幸福な花嫁

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「晩御飯は、七時に、こちらのお部屋で召し上がっていただきます」
 旅館の部屋食というのを、テムジンはテレビのグルメ番組でしか見たことがない。宿泊施設での食事というのは、プラスチックのトレーに皿を載せてウロウロするものだと思っていた。
「家族風呂に、皆で入るんか?」
 八郎は真顔で言った。あずみは真っ赤になり、浴衣と丹前とタオルを持って、さっさと湯に行ってしまった。
「何、怒っとんねん、あいつ」
「まあ、お父さん。折角だから、ゆっくり湯に漬かりましょう」
 湯も食事も素晴らしかった。
 八郎はよく食べ、よく笑い、よく飲んだ。食事の後、老人はカラオケに行くと言い出した。
「男二人で行って来てちょうだい。私は、部屋でゆっくりします」
 あずみは、テラスの籐椅子に座り、真っ暗なガラスの向こうを見つめながら言った。テムジンは、後ろ髪を引かれる思いをしつつ、千鳥足の八郎を補助し、カラオケ部屋へと向かった。
 数時間後、飲み疲れ、歌い疲れて部屋へ戻ると、川の字に敷かれた羽毛布団の隅っこに、あずみが障子に顔を向けて寝ていた。
「わしは寝るさかい、あとは若い二人で、ほっこりしぃ」
八郎は、そう言って、あずみから離れた布団にもぐり込んだ。
「耳悪いさかい、声出しても聞こえまへんで」
 老人は目を瞑ったまま言った。
 テムジンは、しばらくバルコニーの椅子に座って、冷蔵庫にあった、市価の三倍はするビールを飲みながら、父と娘の水入らずの旅に紛れこんでいる楽園の蛇のような自分の立場について、堂々巡りの自問自答を続けていたが、やがて酔いに負けて、父娘の間に身を横たえた。
 自分の右隣には、あずみがいた。彼女は目を開き、天井を見つめていた。彼女の瞳が窓から差し込む僅かな光源を受けて、キラッと光るのが見えた。左隣には老父が寝息を立てていた。
 家族とは、こういうものなのだろう。やがて老父は消え去り、夫婦の間には子供が寝るようになる。テムジンにとっては、すべて演技だが、他の多くの人々は、そういう日常を現実として生きている。たまらなく悲しい気持ちに襲われ、彼は分厚い羽毛布団の中に顔を埋めた。

  ◆◆◆◆◆◆

 有馬温泉への旅から、さらに一週間が経ったある日、テムジンのスマホにあずみからのメッセージがあった。
「結婚式の日程が迫っています」
 そのあとに、汗をかいた丸顔の絵文字が、お決まりのように添えられていた。
「ナンノコトデスカ」
 テムジンは、わざとカタカナで返信した。何らかの形で茶化さないと、その現実は恐ろし過ぎた。
「アナタガ チチニ イッタデショ。コンゲツノ 20ニチニ、ノリカミタイナ ケッコンシキヲ スルッテ」
 あずみの精神状態も、テムジン同様混乱の極みをきたしていると考えて間違いなかった。
「ソンナコト、言ッタヤウナ、言ハナカツタヤウナ」
 テムジンは、テキストを打ちながら体温が熱くなっていくのを感じていた。
 八郎が、本気で結婚式に出ることを楽しみにしているとすれば、自分たちは恐ろしい罪を犯していることになる。―-それもこれも、あの爺さんが死なないからだ!
「モウ、イヤ! ワタシハ、モウ、ツカレマシタ」
「すぐ行きます」
 そう返事を送ると、テムジンは自宅を飛び出し、自転車に飛び乗った。彼の家から、八郎たちの住む公団住宅までは、くねくねとした坂を下っていけば十五分ぐらいで着く。
 団地の自転車置き場に自転車を放り込み、エレベータに飛び乗った。彼女が早まったことをしなければいいが。九階まで上がる途中、テムジンは、包丁で父を刺殺した後、建物のてっぺんから飛び降り、美しい死体となって燃えないゴミの上に横たわっているあずみの映像を含め、あらゆる恐ろしい状況を想像した。
 ドアのブザーを鳴らすと、あずみが現れた。テムジンは、彼女の全身をさっと見渡したが、返り血を浴びているというわけではなかった。
「お父さんは?」
 そう尋ねると同時に、部屋の奥から八郎の陽気な声が聞こえて来た。
「婿はんか。よう来た、よう来た。今、久しぶりにモーニングを引っ張り出して、ちょっと着てみたんや。昔、加古川の姉の結婚式の折に誂えた服やけど、さあ、あれから肉が落ちたさかい、着れるかどうか……」
 あずみは、泣きそうな目をして、無言でテムジンを見つめていた。
「本当のことを、話しましょう。きっと、理解してもらえると……」
 テムジンは、それだけ言うのがやっとだった。あずみは部屋から出て、扉を後ろ手に閉めた。空は曇っていて、六甲颪をまともに受ける吹き曝しの廊下は、凍える程寒かった。
「何とかしたいけど、もうお金が残ってないんです。貯金も全部使って、カードローンまでして……」
 神戸牛ステーキと有馬温泉で破産する貧乏人というのも悲しいが、そこまでして親を思うあずみの志にテムジンは打たれた。
「じゃあ、形だけでも式を挙げますか? あのホテルの一番安いコースで。役者仲間を集めれば三十人ぐらいは来ます。予算って、だいたいいくらぐらいです? 二十万あれば、なんとかなりますか?」
「二百万ぐらいは……」
「今の話はなかったことにしましょう。ここは、正直にお話しするしかないでしょう。僕に任せてください」
 扉に伸ばしたテムジンの腕を、あずみは一瞬片手で抑えようとしたが、すぐに目を伏せ、その手を引っ込めた。
 奥の和室では、八郎がやせ細った体にダブダブのモーニングを着込み、鏡を前に苦労してネクタイを締めているところだった。
「何や、チャップリンになったような気分やな」
「お父さん」
 テムジンは、八郎の背後から声をかけた。その後ろには、あずみが控えていた。
「何や、婿はん、あらたまって」
 振り返った八郎の顔には、優しい笑顔が浮かんでいた。テムジンは、ジャンパーのポケットの中で拳を握りしめた。
「実は、お話ししたいことがあります」
 八郎の顔から笑顔がすーっと消えた。彼は、テムジンとあずみをダイニングに誘い、テーブルに着かせた。お茶をいれようと立ちかけた八郎を制して、テムジンが告白を始めた。
 自分はITの社長でもなければ、あずみの婚約者でもない。お父さんが好まないタイプのテント芝居の役者にすぎない。今まで嘘をつき通してきて、お父さんには申し訳なく思っている。しかし、すべては臨終の父を安心させようという、あずみの親孝行から出たことであり、彼女の純粋な思いが天に通じたがゆえに、お父さんも今こうして元気になられたのである。また、こんなことがなければ、父娘がこれほど水入らずで楽しい数週間を過ごすことはできなかったのではないか。彼女のような優しい女性には、今にきっと素晴らしい婚約者が現れて、きっと幸せにしてくれると自分は確信している。そういったことを、テムジンは一気にしゃべった。
 八郎は、その間、ずっと肩を落として聞いていた。テムジンが語り終わったあと、かなり長い間沈黙が流れた。
「何もかも……、幻やったんか。あずみに婿さんができたのも、夢か」
 八郎が口を開いた。消え入りそうな声だった。
「ああ、あのとき、死んどったらよかった」
 突然、あずみが立ち上がり、何かに憑かれたように廊下を歩いて表の扉を開け、外へ出た。
 一瞬遅れて、テムジンはその後を追った。
 吹き曝しの廊下を、手摺壁に沿って、彼女は靴下を履いただけの裸足で歩いていた。右手には六甲連山と麓の街が広がっている。アルミ製の手摺支柱のあるところで、彼女は急に立ち止まり、体を九階の手摺から乗り出した。
 あずみは、生と死の境目に立っていた。一歩踏み出せば、彼女の人生は終わる。一九四七年五月のニューヨークで、初夏の優しい光に包まれて死んでいた、あのブロンドの美女のように。
「動かないで」
 テムジンは、彼女の背後に立ちすくんだ。六甲山から吹いてくる風がぴたりと止んで、不気味な静けさがあたりを支配していた。
「肩に……、蝶が」
「え?」
 あずみは、自分が手摺壁の外側に立っていることに、今やっと気づいたかのような声を出した。
「右側の肩に」
 彼女が首を右に動かすと同時に、何か白いものがひらひらと空へ立ち上った。
 テムジンは彼女に駆け寄り、手摺を超えて後ろから羽交い絞めにした。二人の体は廊下に転がり、あずみはテムジンの腕の中にすっぽり入っていた。メガネの下で、彼女の黒い瞳は脅えたようにテムジンを見ていた。彼女がまっすぐ彼を見るのは、おそらく初めてだっただろう。
「飛び降りると、思いましたか?」
 あずみが、喘ぐように声を出した。
「何というか……」
 テムジンは、しばらく沈黙した。倒れた拍子に脇腹をしたたか打ちつけたので、呼吸が苦しかった。
「何が起こっても、おかしくない世の中ですから」
 世の中は何が起こってもおかしくない。それは、世の中を作っているのが人間という、何をしでかしてもおかしくない生き物だからだ。
 テムジンは、あずみの目を見つめ、そして少し開いた唇を見、再び彼女の目に視線を戻した。
「結婚、しましょうか?」
 テムジンの口から出た声は、かすれていた。
 あずみは、まだ無表情でテムジンを見つめている。
「ほんとうに、僕たち、結婚しましょうか」
 しばらく、あずみは蝋人形のように微動さえしなかったが、やがて、その唇が、そして次に体全体が小刻みに震え始めた。
「変なこと言うようですけど、あなたのことが好きなんです。いや、好きというか、もっとその……、守りたいというか……」
「蝶が、ほんとうに、肩にとまっていたんですね」
 あずみの目が、輝きを取り戻した。彼女はまだ震えている。
「ねえ、結婚しませんか?」
 テムジンは、もう一度問いかけた。
 彼女は目をしっかり見開いて、不思議そうな顔でテムジンを見つめていた。
 一羽の白い蝶が、二人の人間の間に一片の花びらのように舞い降りて、あずみの前髪にとまった。

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