神様からのプレゼント
とにかく東京から離れて大阪に行きたかった。大阪に行くことを、占い師は賛成してくれた。情けないことにまた、後押ししてくれるものが必要だった。逃げていることも、自分が弱いことも、他の土地に行くことで誤魔化していた。
東京を引き払い。一旦実家に戻り、大阪で住むところを探すことにした。
大阪に引っ越しするまでの間、シアトルに留学しているのりちゃんに会いに行く。初めてのアメリカ。着陸する時、この都市のどこかにキアヌ・リーブスがいるんだ・・・と感慨深かった。のりちゃんの弟がロスアンジェルスに居るというので、ラスベガスに行くついでに会いに行くことにする。
シアトルからロス空港に到着後、空港の荷物受取り場所で、荷物が来るのを待っていると、身振り手振りで陽気に話している人がいた。「酔っぱらいがおる~」とおもむろにその人を見るとなんとキアヌ・リーブスではないか!!!
のりちゃんに言うと「まさか~そんなはずないよ」。周りの誰も気づいていない。確かに、服装もボロく無精髭もはえていて、心なしか太っている。しかし、私はファンである。キアヌの声を間違うはずはない。ちょっと曇った感じのこの声絶対キアヌだ!
「私より英語できるんやから聞いてみてよ」
「嫌だよ~私そんなにファン違うし~」
声をかけてくれそうにないので、えいやっ!と思い切って、たどたどしい英語で聞いてみた。
「キアヌですか?」
「そうだよ~」
「ファンです!写真一緒に撮ってください!」
「いいよ~」
酔っぱらって陽気になっていた彼は快諾してくれた。
そして、私の腰に手をまわし、できるだけ近づいて写真に収まるようにしてくれた。
「うううううわーっ、こ、ここ腰に手!!!」 もっといろいろ話したかったが、私の英語力ではどうすることもできず。キアヌは早々に荷物をピックアップして立ち去って行った。
この信じられない、夢のような出来事に、私ものりちゃんも、迎えに来ていた弟くんもしばらく声を失っていた。
のりちゃんのおじさんがヨシモトで働いているということで、ヨシモトに入りたいと頼んでみたが、この話は消えていってしまった。
心のどこかで無理だと思っていた。オーディションを探すことすらしなかった。あの頃、いやもっと早くにNSCの存在を知っていたらと思う。
高校を卒業した時点で入学すれば、NSC5期生で同期は、吉本新喜劇の座長辻本茂じぃだったはずだ。なんて惜しいことをしたのだろう。NSCに入っていれば、押し入れに隠れ、母と姉をビビらせることもなかっただろう。情報を入手できないということは、可能性が絞ることなんだと痛感する。
いっぱい、いっぱい後悔してきたが、あの時ああしとけば良かった、こうしとけば良かった。という後悔は意味を持たないらしい。その時その時自分にとって最良の選択をしているはずなのだということを聞いたことがある。今は理解できる。
大阪での一人暮らしはラクではなかった。
近所の歯科受付のバイトだけだと生活が苦しい。アルバイト情報誌で職を探すが、時給の良いバイトはお水。そのお水のバイトも一日でクビになり、トボトボと歩いている時、別のお店からスカウトされた。捨てる神あれば拾う神あり、声をかけてくれたオーナーは、命の恩人であり、本当に感謝している。時給もクビになったところより格段にいい。
北新地で働くことになった。お酒も飲めないし、人見知りも激しい、気のきいた話題も出来ない、せめてもと経済新聞を購読したり、クビにならないために頑張った。
お酒も飲めず、おべんちゃらもいえない私は、さぞ使いづらかったろうと思う。
着ている服も貧乏くさく「なんやそのかっこは?!ホステスは客に夢を売る商売やねんぞ!」とお客さんに説教されることもあり、トイレに駆け込んで泣くこともあった。
しかし、働く人は様々な事情を抱えて働いている人も多く、そのせいか、オーナーの人柄も反映してか、ママを初め お姉さん方は優しかった。
ママは、洋服を譲ってくれたし、お姉さんはご飯をごちそうしてくれたりした。
接客業は気を使うし、ストレスはあるものの、大阪という土地、北新地が合っていた。
大阪の地下街を通って、新地に通う。
大阪の地下街は、JR・地下鉄・私鉄の駅が地下で接続し、さらに複数の地下街や百貨店が連結しているためとても広大で地下迷宮みたいで楽しい。そこを縦横無尽に人が歩く。ちょっとした坂の上から人々を見下ろす時、人々をピンに見立てて人間ボーリングをしたくなる。爆弾ボールを持った私が、ボールを転がすところを想像してみる。言いようもなく虚しく、鬱積した思いを抱えていた。私は病んでいた。
秋が終わる頃、バイトから帰ってきた私は寝るのが惜しくて、深夜放送されている映画を見ることにした。「遠い夜明け」という聞いたこともない映画だった。
南アフリカ共和国のアパルトヘイト問題を扱ったこの映画を見終わったあと、ボー然となり、今まで鬱積していたものを吐き出すように、しゃくりあげるほどに私は泣き続けた。
何が、私の琴線に触れたのか。
自分の叶わぬ思い。
人の世の不条理さ。
自分のことしか考えていない、自分の浅ましさ。
世の中に対しても、自分に対しても、何もかも情けなくなった。
ひとしきり泣いた後。
「そうだ、大学に行こう」と思った。
人の役に立ちたい、それにはあまりに不勉強すぎる。大学に行っていないコンプレックスもあった。
インターネットが普及していなかったので、次の日急いで本屋に行き、受験が出来る学校を調べ、すぐさま願書を取り寄せたのが11月、試験は12月だった。
映画の衝撃が冷めやらぬうちでの行動だったので、迷いはなかった。
国際経済協力コースがある立命館大学に、社会人入学枠があるので、そこに絞り受験。受験科目は、小論文と面接。
「そうですね・・・でもよろしくお願いします!」と答えるのが精一だった。これは落ちたな・・・面接を思い出すと、自分のアホさが恥ずかしくて叫び出してしまいそうだった。
数日後、受け取った合格通知を何度も何度も見た。
まだまだ肌寒い、桜がちょうど満開の頃入学。大学生活は新鮮さと嫉妬に満ちていた。
昼間は大学、夜は新地で働いた。不景気で首になってもおかしくない状況なのにオーナーは大学に行くことを応援し、私を早く帰らせてくれた。
親のお金で進学してきている生徒たちが羨ましくてしょうがなかった。しかも、現役で。私は、地頭が悪い上に、年齢もいっている負い目がありひっそりと通う決意をする。親睦会にはもちろん不参加、しかしあとで激しく後悔することになる。
立命館大学は1学年時クラスがある。担任の先生もいれば、役割分担もある。親睦会で皆、親睦されて和気あいあいなクラスになっていて、私は浮いていた。
この乗り遅れた感じ・・・どうしよう。「ひっそりしようと思ってるし、友達作りに来たんちゃうし・・・」自分から話しかけるタイプでない私は、割り切れない気持ちで悶々としていた。ほどなく実施されたテスト前合宿に参加することで挽回。うまく溶け込めた、いや溶け込みすぎた。自分の年齢のこともすっかり忘れている。
仲良くなった同級生と「やっぱ大学入ったんやから サークル入らななぁ」とサークル巡りをする。いろいろあり過ぎて、決めかねている時、河内弁がかわいいユキが「うちな~テニスサークルに勧誘されてん、よさげな感じやから今度見学行こ~」と言ったので、見学に行くことにする。他に見学に来ていた子達と挨拶を交わしていると、私を見るなり「むっちゃ浪人しはったんですか?」と質問してきた子がいた・・・30歳と言うと、みんな引くだろうな。むっちゃ浪人っていうと24歳くらいかな?24歳ってことにしとこ、と歳をごまかす。
なんとなく成り行きで、そのテニスサークルに同級生達と入部することになった。
夏休みはサークル合宿に参加し、なんとか親交をはかっていた。
私はこの歳になるまで、きちんと男の人とお付き合いしたことがなく、人並な生活をし始めると、人並なことがしたくなる。
彼氏が欲しい!欲しい・・・10歳離れた同級生達とキャーキャー言い合いながら、期待に胸を膨らます。しかし、皆かなり年下なので、自分から好きになったり、告白とかはあり得ないな・・・。
言い寄ってくれる、物好きな人がいれば付き合いたい、それが例えどんな人であろうともと漠然と思っていた。
夏休み真っ只中、サークルの先輩と水族館に行くことになった。
デート?なのか?デートなのだろう。
私の手を繋ごうとしたのか相手の左手が宙を泳いだのが分かった。なんか、いきなりで嫌だったので、私はすかさず腕組みをしてみたり、カバンを持ち替えたりした。
日は暮れ残り、海沿いに建っている水族館の歩道はライトアップされとてもロマンティクだった。遊歩道を散歩し、途中の階段に座ることにした。男性に対して免疫がなく、潔癖なところがある私は、いきなりこういうシチュエーションになると、背中に何かが走るような、むず痒い感じになる。
ロマンティクな雰囲気にならないために「暑いね~私、あし、くさいねん!困るわ~」とおもむろに履いていたサンダルを臭ってみたりした。
夏休みも終わりに近づき、誕生日にどこか行こうと誘ってくれた。
誕生日一人で過ごしたくない病の私は、二つ返事をした。この病になった訳は、8月31日という学生が最も嫌う日に生まれたからである。計画性のない私は、もちろん夏休みの宿題なんてしないので、毎年8月31日は泣いている。毎年、毎年「宿題してない~」と母親に泣きつく日である。
いつだったか誕生日会を催すのが流行っていた時に、私も例外になく誕生日会を開いた。だが、誰も来てくれなかった。それ以来トラウマとなった。
とにかく一人で過ごしたくない。いや一人で過ごすにしても家にいたくないと、熱海に一人行って過ごすこともあった。二つ返事はしたものの、前日に行きたくなくなってきた。高校時代の同級生ふっちゃんに「行きたくないねん。どうしよう・・・」と相談すると、ふっちゃんは「しない後悔と、する後悔やったら、する後悔のほうがいいと思うよ。行っておいで~」と言ってくれ、行くことにした。
当日福井に行くことになった。ドライブ中トラクタにー激突する事故を起こし、私達は付き合うことになった。ハプニングが起こると恋が芽生えやすいと聞いたことがあるような気がする…。
事故時の対応が紳士だったし、背中から感じる、早い鼓動にキュンとした…。
あんなに熱い想いを持って入学した大学なのに、本来の目的を忘れてしまい、遅すぎた青春を謳歌していた。私の細胞にまで蔓延しているお気楽さは、そうそう改まることはなかった。
大学4年時結婚し東京へ。
結婚に対する憧れは、小さな頃からなかった。
自分の気に入らないことがあると、母や私に暴力を振るう父を見てきたから。結婚するならお父さんみたいな人とは絶対したくないと思っていた。
しかし、私は完全に舞い上がっていたので、そこの所を冷静に判断する目を持ち合わせていなかった。付き合った人が、ロクでもない奴だったら、身も心もボロボロになっていただろう。たまたま、最初に付き合った人が良い人だった。これは奇跡だ。本当にラッキーだった。きっと今までの人生、辛いことが多かったけどへこたれなかった私への、神様からの最高のプレゼントだったに違いない。
結婚当初、アルバイトはしていたが、二人の収入が少なすぎて、アパートの入居審査にパスしなかった。会社からの補助もあるので、そこをなんとかと拝み倒して入居させてもらう。東京は家賃が高く、収入の半分は家賃に消えた。
暫くして妊娠そして流産。
友達も知り合いもいない、旦那は仕事で帰りが遅く、孤独だった。
ベランダから見る空は、雲に手が届きそうなほど近く、息が詰まりそうで、ある時「ワーーーーーーッ」となってベランダでお皿を叩き割った事もあった。
結婚後も、このままではいけないという焦燥感が常につきまとっていた。自分は何のために生まれてきたのだろう。生きる意味とは何なのだろう。自分探しの旅が始まる。
派遣で働いたり、国際協力NGO団体でバイトをしながら、占い、スピリチュアル、自己啓発セミナー、これはと思うあらゆるものに手を出す。表現したい欲求からフラダンスにハマった。
料理教室に行っても、フラダンスの教室に行っても「あなたは何ができるの?」「何か特技はある?」と聞かれた。何もないから教室に通っているのに・・・何故かそういう質問をされる。イギリスでも聞かれた質問である「あなたは何をやっている人なの?」
私は私を語るものがない。
何もないと生きている価値がないように思えてくる。
東京の生活にも馴染めず、何もやる気がでない・・満員電車が怖くなってくる・・。軽い鬱になってしまい、仕事の出来ない状況からのあせりから、株に手を出して大損。脂汗の出る状態が続く・・過食に走り、家にいる間ずっと何かを食べていた。食べている間は何も考えなくていい。後悔に押しつぶされそうになる。鬱症状もひどく、私ダメかも・・と思っていた時、リトリートに参加。その後、座禅、瞑想に打ち込んでいく。
京都の奥深い丹波に瞑想センターがあり10日間、携帯もノートも本も持ち込み禁止。テレビもラジオもない所で誰とも口を聞かず、ひたすら瞑想をする、瞑想会に参加。
暑い夏で、京都市内は過去最高気温を記録していた。
クーラーもない部屋で、1回1時間の瞑想の間は決して動いては行けない。食事とトイレとお風呂と寝る時間以外はひたすら瞑想する。足は痺れ、意識は朦朧としてくる。
人と全く口を聞かなくて良いというのは心地よかった。
終了後、参加者達と話していると、「今陶芸の学校通ってるねん。おすすめやで」と言ってきた女性がいた。私が生まれ育った、伊賀上野は伊賀焼の産地である。実家には伊賀焼の壺もあったので、馴染みはある。
「これだ!」
早速、彼女が通っているという愛知県にある学校まで見学に行く。職業訓練校でもある窯業学校は競争率も高い。デッサンの勉強と、学科の筆記テストのため数学と国語の勉強をする。1年の準備期間を経て無事入学。
陶芸の世界は奥が深い。土を練るのに3年、ロクロを習得するのに10年かかると言われている。職業訓練校の1年では、どうにもならず、更に勉強するために窯業の専門校に行くことにした。
先生からは「何を今さら」と言われ、明らかな差別や嫌がらせを受けたり、必死になれば、なるほど鼻で笑い「そない頑張らんでも・・・」と言われた。
中年の私が若者に混じり、目をギラギラさせていたのはある意味不気味だったのかもしれない。
生徒の悪口を、他の生徒の前で平気で言うような教師に何度泣かされただろうか。威圧的な教師で、ヒットラーのようだった。2年の勉強期間耐えられるのか自信はなかったが、同じ思いを持つ仲間が居たからなんとか頑張れた。自由さのかけらもない、息苦しい教室から抜け出し、泣きながら卒業制作を作った。
なにくそという思いが集中力を生み出し、作り上げた作品は、物をつくるということの片鱗に、ほんの少し触れた気がした。この2年間を思うと、まだ心がざわつくが、感謝している。
卒業後、今にも2階の床が抜けそうな、古い蚤小屋を改装した共同の貸し工房を借りることにした。愛知県の窯業地で、貸工房は珍しくはない。家賃は高いが、窯や道具を貸し出してくれるので、ありがたかった。
畳2畳分が自分のスペースで、肩を並べて皆それぞれの作業をする。専業の先輩方は個室を借りていた。夜遅く行っても、朝早く行っても、誰かが作業をしている。私も頑張ろうと励みになる環境であった。
木で出来た急な階段は、滑りやすく 一度頭からすべり落ちた時はヒヤッとした。出来上がった作品を、外の窯場に持っていくために、その階段を何度も往復する。
工房にある共同の電気窯は、ボロボロで、焼成中に幾度となく止まった。
そのたびに、一度窯から生焼けになった作品を取り出す。窯に作品を詰める窯詰作業に1時間かかる時もあるので、うんざりした。
急いで作品を仕上げなければならない時、午後8時に窯は止まった。締切がある作品だったので、慌てて知り合いに電話し、窯が修理できる窯屋さんを教えてもらい電話した。窯屋さんは、家でくつろいでいたにも関わらず、面識もないのに来てくれた。
心底、自分専用の窯が欲しかった。
そう思い続けて、2年が経ち、家を探すことにした。
恐らく終の棲家になるであろう、その家の場所をどこにするのか、決めかねていた。
窯を購入すると、そう易易と引っ越しは出来ない。
夫の職場は東京から広島に変わり、また転勤があるかもしれない。次の転勤は、大阪か愛知県か。そんなあるかもしれない転勤を待ってはいられない。夫の母親も、私の母親も関西圏在住。大阪は大好きな街であるし、友人も大阪在住者が多い。
関西近辺を探すが、しっくりこない。いろいろ考えた末、広島県で探し始めることにする。しかし、土地のことは全く分からない。希望条件は、景色が良い所、海が望めればなお良し。
不動産屋に相談する。
「景色?ですか?」
「景色なんて3日もしたら飽きるでしょ」と言われ、どこも「後で連絡します」と言われたきりであった。
もうこうなったら自分で探すしかない。毎日パソコンにかじりついて物件を探す。頭がボーッとしてきて、目がチカチカするが止められない。
広島は市街地を中心に、取り囲むようにして6つの川が流れており、市内は土地が少ない、よって高い。むちゃくちゃ高い。東京と変わらないと思えるくらい高い。市街地をドーナツの穴に見立てて、半径10キロ、20キロ、30キロと範囲を広げていく。ドーナツが円盤になっていく。海が見えるかどうかは、ネットに記載されていないことが多い。
いっそ、街なかの極小住宅で便利に過ごすか、マンションなら海が見える所は多いかも、ゆっくり暮らしたいなら山奥でもいいかと思い始めたり、物件を見れば見るほど混乱し、無意識に消去法をしている「いやいや消去法って、そんな消極的な方法はあかん!」と我に帰り、振り出しに戻ったり・・・。
現地まで気軽に行けない分、家探しは難航し、1年以上過ぎ、焦っていた。
現在入居している、貸工房は 取り壊しが決まっていて退去しなければいけない。焦るあまり、猫の額ほど海が見えるというだけで、決めてしまいそうになっていた。
見つからない、見つからない・・・もう諦めモードになり、目からは火花が飛び散り、頭から煙が出ていたので、暫くパソコンで検索することを止めていた。
探すのを諦めてから1ヶ月ほどが経ち、ふともう一度探してみようと思い調べ始めると、「展望良好」という文言に、小さなボヤけた外観写真一枚だけの物件が目に止まった。
「ここだ!ここに賭けるしかない」今すぐ購入してもいいと思えるほど、今まで見てきたどの物件よりも安かった。
現地を見に行った夫は良い感じだと言っていたので、
「もう契約してきてよ。愛知県から見に行く新幹線代もったいないし」
「ずっと住む家になるんやから、そこは見ておいたほうがいいんちゃう?」
「それも、そうか・・・」と見に行くことにした。
田舎の土地を大根を買うかのように、気安く購入するという記事を読んだことがある。
「いくらなんでも、そんなことないわー」と思っていたが、大根を買う時の方が迷うくらいだった。
現地に着くや否や「ここにしよう!」と即決。
物件の内覧もしてなかったので、不動産屋さんはびっくりして「と、と、とりあえず中を見てください」と言った。
とにかく景色が素晴らしい。来るまでの道中も、気持ちが良かった。快晴だったことも大きい。
不動産もご縁だ。タイミングを逃してグチグチ思っていたり、金額が合わなくても無理して、身の丈に合わないことをしようとしたり、迷走している中パッと出会った。この巡り合わせも奇跡的だった。
時間とエネルギーを注ぎ込み、執念を持って望んだから与えられた、神様からのプレゼント。
半世紀生きてきて、ようやく手に入れた家と工房。
私に染み付いた放浪癖に、終止符を打つ。
人生のカウントダウンも始まり、楽しむことを楽しみたいと思うものの、やはり何かに焦っている。これは性分なのかもしれない。
神様は頑張ったものに、プレゼントをしてくれる。そうは言っても、頑張りたいのに頑張れない時もある。頑張っている人が、眩しすぎて、直視出来ないときもある。
頑張りは人それぞれ、幸せも人それぞれ、プレゼントも人それぞれ。
流されないように、惑わされないように、自分の心の声に耳を澄ませる。
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