感謝感謝感謝の人生かな?


家はうどん屋だった。お盆正月に両親が働いていても特に淋しいと感じたことはなかった。母が日帰りでどこかへ連れて行ってくれたから。父は絶対についてこなかった。父は僕と母には怖い人だった。姉と妹には怖くはなかったのかもしれない。二人とも怖い印象があるような感じではないから。小学校5年生の時、店に少年野球の監督とコーチが食べに来ていた。父が僕を呼び、「野球やるか?」と聞いた。特にやりたいと思っていなかったが入部した。僕は下手だった。ほぼ自主練習をしないので上手くなるはずがなかった。時々父がコーチに来て、ノックをした。僕の前の人たちまでは、子供の実力相当のノックをしていた。僕の時になると弾丸ライナーが飛んでくる。軟式のボールがゴォーと音を立てて襲ってくる。逃げるしかない。そんな父だった。
そんな厳しくする父が怖くて嫌いだった。父は負けず嫌いだった。少ない思い出の中の記憶の一つに競争をしたことがある。走る方だ。3年生ぐらいの時だっただろうか。上り坂を100m程走った。父は全力疾走。ぶっちぎりの勝利。父と何か勝負して勝ったことがない。手加減なしの全力勝負。そういうのがワクワクする父と同じ性格の子供なら悔しさをバネにして成長するだろう。しかし、僕は負けることによって自信を失っていく性格だった。
そんな父が僕が12歳の時に命を落とす。その詳細は書くことは出来ない。ただ、父の胸の上で「生きていてくれれば」というようなことをいって大泣きした。僕はなんだかんだ言って父が好きだったのかもしれない。
勉強が嫌いだった僕は中学を卒業して、母一人で守っていたうどん屋へ就職する。うどん屋の場所が都会ならうどんだけで勝負が出来たかもしれない。しかしうどん一本だけで営業できる地域ではなかったので、大衆食堂並のメニューがあり、弁当まで作っていた。出前もやっていたのお昼は大変だった。給料という給料を貰った記憶がない。水曜休みだが、火曜の夜に配達したおかもちを水曜の午前中に回収してくる。その食器を洗わないといけないので、まともな休みがないというのが嫌だった。そんな環境でも僕の欲しいものは買ってくれたし、コンサートなど行きたいと言えば行かせてくれた。その時の楽しみはラジオ投稿だった。民放とNHKによく投稿していて、それがよく読まれた。毎日のように葉書を出しては、ラジオを心待ちにしていた。そんな時、女性アナウンサーを本気で好きになってしまうが、9歳も年上の彼女に軽くあしらわれて、同局のアナウンサーと結婚して東京へ行ってしまう。でも、それほど大きなショックは無かった。僕が21歳の時、母の体力の限界でお店を廃業。この時、自分の店があるということがどういうことか僕には分かっていなかった。廃業時、少し借金もあったみたいで僕は当時時給が高かった期間工で働く。母は僕を高校へ行かせてやれなかったことをとても後悔していた。通信制の高校の案内を持ってきて、行きなさいと言われ、半ば母のために入学した。でも1年半で辞めた。学歴で悔しい思いをしたことが無かったので何とも思っていなかった。27歳の時福祉業界に就職をするまでの6年間、三菱、トヨタ自動車の期間工、精密機械のオペレーター、コンビニ弁当のライン工場、ガソリンスタンド、弁当屋、エレベーターの据え付け、土方、焼き芋、わらび餅の移動販売などいろいろな仕事をした。
福祉業界に就職する時、学歴がネックになった。中卒だと面接さえしてくれない企業もありとても悔しい思いをした。この時学歴は大切なんだと真剣に思った。以前入学した学校ではない通信制の学校に入学した。その年の11月に拾ってくれる企業があり老人介護の施設に就職することが出来た。それから22年老人介護業界で仕事をしている。介護福祉士、介護支援専門員、認知症上級専門士などの資格を取得した。介護保険施設の老健、特養、療養型、訪問介護、通所介護、グループホーム、サ高住を経験した。現在は特養にいる。
介護保険は良いシステムだと思う。ドイツの介護保険の二の舞にならないようにマネジメントを導入したところは素晴らしい。しかし、介護保険では高齢者も障害者もある程度までしか幸福になれないとも感じている。介護保険の限界を感じている。サービスを受ける側でいる限り本当の意味での自立はない。虐待もなくならない。サービスを提供する側に立たせた上げることが本当の自立に導くことが出来るのではなかと確信している。
サービス提供する側、それは一般就労だ。僕は認知症就労支援事業を立ち上げるためにいろいろ考え、事業資金を貯めている。
僕の約半世紀の人生は、どちらかというと人のせいにする人生だった。自分で責任を取らない人生だった。父の教育は、少し虐待チックな教育だった。それでも今から考えれば、厳しい人生を強く生きて行けというメッセージが込められているのではないかと思う。なんど負け、打ちのめされても立ち上がれ!立ち上がれば未来がある!と言いたかったのではないかと思う。
僕には未来が見える。認知症就労新事業で認知症の方々が生き甲斐をもって働き、お金を稼いで、自由を手に入れる。自分の残りの人生全てを認知症就労支援事業に捧げるつもりだ。

著者のNoriyuki Haradaさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。