無鉄砲の銃声 ~なぜかインドが第二の故郷になった話~
かくして僕のインド生活は始まったのだが、最初は戸惑うことばかりだった。
ご存知の通り、インドと言えばカレー、カレーと言えばインドである。
「えー毎日カレーとか最高やん!」
「私は三食カレーでも全然平気!」」
カレー好きを自称する友人たちは口を揃えてこう言う。
彼らは選択肢を失う恐ろしさを知らないのだ。
今でこそ色々な料理が楽しめるようになったが、十四年前のインドはまだカレー以外は何もない国だった。
「日本と言えば寿司!」「大阪と言えばたこ焼き!」というのと同じように、外国人が勝手に「インドと言えばカレー!」と決め付けているだけで、実は他にも色々あるだろうと楽観視していたが、甘かった。
インドには本当にカレーしかなかったのだ。
彼らはもはや「カレー」という単語すらほとんど使わず、
「今日は美味しいチキン(のカレー)があるよ」
「日替わりメニューは魚(のカレー)とじゃが芋(のカレー)だよ」
「(メインのカレーの)付け合せにナス(のカレー)はどうだい?」
と、カレーであることを大前提に、その中で様々なバリエーションを楽しんでいるのだ。
チキンカレーと野菜カレーではそもそも全く別の料理という扱いなので、飽きるという概念そのものが存在していないようだった。
病めるときも苦しいときもカレーと共に生きる覚悟がなければ、インドで暮らすことはできない。
数ある選択肢の中から自分の意思でカレーを選ぶのと、ただ生きるために食べるカレーとでは、まるで違う味になってしまうのだ。
それでも出発前は本場のカレーが食べられることを楽しみにしていたし、実際に到着して二週間くらいまではそれを楽しむ余裕もあった。
しかし、体調を壊して寝込んだ日から、僕の胃袋は重度のホームシックを患った。
故郷の味を狂おしいほどに渇望し、異国の地で四角い天井を眺めていた。
せめて目の前が青空であれば、どこかで日本と繋がっていることに心が凪いだであろうか。
一度その衝動に捕らわれると、寿司もいいなぁとか、うどんが食べたいなぁとか、マッチ売りの少女のように幻覚が見え始める。
当時はしょっちゅう停電があり、ろうそくの火で朝まで過ごすことも多く、より夢と現の垣根がぼやけて見えたのかもしれない。
寝込んで一週間ほど経ったある日、家の中を何やら黒い物体が浮遊していて、いよいよこの世ならざる者が現れたかと思ったら、それが蚊の大群だったことは今でもトラウマだ。
手に入る食べ物でカレー味が付いていないものはパンとフルーツくらいのものだったので、その後しばらくはパンとリンゴと怪しいビタミン剤だけで過ごすことになった。
一方タブラの練習はと言うと、こちらは毎日刺激の連続だった。
たった一音鳴らすために何週間も費やし、やがて単音が連続音になり、ひとつの音楽になる瞬間は、何事にも代え難い喜びだった。
インドでは音楽家は非常に尊敬され、特に弟子たちからは神のように崇められている。
ところが弟子にしてもらうのは意外なほど簡単で、先生はわざわざ海外から訪ねてきた僕を満面の笑みで迎え入れてくれた。
僕が先生として師事したのは、インド国内ではメディアに引っ張りだこの大物若手ミュージシャンである。
ユーチューブで観た圧巻の演奏に心を奪われ、何気なくホームページに書いてあった電話番号へ電話してみると、本当に繋がってしまったのだ。
僕の酷い英語を根気良く聞いてくれ、コルカタで待ってるぞと言って携帯番号を教えてくれた。
先生の後ろに付いて巨大なコンサート会場の楽屋に入るとき、きっと僕は自慢げに鼻の穴を膨らませていたことだろう。
警備員に止められたこともあったが、先生がすかさず振り返り「やめたまえ。彼は私の弟子だ」と言ってくれたときなどは、乙女のように顔を紅潮させていたに違いない。
来る日も来る日も練習を重ね、あっという間に五ヵ月が過ぎた。
お金が尽きて帰国した僕は、日本でライブ活動をしながら、また次の渡印に向けてお金を貯める日々が始まった。
実際に人前で演奏してわかったことは、まだまだ自分の求めているものとはほど遠いレベルにあるいうこと。
あと何年やれば、あんな風に沢山の人を魅了できるのか。
その答えを探すべく、僕はその後何度もあの街へ通った。
三十歳を目前にしてもなお、僕は相変わらず日本とインドを往復する生活を送っていた。
ダクリアの街はすっかりホームタウンになり、チャイ屋のオヤジや靴屋の爺さんがご機嫌に挨拶してくれる。ベンガル語も随分話せるようになった。
しかし、インドでの生活に慣れれば慣れるほど、日本での暮らしはただ旅費を稼ぐための仮の時間のように思えてならなかった。
一年の三分の二を日本で働き、残りの三分の一をインドで過ごす。
僕はこのスタイルが気に入っていたが、こんなことが一体いつまで続けられるものか、いつしか不安を抱くようになっていた。
同じ目標を持ってインドに渡り、現地で知り合った仲間達は、もうそのほとんどが来なくなってしまった。
同級生達はとっくに生活の地盤を固めている。
就職、結婚、子育て。その中のどれかひとつでも手にしたとき、もうこの街に戻ってくることが出来ないような気がして、僕は色々なものから目を背けて逃げ回っていた。
街はすっかり近代化が進み、いつの間にか近代的なショッピングモールが建ち、街ゆく若者はスマートフォンを眺めている。
着実に新しい時代が訪れようとしている中、僕だけがずっと同じ場所に立ち止まっているような気がした。
東日本大震災のときも、僕はやはりインドに居た。
そろそろ帰国しようかと思っていた矢先の出来事だった。
この年から僕はノートパソコンを持ち込み、部屋で自由にネットが使えるようになっていた。
ネットニュースに映し出された光景は、かつて阪神大震災を経験した僕にも想像が付かないような凄まじいものだった。
人も、車も、家も、すべてが押し流され、昨日まで当たり前にあった街が、まるで戦争の後のように瓦礫の山に変わっていた。
「あんたは日本人だろ?家族は大丈夫なのか?」
地震のニュースは海外でも大きく取り上げられていたようで、街を歩くと次々に声を掛けられた。
奇しくも外側から日本の惨事を見ることになってしまい、何故だか僕はとても無責任な人間に思えてきた。
それから数年後、僕は結婚した。
かつてTさんを頼ってインドへ渡ったように、足繁くインドへ通う僕に興味を持ってくれたその人は、かつて雑貨屋でバイトをしていた頃の後輩だった。ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。
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