おさむ
私の名前は、遠藤 修 兼業農家の次男坊として生まれて平成31年の3月を生き抜くと昭和と平成次の元号の三つの時代を生きることになるのだが、自分が生きてきた世界といえば生まれたとき持ち家の暮らしで父親と母親と祖母が一緒に暮らしていて、その他に居候というか伯父が一緒に暮らしていて一軒の家で7人と犬と猫が一緒に暮らしていた。
私の母親は、美人という呼び方が不適当顔立ちで良く結婚できたものだと常々思っていた。
しかし、顔は不味いといっても3人の子供をもうけているので、その点は褒められそうなのだが、いかんせんずぼらな性格というのか一昔前で言うところのオバタリアンという言葉が適当で働いていた場所も畳屋で男と同じ仕事をしていたのだが、なぜ女性なのにそんな仕事を選択したんだろうといつもに不思議に思っていた。
外見は太っていて女性と呼ぶにはちょっと戸惑うところもあり育った環境が悪かったのか、母親自体が親戚に疎まれていたのか定かではないが、母親の兄弟の中に小さいながらも会社経営をしていそうな叔父がいるのにも関わらず叔父の会社の近くの金属加工会社で働くなど母親は、容姿と性格的な部分で自分に甘く自己中心的に物を考えて子供にも煙たがれる存在になってしまっている。
お金が足りないとか言うと消費者金融に借金をしに行って生活費に充てていたような所もあり正直一日も早く母親のそばから離れたかったのだが、いかんせんお金にだらしなく母子家庭になってしまっていた我が家では歯止めをかけなければならないはずの長男も自分のことしか考えておらず東京に上京して土建会社で働き始めたもののどこかで自分がボンボンという認識があったのか、小学校と中学校の自分には、母子家庭で経済的ゆとりがそれほど無いという認識が、できていなかったようで両親がいる家庭であれば普通に買って貰えるである品物も母子家庭で母親一人で家族四人の生活を維持する事が難しいという考え方ができていなかったし、その当時の小学校や中学校の先生もそこまで深く我が家の経済的事情を踏まえてくれていなかったようで、長男の就職に関してももなぜ東京での就職を斡旋したのだろうか?長男自身が、上越市のような田舎で就職するよりも東京で働いた方が華やかな環境で垢抜けていると思って東京を選択したのか深いところは聞いたことが無いが、長男自身が父親と離婚した母親に対して罰を与えようと考えて一日も早く馬鹿な母親の元から離れたいという考え続けていたのかも知れない。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?

著者のEndo Osamuさんにメッセージを送る
メッセージを送る
著者の方だけが読めます