無鉄砲の銃声 ~なぜかインドが第二の故郷になった話~

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インドに行けば人生観が変わる。

誰が言い出したのかは知らないが、そんな大袈裟なことは起こらない。

ただ、言葉も文化も食事もまるで違う国で過ごす時間は、平凡な人生に少しだけ刺激を与えてくれることは間違いない。



十四年前のある日、僕はインドの東部、コルカタのとある駅でひとり立ち尽くしていた。

知らないおじさん達がギラギラと眼を光らせ、我先にと話しかけてくる。

僕が動けば彼らも動く。

さながらハリウッドスターにでもなったような気分だ。

その後ろからは車のクラクションと土埃が洪水のように押し寄せ、呼んでもいないタクシーの運転手に、さっさと乗らねぇかとまくし立てられる。

一体何故、僕はこんなところに居るのだろうか。

行き先を書いたメモは、ずっと握っていたせいですっかりクシャクシャになっていた。

 

デリーから片道二十四時間。優雅な列車の旅とはかけ離れた、長く退屈な道のりだった。

関空からデリーまでは約十五時間。飛行機は修学旅行で沖縄へ行って以来だった。

初めて乗った国際線は、関空から上海、上海からデリーへと乗り継ぎがあり、搭乗手続きも乗り継ぎも初めての僕には難易度が高かった。しかも言葉が通じない。

高校時代は得意科目だった英語も、現実世界では何の役にも立たないと知る。

車の運転で言うと、筆記試験だけをパスしていきなり公道に出るようなものだ。

人はそれを『無鉄砲』と呼ぶ。

 

周りの人に助けられながらどうにか辿り着いたデリーでは、インド生活の長い日本人の先輩Tさんが、深夜だというのに空港まで迎えに来てくれた。

彼は十代の頃から単身インドで生活していた奇特な人で、もちろん現地の言葉もペラペラである。

一説によると、寝ている間の夢もベンガル語で見るとか見ないとか…。

知人の紹介で知り合い、定期的にインドへ行くというTさんに便乗し、半ば強引に現地で合流する計画を立てたのだった。

初めての海外、それもインド。

とにかくTさんの後ろに付いて行けば安全という、何とも他力本願な心構えだった。

日本との違いに色々と衝撃を受けることはあったものの、おかげで何の不自由も無く、観光や食事を楽しんでいるうちに二、三日が過ぎた。

 

ところが、それ以降のスケジュールがTさんと合わなかったため、その先は別行動。

僕はひとりでコルカタ行きの列車に乗り込んだ。

寝台列車と聞いて楽しみにしていたが、寝返りを打つと転落しそうな細長いスペースに薄い布団が敷いてあり、汚れたカーテンが引いてあるだけだった。

中でも一番驚いたのはトイレだ。

蟻地獄のようなすり鉢状の窪みに、ポッカリと大きな穴が開いている。ただそれだけ。

電車の床をぶち抜き、そのまま線路に撒き散らすという実に前衛的な建造物だった。

うっかり穴に嵌ったりでもしたら、あっという間に足が大根おろしになっただろう。

薄暗い寝台に揺られながら、僕は記憶の糸を手繰り始めた。

そもそもどうして僕はインドへ行くことになったのか。

それは約一年前のこと、あの衝撃的な出会いがあったからだ。

 

当時、僕は大阪アメリカ村のエスニック雑貨屋でバイトをしていた。

同年代の若者ばかりが在籍していて、僕らは毎晩のように酒を飲み、カラオケで歌い、酔い潰れては、また翌朝に青白い顔を突き合わせる日々を送っていた。

ある日、昼休憩の余韻でダラダラと過ごしていた頃、友人のKがタワーレコードの黄色い袋を提げて帰ってきた。

そして早速、事務所にあった年代物のCDラジカセにディスクをセットし、おもむろに再生ボタンを押した。

その瞬間、僕は時の流れからはじき出されてしまった。

今までに聴いたどの音楽にも似ていない、どの音楽よりも複雑なリズム。

淡く静謐な旋律の上を、不思議な破裂音が縦横無尽に駆け回る。

電子楽器と民族楽器が絶妙な距離で共存し、これまで夢中になっていたロックやポップスとは違う、明らかに異質な『何か』がそこにはあった。

「ちょ、ちょっと!これ、何て言う楽器?」

「カッコえぇやろ。タブラって言うインドの太鼓や。世界一難しい打楽器らしいで。これは日本人バンドやけどな」

「どこに売ってるん?タブラ」

「えっ」

「アメ村で買える?」

夜な夜なアメ村の怪しい雑居ビルを徘徊していたKは、とにかくこの辺りのことに詳しい。

とある民族楽器店でタブラが置いてあるのを見たことがあるという。

僕は思わず歓喜した。

遠いインドの楽器が海を渡り、日本の、大阪の、アメ村の、それも歩いて百歩くらいの店で売っているなんて、そんなミラクルがあるだろうか。

居ても立ってもいられなくなり、休憩時間はとっくに終わっていたにもかかわらず、その店までまっしぐらに走って行った。

そしてすぐに帰って来た。

確かにKの言う通り、その店に『タブラ』はあった。

木の幹をそのままくり貫いたような木製の太鼓と、でっぷりと太った金属製の太鼓が対になり、店の隅にちょこんと置いてあった。

ドレッドヘアの店員さんに値段を訊くと、六万五千円だと言う。

「あっ…ちょ、ちょっと考えて、また来ます…たぶん」

そう言って失意のもとに逃げ帰ってきたのだ。

その頃の僕の月収は十五万円。家賃以外のほぼ全てを酒と煙草に注ぎ込み、僅かな残金を給料日までの日数で割った数字が、今日この日を生きるためのライフラインだった。

ロクマンゴセンエン。あまりに天文学的な数字に眩暈がした。

 

ところが、ここでもミラクルが起こった。

落ち込む僕を見かねた心優しきS先輩が、なんと七万円もの大金を貸してくれたのだ。

本来、友人同士のお金の貸し借りは御法度だが、今回ばかりはそうも言っていられない。

床に頭を擦り付けるほどお礼を述べた後、ビーチフラッグのように急に立ち上がり、再び例の楽器店を目指したのだった。

後にも先にも、これほどまでに激しい衝動に身を委ねたことはない。

こうして勢いだけでタブラを手に入れた僕だったが、肝心の音の出し方は全くわからなかった。

見よう見まねで叩いたところで、あの突き抜けるような破裂音は再現出来ない。

キャッチャーがボールを捕球したときのような、ボスッという鈍い音が鳴るだけだった。

楽譜のようなものがあるのだろうか。

そもそもこのふたつの太鼓は同時に叩くのか、それとも別々に叩くのか。

それすらも僕にはわからなかった。

色々と調べているうちに、あのCDのタブラ奏者・U氏という人は、大学時代に単身インドへ渡り、コツコツと技術を磨き、とんでもない高みに上り詰めた人だと分かった。

日本では様々なアーティストと共演し、古典楽器であるタブラを現代音楽に融合させ、唯一無二のサウンドを生み出すカリスマだった。

我慢ができなくなってきたので、僕もインドへ行くことにした。



それからというもの、僕はがむしゃらに働いた。

タブラの存在を知って、タブラを手に入れて、インド行きを決断するまでわずか数時間。

しかし、実際にインドへ行くまでには、多くの障壁が待ち受けていた。

パスポートを取り、チケットを取り、旅費を稼がなくてはならない。

こればっかりは自分で何とかするしかないので、それ以来僕は気が触れたように働きまくった。

雑貨屋のバイトを辞め、朝から深夜までバイトを掛け持ちし、機械のように無心で働くことおよそ一年。

幾多の誘惑に打ち勝ち、時には負け、それでもどうにかインドに長期滞在できるくらいの貯金を作った。

実家も大阪にある僕は、資金を節約するため一旦家を解約し、家財道具一式を無理やり実家に詰め込んだ。これで準備万端だ。

呆れ果てる母を尻目に、僕はアドレス帳からTさんの番号を呼び出した。

実はTさんはシタールと言う弦楽器のプロ奏者で、偶然同じ職場にいたTさんの生徒から親交が始まり、図々しくもインド行きへの便乗を申し出たのだった。

 

「ダクリア ジャベー(ダクリアに行ってもらえますか)」

困ったらそう言えとTさんに教わったので、他に余計なことは一切言わない。

目的地のダクリアという街が何処にあるのか、何分くらいかかるのか、もちろんタクシー代がいくらかかるのかもわからない。

ただ、運ちゃんはどうやら乗れと言っている。

僕はとにかくその場から離れたくて、逃げるように後部座席に乗り込んだ。

カーラジオのノイズの隙間から、甲高い女性シンガーの歌声が漏れていた。

派手なクラクションにも負けないくらい、伸びやかで力強かった。

途中信号待ちで停まると、子供がお金をくれと窓をバンバン叩き、正面には巨大な野良牛が我が物顔でのそのそと横切る。

ここがダクリアだと言われれば信じて降りていたに違いない。何しろ何処を走っても見たことのない景色だけが延々と続いているのだから。

 

三十分ほど走ったところで、運ちゃんは「ダクリア」と一言だけ言って車を停めた。

別段変わったところのない普通の住宅街だ。

大通りの交通量は多く、飲食店や生活用品店が軒を連ねている。

ドアの無いバスから身を乗り出し、大声を張り上げ客を募る男。

道路脇に建立された小さな神様の像に花を手向ける老人。

新聞紙を広げて野菜を売る女性。

紛れもない、純度百パーセントの『異国』だった。



ふと我に返ると、運ちゃんも車から降り、早く金を払えと詰め寄ってきた。

金額を言われても理解できず、財布を持ったままオロオロしていると、半ば強引に札を抜き取ってそそくさと行ってしまった。

後で訊いてみると相場の三倍くらい取られたようだったが、この時ばかりは無事に目的地に着いただけでも御の字と思わなくてはいけない。

ガンジス川もタージ・マハルもないこの街では外国人が珍しいらしく、皆遠慮のない視線を投げかけてくる。

意外なことに、メモの住所はあっさりと見つかった。

ホテルでもゲストハウスでもなく、とある老夫婦のお宅にお世話になる。

初めはどういう成り行きだったのか、『インドの楽器を習いに来る日本人』という狭い世界では少しだけ有名な家で、Tさんや、あの憧れのタブラ奏者・U氏も、かつてはここで修行を積んでいたという。

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