二〇一九年二月二二日(金) 前編

 ”初めて”はいつでも少し緊張する。

 当たり前のことかもしれないが、毎回の“初めて”にはなかなか慣れないものだ。

 

不思議とシャツを着たくなった。

とは言っても、白いシャツとジーンズ、それにスニーカーが僕のいつもの格好である。

白いシャツとは言ってもなんでもいいわけではない。胸に小さめのワンポイントが入っているまでは許せるが、それ以上にデザインが入っていると買おうとは思わない。

前日にアイロンをかけたワンポイントも入っていない真っ白なシャツを着て、少し生えていた髭も剃り、上京して湿度が変わったからか、落ち着きを見せるようになったくせ毛をそのままヘアスプレーで固めた。

今日は“初めて”の日だ。

 

家を出て、駅まで徒歩7分。

昼過ぎの日差しは強く、2月のこの時期になると東京も暖かくなるということを教えてくれた。それでもシャツの上にトラッカージャケットを羽織っている。

身軽が好きな僕はジャケットを仕舞える時期になるのを、このジャケットを買った日から楽しみにしている。

 

 目的地の最寄り駅について、出勤時間まで残り11分。

良い調子と心の中で浮かれながらも、今日がどんな1日になるのかをあえて考えずに歩く。駅から出てすぐに大きな車道があり、その車道を横断しなければならないのだが、交通量が多く、信号もなかなか変わらないのが考えどころ。すぐ目の前の横断歩道で渡るのも良いが、どうやらさっき赤信号になったばかりのようなので、もう一つ先の横断歩道まで歩いていくことにする。

「あとこれくらいで青に変わります」というカウントダウンのメーターのおかげで、目的地までの最短ルートを簡単に選べるようになった。     

こうやって書いていると僕が常に最短ルートを考えて生きている人だと思われそうだが、それは間違いである。ただ信号待ちなどの“立ち止まる”という状態が嫌なだけであり、のんびり回り道をしながら歩くのも好きであると補足しておこう。

 

着いた。今日からここに毎日のように通う。

 

 飲食店が入っている小さな雑居ビルの階段を上り、3階へ。

ここの階段は人が1人通れるのがやっとという細さで、少し暗く、今日のように日差しが明るすぎる日にはアンダーグラウンドな世界へと続く階段のような雰囲気を醸し出す。アンダーグラウンドとは言ったが、目的地は地下ではなく3階である。階段を上がり左手にある“女性が1人で開けるには少し重いドア”を開けて中に入る。

 

「おはようございます。」

 このお店はドアを開けてすぐにカウンターがあり、そのまま右手に進むと1つの空間が広がっている。広すぎない空間には仕切りのような物は無く、ソファやローテーブルがいくつか置かれ、壁には本がずらっと並んでいる。並んでいるというよりは、積まれている状態の本も多く、その本に交じってボードゲームや水槽も並んでいる。大きめの窓が部屋の3面を囲み、午後の日差しが強めに入ってくる良い空間だ。お客さんとして通っていた頃に、夕暮れ時までソファに座って温かい光の中でのんびりしていたことを思い出す。好きだったこの空間に、毎日のように通えることが少し嬉しかった。

 

「初めまして。」

 先に出勤していた男性が笑顔で声をかけてきた。初めて会うその人から今日はお店の仕事を教わることになっていた。

「出海と申します。よろしくお願いします。」

 先に自己紹介をした。僕は基本的に人見知りをしない。特にこの後自己紹介をしてくれた清也のように明るいタイプの人には、初対面から思いきり距離を縮めていく。清也は同級生だった。かっこよく髭を生やし、彼自身がダンスやイベント設計を好きでやっていることを教えてくれた。

「これからよろしく。」

 清也から明るく自己紹介を受け、改めてお店を見まわしてみた。

「オーナーはいらっしゃらないんですか?」

 僕はてっきりオーナーがいるものだと思っていた。オーナーの北見大輔さんは30代前半で、スタイリッシュなメガネがよく似合い、僕をこの店で雇うことを即決してくれた。お客さんやスタッフとの距離が近く、みんなから「大輔さん」と呼ばれ、親しまれている。 

「大輔さん、いないみたいね。」

 清也も僕の少し前にお店に来たが、その時からいないようだった。ただ、お店のソファには大輔さんのノートパソコンが置いてあったので、すぐに戻ってくるだろうと思い、挨拶は後回しにすることにした。

「今日はもうトイレ掃除はやっちゃたから、それ以外のオープン準備を教えるよ。まずはモップとテーブル拭きから。」

 清也から早速声をかけられた僕。

 いよいよ始まった。

僕はこの1週間で大きく人生を変えることを決めかけていた。

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