明日になれば友達ができるかもしれない、犬が我が家に来て友達になってくれるかもしれない、芸能界に入って人気者になれるかもしれない。
結局中学校を卒業するまで、希望が叶うことはあまりなかったけれど。
(ただ、一応ちゃんと話しておくと、少しは友達もいた。当時の私と仲良くしてくれた貴重な友人達には感謝しかない。)
モノゴトの始まりというのはニワトリと卵のようにわからない。
学校が先か家庭が先かわからないけど、家でも少しずつ家族との関係性がおかしくなっていった。
続きます。
喜屋武ちあき


