アンデス1 投資家として飛行機なしの世界一周 その23
ウユニ
ボリビアの国境でバスの乗り換え。
標高4000メートル近く、富士山より高い。
当分こんな高度が続く。
初日は高山病で軽い頭痛と吐き気がした。
二日目からは高山病はなくなったけど、ちょっと運動しただけでかなり息切れする。
標高4000メートル近く、富士山より高い。
当分こんな高度が続く。
初日は高山病で軽い頭痛と吐き気がした。
二日目からは高山病はなくなったけど、ちょっと運動しただけでかなり息切れする。
ウユニ二日目。
朝から塩湖へ。
空が近い。
朝から塩湖へ。
空が近い。
塩湖の中にある、塩でできたホテル「プラヤ・ブラヤンカ」に到着。
今晩はここで一泊する。
ちなみにここは水もなければ電気もない。
でもそれ以上のものがある。
今晩はここで一泊する。
ちなみにここは水もなければ電気もない。
でもそれ以上のものがある。
360度、真っ白の世界。
ここで夕方まで音楽を聞いたり散歩したり。
素晴らしい。
ここで夕方まで音楽を聞いたり散歩したり。
素晴らしい。
日の入りが近づいてきた。
影がこんなに伸びる。
影がこんなに伸びる。
夜は電気がなくて真っ暗になるけど、ろうそくの明かりの下でみんなで食べる夕食も、また雰囲気があって良かった。
そしてもちろん満点の星空。
360度地平線が見える世界なので、天の川がまさに川のように、空にかかっている様子が良く見える。
最高だった。
そしてもちろん満点の星空。
360度地平線が見える世界なので、天の川がまさに川のように、空にかかっている様子が良く見える。
最高だった。
このホテルは12歳と16歳の姉妹で切り盛りしてる。
特に年下の子は声とか仕草とかがすごくかわいい。
それにしてもこんなところに一年中いるなんて、想像が尽かない。
ちなみにここは標高が高いうえに大自然の中なので、冬は恐ろしく寒いらしい。
(夏でも夜は日本の真冬並み。)
特に年下の子は声とか仕草とかがすごくかわいい。
それにしてもこんなところに一年中いるなんて、想像が尽かない。
ちなみにここは標高が高いうえに大自然の中なので、冬は恐ろしく寒いらしい。
(夏でも夜は日本の真冬並み。)
二日目は車で遠出。
とにかく真っ白な世界をひたすら走る。
とにかく真っ白な世界をひたすら走る。
そして突然サボテンの島が現れる。
青と白の世界
さらに車を走らせて、火山へ。
本当は今は夏で雨季なので、もっと水が張って塩湖が鏡のようになり、まるで空を飛んでいるかのような気分が味わえるらしい。
でも残念ながら今回はあまり雨が降ってなかったらしく、ほとんど水が張ってなかった。
でもやっと火山の近くで、ちょっと水が張ってるところを発見した。
本当は今は夏で雨季なので、もっと水が張って塩湖が鏡のようになり、まるで空を飛んでいるかのような気分が味わえるらしい。
でも残念ながら今回はあまり雨が降ってなかったらしく、ほとんど水が張ってなかった。
でもやっと火山の近くで、ちょっと水が張ってるところを発見した。
湖の美しさはもちろん、色んな人たちとの出会いもあり、本当に興奮させられた場所だった。
ポトシ
南北アメリカ大陸には、元々インディヘナと呼ばれる先住民の人々が住んでいた。
彼らはシベリアからベーリング海峡を渡ってアラスカから南下してきた人々であり、日本人と同じモンゴロイドの血を引いている。
アメリカ大陸には何千年も前から住んでいたのだが、つい500年ほど前、違う大陸から渡ってきた来た人々によって虐殺され、アメリカンインディアンを筆頭にほとんどの種族が絶滅させられた。
(アステカやマヤではいつか白い人たちが海を渡ってきて、自分たちを助けてくれるという伝説があった。皮肉にもそれは半分が当たり、残り半分の肝心なところが逆の結果になってしまったけれど。)
今、北米や南米南部ではほぼ全ての人がヨーロッパ系か、もしくは他の大陸からやってきた人々だと言っても過言ではない。
また、上述の地域を除く中南米には先住民の血をひいている人たちがいるが、多くがスペイン人との混血、メスティソである。
そんな中、ボリビアでは純粋なインディヘナの人口割合が50%以上とかなり高い。
アンデスの高地で白人たちが順応しにくかったことや、侵略的難易度、鉱山における半奴隷として必要だったこと、などがその理由だと思われる。
そのため、ここではインディヘナの文化や風習が色濃く残っている。
これが、ボリビアが南米の中の南米と言われる所以である。
下はそんなボリビアでもインディヘナの人口比率がまたさらに高いポトシの町。
世界で最も高いところにある都市。
標高4000メートルを超え、夏だというのに夜は冬のように寒く、少しの運動で驚くほど息が切れる。
彼らはシベリアからベーリング海峡を渡ってアラスカから南下してきた人々であり、日本人と同じモンゴロイドの血を引いている。
アメリカ大陸には何千年も前から住んでいたのだが、つい500年ほど前、違う大陸から渡ってきた来た人々によって虐殺され、アメリカンインディアンを筆頭にほとんどの種族が絶滅させられた。
(アステカやマヤではいつか白い人たちが海を渡ってきて、自分たちを助けてくれるという伝説があった。皮肉にもそれは半分が当たり、残り半分の肝心なところが逆の結果になってしまったけれど。)
今、北米や南米南部ではほぼ全ての人がヨーロッパ系か、もしくは他の大陸からやってきた人々だと言っても過言ではない。
また、上述の地域を除く中南米には先住民の血をひいている人たちがいるが、多くがスペイン人との混血、メスティソである。
そんな中、ボリビアでは純粋なインディヘナの人口割合が50%以上とかなり高い。
アンデスの高地で白人たちが順応しにくかったことや、侵略的難易度、鉱山における半奴隷として必要だったこと、などがその理由だと思われる。
そのため、ここではインディヘナの文化や風習が色濃く残っている。
これが、ボリビアが南米の中の南米と言われる所以である。
下はそんなボリビアでもインディヘナの人口比率がまたさらに高いポトシの町。
世界で最も高いところにある都市。
標高4000メートルを超え、夏だというのに夜は冬のように寒く、少しの運動で驚くほど息が切れる。
ポトシは鉱山の町であり、多くの人が鉱山の中で働いている。
見学ツアーに参加してみた。
見学ツアーに参加してみた。
鉱山の中で働くのは、想像を絶する過酷な重労働である。
中は迷路のようになっており、真っ暗闇で、所々大きな穴が開いていたりする。
空気はよどんでいて、ほこりやら粉塵やらで一杯だ。
崩落もあり、人が死ぬことも珍しくないと言った。
極めつけはここが高所であり、高山病の危険があるということ。
僕は途中、マジで心臓の動悸が止まらなくなり、さらに粉塵のせいもあって息をするのが難しくなり、ホントに倒れるかと思った。
中は迷路のようになっており、真っ暗闇で、所々大きな穴が開いていたりする。
空気はよどんでいて、ほこりやら粉塵やらで一杯だ。
崩落もあり、人が死ぬことも珍しくないと言った。
極めつけはここが高所であり、高山病の危険があるということ。
僕は途中、マジで心臓の動悸が止まらなくなり、さらに粉塵のせいもあって息をするのが難しくなり、ホントに倒れるかと思った。
みんな高山病と粉塵対策のため、コカの葉を口いっぱいに詰めている。
穴を開けるためにダイナマイトを使う。
遠く離れても半端ない衝撃波が伝わってくる。
遠く離れても半端ない衝撃波が伝わってくる。
鉱山労働者は一日中、一年中鉱山の中で働き、50歳ぐらいで引退するが、粉塵で胸を悪くし、早くに亡くなられてしまうらしい。
言うまでもなく、鉱物なしに現代社会は成り立たない。
携帯やパソコンや、様々なところで多くの鉱物が使われている。
鉱山見学は貴重な体験になり、色々と考えさせられた。
下はコカのティーパック。
言うまでもなく、鉱物なしに現代社会は成り立たない。
携帯やパソコンや、様々なところで多くの鉱物が使われている。
鉱山見学は貴重な体験になり、色々と考えさせられた。
下はコカのティーパック。
普通に売られているコカの葉
ボリビアではコカの葉は、高山病を和らげるための一般的なし好品である。、合法であり、多くの人がそのまま噛んだりお茶にして飲んだりしている。
コカの葉はコカインの原料で、危険なドラッグというイメージがあるけれど、コカインとはまったくの別物。コカインはもちろん非合法で、絶対に許されない。
少なくともお茶は、アルコールより弱いのはもちろん、タバコと同じくらい効果が薄いと思われる。
気持ち高山病が和らぐかな、というくらい。(特に頭痛)
ちなみに富士山に登った人なら分かると思うけど、高山病は吐き気や頭痛がして、ひどいと死に至る場合もある。
最近も日本人がポトシ(標高4000メートル超)を旅行中に重い高山病にかかり、危険な状態になって日本に緊急移送され、入院しているという話を聞いた。
その危険は高度順応化した人やボリビア人にとっても同じで、彼らにとっても無理に過激な運動をすることはよくないとされている。
だからコカの葉は、特に重労働をする男たちにとって、文化や風習としてはもちろん、高山病対策の「生活必需品」として使われてきた。
下はバスやトラック。
ボリビアでは日本の中古車がたくさん走っている。
コカの葉はコカインの原料で、危険なドラッグというイメージがあるけれど、コカインとはまったくの別物。コカインはもちろん非合法で、絶対に許されない。
少なくともお茶は、アルコールより弱いのはもちろん、タバコと同じくらい効果が薄いと思われる。
気持ち高山病が和らぐかな、というくらい。(特に頭痛)
ちなみに富士山に登った人なら分かると思うけど、高山病は吐き気や頭痛がして、ひどいと死に至る場合もある。
最近も日本人がポトシ(標高4000メートル超)を旅行中に重い高山病にかかり、危険な状態になって日本に緊急移送され、入院しているという話を聞いた。
その危険は高度順応化した人やボリビア人にとっても同じで、彼らにとっても無理に過激な運動をすることはよくないとされている。
だからコカの葉は、特に重労働をする男たちにとって、文化や風習としてはもちろん、高山病対策の「生活必需品」として使われてきた。
下はバスやトラック。
ボリビアでは日本の中古車がたくさん走っている。
インディヘナの女の人たちは、髪をミツアミにしている人が多い。
次はスクレの町。
ここはほとんど何もなかったけど、過ごしやすい町だった。
ここはほとんど何もなかったけど、過ごしやすい町だった。
デモしてた。やっぱインディヘナの人たちはスペイン系に比べて貧しい生活をしてるっぽい。
チェックアウトしてからバスの出発まで時間があったので、公園でボケーっとしていると、一人の少年が目に入った。
靴磨きセットを持って、公園を通り過ぎる人たちに声をかけている。
30分以上声をかけ続け、ようやく一人捕まえたようだった。
ここでは小さな子供たちもみんな働いている。
鉱山労働者といい、俺は偉そうなことは言っても、所詮世界を旅している道楽者に過ぎない。
靴磨きセットを持って、公園を通り過ぎる人たちに声をかけている。
30分以上声をかけ続け、ようやく一人捕まえたようだった。
ここでは小さな子供たちもみんな働いている。
鉱山労働者といい、俺は偉そうなことは言っても、所詮世界を旅している道楽者に過ぎない。
サンタ・クルズ
この町自体は治安が悪いだけでほとんど何もないけど、俺はあるものが見たくてわざわざここまで来た。
この町自体は治安が悪いだけでほとんど何もないけど、俺はあるものが見たくてわざわざここまで来た。
サンタ・クルス郊外のジャングルのようなところにある一本道を、ただひたすら走っていると突然大きな看板が見える。
「めんそーれ、おきなわ」
その先にある村、
コロニア・オキナワ。
沖縄がアメリカから日本に返還されたのはつい40年ほど前のことである。
沖縄は軍事的に重要な場所に位置し、その美しさとは裏腹に、苦難の道を歩んできた。
昔も今も、沖縄は本土の人たちの犠牲になっている。
さて、
戦時中に恐ろしいほどの悲惨な目にあい、戦後の徹底的に荒廃した沖縄を逃れて、南米に移住した人たちがいた。
多くがブラジルに行ったが、一部の人がボリビアに来た。
(前に大きな日本人街は世界に二つだけだと書いたけれど、集落程度のものなら南米にいくつかあるらしい。サンタ・クルスに近い、ブラジルのカンポ・グランジというところにも沖縄人や九州人が多くいて、沖縄そばが郷土料理になっているらしい。ただ、どちらも日系人の割合が少し高め、というくらいで、やはり「日本人街」というほどものもではない。)
まぁそれは大変だったらしい。
アナコンダは出るわ、伝染病が流行るわ、大洪水が起きるわで三回も移住地を変えたという。
それでも今は落ち着いたらしく、村の雰囲気は平和そのものだった。
コロニア・オキナワという村自体には、ほとんど何もないと言っていい。
また、日系人の割合が高いというだけで、実際にはボリビア人の方が多いので、想像したほど日本的な雰囲気があるわけではなかった。
でも貴重な体験になったし、想うところも多かった。
「めんそーれ、おきなわ」
その先にある村、
コロニア・オキナワ。
沖縄がアメリカから日本に返還されたのはつい40年ほど前のことである。
沖縄は軍事的に重要な場所に位置し、その美しさとは裏腹に、苦難の道を歩んできた。
昔も今も、沖縄は本土の人たちの犠牲になっている。
さて、
戦時中に恐ろしいほどの悲惨な目にあい、戦後の徹底的に荒廃した沖縄を逃れて、南米に移住した人たちがいた。
多くがブラジルに行ったが、一部の人がボリビアに来た。
(前に大きな日本人街は世界に二つだけだと書いたけれど、集落程度のものなら南米にいくつかあるらしい。サンタ・クルスに近い、ブラジルのカンポ・グランジというところにも沖縄人や九州人が多くいて、沖縄そばが郷土料理になっているらしい。ただ、どちらも日系人の割合が少し高め、というくらいで、やはり「日本人街」というほどものもではない。)
まぁそれは大変だったらしい。
アナコンダは出るわ、伝染病が流行るわ、大洪水が起きるわで三回も移住地を変えたという。
それでも今は落ち着いたらしく、村の雰囲気は平和そのものだった。
コロニア・オキナワという村自体には、ほとんど何もないと言っていい。
また、日系人の割合が高いというだけで、実際にはボリビア人の方が多いので、想像したほど日本的な雰囲気があるわけではなかった。
でも貴重な体験になったし、想うところも多かった。
ぼくのおじいちゃんはボリビアにやってきたとき二十五さいでした。
ぼくのおじいちゃんは日本のおきなわからボリビアにきました。
ボリビアにきたときすむところがなかったです。
ぼくのおじいちゃんははたけでまめとこめとかをうえていました。やすむときもなかったです。
ぼくのおじいちゃんがたのしかったことはみんなでちからをあわせてはたらくことでした。
ぼくのおじいちゃんはいましあわせでげーとぼうるおしています。
サンパウロのリベルタージと違い、コロニア・オキナワは移住が始まってまだ50年ばかりなので、村の日系人の多くは日本語がしゃべれる。
村の若者たちや一世のおばちゃんとも話したが、完全な日本語だった。
この村から一歩でも出れば、まったく通じない言語。
この村では、日本語という「村語」が話されている。
ボリビアのど真ん中にそんな場所がポツンとあることが、なんだか感慨深かった。
村の若者たちや一世のおばちゃんとも話したが、完全な日本語だった。
この村から一歩でも出れば、まったく通じない言語。
この村では、日本語という「村語」が話されている。
ボリビアのど真ん中にそんな場所がポツンとあることが、なんだか感慨深かった。
普通の人はウユニからすぐに首都ラパスへ行くところを、俺はある理由があって遠回りし、ボリビアを一周した形になった。
というのも、リオのカーニバルを含む南米三大祭の一つ、オルーロのカーニバルが2月13日にあるから。
でもまだ二週間以上残ってる。。。
まぁゆっくりしようと思う。
、
それにしてもボリビアに入って以来ゆっくりしすぎてて、具合が少し悪くなったのにかこつけて一日中テレビ見たりネットしたりする日も。
というのも、リオのカーニバルを含む南米三大祭の一つ、オルーロのカーニバルが2月13日にあるから。
でもまだ二週間以上残ってる。。。
まぁゆっくりしようと思う。
、
それにしてもボリビアに入って以来ゆっくりしすぎてて、具合が少し悪くなったのにかこつけて一日中テレビ見たりネットしたりする日も。
ラパス
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