あの日

それは、突然始まったもう一つの人生。ADEMという病気により障害者となった人生の分岐点。その時何があったのか、何が起こったのか。妻の目線で伝えます。

突然の電話

PM3:00(1日目)

子供をあやしながら夕食の準備をし、風呂の給湯のスイッチを押したときに夫から電話があった。頭が痛いという。家に薬があるかと尋ねられたので、買い置きはないのでどこかで買って帰るように促して電話を切る。

ここ数年は仕事が忙しく、帰宅はいつも日付が変わることが多く、早い時間に帰ってくるなんてよっぽど調子が悪いのかと思いながら、子供たちの世話をする。

PM10:00 夫が帰宅。

薬は自分で買ってきたらしく、ほんの2、3口食べ物を口に入れ薬を飲んで就寝する。

AM8:00(2日目)

翌朝になっても頭痛は収まらず、熱を測ると39.5度。
普段から発熱をすることは珍しく、やはり仕事の忙しさが響いているのかと思い会社を休むように告げると、どうしても外せない要件があるから送っていくように頼まれる。

車で指定された場所に向かっている途中も、あきらかに体調は悪くなり、会話の受け答えも怪しくなっていった。このままでは仕事にならないだろうと説得し、会社が指定する内科病院に向かった。

打ち合わせが終わったらすぐタクシーで帰るよう伝え、病院前で降ろす。

病院に着いた時点で意識が朦朧としてきていたのだろう。
受付では昔の家の電話番号を書いているし、診察中に意識も失ったらしい。
とりあえず点滴を受け、風邪薬を処方してもらいタクシーで家へ戻ってくる。

熱も高いので体を冷やしながらしばらく寝る。
夜になって熱と頭痛の苦しさに耐え切れなくなり、
自分から救急車を呼んでくれと訴える。

PM9:30 救急車到着。

娘が特に涙をためて不安そうではあったが子供達を残し直ちに出発。
行きたかったS病院には受け入れ枠がないと言われO外科へ搬送。
外科???に疑問は抱きつつも救急病院指定ということでとりあえず搬送。

たどり着いたO外科での診療は、意思の疎通が全くできないものだった。
確かに患者家族と医師とでは、事象の受け止め方が違うとは思うが、それでも

「ひどい風邪ひいちゃったんですかね~。ひとまず点滴して様子をみましょう。
とりあえずはそれで帰ってもらって治らなければまた来てくださいね。」

という対応には、不信感を通り越して怒りさえ覚えた。

点滴を受け多少熱がひいてきたので2時間程様子をみてタクシーにて帰宅。
……ジスロマックを処方される。


AM1:00再び熱が上がる。40度。
 

二度目の救急搬送

夜は2階で寝ていたはずなのに、1階のソファーで苦しそうに横になってる。
しゃべりかけても昨日のようなはっきりした反応がない。すぐ救急車を呼ぶ
熱は40.0度。

AM8:00(3日目)

心配そうな娘をなだめ、学校へ行かせる。そして救急車到着。

AM8:30

弟は幼稚園を休ませることにする。救急隊員がストレッチャーを運んでくるが、歩けるから大丈夫だといい自力で救急車に乗る。息子と3人で救急車に。

「K病院でいいですか」

救急隊員の問いかけに言葉を失う。
K病院は自宅から50m先にある整形外科だ。
症状が高熱ということで甘く判断された。

「昨晩も救急車で運んでいただいたのに今朝になってもこんな状況なんですよっ!!
S病院に聞いてくださいっ!! お願いですからっ!!」

昨晩と同様またもやS病院に受け入れを断られる。
F病院(救急指定病院)が受け入れ可能とのことでF病院へ向かう。

F病院にて、ドクターの診察、検査、そしてあわただしく駆け回る看護士。
息子に絵本を読んでとせがまれ、読みながらそんな光景が現実ではないように
流れていく。

ドクターからの所見を聴く。
「今の段階ではっきりと特定はできませんが髄膜炎の疑いがあります。
うちで診れる病気ではないのでA脳外科に行ってください。」

ズイマクエン?…。聞きなれない病名に戸惑う。
僅かな知識と記憶を引出し理解しようとする。大変な事になったということはわかる。

「うちには脳外科はないので診れないんです。とにかく移ってすぐに処置をしてもらってください。」

そのとき偶然に夫の携帯電話が鳴る。
一瞬我に返る。会社にも連絡しなくてはいけない、実家にも…。

ホントにまさかのような話だが、夫は単身赴任で大阪に転居することが決まっていて、この日は荷出しの予定があった。慌てて引越し業者に引越し中止の連絡を入れる。

PM1:00 A脳外科へ救急車にて搬送

到着後、入院手続きを済ませ、すぐに検査。CTをとるため検査室へ。
厚みのあるドアが閉まる間際、夫の不安の入り混じったなんとも言いがたい表情が
いまだに忘れることができない。

PM3:00 A脳外科での所見

やはり検査の結果、夫は髄膜炎と診断されこれから点滴の投与によって治療をしていく旨の説明がなされた。病名が聞けたことで少し安心する。

長い長い夜

PM4:00 点滴開始

夫の体がおそろしいほど震え、熱が上がる。41度。まだ上がる。
全く下がらない熱を下げるため、座薬を入れる。

そして、38度台まで下がる。今度はずぶぬれになるほどの大量の汗。

1時間程度は寝ることができてもまた見たこともないほどの震えがくる。
そしてまた熱が上がる。41度。

熱があがったらまた座薬。延々とその繰り返し。あまりにも容態が酷いので
付添いのため病院に泊まる。

深夜にかけて高熱に加え、酷い下痢を15分~30分おきに繰り返す。
なぜ点滴がついているのかもはや理解も出来ない程の朦朧とした状態の中、
腕につけた点滴をガーゼごとむしりとり、トイレへ行こうとする。

足もふらつきまともに歩けない。私の肩に腕をかけさせ、体を引きずるように支えて
トイレまで連れていく。トイレに入ったら30分は出てこれない。

ようやく出てきたかと思えば15分程、ベッドに横になり、また激しい下痢に襲われ
再びつけてもらった点滴が邪魔になるのかまたむしり取ろうとする。
もはや何のために点滴をつけているのか夫には判断する力も能力もなくなっていった。その夜、夜勤をしていた看護師さんと悪戦苦闘し、長い長い酷い夜を越す。

AM6:00(4日目)

朝になり、少し熱が落ち着いてくる。41度まで出ていた熱が39度MAXになる。
しかし、引き続き熱が出ては解熱するの繰り返し。

身体中が激しく震えるほどの寒気の後には額に浮かぶ大粒の汗が流れ落ちる。
こんなことを続けていて体がもつのか心配で、先生に詰め寄るものの投薬しつつ
対処療法しかないとのこと。規則的に落ちる点滴に望みをかけながら、
空しく時間は流れていく。

この時点で夫は現実認識があやふやで朦朧としていた。なぜ腕にチューブがついているのかわからなくて取ろうとしたりしていた。

日付、時間は聞いても答えられなかった。転勤のこともわからなくなってた。

絶望、恐怖、このまま苦しみながら終わっていくのか。
体が震えてくる、涙があふれてくる、耐えられず嗚咽の様な声をあげる。

なぜ夫がこんなに苦しまなくてはいけないのか?
なぜ私はこんなに悲しみで心が引き裂かれようとしているのか?

そんな時、私の携帯が鳴り響いた。とにかくこの状況から目を背けたくて電話に出る


最初に診察してもらった会社が契約してる内科病院の院長からだった。

 

本当の事

私の携帯番号はおそらく会社から聞いたのだろう。
何の件にかと恐る恐る話を聞いてみると。

「いまどこの病院にいるんですか?ああ、そこじゃだめだ。」

電話口の院長はそう言うと、大学病院に話を通したからすぐ転院するようにと促す。

どういうことか問うと、来院時の検査結果が出たが、その結果が尋常じゃなく
自分もそのような数値は今まで見たことがない。すぐに転院をということだった。

その院長の言葉に藁をもすがる思いで従う。大学病院へ・・・。

AM11:00(5日目)

夫はもう何も理解できなくなっていた。
朦朧とした夫をストレッチャーに載せ救急車で大学病院へ向かう。

暫くして大学病院に到着。
なぜかこのとき、助かったんだ、という気持ちがして号泣する。









それから2カ月近く意識不明の状態が続いた。
病院側からは、意識が戻っても誰のこともわからないでしょう。
体はもちろん動きません。全身麻痺です。
入所できる施設を探しておいてください。
などと酷い言葉を投げつけられてた。

面会の許された日には、似合わない白衣を着た子供たちが夫のそばで
大声で叫び続けた。「お父さん起きて!」と泣き叫んだ。 

家族、親族がすべて泣きつくした。一生のうちもう涙が残ってなくらいに泣いた。

病気を発症して相当な時間が流れた。もう覚悟をするにも十分な時が与えられた。
治療は命を繋ぎ止めるため最後の望みとしてステロイドの大量投与が行われた…。





2か月後、奇跡的に目が開いた。
気道確保のため気管切開しているので声を出すことができない。
コミュニケーションは瞬きで行う。




意識が戻り数カ月が経過した。
徐々に夫も状況が理解できつつある。

しかし、誰も夫にもう以前のようには動けないと、
病気の後遺症によって下半身は不随となってしまったと伝えられなかった。



父親と遊びたい盛りの息子が小さくつぶやく。

「びょうき、いつなおるん」

 

 



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