ボクの小学生時代、人生最高の瞬間は10歳で訪れる

2 / 2 ページ

次話: 輝かしくも灰色だった高校時代、涙とともにさようなら
 「悠生、半年後の夏のJO、優勝できるぞ」  

はい?今回やっとぎりぎりで出場できてミラクルかましたばっかりなのに、また夢みたいなことを、と思っていると  
「これ見てみ?」  
見せられたのは、今回の大会に出場した選手の全データだった。小学3年生から4年生になる半年後の大会では、上の学年と区分が分かれる。加えて、同じ3年生で出場していた選手、全国の地方の各予選会の選手のタイムを調べ上げ、比べてみても自分がその時点で一番速かった。   

半年後順調にタイムを伸ばし、誰にも抜かれなければ必然と優勝できる、というものだった。子ども(バカ)にもわかりやすかった。   

初めて明確な目標が定まった。それまで楽しく、Enjoyスイマーでありたいと思っていた自分が、苦しいことは嫌いで辛いことからすぐ逃げ出したくなる性分の自分が、想像の外側にいけるかもしれない。とんでもないことを、達成できるかもしれない。 それからの半年間はちゃんと練習した記憶がある。(笑)    

迎えた2002年8月、レース前日のホテル宿泊で、備え付けのテーブルをぶっ壊したり(しかも保身に走り嘘がバレて大目玉を食らう)、決戦前で興奮したのかわからないが朝起きたら枕が血だらけになるといったトラブルがあるも無事に?大会を迎えた。

この時は半年前にはいなかった同級生の選手達が多く出場していた。個々の持ちタイムは事前にそれぞれ調べられているからか、レース前の招集所でやたら話しかけられる。  
「おまえ酒井やろ?知ってるで」  
酒井やろ??知ってるで??  自分を知っていたことよりも、人生で初めて聞くいかつい関西弁に、なんだこいつ?と思い、ちょっと動揺した。京都出身の選手だった。(後に彼とは全国でよく顔を合わせることになり、レースで戦うことになる。)   

招集所では全国のお友達?をつくる格好の場であり、レース前の駆け引きが行われる場でもある。小学生とは言え、全国大会に出場する猛者共の集まりでもあり、メンタルの削り合いが繰り広げられる。   

「おれ、この前の練習でタイム図ったら◯◯秒出したんだ!お前、ベストは?」
 「あ、あぁ、、おれも、それくらいかなぁ〜(なにぃ〜こいつ、おれより速い…)」   

普通に嘘ついてくるやつもいて、ここで自分の精神を正常に保てるかがレースの結果を左右する。特に短距離のレースでは、スタートから浮き上がり、一つ一つのストロークからゴールタッチまで、一瞬の緩みもミスも許されない。自分は苦しいことや目の前にある壁を乗り越える力はなかったが、ここらへんのブラフに動揺するようなメンタルではないことが強みだった。

  「自分のやりたいようにやろう。他は他、楽しんで泳ごう。」  

他選手の”削り”を難なくかわし、予選を無事に1位で突破した。 

休憩を挟み決勝前のウォーミングアップ。飛び込んで25mを数本、タイムを図る。心なしかいつもよりかなり集中していて、ボクも先生も口数が少なかった。サブプールから上がり、レース前に先生からの最後のアドバイスをもらう。  

「いいか、作戦を言うぞ。」
「うん、なになに?」 
「ラスト10mになったら、キノコを使えよ。」 
「は?キノコ??」  

よくよく聞いたらキノコとは、マリオカートにアイテムとして出てくるキノコの事で、  

「キノコ取るとよ、ばぁーんと速くなるだろ?あれを終盤に使うんだ。そしたら誰も追いつけない、優勝だ!!」   

子ども(バカ)にはわかりやすかった。 

 「うん、わかった!」  
迎えた決勝、真ん中のレーンからスタートし浮き上がると、既にトップにいることがわかった。誰も自分より前に出ている選手はいない。25m、半分を過ぎ、40mに差し掛かる。  

「今だ!キノコ!!ばぁーん!!!!」  

タッチし、電光掲示板を見上げる。32.89秒。自分が一番なのがわかった。人生で初のガッツポーズ。全国で一番高い表彰台。表彰式と言えばお決まりの「タ〜ンタ〜ンタタ〜ンタ〜ン、タタタタターンターンタ〜ン」を聞きながら、金メダルを首に掛けられる。  

「おめでとう」  
「ありがとうございます」  

そうか、おれは一番になったのか。  
金メダルをぶら下げながら帰るとみんな喜んでいた。自分も嬉しかった。なんか、ずっとキツいな、辛いなと思っていた水泳が初めて楽しいと感じられたから。

「おう、やったな、グッジョブ!」

初めてW先生と拳と拳を突き合わせた。レースが終わり、ホテルへ戻ると夕食のバイキングでは他クラブの色んなコーチから「おめでとう」という名の嫌がらせ、飯山盛り地獄が待っていた。 
 「いや〜お前今日はほんとよく頑張ったから、はい、ご褒美!おめでとう!」  
テーブルに置かれたのは皿いっぱいに盛られたブロッコリーの山(ボクはブロッコリーが大嫌いで、その情報をどこから調達したのか知らないが満面の笑顔で持ってきた)。ただでさえ少し興奮状態だし、心身疲れ切って好きなものですら喉も通らないのに、なんてひどい人たちなのだろう。こんな大人にはなりたくないと誓った夜だった。   

キツいことも、嬉しいことも、小学3年生から4年生にかけてのこの1年はとにかく色んなことが駆け巡り、自分でもあまり理解できていないスピード感で怒涛のように駆け上げていった。

「溺れかけてんじゃん!」と散々バカにされた人生初のガッツポーズ

なにかが変わる

全国大会で優勝すると驚きの変化が待っていた。

地元に帰り、学校へ行くとなぜかみんなこの出来事を知っていた。  
「ねぇ、酒井さぁ、水泳の全国大会で優勝したんだって??おまえすげぇーな!!」  

親戚にも、  
「悠生、すごいねぇ、今度は試合、観に行かなくちゃ」  

全国大会後、県大会に出場しても、それまで話したこともない他のクラブのコーチから話しかけられるようになった。  
「やぁ酒井くん、おはよう」 
「あ、お、おはようございます!」 
まぁまぁ人見知りでもあった自分にとって、この状況の変化には正直ついていけなかった。死ぬほど緊張してほとんど何も話せなかったが、地元のラジオ局に出演することになったり、市からスポーツ賞を受賞し表彰されたりもした。   

自分を中心に世界が回っているかのような感覚にさらされる。まるでヒーロー。どのコミュニティにいても、めちゃくちゃ視線を感じるようになった。当時、冬も問わず一年中ビーサンで試合に訪れていた(靴下履くのが嫌いだった)ことも相まって、酒井悠生は色んな意味で一目置かれる存在になっていった。   

余談だが、この時よく「天狗になるな」と言われていた。全国で優勝する選手はだれでも一目置かれるので、つい調子に乗ってしまい、態度がでかくなったり礼儀にかける対応をしてしまったりする。そうなるな、と。   

ただボクの理解はちょっと違う。経験したからこそわかるのだが、ボクが変わるのではない。周りが先に変わるのだ。普段冴えない男がキャバクラに行き、ちやほやされると横柄になったり気が大きくなるのと同じで、周りの急な変化に自分が自分でもわからずに、そうなってしまうのである。   

ボクはこれを「ノンストップ・マイセルフ状態」と呼んでいる(いま考えた)。これに関してはコーチや親、サポートする周りがちゃんとケアして欲しいし、今後の人生でそのような立ち位置の人が自分の周りにいたとしたら、手を差し伸べられる人間でありたいと思っている。「大丈夫落ち着いて、今だけだから」と。

駆け抜ける

話を戻す。自分の身の回りではちょっとした雑音がありながらも、勢いは止まらず4年生夏のJOでの優勝を気に、5年生、6年生になっても続けて優勝する。6年生の夏には、トビウオ杯という静岡で行われた別の全国大会にも出場した。   


日本水泳界伝説のスイマー「フジヤマのトビウオ」と称された、故 古橋廣之進さんの異名からつけられた大会だったそうだ。ここで出場した50m・100mバタフライ、フリーリレー、メドレーリレーの4種目で優勝し、4冠を達成。メダルの授与式では、古橋さんから直接メダルをかけられ、
「大きくて、いい泳ぎだった」
という言葉を頂いたのは、今でもちょっとした自分の自慢である。   

レース後、静岡にある新聞の記者からインタビューを受ける。人生初のレース後インタビューだった。  

「スタートのリアクションが1.2秒もかかってましたけど、スタートは苦手なんですか?」  
「あ、はい、苦手だし、ちょっとスタート音が聴こえなくて。。(本当に聴こえなかった)」 
 「それでも浮き上がるとトップでそのまま優勝、ゴボウ抜きしてしまいましたね!」  
「そうですね、焦らずに上手くテンポを上げていけば大丈夫だと思っていました!」   

それっぽいことをコメントし、やってやった感満々で大会を終える。しかし、後日新聞に書いてある自分のコメント欄を確認してみると、全然違うことが書いてあった。  
「なにこれ?こんなこと言ってない!!」  
小学6年生にして、新聞の内容のすべてが正しく書かれている訳ではないことを学んだのであった。   

それから半年後の6年生の春、中学生になる前の最後のJOでは、100mバタフライで当時の日本学童新記録(小学生までの日本記録)を樹立する。結局順位としては2位で負けてしまい、幻の学童新となってしまったが、神奈川県では敵なしになり、次々と記録を塗り替えていった。

メダルやトロフィーの数々、結構取ったな。。

その他の思い出

所属していたスイミングクラブにはボクの他にも数名、全国大会に出場するメンバーがいた。何より楽しかったのは、個人種目で勝つことよりも仲間とリレー種目でチームを組み、多くの大会に出場できたことだった。

水泳は個人競技なので常に自分自身と戦うわけだが、その中でも唯一リレー種目だけはひとりひとりがバトンをつなぎチームとして戦う、喜びも悔しさも共有できる競技なので、ボクにとっては何より大切な種目だった。(実際リレー種目の方が個人種目よりもタイムが断然良かった)

リレーチームとしてJOに出場すると、レース前日の夜にはかならず「ミーティング」があった。ミーティングと言ってもレースの作戦を話し合うわけでも、事前の準備や段取りを決めるわけでもない。ただただひたすら食わされるというものだった。

「おし、行くぞ〜、全員車に乗れ!」

W先生の愛車・GT-Rに乗り込む。だがあんな狭い車内に4・5人が入るわけもなく、じゃんけんで負けた人はトランクに突っ込まれた。
「これ警察に捕まったらヤバイよね!?」
「あぁダイジョブダイジョブ、その時はまくから安心して。」
そのまま静かな夜の晴海をかっ飛ばす。「苦しいよ〜助けて〜」とトランクから聞こえる叫び声をシカトし、よく行っていたのは吉野家だった。ボクらの要望は基本通らず、毎回出されるのは牛丼特盛。ホテルで夕食のバイキングをたらふく食べた(食べさせられた)あとにはさすがにキツかった。なんとか食べ終えても、「おかわりお願いしま〜す」。エンドレスだった。

陽気な仲間の一人が「すいません、ちょっと外で涼んできます!」と言って10分、20分経っても全然帰ってこない。心配して様子を見に外へ出ると、吉野家と隣の建物の間でゲーゲー吐いていた。迎えたレース当日、みんなして具合の悪さを訴え全国大会のレースに向うとは到底思えないコンディションの中、表彰台に上がったり、優勝を掻っ攫うのだから、ボクたちはよくやったなーと思う。

ここまではよかったけど


。。。。。。   

破天荒な先生や、一緒に切磋琢磨し合う仲間にも恵まれ、練習中は苦しいものの彼らと一緒にいれることが何より楽しかった。その楽しさを力に変えて、いい結果を残すことが出来たと思っている。もちろん良いことばかりだけではなくて、殴り合いの喧嘩もよくしたし、トラブルや問題を起こして説教もかなりされたけど、あの時過ごした時間は何よりも代えがたいものだった。

しかし、良い時は長く続かず、その後高校生まで水泳を続けていくのだが、主要な全国大会で、個人種目での優勝は小学生で出場した大会が最後となる。

「早熟な選手は大成しない」というジンクスがまことしやかに囁かれていたあの頃、ボクは文字通りの選手となってしまった。

中学生から高校生にかけ、ここから人生の中でも暗黒時代に突入していくことになるのだが、この時点ではそんなこと、だれも想像していなかった。


ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

続きのストーリーはこちら!

輝かしくも灰色だった高校時代、涙とともにさようなら

著者のYuki Sakaiさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。