二〇一九年二月二四日(日) 前編
「でも元気そうで良かったよ。まあ、出海なら大丈夫だろうなって、勝手に思ってたけど。」
今日は日曜日。所謂、お休みの日である。
平日にはこれだけの人がどこに隠れていたのだろうと、不思議に思うほど東京の休日の人の量はすごい。休日というのは“休みの日”と書くのだが、これが本当に休んでいる人なのか、と驚くほど歩く速度は速く、せかせかしている。僕は浅草に住んでいるのだが、休日の雷門から仲見世通り、そして浅草寺の人だかりには毎回驚かされる。なるべく近寄らないようにしている程である。渋谷や原宿、新宿なんかも同じように人が多く、これだけの人が何を用事に同じ場所に集まるのか正直よくわからない。
今日は日曜日。僕の会社の同期もお休みの日である。僕には会社の同期が十数名いるのだが、不思議なことに嫌いになれるような人は1人もいなかった。新卒入社として内定を頂き、内定者の頃からバーベキューやら焼き肉やらで少しずつ集まり、入社後に配属がばらばらになっても、休日には時々顔を合わせ、お互いの仕事の話やプライベートの話で、賑わう時間を作っていた。今日は僕が働くことになった大輔さんのお店で、同期の2人と水たばこを吸っていた。
「出海が休職って聞いて、最初は驚いたよ。でも前々から、自分の生きたい生き方が他にあるって話してたから、そんなことが原因かなって思ってたけど。」
そう優しく話すのは稲垣という同期である。
少し長めのさらさらとした髪を真ん中で2つに分け、笑顔で哲学の話を熱く語る、カメラ好きの男である。痩せた長身の彼を後ろから見ると、そのサラサラした長めの髪型から、女性と見間違えるほどだ。
彼とは哲学や生き方の話で気があった。僕は哲学について詳しいわけでないが、彼が僕の話を哲学的に解説してくれるのが面白く、少し前には一緒にカメラを持って、4時間以上も散歩をしたこともある。
「そうだね。かっこよく言うと、自分の実現したい生き方を追うために休職してるってことになる。」
「じゃあ、かっこ悪く言うと?」
そう聞いてきたのは佐々木という、もう1人の同期である。
彼女は“自由”をそのまま表現したような女性で、「帰国子女とは私の事です」というような雰囲気をしている。はっきり物事を語る彼女は、将来ハワイで教育の場を創り、そこの学生たちの寮母さんになりたいと語っていた。昨日の夜に飲みすぎたらしく、今日はずっと調子が悪そうである。
「かっこ悪く言うと。病んじゃったから休まざるを得なくなった、かな。」
僕だけが少し笑った。
ジョークのつもりだったが、2人には重過ぎるジョークだったかもしれないと思い、2人を見ると全然笑っていなかった。
でも実際、それは嘘ではないのだ。
♦
「適応障害と睡眠障害ですね。」
お医者さんからはそれだけ教えてもらった。
浅草の1人暮らしのアパートからスカイツリーの下にある心の病院まで歩いて15分ほど。初めて病院に行ってから2週間後、もう1度行ってみるとお医者さんからそう言われ、短すぎる文章の書かれた診断書をもらった。
その紙切れを人事に見せると、すぐに休職することになった。
症状は少しずつ現れた。
始めは軽い頭痛だった。
朝から鈍く頭痛を感じ、会社に行くとその頭痛は酷くなり、インフルエンザが流行していた為、上司に相談して早退する日もあった。
次は夜だった。
眠れないのだ。考えたくもないのに仕事の事が頭から離れない。仕事の事と言っても、スーツを着て、電車に乗り、会社に着くとエレベーターでオフィスのある5階に上がり、いつもの席に座り、新卒の真面目でお利口さんの自分で明日という1日の時間を使う姿が何度も何度も繰り返される。前日に仕事で嫌なことがあると、その場面が繰り返され、明日がもっとひどい状況になる事が鮮明にイメージされる。夢の中でも仕事をし、お客様の前で商談をし、お申込書をもらう場面が繰り返される。やっとのことで朝になっても疲れは取れず、それでもスーツを着て、狭い靴を無理やり履いて、玄関のドアを開ける。
そして止めは朝だった。
起きられなくなった。目は開くし、朝が来ていることもわかる。早く着替えて、あの靴を履かなければいけないこともわかる。ただ、体が動かない。金縛りとは違う鈍さが身体を支配し、頭痛も酷い。上司に体調不良で午前休やお休みを頂くことも一大事だった。
それでもお客様の元にだけは通い続けることができた。お客様との時間は不思議と楽しく、会社に行くことがなければ身体は動くのではないかとさえ思えた。
そんな日々が続き、ついに上司から「病院に行ったら?」と声をかけられた。
確かに自分がおかしくなっていることは自覚していたし、それがインフルエンザや風邪が原因でないことも理解していた。そうなると行くべき病院は限られてくる。そこまでは分かりきっていたが、やはり“初めて”はいつでも緊張する。
スマホで家の近くの病院を調べ、そこでどんなお医者さんが、どんな治療をしてくれるのかも調べずに、思い切って電話をしてみた。それが“初めて”だった。
1回目はその簡単さに驚いた。
お医者さんというからには白衣を想像していたのだが、僕の担当となったお医者さんは色の強くないカラフルなニットのセーターを着た、40代前半の男性だった。
優しそうな顔に眼鏡をかけたその人と、5分ほど会話をした。たった5分だったが、僕はその人と目を合わせることができなかった。自分の弱っている姿を診せることが怖く、少し強がってしまう場面もあった。自分から電話をして病院に来ているのに、「ほら、大丈夫でしょ。」と振る舞う自分がおかしかった。でも、セーターを着たお医者さんは会話の最後に短くこう言った。
「環境を変えるか何かしないと、鬱になりますよ。」
別に驚きはしなかった。この時代、鬱になる人なんて珍しくないし、その前兆を抱えている人なんて山ほどいるだろう。「鬱の前兆ってこんな感じなんだ」と軽く受け止めた程度だった。
「とりあえず、上司や人事に相談してみます。」
僕は逃げるように病院を出た。狭い受付には3人もナースが座っていて、僕以外の患者は見当たらないのに、そんなに人数が必要だろうかと少し疑問に思う余裕もあった。
そして、病院を出て家までの15分で、僕は泣いていた。
その日は雨が降っていた。小さな傘に雨が落ちる音の中、イヤホンから流れる賑やかなメロディは耳に入ってこなかった。ただ、雨の音がした。
なぜ泣いているのか、最初はわからなかった。ただ、無理をしていたことだけがよく分かった。スニーカーは雨に濡れ、1月の寒さで足元は冷えていた。 傘を顔が見えなくなるほどに深く差し、ただ雨の音を聞きながら、少し前の地面を見ながら歩き、泣いていた。陽はとっくに沈み、前から来る車のライトが傘の中からでもはっきり分かる。
だんだん悲しくなってきた。なぜ泣いていているのか、なぜ泣かなければいけないのか、なぜ泣き止めないのか。自分が惨めになり、悔しくなり、冷たくなった。その日が雨で良かった。
その後、上司や人事に病院に行ったことを報告し、今の自分の状況を相談したが、症状は良くならなかった。
それも当然なのかもしれない。夜になり、朝になればまた毎日が始まる。靴は相変わらず狭いし、頭痛も相変わらず消えてくれない。
2週間が経ってから、またセーターのお医者さんに会いに行った時に、適応障害と睡眠障害という肩書きと、薄っぺらな紙を1枚もらった。そのペラペラな紙きれの力は凄まじく、半ば強引に休職へと引きずり込まれた。
◆
「まあ、病んじゃう事なんて誰にでもあるし、俺は初期症状で病院に行けたからラッキーだよ。」
強がりなのか、本音なのかわからない言葉を2人に伝え、話を強引に終わらせようとした。
「いいなー。僕もそうやって休みを取ろうかな。」
稲垣はそんな冗談を言ってくれた。それがありがたかった。彼自身も、理想の生き方は今の環境の外にあることを薄々感じている。もちろん佐々木はハワイで過ごす自分の姿を夢見ている。みんな何かを想い描き、今とのギャップに悩み、もがきながら毎日を生きていることなんて、ここで書くほどのことでもない。その後は2人が僕の症状について尋ねてくることはなかった。
僕らはいつも通りお互いの今の話や、哲学の話で盛り上がった。その時、佐々木がこんなことを言い始めた。
「私、高校生に塾講師として勉強を教えていたことがあるんだけど。その時に、テストや受験対策のような学校の勉強じゃなくて、“人生で何がしたいか”とか“どう生きたいのか”を、生徒とよく話してたの。“対話”って言うのかな。それが私にとっても、きっとその生徒にとっても大事な時間で、塾にいる時間の3分の1を使うこともあったの。」
「それで生徒たちはどんな反応をするの?」
僕は気になって聞いてみた。
「生徒たちはね、“やりたいこと”を探し始めるの。でも、それが見つからなくて悩んじゃう。だから一緒に考えたり、探したりする。今の子たちって、やりたいことがないのが当たり前じゃん。」
そこからは稲垣が話を引き継いだ。僕もそうだが、彼もこういう話が好きである。
「そうなんだよねー。それでも中学が終わると高校へ、高校が終わると大学へ、大学が終わると就職へって、“次へ次へ”進んでいかないといけない。そんなんじゃ、大人になってもやりたいことなんて見つからないよ。」
彼が言うといつも説得力がある。
彼自身はオーストラリアの高校に進学し、誰も知り合いがいない場所で、有り余る時間を過ごしながら、趣味のカメラに没頭した過去を持っている。
「僕はオーストラリアで1人になって、やることも特に無く、ただ時間を持て余して、何もないって時に、それでもカメラが好きだってことに気づいて、ずっとカメラを片手に街をぶらぶらしてたからね。フィルムの現像まで全部自分でやってたよ。」
それは本当の話である。以前、彼がオーストラリアで撮り溜めた写真を1冊のフォトブックにしたことがあった。僕はそれをみせてもらっていたのだ。彼の写真は全てモノクロだった。
「色を付けるのが、嫌なんだよね。“赤”や“青”ってだけでそのイメージが決まるのが悔しくて。」
彼はフォトブックを見ている僕にそう呟いた。そんな綺麗な言葉を使う彼の写真は、どれも美しく、少し寂しげだった。
佐々木が話を続ける。
「稲垣の言うように、何も無い時間を過ごすって大事なんだよね。こんな都会にいたらそんなこと出来ないって。だから私はハワイに学校を創りたいの。親も知り合いもいないような場所で、ただ自分の時間を過ごして、何も無い時間を経験する。高校生のその時期にそんな時間を経験することがやりたいことを見つける近道なんじゃないかって、そう思うから。私はそこで寮母さんをしたいなー」
「そうかもねー。」
僕もその考えには納得した。
僕自身の人生を振り返ってみても、何も無い時間から自分がやりたいことを始めていた。
僕にとっては大学の4年間がその時期だった気がする。僕は稲垣のように海外で1人になる経験は持っていないが、幸いなことに単位や卒論などの“やるべきこと”が難しくない学科に所属していた為、時間は余るほどあった。その期間で講演会イベントの会場を列車の車内にデザインしたり、地元のミュージシャンを集めて音楽フェスを開催したり、日本中に手紙を届ける旅をした。
そのどれもがその時の自分がやりたいことだったし、誰に止められてもやり遂げてしまったことだった。何も無い時間が有り余っていたからこそ、“やりたいこと”に目を向けることができたのかもしれない。
そんな話を一通り終えて2人と解散した。まだ、午後5時。陽は落ち切っていなかった。少し薄暗くなる外の世界を駅へと歩きながら、この後、もう1つの用事があった僕は、そのまま吉祥寺へと向かった。
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