悩めるお坊さんが悩みに悩みぬいた末に出てきたヒカリ

いままで
わたしは
2足のわらじ(僧侶・理学療法士)を履いてきました。
 
2つの役割を担えるということは
大変幸せなことです。

しかし、どこかそれぞれの職業に対して中途半端な部分も正直感じていました。

実は
私の中では
もし、理学療法士がうまくいかなければ
いつでもお寺に戻ればってどこか頭にあったんだと思います。
 
そんなわたしも40歳になり
次の20年をどう生きるのか
否が応でも考える時期に差し掛かりました。
 
ここ数年は
自己成長のために
自分の想いに沿って
いつしか対話の場を作っていました。
 
その中で
最近
世間的な関心の高まりを大変感じる
「死生観カフェ」があります。
 
ここ数年
主催して感じてきたのは
場を作る上で
臨床に実際にいるのといないのでは違うのではないかということでした。
 
以前わたしはホスピスの現場に身を置いたことがあります。
 
でも結果からいうと当時なにもできなかったんです。

そのとき
二つの壁にぶち当たりました。

それは
「一般の方にとっての僧侶の位置づけ

目の前にいるのは死を間際にし、意識しているひとたち。
そのような時期でも僧侶を呼んでほしい。
お経を唱えてほしい。僧侶と話をしたいというひとは当時10人中1人。
100人いれば2.3人。
これほどまでに必要とされない職業なんだと
その現実にどこか悲しみと強い危機感が沸き上がってきました。
 
もう一つは
「わたしの看取りの未経験」

私自身、今までひとを看取ったことがなかったんです。
そのとき
初めて誰かを看取るとき、沸き上がってくる感情は
怖かった。悲しかった。
そのため
なにもできませんでした。

でも
そんな自分を認めることができず
わたしはその場から逃げていました。

わたしは 
その後、ホスピス病棟を退職するにあたり
せめて
いろいろなひとの死生観に触れようと
知らず知らずのうちに先ほどの「死生観カフェ」を開催していました。

そんなわたしは一つの決断をしました。

それは
実家であるお寺を離れて
今一度、医療の現場に身を投じることです。

この決断に至るまで遠い道のりがありました。

わたしは
一度
親、周囲の思いを強く感じて
実家のお寺を継いで僧侶として、住職として生きようと
その意識を強くしようとある行動に出ます。

それは今一度修業することでした。

そして、修行後
最後は頭を丸めて、実家のお寺を継いで
住職になろうと決めていました。

それで
四国お遍路そして山伏と足を向けました。

でも
結果からいうと
なにもわたしは変わりませんでした。

それで気づいたんです。

そこが変えてくれるのではなくて
そこでなにを感じて
それこそ何かが変わるも変わらないも自分次第なんだということを。

どこかでなにを体験しても
どんなに良い話を聞いても
結局自分次第。

そこで
改めて自分としてなにをしたいのか
どこで生きたいのか
考え直しました。

すると出てきたのが
今一度、生と死のある臨床現場に身を置くことでした。

その後
看取りに関わっている現場を中心に、就職活動を始めて
無事ある病院にご縁がつながりました。

いまから
この臨床での経験をふまえて
自分が死生観カフェでどんな場を提供できるのか
すごく楽しみです。

わたしの意識として
僧侶として病院に入っていく感覚なんです。
でも
現状、僧侶の服装で病院にうろつくと
縁起悪いとかまだ早いとかなるじゃないですか。

でも
わたしは理学療法士という資格をもっています。
拒否されるということよりも
もしろ歓迎されて入ること、病院にいることができます。

さらに
医療における僧侶の必要性を高めて
僧侶の職域
さらには理学療法士の職域をも広げていきたいと密かに考えています。

あなたの病院に僧侶いないの?
来ないの?
おかしいよ!って世界を。

今回の結論に至るまで、すごく悩みました。

一番は親の想い、周りのひとの想いでした。
実家のお寺を継ぐことが一般的で
いわゆる普通は当然、その道が良いことでしょう。

自分も一度はその身を置いてみました。

でもどこかすっきりせず、そして苦しかった。
~しなければならない
~すべき
という重圧のある言葉に。

一度あるとき
その重圧から離れて、手離してみました。

そのとき
すごく肩の荷が落ちて、楽になりました。

最近
欅坂46「サイレントマジョリティー」を初めて聞いたら
自然と涙が出てきました。

特にこの歌詞の部分に。

「君は君らしく生きていく自由があるんだ。
僕らは何のために生まれたのか」

小さい時からどこか誰かに見られている
正しくなければ、正しく生きなければと
そんな重圧を感じて自分とは乖離した人生を歩んできたことに
自分の奥底では気づいていたんでしょう。

今回の決断に至るきっかけは
ある方の言葉でした。

わたしも子供を持つ親。
もし
その子供たちが親の想いを大切に
自分の想いを我慢していたら
その姿に親であるわたしが気づいてしまったら
わたしはどんな気持ちになるだろうかと。

実は
いま
わたしの父親は
事故で医療的に回復が厳しい状況にあります。

本人が一番不本意だと思います。
きっと父親も実家のお寺を継ぐことを望んでいたとは思います。
でもその想いには残念ながら応えられませんでした。

でも
父親がこういう状況にならなければ
今回の決断はできなかったでしょう。

きっと
あと10年
父親の下で悶々と将来をどうするのか決められず
過ごしていたんだろうと思います。

父親から
改めて人生何が起きるかわからない。
だからこそ
その自分の人生を大切にすることを学んだ、そして
この決断を背中を押された気がしています。

いろいろなひとたちの想いを
自分なりの責任を感じて歩んでいこうと
いまは思っています。

もちろん
これからは楽しく。

いろんなことがこれからも当然あると思います。

でも
それは生きているからこそ体験できること。
その体験をできることなら楽しくしていきたい。
いまはそう思っています。

人生100年。
まだまだわたしの人生は半分も終わってない。
これからの人生も、いっぱい楽しみます。

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