諦めるためにやることもある

父は私が生まれる前から「やりたい」と憧れていたことがある。そういう話を聞いた。

それを実現させるために、母が妊娠中に密かに準備を進めていたらしい。
父の夢は「山小屋」つまり「ロッヂ」を開くこと。
元々登山が好きで日本の山を登り歩いていた両親である。そこで出会った山小屋のご主人の生き方に感銘を受けたとかなんとかで、自分もそういうロッヂを開きたいと考えたらしい。
さらにいうなら、都会での子育てより田舎でのびのびと子育てをしたいというのもあったらしいが、この話を聞いて最初の私の感想は、東京に戻ってきてくれてよかった…というものだった。
別にどこがいいとか悪いというわけではないが、私は今住んでいるところで十分に自然と都会を満喫しているので問題ないと思っているし、ここの環境で育ってよかったと思っている。
人それぞれ、育つのに適した地というのはあると思う。
私はこの地が性に合っているというだけの話だ。
話を戻そう。
父は母にも言わず、東京から引っ越す手はずを勝手に整えていた。
私が生まれてから2ヶ月も経たない年明けすぐの1月の上旬。岐阜の雪深い地方へと引っ越した。
雪は一夜で4〜50cmは当たり前に積もるし、無人駅でお店は5時には閉まる。
周辺に知り合いがいるわけでもなく、娯楽があるわけでもない、そして、私はまだ乳飲み子である。娯楽らしい娯楽はテレビのみだ。
父はロッヂを開く夢のための一歩を踏み出したわけだ。なにかあってもすぐ辞められるような木工所で職工さんになり(それまでは事務)、収入は東京での収入の3分の1に減ったらしい。
父は一度言い出したらバカみたいに頑固だったので、母は仕方なしについていくしかなかった。
乳飲み子と二人置いていかれてもという思いがあったというが、どっちもどっちと思う。現代なら離婚問題に発展が妥当だろう。
母の郷里は鹿児島で、すでに両親も亡くなっていた上、義両親は義父はともかく義母が更年期障害中で義両親とも一人息子(娘は二人いるが)を頼りにしていたので、東京から離れること自体が反対で、全て母の責任だと思い込んでいたので、つまるところ母には身内に味方はいない状態だったと言える。
色々な話を聞くに、よく離婚しなかったなと思うが、結局のところ共依存的な関係だったのだなと両親を見ていると思ったりした。
私はこんな旦那がもしいたら、多分手が出てる。手が出なくとも、理詰めで精神的に追いやっているかもしれない。
そんなこんなで、母としては孤立無援状態での子育てだったわけだ。周りに頼れる人はいないし(よそ者として見られていたようでもあるし)収入は目に見えて減っていくし、布オムツは洗って干せばすぐに凍りつくし…で「なにやってるんだろう」と思ったらしい。
まあ、そうだろうね。月一回くらい見にきてくれていた叔父が帰るときに、駅から見上げると乳飲み子の私を抱えた母が所在無げに見送っているのをみて切なくなったというのだから。
そんな生活だったから、長くは続かなかった。むしろ続かなくてよかったと思っているけど。
6ヶ月で東京に戻ってくることになる。
東京に戻ってきたことで、「ロッヂを開く」という夢は自分では無理だと感じ、きっかけになったロッヂに遊びに行けばいいという結論に落ち着いた。
東京に戻ってくる時は、高速でも80kmまでしか出ない坂道になろうものなら60kmしか出ない軽自動車に最低限の荷物積んで、ほぼ貯蓄も底をついた状態だったらしいから、父も色々気がついたのだろう。
こっちに戻ってきてからは人づてに仕事を紹介され、住むところも問題なく提供してもらえたのだから。
この話を聞くたびに、ため息が出ることが一つある。
それは「父がロッヂの経営に全く向いていない」ということである。
そもそも人付き合いがあまりうまくはないのだ。うまく見えるらしいが、自分から入っていくような人間ではなく、小さい頃の私はやたらと愛想がよかったらしく誰とでも仲良くなっていたのに便乗して、人の輪に入るような両親だった。
そんな両親が自分たちでロッヂを経営してお客様をもてなすことができるかと言ったら、できないだろうと思う。
さらにいうなら、人をもてなすような料理を両親とも作れるとは思えない。
父は実家がラーメン屋でなんだかんだで調理師免許をとったらしいが、父が台所で料理を作っているのを見たのは…片手で数えるほどしかない。そして、やたらとインスタントラーメンの作り方にうるさかった記憶しかない。
母は普通の主婦で、料理人ではない。
ただ「やりたい」という情熱だけではわりとどうしようもない部分もあり、まして、家族を巻き込むにしても本人にも配偶者にも適性があるとは言えない。
だから、むしろうまくいかなくてホッとした母と娘なのだが、何が父を暴走させたのかと言えば、「俺もやりたい。なんとかできるだろう」という思い込みの一点である。
憧れとは怖いもので、適性がなくても「あの人がこうすればできると言っていたから自分でもできるかもしれない」と思うことだ。
それはあの人だったからできたことで、それは自分の適性を見て「やりたい」と思ったことではない。
どれだけ私がパヴァロッティ(イタリアのテノールオペラ歌手)に憧れて、「歌えるからできるかもしれない」と思っても、テノールという時点で性別的にすでに適性がない。
小さい頃に「あんな風になりたい」と憧れて、突き進んだ結果、そうなれる場合もある。それは少なからず適性があったから、そこを伸ばすことができたからだ。
それでも壁はあるだろう。そこで自分の適性を見極めてどう乗り越えていくかということは必要である。
そもそもの問題、岐阜に生活拠点を移したとして、収入が底をつくような状況だったらロッヂを開くなんて夢のまた夢である。まずはロッヂを開けるだけの資金でしょうと思うのだ。
そこまで考えているようでまったく考えがなかったんだなと思うのだ。
ただ、岐阜に行ったのはそれなりに収穫だったとは思う。
そこで自分にはそれをする適性はないと気がつき、何をすべきかを考えてくれた。
それは家族を養うということだったわけだけど。ずっと見ていても、休みになれば家族といるような人だったし、自分のやりたいことを強引に進めていくような人だったから、人をもてなすなんて難しかっただろう。
だから無駄にロッヂを開ける財力がなくてむしろよかったと思うのだ。そこで資金が底をついて物理的に夢を諦めなければならなくなったというのは、「それは違うよ」と教えてもらったようなものなのだ。
どんなことでも下調べに下調べを重ねて、「よし大丈夫だ」という状況にしてから進む父だったから、ロッヂを開くという件に関しても「大丈夫、できる」と思っていたのだろう。
しかし、本来は「そっちには道はない」ということだった。
それに気がついてくれて、よかった。まして私が大きくなってきた時にまだ諦めていなかったら…ちょっとゾッとする。
私は人それぞれ自分の能力を活かすためのフィールドが存在していると思っている。
だけど、そのフィールドは自分で探さないと見つからない。
ぽっとなんかの拍子に見つかることもあれば、紆余曲折あって見つける人もいる。
中には「これじゃないと嫌だ」と頑なになり、結果見つからないで人生を終えてしまう人もいるだろう。
父は用意周到だったからこそ諦めが悪かったのだろう。だから、物理的に「そっちじゃないよ」と教えられたのだ。
進んでみなければ諦めがつかないこともある。諦めるためにやってみなければいけないこともあるのかもしれない。
でも、いくところまで行くと大変だから、その手前で気づくことは大切だなとも思う。
何はともあれ、ロッヂが開けなくてよかった。今の生活ができてよかったと私は思っている。

著者のIijima Wakakoさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。