絶望の中出会った忘れられない人

息子の体調が悪化したのは、生後6ヶ月の事だった。
「どうしたんですか、これ!」
総合病院小児科の医師は、荒い息を吐いている息子を見るなり顔色を変えた。
「近所の病院では風邪だと言われたんですけど……」
「そんなわけないでしょう!」
待合室は人で溢れていたが、医師はその後の外来診療を全て打ち切り、息子の検査を優先してくれた。
「細菌性髄膜炎ですね。重篤です。命の危険があり、治っても障害が残る可能性が非常に高い」
恐ろしい宣告が行われ、抗生剤の点滴による治療が始まった。
息子はICUに運ばれた。目は苦しげに閉じられたままだった。

息子はとてもよく笑う赤ちゃんだった。
目さえ合えば、誰にでも笑いかけた。
ふっくらとした頬がりんごみたいに赤くて、アニメのピカチュウにそっくりだった。
その頬が今や土気色になっている。
夜中に親族達が駆けつけた。
「あんなに元気だったのに」
点滴に繋がれた息子を見て、誰かが絞り出すような声で泣き始めた。

幸いにも治療はうまくいき、息子は3日ほどすると意識を取り戻した。
命の危険が去ったため、息子は大部屋に移された。
一週間経つと、かすかに唇を動かすようになり、四肢や首のこわばりも取れていった。
順調に息子は回復への道を辿っていた。
難聴の恐れあり、と言われたのは、入院生活が3週間ほど過ぎた頃だった。
「80デシベルの音も聞こえていません。言葉を習得する前の聴覚障害ですので、適切な訓練をしないと知能が遅れる場合が高いです」
80デシベルとは電車やピアノ程度の音量を指す。
私は息子に、様々な音を聞かせてみた。
テレビの音量をうんと上げてみた。目覚まし時計のベルを最大音量で流した。
その頃の息子はすっかり元の調子を取り戻していたので、何か私が企んでいることに気がついたらしく、いたずらっぽい笑顔を浮かべて私の動きを注視していた。
片方の目だけを細めた、ウィンクをしているみたいに見える特徴的な笑顔は、息子の得意技なのだ。
息子が追うのは私の動きばかりで、音には1度も反応しなかった。
視線がかすかに動くことすらなかった。
彼の耳には音が届いていなかった。

総合病院の小児病棟には、重い障害を抱えた子どもたちがたくさん入院していた。
その中に10歳の男の子、飛鳥くんがいた。
飛鳥くんは障害のために転倒しやすく、怪我をしないようにとヘッドギアを付けていた。
てんかんの恐れがあるということで、検査入院中だった彼は、息子をとても気に入っていた。
「か〜わいい〜赤〜ちゃ〜ん」
のんびりとした声でそう言うと、しょっちゅう私たちの病室に顔を出し、息子の頭を撫でたり、ほっぺたをつついたりしていた。
飛鳥くんママは飛鳥くんが転ばないようにと、ぴったりと彼の真後ろにくっついていた。
常に飛鳥くんのそばにいて見守るという生活を、10年間、ずっと続けてきたのだと言う。
聴力検査の結果について弱音を吐くと、飛鳥くんのお母さんは満面の笑みで私の背中をどんと叩いた。
「まだ回復の途中なんでしょ。時薬には名前のとおり、時間がかかるの。落ち込んでちゃダメよ」
飛鳥くんにも、ちょうど息子と同時期に、良くない検査結果がもたらされていた。
「仕方ないよ。症状が1個増えただけだもん。今まで通り、笑顔で頑張っていくしかない」
飛鳥くんママはどこまでも気丈で、びくついている自分が情けなく思えるほどだった。
小児病棟にいるママたちは、こぞってポジティブで明るかった。
同室のれいなちゃんは、食べることも喋ることも、起き上がることもできなかった。
痰の吸引を慣れた手つきでこなしながら、れいなちゃんママはこう言っていた。
「うちの子ってすごいのよ。救急車に今まで何回も乗ったの。それにね、1度は心臓が止まったのに、甦ったんだよ。だから不死鳥れいなって呼んでるの」

どの人も息子の事を心から気にかけてくれていた。
「良くなるといいね」「大丈夫だよ」と何度も声をかけてくれた。

息子が入院したての頃の私は、高い塔の上を恐る恐る歩いているような気分だった。
細菌性髄膜炎。
水頭症、難聴、てんかんなど、重篤な後遺症を引き起こす、大変な病気。
そんなこと、いきなり言われても、何が何やら全然わからなかった。
そして検査結果を聞くたびに、奈落の底に落ちそうな恐怖を覚えた。不安で不安でたまらなかった。
お見舞いに来る人の中には、「信仰心が足りないからこういうことになった」などと、罪悪感を煽るような物言いをする人がいて、なおさら気持ちが乱れていた。
そんな中、飛鳥くんママやれいなちゃんママに会った。
私なんかより、よっぽど大変なことをくぐり抜けてきた人たちが、今現在も、荒波に立ち向かっているはずの人たちが、笑顔でたくましく生きていて、私なんかのために時間を作り、励ましてくれる。
彼らは、暗闇を照らす、一条の光そのものだった。
信仰心が足りないから不幸になるなんて大間違いだ。
飛鳥くんもれいなちゃんも、このママを選んでやってきた。
息子も私を選んでやってきた。だから全てを受け入れて、明るく生きようと、心の底から思えるようになった。

息子の退院の日がやってきた。
最後の聴力検査も芳しくなかったため、これからは支援施設に通うことになる。
帰宅準備を始めていると飛鳥くん親子がやってきた。
「赤ちゃんや〜」
今日でお別れだと知らない飛鳥くんは、いつもの調子で声をかけてきた。
と、息子がくるりと飛鳥くんに向かって体を向けた。そしてニコッと笑った。
「え?」
私と飛鳥くんママははっとして視線を合わせ、次の瞬間、同時に両手を打ち合わせていた。
パチン。
パチン。
息子は音のする方を順繰りに見た。
「聞こえてる!」
飛鳥くんママが私の手を握り飛び上がった。
「聞こえてる! 聞こえてるよ! よかった。本当によかったね!」
飛鳥くんママの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。
私はもう何も言えなくて、無言で彼女の手を握り返した。

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