最初で最後の雨の日。投資家として飛行機なしの世界一周 その1

 深夜バスの窓に、流れる雫を見ていた。雫はぱらぱらと窓に飛びつき、風に身を震わせながら、流れ落ちていった。落ちても落ちても、絶え間なくやってきて、ほかの雫とくっついたり、大きくなったりしながら、流れていった。

 大阪行きの深夜バスの中で、僕はそれを無心に眺めていた。眺めながら、子供のころを思い出した。親の車の後部座席で見ていた、同じような景色。そのときは飽きもせず、ずっと眺めていられた。でもなぜか大人になってからは、あまり見なくなった。親の車に乗らなくなり、移動中にほかのことをするようになったからだろう。意味のないものに気を捕らわれている時間など、なくなってしまったのかもしれない。

 気づくと、窓の奥の暗闇の中に、頬杖をついている自分がいた。目に力はなく、ガラスと同じように無表情だ。思えばこの数週間は人に会ったり準備をしたり、ひどく慌ただしかった。特に直前の2、3日は目まぐるしく、「これから世界を旅するんだ」という実感のないまま、時間だけが過ぎ去っていった。そしてようやく今、バスに乗り込んでやるべきことがなくなって、心が静かになったところだった。

  我に帰り、辺りを見回した。隣には外国人の男性が座っている。ネックピローを首にかけて、すでに眠っていた。前方のフロントガラスの向こうでは、丸い光の中に、黒い地面がひたすら流れ続けてる。絶え間なく続く、窓に雨が打ち付ける音。タイヤが路面の水を切る音。それらに囲まれたバスの中は、暗く静かだった。バスの細かな振動に揺られていると、僕もだんだんと眠くなってきた。2008年3月6日、世界一周出発の日の夜。僕はひどく疲れていた。

 朝、大阪につくと、まだ雨が降っていた。背骨にきしみを感じるほど重いバックパックを背負い、歩きだすと、漠然とした不安を感じた。 これから待ち受けている冒険の規模の大きさと、日本の日常から抜け切れていない自分とのギャップに戸惑い、少し弱気になった。 暖炉のある小屋の中にいることも出来るのに、わざわざ危険を冒して冬山を登りにいくような気分だった。
「これから俺は一体何をしにいくんだろう。飛行機なしの世界一周なんて、本当に可能なんだろうか」
 しかしそういう気持ちになることも予期していたことだった。すぐに終わる感情だと分かっている自分もいた。僕はまだ温かいベッドの中にいて、外に出るのが億劫なだけなのだ。外に出てしまえば、その億劫さはすぐに忘れ去られるだろう。

 上海行の船に乗るため、大阪港に向かった。途中、スーツを着て、傘で顔の隠れた人たちの群れに逆行して歩いていると、男とぶつかった。男は振り向き、僕も振り向いた。お互いのいらだった目と目が合った。僕はすぐに前を向きなおし、彼から離れていった。

 港では、多くの中国人がたむろしていた。帰省するのだろうか。子供を連れた家族が多かった。皆同じような、大きな四角い手提げバッグを抱えていた。他にも日本人や白人のパックパッカーがいた。ようやく、向きを同じくする者同士の場所に来れたことを感じた。

 船に乗るとすぐに甲板に出て、離れていく大阪港をながめた。相変わらず雨が降っている。曇り空、何棟かのビル、海と小型艇、見えるもののほとんどが灰色がかっていた。いくつかの赤いコンテナが、その鈍重さにもかかわらず、浮きだって映えるほどだった。しばらくすると一匹のカモメが空を飛んでやってきた。カモメは船を追い越しては旋回して後ろに回り、また追い越すということを繰り返していた。飽きもせず、ただ一匹で、それを繰り返していた。


 カモメを30分も見ていただらうか、雨がやみはじめ、僕はなんだか気分が軽くなりだし、船内に戻った。船内には中国語の表示が多くあり、麻雀部屋や卓球台もあった。客のほとんどは上海に向かう中国人で、ここはほとんど中国だった。さらに歩き回っていると、一人の日本人に声をかけられた。瀬野という男性だった。彼も上海から入って東南アジアを回るという。
「ルートが似ているからこれから何度か会うかもね」
と彼は言った。

 夜になると、瀬野と外に出て、ビールを飲んだ。雨はもう降っていなかった。甲板に乗り出して外を見ると、海も空も真っ暗で、船が暗闇の中に浮いているようだった。闇の奥の空中には、赤や緑の光の粒が数個、並んで揺れているのが見えた。光の粒は宙に浮いているようだったが、直線に並び、乱れることなく、上下に同時に揺れていた。その揺れ方はとても奇妙なもので、瀬野と「あれはなんだろう?」と話していた。僕は不思議なものを見てしまったような気になり、目を凝らして見ていた。

 しかししばらくすると、それは水平線に並ぶ漁船の光であることが分かった。余りの闇の深さに、水平線がわからず、光が空中にあるように見えたのだ。そして揺れているのは船であり、僕だった。分かった後でさえ、それは何か、ことわりの違う世界の景色のように見えた。気付くと僕は、見知らぬ場所で、見知らぬ人と話し、見知らぬ景色を見ている。それまでとは全く違う不思議な感覚になっていた。僕は急速に、旅の世界に引き込まれていたのだ。

 翌日、上海に着くと、瀬野とユースホステルを目指した。けたたましく排気ガスを吐いていく車。歩道でバナナや飲み物を売っている薄汚れた男たち。そのわきを歩き回る野良犬。向こうのほうに見える近代的な高層ビルと、夕日を跳ね返すテレビ塔。世界が急に変わった。ここは中国であり、僕はユーラシア大陸の端に渡ったのだ。





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