とある女性の半生をば(震災を経験し新たな家庭を持とうと決意する)

前話: とある女性の半生をば(35からのスピリチュアル人生)

東京ライフを堪能していたわたし。その暮らしも終わりを迎える2011年3月11日の日。震災にあった。

2011年3月11日。金曜日。京都の友人が泊まりで遊びに来る日。マンスリーマンションの自室を前日に掃除した。三月末で岐阜に帰るため整理整頓もかねていた。3月の三連休にレンタカーを借りて岐阜に帰る予定。段ボールに詰めていた。
土曜日はディズニーランドにいく予定だ。さあ、頑張ろう。そんな感じで始まったいつもの金曜日。何気ない昼下がり。日差しは暖かい。空は青い。何事もなく、仕事後は、品川駅で友人と待ち合わせだった。東京タワー近くの本社の一角で、パソコン作業に精を出す。その日、内部資格取得のため、同僚が別のビルに行っていた。イスがまばらに見えるオフィスで私は作業する。
午後2時46分。ずずずん。どん。皆が固まる。地震…視界がゆっくり揺れる。いくつかの携帯がなりやまない。室内で立つもの座ったままのもの、様々。横揺れが波のように。ゆっくり揺れる。震源地は東北と携帯電話のテレビから聞こえる。途中から机の下に入るが床がなみをうつ。震源地から遠い東京で震度5強?ならば東北は?携帯のテレビ画面で、千葉のコンビナートで火災がだの、○○湾が火の海だの、騒ぎが広がった。そのうち、津波の画像があちこちの携帯電話の画面に。私は京都の友人に「地震でいますごい。新幹線は止まっている。東京には来られないよ」とメールした。津波が、東北の沿岸部に押し寄せる。揺れがたゆまなく。東京タワーのアンテナがおれたというので窓から肉眼で見たりした。視界から見えるビル群が揺れている。倒壊しないのか、内心どきどきだった。
午後3時過ぎ、一旦、室内から外に出る。外に出てしばらくすると人数確認を経てまた中に入ることに。私は本社のプロジェクトに属していたので「午後四時に全員帰宅」という決定に基づき帰宅した。場所は○○事務センターの一角だったが、こちらは1715まで仕事をやると決定に。後に電車が動かないから会社に泊まった人がいたと、聞いた。私の足で、田町から品川まで徒歩で一時間位。バスはまだ動いていてバスに乗り込む同僚もいた。国道は人でいっぱいに。車が動いていたか記憶にない。あちらこちら人しかいない。ヘルメットをかぶる人を見て「会社として防災意識が高いんだなあ」と羨ましがったり。あるコンビニに寄るとほとんど売り切れであった。マンスリーマンションには5時に到着。前日までに買い込んだ食材があったからひとまず安心。テレビをつけながら、京都の友人や岐阜の家族、友人知人にメールをする。実家の父に電話をすると、「東京、大変みたいだなあ」とのんきな声。同じ東京にいる兄にもメールしたが、「横浜にいる」「電車が動かないから泊まる」とずいぶんたってからきた。夕方から一時的に携帯が発信しにくくなった。高校の友人で東京在住の友人にメールしたら返信なし。当日携帯電話を不携帯でバイトに行き、数時間かけて帰宅し、娘と再会したと後日いっていた。娘さんは友人宅にいたらしい。そして津波による被害で、東京電力の原子力の崩壊へと繋がっていく。メルトダウン?爆発?日本は大丈夫なのか?政府は?東京電力は?テレビではACばかりが流れ出す。何もかも。不透明。しかし、何とか最悪の事態は回避してと祈るのみ。
私発信で安否確認…これは一番つらかった。私を心配する他人(私以外)がいない…そう実感したからだ。させられた。
母はうつ病で他人を構う余裕はない、父は楽観的だし、兄や弟は自分のみのやつらだし。私には彼や旦那がいない。私は私を心配してくれる新しい家庭を作りたいと切望するようになった。
この頃、再び東京に来てやると、東京で婚カツをしだした時期だった。結婚相談所に登録し、横浜市の同じ年の人と会っていた。横浜で映画を見てぶらぶらしてお茶する。次は鎌倉で散策。確かに悪くない。でも決定的なこともない。年末にあい、年末年始をへて、特に進展はない。1月に「お断り」をした。相手は別にリアクションはない。3月の地震でもしかしたら連絡してくれるかもと思ったがあるわけなかった。私は孤独だった。なぜ結婚出来ないのか。なぜ私は一人なのか。いまだに私が一人でいたのは不思議だ。友人から見たら「独身貴族に見えたよ?」と言われた。結婚なんて考えていないアグレッシブな女性…それが私だとか。そりゃ、会社では同僚がいて、私生活では友人がいる。スピリチュアル趣味友達もいたし。充実していた。だから、他人に使う時間はなかったのかもしれない。心が動かなかったこともあるが。
土日を自宅ですごし、月曜日に会社に行く。金曜日の過ごし方を色々聞いた。あるものは横浜の自宅まで歩いて帰った。またあるものは都内の親戚宅に行って泊まり翌日埼玉に動くようになった電車で帰った。あるものはそのまま会社に残り、吉野家で牛丼を買って食べて翌朝動き出した電車で江戸川に帰ったと。皆が様々な金曜日を過ごしていた。なお、印象的だったのは、プロジェクトに参加していた九州から来ていた女子で、金曜日は九州から羽田空港に親が来ていて、地震で電車が動かないから、近くにいた人に自転車を借りて空港に行ったと。そのあとどうしたかは聞いていない。その女子は人を食うタイプだったから自転車をきちんと返したのかいささか疑問だった。
そして、三連休、岐阜に帰るため、レンタカーを借りた。ガソリンは満タンだった。まだ都内では一回○リットルまでと制限を受けていたから、レンタカーは大丈夫かと心配していた。首都高から東名に。静岡でもガソリンは制限があった。岐阜は大丈夫か?昼過ぎに岐阜に着いた。岐阜は地震の影響はあまりない。コンビニで「500ミリは○本まで」と張り紙が。震災被災者に送るため大量購入があったからだと。岐阜は何事もなく過ぎていた。私も三月末にここに戻るのね…安堵に似た気持ちになった。岐阜に戻ると実家に寄った。兄が震災後自宅待機になり、その際だからと検診を受けたら再検査になったという。そのため、○○病院に入院したと。検査入院でも入院だし…見舞いに行くからと父に話しに!「じゃあ、俺からと、次男から」と現金を預かった。自宅に行き、見舞い袋に。レンタカーで、東京に帰る。24時間レンタカーのため、朝八時に返しに。それから京急で品川に。山手線で渋谷に。乗り換え、とある駅で降りる。バスで病院に。間引き運転されていたので、きたやつに乗り込むしかない。病院につくと、面会にいくのに、ややこしい。ようやく、病室にたどり着いた。兄が一人でいた。「さっきまで嫁がいたよ」「あ、そう」と私はスルー。わたしが東京に二年半いたのに、一度も会わなかった兄嫁。兄も会わせたくないみたいだし。所詮他人ですもの。いいっすよ。
「サービスエリアで買ったやつ」と静岡で買ったのを渡したが要らないと返された。今朝岐阜から帰ってきたといったら、よくやるよな。兄が妹を好きではないのは伝わる。ならぱ、なぜ、わたしが入院先を聞いたら、丁寧に、行き方を教えたんだ❗こいといわんばかり。さらに、実家の親や弟からの見舞いを届けたのに。(私からの見舞いもある)後日談、検査は異常なしだったそうな。
震災後、家族の在り方を考えさせられた人は多いらしく、震災を契機に、婚カツ市場が活気に沸いたという。かくいうわたしも、その一人。漠然と結婚したいから、結婚すると意識をシフトさせた。



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