中国入院日記2 投資家として飛行機なしの世界一周 その9

 目覚めると知らない部屋にいた。意識を失う前にいた病室から比べると格段に綺麗な部屋で、何人かの看護婦さんがせわしなく動いていた。僕のほかに二人の患者がいて、二人とも意識はなく、心臓の波打つ映像を映すモニターだけが、ピコンピコンと音を出していた。

生きてる。。。

 何時間意識を失ってたんだろう?分からない。あのガスマスクは、全身麻酔の睡眠ガスみたいなものを出していたんだろうと気づく。

 腕は、、、ギブスと包帯でぐるぐる巻きにされていて、動くかどうか分からない。痛みと熱さだけがある。

 指は、、、ぎこちないが動くようになってる!

 声は、、、枯れてるが出る!!

 ただ、体中が管だらけになってる。点滴の注射がいたるところに刺さってて、身動きが取れない。鼻にも酸素チューブが入ってる。そして、下半身にも、、、管が入ってる。

 経験のある人は分かるかもしれないけど、これがメチャクチャ痛い。小便をするたびに激痛が走る。だから我慢するんだけど、点滴を打ってる間はしたくなるのがとても早くなる。だから恐る恐るするんだけど、もうホントに身をよじるほど痛い。

 じっとしながら腕を切ったときのことを思い返した。あの時ドアが開かなかったのは確かだ。どんなに頑張ってもビクともしなかった。

 そこでガラスを割ろうと決断する。

 これを読んでいる人はもうちょっと待てば良かったのに、と思うかもしれない。でもあの時の尋常じゃない焦りと息苦しさは、実際に体験しないと分からないと思う。

 でもガラスを「拳」で割るという行為は。。。もっと冷静になって考えるべきだった。何かを投げるという選択肢があった。シャワーは固定されていたのでそれで割るのは無理だったけど、シャンプー入れみたいなのを持っていたのでそれを投げてみてもよかったかもしれない。女だったら当然何かを投げることになるんだろう。でもガラスで割るシーンってTVとか映画とかでよく見るし、俺はほとんど反射的にパンチすることに決めていた。閉じ込められた恐怖で舞い上がっていたのもあるかもしれない。さらに悪かったことは、曇り窓で厚いと思っていたガラスが、極端に薄かったこと。しかも粉々に割れるんじゃなくて、安物によくあるような、デッカイかたまりになって割れるやつだったこと。だから思ったより簡単に割れて腕が奥に入ってしまった。

 シャンプーはコンビニで売ってるような携帯用の小さい奴だったので、恐らくそれでは割れなかったと思うが、もう少し慎重になって色々と考えてもよかった。

 ホントに後悔する。

 でもすでに起こったことを今更悔やんでも遅いので、とにかく一日でも早く治すことを考えなければいけない。

 そんなことを考えながら数時間ボーっとしてると電話を渡された。

 友達だった。「え?何故?親じゃなくて?どうやって番号調べたんだろう?」と思った。

 「大動脈切ったらしいじゃん!大丈夫!?」

 「え。俺大動脈切ったんだ?」
 まぁそこまでいってるだろうとは思ってたけど。この病院では英語を話せる人がほとんどいないので、専門的なことになると日本のほうが情報が早いし、一回日本を通さないと確かなことが分からないという不便な状況だった。

 友達との電話が終わるとすぐに親からかかってきた。僕は自分の状況もよく分からない状態だったが、とにかく帰国を迫られるのがいやで、全然大丈夫だと言った。

 あまり考える力もなく、この日は痛み(特に傷と関係ない下半身の痛み)に堪えながら一夜を越した。


 翌日、昼に一般病棟に移されることになった。この時はそう言われて意外と回復が早く、たいしたことないのかもしれない、なんて思ったりした。

 一般病棟に移るとき、長岡さん夫妻が駆けつけてきてくれた。

 彼らは、カンボジアの首都プノンペンで会った、世界一周中の夫婦だった。その時は急いでいたのであまり話せなかったのだが、長嶋さん夫妻はカンボジアから東に行ってベトナムなどを周るということだった。僕は西回りにタイ、ラオスを目指すルートだったので、再会することなど想像だにしていなかった。しかし偶然、中国の大理という町で会うことになった。旅をしているとこういうことが時々ある。

 しばらく話して僕は先に麗江に向かった。

 「良い旅を」と言って。

 それが次会ったときには、全身管だらけになってベッドごと移送されてるところだったので、向こうもたいそう驚いたと思う。

 長嶋さん夫妻にはホントにお世話になった。感謝の意を伝えると、ベトナムのサイゴンでデジカメを盗まれた時の話をしてくれた。警察への行き方が分からず困っていたとき、ベトナム駐在の日本人に会って送迎から通訳まで何から何までしてくれたらしい。で、「困ったときはお互い様」と言われたらしい。

 当たり前の言葉だけど、身にしみる。俺も「困ったときはお互い様」の輪をつなげなければいけないと思った。


 そんなこんなで警察の人や宿の人がお見舞いに来てくれたりして、あっという間に夜を迎えた。そして一人になると、色々と問題が浮上してきた。

 まず、一般病棟では看護婦も医者もみんな英語がまったくしゃべれない。僕は片言なら中国語もしゃべれたけど、それじゃ限界がある。(いや、英語も片言だけど。)で、看護婦は「中国語がしゃべれないならお手上げだわ」みたいな感じで全然取り合ってくれない。

 そして僕は身動きがまったく取れない。しかもこの病院では日本ではありえないことだけど、食事が出ない。中国、少なくとも雲南省では、誰かが入院したら家族が24時間付き添うのが常識らしく、それができないなら自分で買いに行くしかない。でも僕は家族もいないし、ベッドから離れられない。だから小便も一人じゃできない!

 しかもこの病室は僕を含めて三人の患者がいて、僕は一番ドア側のベッドだったのだけれど、向こう端の窓側の患者が若者で、その見舞いにきてる友達たちがモックモクにタバコを焚いている。そういえば見舞いに来た警官もタバコを室内で吸ってた。そして床にポイ捨てする。たまった吸殻は一日一回モップで掃除されるのだけれど、汚いトイレと一緒に掃除するので、床は見た目は綺麗でも、素肌じゃ触れられないほどの不潔感がある。

 さらに、僕のベッドの前にトイレがあるのだけれど、そのトイレが半端なくクサイ。ヒドイ時は寝ててもベッドまで匂ってくる。

 堪えられなくなって看護婦を呼び、朝までいた綺麗な緊急治療室に戻してくれと頼んだ。でもそれは無理だといわれた。あそこは急患のための部屋だという。
 「それは分かるが自分は外国人で中国語が話せないからなんとかならないか」
 と聞くが、やはり無理だという。そして約20日ほど入院するだろうとも言われた。

 このとき僕がどれほど不安だったか。

 小便がしたくなるたび、ブザーで看護婦を呼び、尿瓶を取ってもらい、当然部屋中の人を起こした。痛みと不安のなか、眠れない夜を過ごした。

 翌朝隣のベッドの、夫を看護してるおばさんが、朝食のおかゆを買ってきてくれてそれを食べさせてもらった。夫の面倒も大変だというのに、わざわざおかゆを一口一口スプーンで運んでくれた。微笑みながら優しく面倒をみてくれたおばさんの優しさに、涙がこぼれた。

 しばらくして宿の人たちがきた。一人のおばさんを連れてきていた。35歳で名前を王(ワン)といった。お金はかかるが、ヘルパーとして24時間俺に付き添ってくれるらしい。

 この時からかけがえのない経験となる、麗江市人民病院、外二科の入院生活が始まった。

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