流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ヒロシマ・ダイ・イン」を語る!

                               <これ私の写真なんです>

颯爽として若く見えるけど、実は私が70歳の時で青森県「弘前城の流鏑馬大会」のもの。  これは「スポーツ流鏑馬」の大会で的中率と馬の速さを競います。

    この写真は3本目の矢を後ろ向き(バックショット)になって射ている。

 

私は今年75歳だけど「まだ現役の選手」で、速い馬と暴れ馬を乗りこなすのが好き。海外の世界選手権大会(アメリカ・オーストラリア・モンゴル・トルコ等々)にも参加していますが、私は国内でも外国でも現役で「最年長」のお爺さん騎手なんです。

 

冒頭からあんまり関係のない「目立つ写真」を載せたのにはわけがあります。

「カタリエに投稿」する前にSTORYS・JPを閲覧しました。なんと皆さん、文章も写真もセミプロかプロだ。ブログやSNSで食べている人や修行中の人も多い。

<これ見て、私は正直なところビビった!>

私の写真は旧式の携帯カメラで資料を接写。

文章は拡大鏡を通し時間をかけて、ポチポチとキーを打つ。

長い文章も書いたことが無い。「爺さんの昔話」なんかに目を通してくれる「奇特な人」が、どれだけいるのだろう?

そこで、最初の数ページだけでも見てほしいと、「奇をてらう」ことにしたのだ(笑い)。笑っちゃ失礼なのに、しょうがないネ。でも正直そんな心境なのです。


 「流鏑馬(やぶさめ)爺さんが「ダイ・イン」を語る!」なので、

    私は「ダイ・イン」について語りたい! なぜかって? それをこれから…

         あ~それから、前もってお断わりしておきますが、

       私は特定の政党や圧力団体の宣伝や擁護をする気持ちは

         「毛頭」ありません!! ので、ご安心を…

 

 で、「毛頭ない!」の証拠を下の写真で()。流鏑馬世界大会の懇親会で…


          ドイツの代表選手と禿げ比べ。右が私です。

(*私は現在まで特定の政党や宗教や圧力団体等に所属したことはありません)

 閑話休題して本題に入ります。

さて、私の意向とは別に、今の時代の若者たちの「ダイ・インの認知度」はどの程

度かというと、以下のようなコメントに代表されるようです。

             (ネットから引用:これって公表されているから引用OKですよネ?)


<イミフでみっともないパフォ>

「公道でも寝転がって死んだふり。こんな気分悪い抗議活動見たことない。

   この人達の死生観どうなってんの。関電前で #ダイイン。 え、何がしたいの?    熊? 地べた座るチンピラやん」


「彼らにはメッセージ性があるかも知れないですが、

一般人から見ればイミフなきったねー連中の

イミフなパフォにみえるんですよねw」


 「パヨクは道路上寝そべるのが好きだな?ただ、この行為こそ、朝鮮起源である事は

  お墨付きで、訴えなくても信じてやる。W


 「いったい誰が、こんな見っともないパフォを考えたんだ?

地面に寝ころ転がっているのは気味が悪い。

効果あんの? 服が汚れるだけだろ!W


            爺さんの私は「W」記号の意味が解らんので調べたら、

「笑」と読みます。と出た。

              状況によっては「嘲笑!」の意味もあるらしいんだネ。

う~ん。なるほどネ。無理もない。「この私でさえ」も、そう思う!

そこで皆さん、もしご興味があれば、NET上で「ダイ・イン」と入れて

「画像」の欄を一度、閲覧してみてくださるとありがたいのですが…


         どこもかしこも死体の山、また山だ!

これだけでウンザリする人もいるだろうから、

               現場でいきなり実物を見た人は、ちょいと引くだろう、とは思う。

  で、画像から一枚、おとなしいものを引用。文章も… 

20188月6日

ヒロシマ、早朝の原爆ドーム前集会に参加しました。                 原爆が投下された8時15分に黙とう。低く響く鐘の音とセミの鳴き声だけが響い ていました。すぐ隣りでは別の団体の人々がダイ・インをしていました。


  <そもそもダイ・インとは何か?>                                                        定義らしきものを調べて、二つだけ記述します。           1)出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』                  ダイ・イン(英語:die-in)は、死亡している状態を模倣することにより行う抗 議の 一形態である。動機としては、次のものが挙げられる。                       1.戦争の防止または戦争への強い反対

 2.存在する矛盾への注意喚起

 3.致命的な技術への反対の表明 


2)出典:精選版 日本国語大辞典

ダイ‐イン (die-in) デモンストレーションの形式の一つ。大地にひれ伏して「死」

を象徴させ、抗議の意を示す。一九八〇年代に、核兵器に反対する集会などで広く行

なわれた。


1)と2)の記述で異なる点は 1)は動機を3つ挙げているのに 2)は「核兵器

反対」の記述を追記して強調している。では、1980年代に何があったのか…


 実は、1981年(昭和56年)8月6日の8時15分に

 ヒロシマの原爆ドームの前で、日本で初めての

 核告発の「ダイ・イン」が実施されたのです。

なぜ、日時を断言できるのかって? それは…

その時(38年前)の「ダイ・イン」を提唱し告発行動を主導したのは、

「この私」だからなのです…


<私が「ダイ・イン」を提唱した経緯>

今から38年前の1981年(昭和56年)当時、私は広島に転勤してきた「製薬

会社のサラリーマン」だった。私は市内の東区安芸町に住居を構え、広島営業所の営業係長をして数年たっていた。家族は妻と二人の子供の四人暮らしであった。


 今は「烏帽子」を被って馬に乗り「禿げ頭」を隠しているが、

 当時は、やり手の営業マンで、中々のイケメンだった。かな?と思う…


 ある日、仕事で訪問した開業医院の診察室で「全身がケロイドのご婦人」を偶然に垣間見た。平静を装って通り過ぎたが激しいショックを受けた。放射能を受け、業火で焼かれ、現在まで「その苦しみを必死に背負ってこられた方」が目の前にいる。

私は、今、広島ではなく、「ヒ・ロ・シ・マ にいるんだ!」と実感した。


翌日から私は広島原爆資料館内の図書室に通い始めた。

いつもは喫茶店で昼飯をとりコーヒーなどを飲みながら雑誌に目を通し、時間調整を

するのだが、これを止めた。パンを齧りながら原爆資料をむさぼり読んだ。

3か月ほどたって図書室の方から声をかけられた。 昼休み時間に必ず来館する背広姿は目立っていたらしい。

 「飛塚さん、あなた、読書感想文を書くボランティアに協力して下さらない?」

理由を聞くと、今、資料館では「100冊の原爆関係本」を選択して、市民に気軽に手

に取ってもらえるようにしたい。それで「既に読んだ人の感想文」を載せる小冊子を

作るためにボランティアを募っているが、感想文が集まらない上に、途中で辞めてい

く人も多くて困っているという。そこで私は辞めた人の分も引き受けて残りの冊数を

こなしていった。

  そのおかげで、私は短時間に多方面の貴重な資料に目を通すことができ

「平和を語る青年の集い」や

「被爆者の家庭訪問をすすめる会」や

「被爆二世の会」の存在を知ることができた。

この三つの会は広島市の「青少年センター」内で活動している若者たちの集まりだっ

た。10代~20代の若者たちの中に、県外から転勤してきた36歳のオジサンの私が参加した。彼らは戸惑いながらも暖かく迎え入れてくれた。こうして私は、若者達と被爆産のフィールドワークや、「原爆孤老」と呼ばれる独り暮らしの被爆者の家庭訪問をするようになった。そして図書室の資料からは解らない「被爆者と被爆二世や遺族の苦しみや悲しみの部分」に直接触れ合うようになった。


そこで私は、自分の考えを地元の

 <中国新聞の「広場」欄に投書した>

原文のまま引用します。(以下、挿入される資料は私のスクラップブックから)

S・55,,3 「全市民参加し核告発へ行動」 会社員 飛塚 優 36

もし地球上の「人類の痛覚神経」をすべて一本につなげるなら、平和はすぐに来るで

あろう。なぜなら、人々は肉体と心の痛みを、最後の1人の苦痛が消え去るまで、

お互いに共有しあわねばならぬからである。

 ところで私達市民の被爆者への痛覚は、資料館を訪れる修学旅行生より鋭いと自信

を持って断言できるだろうか。強制徴用の朝鮮人で被爆した老女に、重複した差別の

痛みを、いくつまで感じうるだろうか。 

かつて私たちの父や祖父が中国の南京で中国人に、関東大震災下で朝鮮人に何をした

か。私たちが今、同和地区の人や身体障害者たちにどんな痛みを与えているか。

加害者でもあるのだという痛みを市民も被爆者も一緒に共有しうるであろうか。 

世界中の人は、たいてい戦争を強制された。わが子を戦死させたい親はどこにもいな

い。市民運動こそは国境を越えて連帯できる。

八月六日、全国で黙とうが行われるなら、広島では原爆ドームを中心に市民が累々と

地面に倒れ伏して三十五年前の原点から核を問い直し告発するぐらいの気迫と痛覚の

一致がなくて、どうして世界にヒロシマの声が届くのだろうか。

  

  この投書をしたのは、核告発「ダイ・イン」が実施される年の一年前である。

  最後の部分で、幾分過激に市民の意識を煽っているのには理由があるのです。


<当時の世相と平和運動の様相>

日本国内では「あさま山荘事件」が尾を引き、「日本赤軍」の暗躍や暴力事件があ

り、新左翼などの各党派間の対立から生じる「内ゲバ」という暴力抗争が継続してい

た。1980年は発生件数15件、死者数8人、負傷者数32人。(例:1030 - 中核派が革マル派学生5人を大田区南千束路上で殺害など)。角材や鉄パイプなどでの襲撃や拉致やテロでの殺し合いによる死者数は、合計113名ともいわれている。


    1980年前後の86日の広島は「原水禁」と「原水協」を巻き込んでの

  「政治的対立」が激しく、各国の賓客が平和公園で待っているのに、なかなか

  「統一平和宣言」が出せないような状況もあった。その他にも、各政党が県外

   から送り込む活動家や、ノボリ旗を持ち、ゼッケンを身に着けた大勢の労働

   組合員が、市内を我が物顔に闊歩して気勢を上げ、被爆者や市民たちは片隅

   に追いやられているような雰囲気だった。


原水爆反対や平和を訴える場は、政治家や政党関係者や活動家やアカデミックな学識

経験者の発言が主で、「被爆者の誰もが」窮状や平和を気軽に訴える場は見当たら

かった。当時の平和運動は、「政党別の傘下組織による縦割り」が多く、「思想信条

を超えた市民の集合による横繋がり」の活動組織はホトンド存在していなかったと思

う。私は積極的に数多くの集会に参加をしていたが、いつもそのような印象を受けて

いた。


「原爆反対」を表現する「言語の抽象性」は、意見の食い違いや思想の違いを生む。

そしてそれは「政治的」な運動から「政党的」な権力闘争に発展し、政党間の対立と

主導権争いの場に行きつく。対立が激しくなると平和集会も先鋭的で閉鎖的になる。


「核兵器廃絶」の立場も、欧米の「自由主義国家の核」は反対だが、対抗するソ連や

中国の「共産主義国の核」は賛成。とか、「いや、その反対だろ!」とかの思想的・

政治的応酬がふつうに行われていた。放射能の熱戦を浴びた当の被爆者にとってみれ

ば、「どこの国の核兵器であろうが反対!」が当たり前ではないのかな、と、私は不

思議に思っていた。


私が家庭訪問している被爆者の中には、「このような世相」を嘆く人が多かった。

  曰く、

「普段は近寄っても来ないマスコミや活動家が、8月6日の前後には大勢押し寄せて

くる。お盆の時期だけチャヤホヤされるって私達は幽霊じゃないんだよ!被爆もして

ない偉そうな連中の話ばかりが世間に通って、被爆者本人のわしらの意見や考えはな

かなか伝わらん。おまけに喧嘩ばっかりしとって、世界各国の人に顔向けできゃせ

ん。恥ずかしい!」

「それじゃ、皆さんで、何かしてみたら、いいんじゃないの」

「わしら体が弱くてあまり動けんし政治家みたいに、うまいことしゃべれんけ」

「なら、なんも言わんと動かんで、地面に倒れ込んで、寝っ転がってみれば?」

「あっ、それ面白いけど。も一回、死ぬ思いするんかいな。や~れやれ(笑い)

とまあ、要約すればこんな会話から「ダイ・イン」導入の芽生えが…

「雲の上」のような、抽象論や学術論や対立的な政治論よりも

 原爆のキノコ「雲の下」で起きた事実に「心を及ぼす」行為が出発点では?

  (1945年8月6日、広島の原爆投下直後、手前は瀬戸内海=米軍撮影)

   「雲の下にいた被爆者」の写真を載せるつもりでしたが、やめました…

   真摯に、ご覧になりたい方は「被爆者の写真」又は画像で検索してください。 


で、話を続けましょう。 私、翌年になって、 

<又もや、中国新聞「広場」欄に投書しました>

S56,7,3「全広島市民が核告発しよう」 会社員 飛塚 優 37

空洞化した非核三原則、右傾化へ操作されていく世論。膨張を続ける核兵器。

今、被爆地ヒロシマの市民として何をなすべきかが真剣に問われている。

もうすぐ八月六日がやってくる。

私は呼びかけたい。「八月六日午前八時十五分のDie-in」を。

三十六年前の原点に返って一個のしかばねと化すことを。

あらゆる階層の市民が被爆者を囲んで原爆ドームを中心に累々と地面に倒れ伏すこと

を。 爆心地の市民として自らの肉体で激しい怒りを世界に訴えることを。

「人類史上最大の過ち」としてではなく、単に「戦力バランス」としてのみ核を論ず

る体制を告発することを。

戦争につながる基本的人権の侵害と総ての差別体制を告発することを。

 平和運動は文化人や学者、労組や政党だけのものではないはずである。

Die-inは思想の違いや組織の分裂の次元を超えた市民運動である。

Die-inには整然とした理論や流ちょうな弁証はいらない。ただ黙って一個のしかば

ねと化して横たわること。あの日、同じ地面で息絶えた人と対面すること。

すべてはこの原点から出発していく。だれにでもできる数分間の無言の行為。

市街が怒りの死体で埋まっていく時、一人一人のヒロシマのこの抗議が世界中に

わっていくことだろう。

 八月六日、世界がヒロシマを注目する日、私達広島市民が「核告発のDie-in」をや

 らなくて、いったいどこの国のだれが代わりにやってくれるのであろうか。


   この投書は、ダイ・イン実行年「86日」の、約一か月前である。

 ますます過激な論調で、必死で、かなりの焦(あせ)りの様子も見える(笑い)。

それもそのはずで、一介のサラリーマンが提唱した抗議行動が、簡単に受け入れられ

るほどに、当時(約40年前)の平和運動の世相や土壌は整っていなかったのです。


この年、私は

      <「ヒロシマ Die-In を呼びかける会」の代表>

    になっていました。いきさつは、こうです…


「平和を語る青年の集い」の集まりで、私は持論である「市民レベルの倒れ込み抗議

行動」の提案をした。大事な絶対外せない柱として

「思想信条の違いを超えて集まった市民の自由参加によるものとすること」

などの案を説明し、「集いの皆でやらないか?」と持ちかけた。


集いのメンバーは、異論はないし協力もするが、「集い」の行事ではなく、運動にふ

さわしい「新しい会」を立ち上げてアピールした方がいい。

言いだしっぺだから「トビさんが代表でどう?」で全員の拍手が起こり

即、決定…。と、いうわけで、自業自得で逃げ場のなかった私は「大いに動揺した」

のだった。

 (あの時代に、一会社員が政治的活動を公然と行えば、会社側はどうでるのか)


   当時、私たちはまだ「Die-In」の存在を知らず、この行動を「倒れ込み」と

名付けていた。Die-Inという存在を知ったのは、取材を受けたときの新聞記者に教え

てもらったからだ。

1960年代に核軍備に反対して米国の市民グループが始めたこと。1978年に

ニューヨークの「生存のための大動員集会」でも行われたこと”などを知り、

広範な市民にアピールするには「ダイ・イン」の方が、内容が分かりやすいと決断。

急遽、配布中の手書きのビラを途中から「倒れ込み」の文字を「ダイ・イン」に入れ

替えた。そしてダイ・インの写真を探して張りつけた原稿をコピー機にかけた。現在

のようにインターネットも無く、資金も無いから、手書きと切り貼りのビラである。


     <ダイ・イン呼びかけの骨子>

          (配布ビラから抜粋)

         「キャッチコピーと共通の骨子を以下に記述」

      “核告発のDie-in 抗議の死を!”

 “私たちが 本当に 倒れ伏すことのないように!”      

“今ヒロシマの大地に耳をあてると死者たちの怒りの叫びが聞こえる”    

   “世界に伝えよう この声を あなた自身の肉体で!”

86815分、ヒロシマの惨状を怒りに込めて再現し、

        核兵器を告発しよう              

 “この抗議の死は86日の祈りを乱すものではなく、

その祈りを「無言の訴え」へと高めていくものです。思想信条の違いを超え

て、今に生きる一個の人間として、真剣に、おごそかに行う訴えです”

“あの日の無言の怒りを今!”                86日 午前815分                             ○原爆ドームを中心に、周辺の公園で、広場で…

          (あなたがその時間立っているその場でも)        

○私たち市民一人一人が、自らの意志で行動する。               

○鐘、サイレンの音を合図に、5分間その場に倒れ伏す。            

5分後、各々の思いを込めて、慰霊碑に向かって祈りをささげる。

<お願い>                               *平和祈念式典の進行を妨げないように注意してください。

(今年だけの行動にしたくないので整然とした形で行いたいと思います)   *倒れ込む場所には注意してください。

(事故が起きないようにしたいと思います。道路上では絶対にやらない

 でください。公園内の生垣を傷つけないように気をつけてください)  

*新聞紙・ビラ・空き缶等のゴミは出さないでください。            

    (後で公園清掃の仕事をする人の多くは被爆者の方々です。

              その人たちのをわずらわせたくないと思います) 

*当日は、私たちの会からの指示・案内は行いません。

 (あくまでも、個人の自由意思による行為です)             *身障者の方々が参加されます、市民の皆さんのお手助けをお願いします。


 <苦難の呼びかけ作業>

こうしてできたビラを片手に、私は小さな平和集会を巡り歩いた。その他にもボラン

ティア団体や宗教団体や町内会など紹介されたところを隈なく訪問。

この結果わかったことは、日本人は「組織や権力者の指示があれば動くが無いと動か

ないし、自己責任で自発能動的には動けないのかもしれない」ということだった。

政党所属の人は

   「党の指示や許可」がないデモに、自分勝手に参加はできないと言った。

宗教団体も同じだった。

   教会長などの承認が無い抗議デモには出られないと断られた。

ビラの通りで、「市民レベルの運動」ですから「自分の考えで参加してください」と

説明をするも、即・快諾をしてくれる人はホトンドいなかったのである。


       そこで次回のビラには、

 <賛同者の声から>として、14人のコメントを裏面に刷り込んでみた。

 当時は苗字や名前を明記。今回は了解を得ていないのでイニシャルにしました。

Fさん (10歳・女性・小学生)

「はだしのゲン」読んだよ。こんどは、ゲンの気持ちがもっとよくわかるかも知れん

と思うとる。

Sさん(20歳・女性・会社員・被爆二世)

「核があって当たり前じゃないか」という声も聞きます。それを聞くたび、私は本当

に悲しくなってしまいます。私がもし結婚して子供ができたら…新しく生まれてくる

生命には、なんの責任も無いのに被爆三世として生きていかねばならないのです。二

度と私たちのような二世・三世をつくらないように、そう願うのが人間ではないで

しょうか。

Nさん(24歳・男性・大学生)

現在の状況のもとでは、なんらかの意思表示を行わずにただ黙っていることは、核兵

器の拡張や軍備を推し進めようとしている人々に加担することになると思います。ぜ

ひ、やらせてください。 

Tさん(53歳・女性・身体障害者)

戦争がはじまると、私たち障害者は、一番先に切り捨てられるんです。基本的人権を

定する戦争と、私たち人類を絶滅させる核兵器には絶対反対します。当日は、ボラ

ンティアの友達と車イスで参加しますのでよろしく…

(以上4人分のコメントを抜粋)


         こうして、又、私たちは一人一人に呼び掛けた。

   現在であれば、個人でも、ホームページやブログなどで趣旨をアピールし、

SNSで即時に、世界中に写真や動画の拡散をできるのだが、40年前のアナログ時代

は現代人が想像もできないほどに、情報発信が未開拓な世界なのであった(笑い)

                        そして…

  このような呼びかけの苦労に加えて「新しい苦難」が私の前に立ちふさがった。


  <公安警察官が会社に来た!>

仕事を終えて営業所に戻ると、「今日、警察が来たわよ」と事務の女性が私に言う。

所長には「公安の警察官らしいが、君は何をやっているのか」と言われた。いろいろ

と私のことを聞かれたらしい。私は自分の「ライフワークの市民活動」であり、決し

て仕事にも会社にも迷惑を掛けないように配慮していることを告げた。そして所長か

ら名刺を借りて連絡先を調べ、彼らを喫茶店に呼び出した。


     待ち合わせた喫茶店の奥の間で、私は二人の公安警察官を詰問した

曰く

そもそも、いきなり会社に来るとは何事か!会社員の私の立場がどうなるか想像でき

ないのか。なぜ直接私の所に来ない。ダイ・イン行動に危険がないことはビラを見

ばわかるじゃないか。あんたらのことだ、どうせ私のことはもう総て調べつくして

るのだろうけど!


彼らの態度は冷静沈着で威圧感があった。治安維持のため暴力主義的な破壊活動を

行う団体や組織をマークし調査する「仕事の一環」だとの主張だった。

      しかし、彼らにとっては「仕事の一環」で済むが、

 私にとっては「仕事が一巻の終わり!」になる話である。

  結局、「既存の組織」はどんな行動に出るか予測がつくが「貴方の組織」は

「今までにない新しい形態」なので、まるで行動予測がつかない。

総理大臣(鈴木善幸氏)も出席する平和祈念式典の最中に事件でも起されたら

我々、公安部の責任となるということだった。


私の「運動の正当性」と、彼らの「職務遂行」の主張の争いは平行線をたどり延々

続いた。そこで私は悔し紛れにこう言った

          「君たちの家族や親戚に被爆者はいないのか」と

           若い方の警官が低い声で「います…」と言った

「俺のやってることは間違ってるか?」

    この問いに二人の返事はなかった。こうして我々の話し合いは決裂した

 以来、私の彼らの行動に対する「激しい怒り」が収まることは決してなかった。


<妻の一言で…>

数日間熟慮して、ある日、子供が寝静まったあとで私は妻に相談した。

「会社に公安警察官が来た。所長は社員管理義務があるから本社に報告していると

思う。本社の人事部のブラックリストにはもう載っているはずだ。下手をすると首に

るかもしれない。ダイ・インの活動を続けるか止めるかで、実は迷っている…」


妻は黙って聞いていたが、やがて笑いながらこう言った。

「だって、お父さん、本当はやりたいんでしょう? だったら、やりなさいよ! 

丈夫よ。もし貴方が首にされたら、私が働いて食べさせてあげるから。

これでも私、薄暗い店内なら、まだ十分に美人で通用すると思うわよ(笑い)

                       だから、やんなさい!」


       <金婚式を控える昨今まで、夫婦喧嘩の修羅場は数限りないが、

      38年前のこの一言で、私は未だに妻に頭が上がらない(笑)>

  で、ここで当時の私達家族の写真を紹介させて頂きます。

    長男は小学3年生。次男は幼稚園児で、二人ともビラ配やマスコミの

取材の時に同行して協力。一家総出のアッピール作戦だった。


こうして、活動は再開したが、今度は仲間達が私の「事前逮捕」を心配した。

リーダーが事前に別件で逮捕されれば、ダイ・インは信用を失って瓦解する。


 今なら笑い話だが、こんなアドバイスまでもあった。

「トビさん、職務質問などに引っかかったら、両手を後ろに組みなさい。もつれ

て警官の手でも払ったら、即、公務執行妨害!で持っていかれるよ。相手はそれ

を待ってるんだから。ジャイアンツの長嶋監督が球審に抗議する時みたいにね。

手を出してはダメだよ。肩を前に出して抗議するんだよ!」 


86日が近づくと、県外からの電話が相次いだ。自宅で妻は私の代わりに対応を

続けた。各種の問い合わせの中に、四国の女性から「中学2年生の息子を1人で

参加させたい」のだがとの相談があり、それならとH君を我が家でお世話をさせ

てもらったりもした。


   85日。私は815分に一人で原爆ドームの脇で倒れ込んでみた。

  ダイ・イン当日の下調べである。

 一番懸念したのは真夏の道路の「アスファルトの温度」であった。

 体の弱い被爆者や老人や子供連れの女性や障害者も参加するはずなので、

5分間耐えられるのか」が心配だった。幸いこれは、まだ太陽の日差しの弱い

時間帯なので懸念するには及ばなかった。


     そして、ついに1981年(昭和56年)86日(木)

 <原爆反対の告発「ダイ・イン」の日が来た! 

                                      この日、私は会社に午前中の勤務を休む手続きをして、            一時間以上も前に原爆ドーム前にいった。そこには「集いの仲間」と顔見知りが45人いるだけで、30分前になっても15分前になっても参加者らしい人は増えなかった。

  目の前の「倒れ込む予定の道路」には祈念式典へ急ぐ

   大勢の人の波が勢いよく流れ続けていた。   

 どうしよう参加者がいない!

     せめて340人でも集まってくれればと願っているうちに、

             5分前となってしまった…

  すると、あちこちから、あっという間に人々が集まり、

道路上に座り込みを始めた。

近くで様子を見ていた参加者たちが、ダイ・イン開始時間の間際になり、
     ついに、市民それぞれが「意を決して」行動を起こしたのだ。

  個人の「自由意思」が基本なので、

私達は約束通り、何の「号令も指示」も出さなかった。

  815分に「平和の鐘」が打ち鳴らされると、人々は自発的に次々と地面に

  倒れ伏していった!。


 この写真が38年前の、日本で最初の「ダイ・イン」の貴重な生の写真です!

ある新聞記者さんから 「貴方は倒れていたから写真がないでしょ。

 これは記事に使用しなかった写真の中の一枚ですが、記念に差し上げましょう」

           と、提供されたものなのです。

大切に保存していましたが、年月が過ぎて左側が黄変してしまいました


 <ところで、参加人数は何人ですか?>          ドーム前の通りは倒れ伏した市民でふさがれ、周辺には5分間の重苦しい沈黙が流れ

た。短くて長い5分間だった。しばらくして起き上がってみると私たちは通行人と

スコミに囲まれていた。

私は大勢の新聞記者に異口同音に問いかけられた。

         「とこで参加人数は何人ですか?」と。

私は何のことか分からなかった。説明を聞くと、ういう時は「主催者発表の人数の

提示」が必要とのことだった。つまり取材する側が、それぞれ勝手にバラバラな人数

を報道しては記事の信ぴょう性が無くなる。だから各社が同一の人数を書けるように

主催者側が「参加者の人数」を発表してほしい、と言うことらしかった。


そんなこと言われても、私は家族と倒れ伏していたし仲間達も同じだった。
「何人参加していたか」なんて判るはずがない。終了すれば皆は自由に退去するし、
地面から立ち上がってしまえば通行人と区別がつかないから数え直しもできない。 
えに詰まって途方に暮れていると

       後方から私の肩を叩いて「150150…」と、ささやく人がいる。 

振り返ってみると、そこには作業服を着た労務者風の若い男が立っていた。
見覚えのある顔だが誰だか分からない。彼はさり気無い声で、もう一度「150」と
に告げると、立ち去り際に振り返りもせずに軽く後ろ手を振った

その瞬間、私は思い出した。

「あっ、奴め! あん時の公安警察官じゃないか!」

そうなんです。彼はダイ・インの参加者に混じって密かに潜入していたのです。

従って人数の把握も正確なはずだった。急場を救われた私は「説明のつかない感情」

が突然に込み上げてきて声が上ずった

150だそう… いえ、150150人です!」

翌日の新聞は、どこの会社の記事もきれいに「参加人数は150人」で揃っていた。


 <全国に広がる「ダイ・イン」行動>

ダイ・インは、翌年‘82年の321日「ヒロシマ行動」で500人の参加者を得た。

この時配布した私たちの「呼びかけのビラ」は、参加者によって全国に散らばった。


「戦争反対・核兵器廃絶」の集会に参集した市民は、識者の演説を聞くだけでなく、

「倒れ伏す」ことで「自らの意志を示す」ことのできる「主人公」になれることを

った


523日の東京行動では40万人、524日の大阪行動では50万人の民衆動員があり、

             東京では代々木公園を、

     大阪では大阪城公園をダイ・インの参加者たちが埋め尽くした。

      新聞記事には「草の根の連帯」とか「草の根の結集」とかいう、

          大きな見出しが急に頻繁に載りだした。


「草の根とは、民衆のひとりひとり、一般大衆のことで、政党・結社などの指導者層

に対抗して使う言葉や運動のこと」(引用:大辞泉)です。


「草の根レベル」とは「市民一人一人の視線で、立場で…」と言う意味です。

これは私の「新聞投稿」と「ヒロシマDie-In を呼びかける会」の趣旨そのままで

す。

 「思想信条の違いを超えて集まった市民の自由参加によるものとすること」

従って、当時のダイ・インは「草の根市民運動」の「草分け」だ!(笑い)と、言って

も良いかとも思います。 が、これは私、調子に乗って言い過ぎました!(謝)


  でも…インスタ映えのしない


  <イミフ?な、パフォが38年間も続いている!>

ダイ・インは現在も「戦争反対・核兵器廃絶」への告発として全国各地で行われてい

ます。組織的主導でに大々的に行われるものもあれば、少人数で静かに行われている

ものも。あるいは又、自宅や病院や施設内で、一人で、ひっそりと行っている人たち

もおられるようです。最近では子供たちも… 


いったい、今までに述べ何回のダイ・インが行われたのでしょうか? 

そして又、述べ何人の参加者が地面に倒れ伏したのでしょうか?


SNSでイミフと言われるダイ・インだが

    「38年間も続いているということ自体に意味がある!」

                       のではないだろうかと私は思っています。


 かつての日本には、津波のように民衆を大動員する抗議行動や、対立抗争が各地にあふれていまし。政治家も活動家も民衆も学生も皆、その渦の中で気勢を上げていた。    しかし、運動はいつの間にか形を変えたり、縮小したりして、自然に消滅していったものも数多いのです。

 でも、ダイ・インは未だに「当初の形」を守り続けています。

そして、ダイ・インを通じて、プロの活動家のようには目立たないけれども、町中の

「普通の人の中に本当の平和を願う人が大勢いる!」ということも解ってきました。


あれから40年近くが経過しました。当時、参加して下さった方々の半数以上はもう、

くなられているかもしれません。私としては最初にダイ・インに参加して下さった

150人の勇気ある市民」の皆さんにお礼を申し上げることが第一なのです。

  そして、あの時の「決断」が、今では「イミフな(意味不明な)行動」と

「誤解される事実」もある!という現状に対し、

 「カタリエに投稿する」ことで、一人でも多くの方々にご理解を頂けたらと、

         ただ一石を投じたかっただけなのです。

  人々の心の中の「小さな波紋」が あらゆる垣根を越えて、どこまでも、どこまでも

              広がっていくことを切に願っています。

<追記>

   最後まで、難解で我田引水な文章に、お目通しいただいた皆さんに、

    心からの御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

多量なスクラップ資料から抜粋と引用を致しましたが、これまでの記述には当時の

私の「個人的な」見解や、勝手な「思い込み」により、事実と相違している点があ

かもしれません。こつこつと長年の間運動を継続してこられた方々には、大変失礼な

表現をした箇所もあるかもしれません。まずもって、

       配慮不足の未熟な文章の記述につきましては、

      この場をお借りしてお詫びを申し上げたいと存じます。


先ごろ、息子が「ダイ・イン」が誤解されている!と私に告げて、「HIROSHIMA

イ・イン 始まりの日」をフェイスブックに載せました。彼は当時小学3年生だっ

が、家族で取り組んだ運動の趣旨が、今、正確に伝わっていない哀しさと義憤が

あったのでしょう。

私もその後「ダイ・イン」時代に負けず劣らずの、「波乱の活動」をつづけましたが、 に家族の支えで乗り越えてくることができました。

         そこで、面と向かっては言えないので、

 ここに、紙面をお借りして   

      「息子たち、かあさん、ありがとう!!」で

           紙数も迫りましたので、急遽、終了とさせて頂きます。


   これはオーストラリアのポートダグラス市の4マイルビーチでの世界大会。

       本番前の試走です。走路と馬の状態をチェック中。

         最初と最後に写真を掲載して誤魔化すって、

       流鏑馬(やぶさめ)爺さん、ちょっと、ずるいかな? (笑い)

   でも…、私の意図する矢は、「皆さんの心を射ぬいている」のだろうか?

外れているのか、かすっているのか、的中しているのか全然分かりません(笑い)

呆けの始まっている老人なので「*読んでよかった」の欄に、短いコメントでも記述

して下さると有難いのですが…

   (完)


   








   


















 





 










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