逃げるしかなかった

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五回目の原稿を見たOは、以外にも軽く「彼女、これでいいよ」と言った。原稿には、いつもと同様に赤字は全く入っていなかった。

 私が泣き出す、とか、諦めて作業を放棄すれば辞めさせ易い、と思っていたのかも知れない。

 その後、Oは特に何を言うこともなかった。

 私に当たらず触らず、時々私に原稿を届けて来て、とか校正をして、とか雑用を頼むだけだった。

 社長、O、Kの、遠くから私の動きをじっと観察している様子は変わりなく、私の目に入った。真意の分からなさが私を苦しめた。

  3・決断

 私にとって心の救いだったW子は結婚退職した。笑顔が輝いていたのは、すべてを受け止めてくれる相手がいた為だ、と納得した。

 代わりに、何が専門なのか分からない、短大出身の派手な服装のR江が入社して来た。

 目がパッチリとしていてちょっと見は可愛いが、傍若無人で、誰彼かまわず自分の思っていることを喋りまくる。

私に対しても「あたしさあ、ハワイに行きたいんだよねえ。あんた行ったことある?」と、まるで何年も前からの知り合いのように話し掛け、擦り寄って来る。

 単純で扱い易い女性に思えたが、厚かましさは仕事の邪魔だった。

私の、アリノブ企画での在席期間が長引いたのも、社長の注意がR江に移り、私の心の負担が軽減されたことにある。私は、いつしか気楽な立場にどっぷりと浸っていた。

この会社にいてもまともな仕事は来ない、いつ、どんな策略で辞めさせられるか分からない、と確信はしていても、今日頼まれたことだけをしっかりやっていればいいと、物臭根性が顔を出していた。

 失業したら面倒だ。また職業安定所に通い、仕事探しをしなければいけない。実家から会社に電話され、退職したことが分かったらどうしよう、失職にまつわる不安が頭を過る。慌てて目を瞑る。

 「いつまでもこの会社にいればいいじゃない、何も悪いことはしていないんだから」

W子のアシスタントだったS美は激励してくれた。

嬉しかったが、W子程存在感のない二十代前半のS美は、私にとっては心許なく、私の味方をすることでS美自身の評価を落としはしないか、と心配になった。

 私がせっせと雑用をこなしていた時期、一人室内にいることも多く、来社する客の応対もしなければならなかった。外部ライターのPもその一人だった。

「J通信社のカタログが上がったんですよ。どうですか?」

 社内に誰もいなかった時、Pは私に仕上がったカタログを見せた。

 さすがに大企業のカタログで、紙質も、野生の鹿を撮った写真も一流に見えた。表紙には、数行の詩が書いてあった。

「これ、Pさんが書いたんですか?」

 私は、モノローグにも似た文章を指して聞いた。植物や動物達が営む、自然界を讃えた呟きだ。

 仕事で来社しても、社員と喋っている姿を見たことがなかったPが、口元を少し緩めて頷いた。

 Pは、まだ二十代後半なのに頭頂が禿げ上がっていた。四つ年上の妻がいて、幼い子供がいる、社内でPのプロフィールが広まるのは早かった。

 モノローグには、深みがあった。頭の中でじっくりと考え、余分な部分をそぎ落して産み出したに違いない言葉だった。

「いいですねえ」私は二の句が告げなかった。

 丁度昼時だった。気を良くしたのか、Pは私を食事に誘った。

 特別な話しをした覚えはない。元来無口な人で、私も聞きたいことは特になかったが、仕事に対する向き合い方に興味を持った。とにかく全身全霊で打ち込んでいる。

Pは「フリーで仕事をするのが私には合っているんです」と、今迄に見せたことのない笑顔で言った。

 Pは一本筋が通っている。自分に信念を持っている。

「私は一からやり直した方がいいのではないだろうか?」と思った。

Pの文章を見た時、私が築き上げて来た理想の城が音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

これから先就職口がある、ないに関わらず「アリノブ企画は辞めよう」私は決心した。

問題の多いR江は、営業が担当だった。社長が何度かクライアントに挨拶に連れて行ったが、無駄口が多いせいか営業職には付けず、社長の使い走り専用員になっていた。

R江が暇を持て余すことが多くなると、社内はR江に掻き乱され始めた。一社員でありながら、ここまで我が物顔に振舞う輩を、私は見たことがなかった。

出社すると誰彼構わず話し掛け、お喋りを始める。やることがないとパソコンをいじったり、立ったり座ったりし、「あんた今何してる?」と私の後ろにやって来る。

「校正? ふうん」と言い、次の人の所に行く。

 一時間程ブラ付くと、「喉乾いた、ジュース飲もう」と、勝手に社外に買いに出掛ける。

 たまに社長が顔を出し「おいR江、これをB社に持って行ってくれ」と仕事を頼む。

 R江は悪びれもせずに「はあい」と笑みを浮べて言う通りにする。

 R江が外出すると、社内は静まり返る。

「この会社には使い物にならない社員がなんと多いことだろう、私を含めて」

社長には人を見る目がないと言う事実を突きつけられ、私は苦笑せざるを得なかった。

Oが夜間に私を脅し付けてから五カ月以上は経過していた。

社長もOも、私が完全に居据わってしまった、と思い込んだかも知れない。

「俺、今度鳥取まで取材に行くんだ。留守を頼むよ」

 ある朝、出社するとOは笑みを浮べて言った。

まだ会社にしがみ付いている私に気を許していたのか、三日間会社を留守にするとのことだ。

「はい、分かりました」私は笑顔で了承した。

 頭の中では「今だ」と思った。毎日社長やOの監視の眼差しに、絶え間のない苦痛を感じていた。早く逃れたいが、辞める、と言ったらどんな嫌がらせが待っているか分からない。

 被害妄想にも似た観念が私を支配していた。

「辞める覚悟は出来ているけど、辞めますって社長に言うのは嫌。Oとは二度と顔を合わせたくない」

 会社の誰もが私が引っ越したことを知らない事実は、せめてもの私の慰みで、小気味良くもあった。

会社から疲れ切って帰ると、荷物の整理が終わらず、雑然とした部屋の中での生活が続いていた。

「ひと月」と期限を切られて引っ越したので、装飾品と日用品がごちゃ交ぜになっていたり、内容物の表示もないダンボール箱がいくつもあり、荷物の整理には時間が掛かった。

 私と懇意の女性達は誰も、OとKの、陰での私への退職要求は知らなかった。S美、版下製作のC代、問題の多いR江さえも、私には好意的だった。

彼女達に別れの挨拶をするのは辛かった。自分の負け犬のような姿を見られるのもいやだった。

 「黙って辞めるのが、一番いい」Oが出張した日、私は決行日と決めた。

 小さな事務所なので、社内への出入口は一つだった。鍵は幾つかあり、社長と経理担当者が一つずつ持ち、残業する社員の誰かが残りの一つを責任を持って扱うことになっていた。

 当日に私が鍵を持っていたのは幸いだった。当番だったのかも知れない。

 六時に皆が退社すると、私は鍵を掛けて職場を出た。駅迄歩き、近くの喫茶店に入った。食事をし、時間を潰した。

 午後八時になった。私は店を出て、暗がりの中を会社に向かった。たまに、社長が遅く会社に戻ることもある。社長と鉢合わせしたら大変だと思った。危惧はしたが、道々は誰にも会わなかった。

 ビルの外側から見て、会社の窓に明かりはなかった。

 エレベーターのないビルで、二階にあるアリノブ企画に行くには階段を上るしかない。足音が響かないように注意しながら、私は上った。ビルに管理人がいなかったのは幸いだった。

 オフィスに付くと、私は部屋の扉の小窓を見た。部屋に明かりはなかった。私は鍵を開けた。

 月の光だったか、他のビルの照明がこぼれて来ていたのか、私の机には、青白い光が射していた。

 オフィスの明かりは点けず、私は机の中を覗いた。昼間、目立たないように整理して置いたので殆ど空だった。

 必要のない書類や、文房具などは持って来た紙袋に放り込んだ。最後に、机の上を雑巾で拭いて綺麗にした。

 明日から会社に来なくて済むと思うと気持ちは軽かった。

 一時間程で整理は終わり、会社を出た。鍵は所定の郵便受けに入れた。私は、二度とアリノブ企画には足を踏み入れない、と誓った。

 当然、それで済むはずもない。翌日、経理担当者から退職の手続きをして欲しいとの連絡があり、私は指示される通りに済ませた。

 社長やOからの連絡は一切なかった。辞めるのを待っていたとしか思えない。

 しばらく、私は家の引っ越し荷物の整理に集中した。部屋が片付くと、就職先を探しに外出するようになった。頭の中には、編集、の文字は全くなかった。

 職業安定所へ行くには、アリノブ企画への通勤駅と同じ駅を使う。半月程控えていたが、安定所には行かざるを得なかった。案の定、真昼間にも関わらず、C代に呼び止められた。

「怜さんが急にいなくなったから、皆びっくりしちゃってる。今どうしてるの?」

 咄嗟に、私は「フリーでやってるの。これから打ち合わせに行くんだ」と応えた。自分ながら「見栄っぱり」と苦笑した。

                           終り                                       

□浜田怜は、筆者の匿名です。アリノブ企画、社長名も匿名です。

登場人物のアルファベットのみは男性、アルファベットプラス漢字は女性です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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