僕の生い立ちの「さわり」をちょっち、ね。

【老人の独り言】二輪の歴史 余談 
僕の女中さんのお話パート4「たいちゃん」

ーこの父の会社の社員、女中さん集合写真(多分53年)には
「たいちゃん」はいない。僕は中央の父に抱かれてる。
後ろは、お化け煙突ーー

これは、僕が小学2年生だから、8歳、昭和だと昭和31年、
1956年のお話しだ、、。さぁ、哀しいお話しよ、、。

大宮に、渡部家、父の会社、湊製作所が倒産、その後の、
夜逃げ、、。
ようちゃんの両親は、その大宮でも、働かなかった。
僕が、家のものを売って生活していた。
大きな家の離れの数部屋を借りていた。

ようちゃんの大好きな「たいちゃん」は、引越しの後、
数カ月でいなくなっていた、、。

父は働いても長続きはしなかった。すぐに喧嘩しちゃう。
今までの贅沢な生活は、ほとんど変わる?いや変える事は、
我が家族には、難しかったようだ。

お金が底をついた。

ようちゃんは月に1回、公益の質屋さんにおかあさんの宝石や
着物を持って行った。その帰りには、そのお金で”買っていい!”と
お母さんに言われたトンカツ(当時の値段で一番いいのが50円)を
ふたつ,家族4人で食べるのが楽しかった。
一ヶ月に1回のお肉だった。

売る物も数年でなくなった。借家の部屋が5間から4間になり、
2間になり、家の天井からは、雨漏りもするようになった。
雨漏りを直すお金もなくなったようだった。
今の時代の人は、、わからないだろうな?
雨の日は家の中は洗面器がいくつも、、。
ピッチャン、ポッチャン、音がする雨の日、、。

ようちゃんの修学旅行の積み立ての通帳もゼロになり、
ようちゃんは、恥ずかしくて、学校に行くのも
嫌いになってしまった。

そして、遂に、大奥様だった母が働き始めた。
昼は保険の外交、夜は割烹での仕事、、。

ようちゃんから、たいちゃんもいなくなり、
そして、おかあさんもいなくなった。

ようちゃんはさみしかったあ、。
学校では依然東京ッ子って、いじめられていたし。

それでも、なんとか、ようちゃんは、厳しいその環境に
小学校、中学校と順応していった。
そして、ようちゃんは、この母によって高校まで行く事が出来た。

大学に行かせるお金はないと言われて、商業高校に、
ようちゃんは行った。でも、そろばんや簿記の時間が嫌で、
好きな英語の詩集を読んでは、先生に怒られてばかりいた。

高校時代は、後楽園でスケートをし、ジャズを聞き始めた。
いわゆる虚弱な子供だったので、変に愚れたりはしなかった。

中学校の時にパー券を不良に売りつけられた。
パーティ会場の幼稚園で、始めて、ようちゃんはツイストを
踊った。何も知らずに、その踊りを踊ったら、なんだか、
ようちゃんは、踊りで有名になっちゃった。
考えてみると、ようちゃんは、お金持ち時代は、芸者も含めて、
踊る人達に囲まれて育ったのだ。音楽と踊りが好きな子だったのだ。

「高校を出たら丁稚に行け」と、父に言われた。
もう、その当時でさえ「丁稚」なんて言葉は、死語だった。
「丁稚」とは、どこかの「商店の売り子」の様な意味。

大学に行けない予定が、高校の3年生の秋に、父の親戚から
もらいっ子だった、ようちゃんの兄にあたるひとが、
アメリカで当時は世界のベストテンの会社の社長になっていて、
僕に大学の入学資金を10万円くれた。

ようちゃんは大急ぎで勉強して、洋式トイレのみ!
ようちゃんは和式トイレに座れないので、
和式トイレのない大学?に入学した。

入学した大学は徐々に学生運動の場となっていった。
あちこちから、いっぱい殴られた。
だから、。殴られる事が余り怖くなくなった(これも伝えずらい)。

役者志望もあって、大学では劇団を作った。授業料、生活費を
全て自分で工面しなくてはいけないので、いろんなバイトを経験した。

経験したバイトのひとつに、”テキヤ”という物売り仕事があった。
ようちゃんと同じ下町の言葉を話す人達に教えられた。
フーテンの寅さんと同じ職業。

クリーナーや研磨剤、包丁を売るようになった。
デパ地下やスーパーの入り口、たまに祭にたった。テキヤをやって
半年もすると、三日働けば、大学の授業料を払える程のプロになっていた。
大学生なのに、毎月、今の100−200万くらいの収入があった。

そのお金の使い道がわからなかったので、30人以上いた劇団員の
飯代にもつかった。

大学を卒業して、今まで敵視してきた社会に迎合して働くか,
インドにヒッピーとして放浪するか、迷った末に就職を決意した。

そして、おもしろそうなので、音楽芸能プロという、ようくわかんない
会社の試験を受けたところ、何百倍もの試験に受かってしまった。
そして、通称ナベプロと言われた大芸能産業に入る事になった。
(これは後のことだけど、そこにはメチャクチャな人がいっぱいいた)

もう、そこには、そろそろ自立した青年がいて、
”ようちゃん”は消えていた。

”自立した”と言っても、その青年は、ようちゃんにとっては、
世の中に妥協した惨めな自分の姿だった。

成長しない子供という意味での”ようちゃん”は徐々に消えていった。

就職試験に合格し、社会に入る前に、
ようちゃんは最後の”ようちゃん”を務めよう!と決意した。

ようちゃんは、秋田県の角間川(今の大仙市)に
"最後のようちゃんのたいちゃん”を探しに行ったのだ。

ようちゃんは、その時21才。(今から46年前)

たいちゃんとは、ようちゃんが8才の時に別れた。
その時の、たいちゃんの年齢は、二十歳くらいだったろうか?
ようちゃんと、12歳くらいしか年の差はない。
たいちゃんが健在なら たいちゃんは30才前後ののはず、、。

"最後のようちゃん"は、昭和の45年 上野の駅から、
15時間以上も汽車に乗って、ようちゃんにとっては、
母でもあり、初恋の相手でもある”たいちゃん”を、
秋田の小さな村、角間川に、、探しに行った。

Fin

次が最後です、、、。。


著者の渡部 洋二郎さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。