夢から風

1話 完結

風が吹いていた。窓ガラスのサッシュとガラスの間に入るゴムが一部腐って、はみ出しているために、ガラスが揺れて風鈴のような音を出していた。三月も間もなく終わろうとしていた。冬の寒さは継続していたが、陽光は春めき、キーボードの右に置いてあるコップの水にまざった光が、風鈴の音に合わせて飛び跳ねている。

 ぼくは、いつも持ち歩いている頭痛薬を二錠口に含むと、そのコップの水で飲み込んだ。昨日までの出張の報告書を書き上げたところだった。海産物を輸出している業者としては、かつての円高の煽りをもろに受けている。出来るだけ仕入れを安くしたいところだが、生産者もこれ以上の値引きは了解しない。神経をすり減らす交渉をしながら、なんとか話をまとめる。しかしこの価格設定では売れないだろうと思う。赤字覚悟の販売価格にして、なんとか顧客とのつながりを切らないようにしなければならない。円安になびいても、この流れは変わらなかった。昨年の冬からボーナスは出なくなっているし、給料も減額されているので会社の体力が底をつき始めていることは、ここで働いている者は誰も感じ取れていた。

 ぼくは書き上げた出張報告書をプリントアウトして、鬼吉権現係長の席に持って行った。

 社内メールで係長に送ってもいいのだが、鬼吉係長はメールを見ない人なので、メールの添付で送りましたと言ったら、喧嘩を売ったと思われてしまう。右手で受話器を持って、足を机の上に放り投げて、誰かと話しをしている。受話器の向こうがわには重要な取引先の人がいる。態度と言葉遣いが全く違って恐ろしいほど低姿勢だ。こんなちぐはぐなことが出来る人は世界中で鬼吉係長しかいないだろうと、ぼくは思っていた。

 先月は、客への謝罪の電話の最中に受話器を左手に持ち替えると、右手で鼻毛を抜き始めた。何本目かの鼻毛を抜いたときに、激しく痛みが走ったらしい。一瞬「ウッ」と声をあげ、ヒィーヒィーと息を引きずった。

 その押し殺した呻きのような声は、嗚咽しているうように聞こえた。

「俺の誠意が伝わって、客は許してくれたようだ。やはり心だ。純真な心は電話線でも伝わっていくものなんだ」受話器を放り投げるように置くと、叫ぶように言った。

 営業部の社員はみな、ヤケクソで仕事しているように思えた。どんなに仕事をしても、それで給料が上がるわけでも、出世ができるわけでもない。焼け石に水。一番条件のいいタイミングを狙って誰もが辞めようとしているのは明らかだった。

 鬼吉係長に報告書を手渡す。

「胡桃享、話がある」

 鬼吉係長は、書類が散乱している机の上に、ゴミを捨てるように報告書を落とすと、席を立った。

 鬼吉係長はぼくのことを、「くるみ とおる」と名前まで付けて呼ぶ。それは係長の取引先に『胡桃さん』という人がいるからだと思っていった。もう一人、昨年入社した総務部の井村絵里も「いむら えり」と呼んでいた。それもこの会社の社長が、井村だからだろう。


 井村絵里の所属する総務部の課長は、ぼくより入社が二年先輩の花岡竜一で、その課長を中心に有志で作っている釣り同好会のメンバーに、ぼくも入っていた。

 その会で花岡課長とは気が合い、よく話しをするようになった。

 それ以来、花岡課長は社内の気のあった仲間との飲み会に、ぼくをメールで誘ってくれるようになった。

 昨年八月の終わりの飲み会に、花岡課長は総務部の井村絵里を連れてきた。

 井村絵里とは出張へ行く前の旅費関係の書類のことで、世話になっていた。仕事の算段が早く、気もよく回って、必要な書類には、いつも印を押せばすむようになっていた。しかもそれが文句の言いようのない、細かいところまで配慮した書類だから、よほどぼくのことを知っていてくれているのかと思っていたら、誰にも同じ対応をしているらしかった。しかも、すれ違った人を振り返らせるくらいの美人だから、年頃の独身男性の間では、よく噂になった。学生時代から付き合っている相手がいるらしいという話を聞いた。

 ぼくにとっては、鑑賞対象だった。

 花岡課長は、大学院時代の学生結婚で、もう三歳になる娘がいて、ぼくには常々結婚は早いほうがいいと言っていた。

 飲み会の席で花岡課長は井村絵里をぼくの隣に座らせ、自分はさらにその隣に座った。

 三人はビールを継ぎ合いながら、勢い釣りの話になる。夜風に涼みながら、東京湾でキス釣りでもするかということになり、花岡課長は井村絵里を誘う。釣り仲間の男二人についてくるような、雰囲気を持っている人ではない。

「私も連れっていただけるの」

 ぼくの前を流れる空気が、一瞬ざわめいた。

 そこから、ぼくと井村絵里との交際は始まった。

 一度絵里に、社長と何か関係あるのかと聞いたことがある。ちょっと怒ったようなふりして「仕事の上では関係ないわ」と言って、くるっと振り返り、トイレに入っていってしまった。

 

 鬼吉係長は座ったまま椅子を後ろに押しやると、その力が強すぎ、後ろの壁にぶつかり、よろけながら立ち上がると、机からはみ出した書類に足が当たり、書類の束が前方に落ちた。その書類を踏みつけながら、営業部の扉を底の擦り減ったサンダルで蹴っ飛ばして出て行った。ぼくは、床に散乱した書類を掻き集めると、ドサッと係長の机に置き、給湯室の奥にある会議室に向かった。少人数で会議をするときにはよく使う部屋で、他の部屋から離れているので、多少大きな声で話しても他に聞かれることはなかった。社内では唯一喫煙の認められている部屋で換気扇は、誰もいなくても茶色くなった羽がカラカラと音をたてて回

っていた。

 係長は給湯室から、灰皿を持ち出してきて、ぼくの後に続いて部屋に入った。ぼくはどこに座ろうかと迷い、係長の方を向いた。

「一番奥へ」

 その言葉にしたがって、一番奥のキャスター付きの椅子を引いた。座るところの前のビニールが破け、中から綿のようなものが出ていたが、虫の頭のようにも見えたので、それをさけるように、足を開いて座った。ぼくの左隣の椅子に係長が座り、ズボンのポケットに手を突っ込み、右足を前に伸ばすと、ポケットをまさぐり、クシャクシャのタバコの包みを出した。そこから曲がったタバコを出すと、真っ直ぐに直すこともせずに、口にくわえ、使い捨てライターで火をつけた。

 二回ほど、煙にむせたような咳をすると、顔だけぼくの方にむけ、その顔を首だけ伸ばして、ぼくの顔に近づけ、目を見開いたまま、声をひそめて言った。

「この話は、おまえにだけ話すので、誰にも言ってはならない。わかったな」

 タバコくさい息を感じながら、前をむいたまま小さく頷いた。

「後一月しか、この会社は持たない」

 鬼吉係長は前へ向き直ると、自分しか会社の行く末を見分けられないのだといわんとばかりに、胸を張り、目を細めて、遠くを見据えるようにした。

 タバコの曲がったところを、人指し指と親指で挟み、揉むように伸ばすと、身体中にタバコの煙を充満させるように、深く吸い込んだ。

「社長に呼ばれて、重要な話を聞かされた。いいか、そこでだ。 来月以降に倒産が決定したと言われ、後の処理にしばらく残ってくれと頼まれた。報酬はわずかで、雇用保険金よりも安いことも話してくれた。無給残業や自腹の出張もずいぶんやったうえに、最後まで馬鹿な話だと思ったが、やはり俺は引き受けた」

 ぼくは机の上で両手を組み、左手の親指の腹で右手の親指の爪をこすりながら、「どうして引き受けたのですか」と訊いた。

 鬼吉係長は、思いっきり猫背にして、上目遣いにぼくの横顔を睨むように見つめる。ぼくはすまして前をむいているが、横目で鬼吉係長の目を見おろした。

「いいか部長にも話せないことを、俺に頼んだのだ。俺は仕事をする。忙しいんだ。遊んでいるわけにはいかんだろう」

 責任を取る立場ではなく、特に自分のためになるようにも思えないし、倒産してしまうのなら、仕事をするもないだろう。

 間もなく倒産することぐらい、昼に弁当を運んでくる、おじさんだって感づいている。以前は注文ノートにつけて一週間ごとの後払いでもよかったのだけれど、一月前から、一回一回徴収するようになった。誰もその訳を弁当屋のおじさんに聞くようなことはしない。

 鬼吉係長は『会社の仕事で忙しい』という言葉が、使えなくなるのが怖いのだと思う。

 鬼吉係長は眉間に深い皺を寄せて、ゆっくりと深く煙を吸い込んだ。タバコの先端が赤くランプが点いたようになった。『あんたがなにを言っても、もう終わりのランプがついているよ』と、ぼくは思ったのだが、声に出たのかもしれない。

「何だと!」

 鬼吉係長の黒目が上まぶたの下に潜り込み、白目がぼくを睨みつけた。

「えっ。何か?」

「いや、何かおまえが言ったのかと思った」

 黒目が、上からゆっくりとおりてきた。

 整髪料で髪の毛を七三になぜつけているが、つむじより後ろの毛の数本が、雑草のように頑なに、横に倒されて均一化されるのを拒み、フニャリと上向きになびいている。その一本に季節外れの大きな金蠅がそっと着陸し、羽根をたたんだ。

 やがて金蠅は足を擦り始め、頭をグルリと回した。ぼくは、金蠅を睨みつけながら、鬼吉係長にそのことを忠告したほうがいいか、迷っていた。

「おまえ、迷っているな」

 鬼吉係長は薄ら笑いを浮かべ、上目遣いでぼくを見た。ぼくはなにも答えずに、目を下に向け、最近とみに膨らみはじめた腹を見た。

 やがて金蠅は、足場の悪いフニャリ毛から、一気に飛び立ったものの、足場が悪く、十センチ上空まで上がったところで、大きくよろめいた。しかし目玉をカット見開き、必死で態勢を立て直すと、換気扇のある方に向かって行った。回転する換気扇を無事にすり抜けて、娑婆に出られたのかどうかは、わからない。換気扇の方から、一瞬変な音が聞こえたような気がする。

「おまえも残れ」

 俺は残ることに決めたと、鬼吉係長が言ったときから、その言葉は予想がついていた。それを言い出すのに、多少時間が掛かったのは、ぼくに対しての微妙な用心があったからだろう。なんのメリットもないことで、人を誘うことは、筋が通ってないという常識は、係長にも持ち合わせていた。しかしそれでも、ぼくが了解するだろうという思いは、強くあったのだと思う。

「いいすよ」

 頼まれたことを断わったことは、これまでの人生で、あまりなかったように思う。大切なことを、ぼくに頼む人がいなかったせいもある。

 会社に入ってからも、頼まれたことは、言われるままに引き受けてきた。

 できるはずもない資料作りまで引き受けて、自分でも、こりゃダメだと思うようなものを作り上げ提出して、その場でゴミ箱に突っ込まれたことも一回や二回ではない。そのあと全く不可能だという期限で再提出を命じられて、「わかりました」と直ぐに応えると、「自分の言ったことには命をかけろ」と睨みつけられた。

 ごみ箱行き資料の簡易版みたいなものを作って、殴り書きの辞表をお守りがわりに懐に忍ばせて提出した。そのあとは、その資料でいいのか悪いのかわからないまま、うやむやになるのが常だった。


 それから一ヶ月で大方の予想通り、会社は倒産した。

 ぼくと鬼吉係長は、人のいなくなったガランとしたオフィスで、管財人として乗り込んできた岩立岩三郎という人の指図に従って、帳簿の整理や様々な仕事を行った。

 何時もの給料日に給料はでなかった。その代わり週末に、岩立さんは茶色の薄い封筒をぼくの机においた。一月分になおしても今までの給料よりだいぶ少なくなっていた。

 特別に金の掛かる生活をしていたわけではないので、蓄えはそこそこあった。

 絵里とのデートも、続けていくことができた。

 絵里はこの会社よりはずっと優良な、外資系のアパレル企業に就職した。留学した大学を卒業して、得意の語学を生かした仕事につきたかったらしいのだが、親が借金をしていた親族の関係で意に反してこの会社にきたらしい。 見栄えが良く、留学して経営学士の資格を取得していれば再就職も問題はない。高級取りになったらしい。もともと、そうゆう実力があったのだ。こんな会社に来たのが不自然だった。しかし、その分仕事も増えたので、会える回数も、少なくなった。ぼくとは不釣り合いなのは、十分感じ取れているので、この関係は解消に向かうかもしれないと思った。ぼくは別れたくはないから、そんな話は絵里にはできない。別れることになったら、ぼくはどうするのだろうなどと、まるで他人ごとのように思う。会って別れたあとは、孤独になる。このまま絵里から別れの話が出たら、本当の孤独になると思った。

 絵里は、会えば楽しそうに語り、いままでどおり会えないことを、申し訳なさそうに言った。そんな様子に大丈夫なのかなと思ったり、一人になると、やはり時間の問題だろうと思ったりした。日曜日の夕方、早めの夕食を絵里の好きなイタリアレストランで取ると、しばらくイタリア本社に行くことになったと言った。ぼくは、ただ気をつけてとだけ言った。そのあとは、仕事がさらに忙しくなったようで、毎週の日曜日は会えなくなった。

 ぼくは別れの日があるのだろうかという思いを、むりやり遠ざけていた。


 倒産処理の仕事は、岩立さんの指示で、着実に進んでいった。岩立さんは何も言わないが、ぼくに仕事をやらせながら、この会社がいかに駄目な企業だったかを、おしえてくれているように思う。

 仕事を進めていく中で、この企業の対応が、社会の状況からいかに遊離していたかがわかってきた。経済も技術もこれだけ動いているにもかかわらず、危機意識がなく、うわべばかりの旧態依然の開発企画やレポート提出やらを、幹部がしたり顔で社内全体に要求している姿が見えてきた。

 それにどのくらいの時間やコストの掛かる労力が費やされていたか、ぶっつぶれてみて、はじめてわかる。

 時は流れ、自然も人も動き定まることはない。十年一日のごとく泰然として、同じ仕組みを繰り返して生きていける世界はこの世にはない。この宇宙にある仕組みに普遍はない。

 狩猟の民も農耕の民も自然の移り変わりのなかで、住める場所を追い求めながら移動し

て行く。場が移れば、そこに棲息する獲物も育つ作物も、変わっていく。従って生活していく方法を変えねばならないだろう。この企業は、それがわかっていなかった。時代の波が、薄汚れた狼の口のように、動かなくなった獲物をパックリと飲み込んだ。


 倒産企業の残務整理などと、たかをくくっていたが、以外と面倒なことと、時間がかかることがわかってきた。

 十月のはじめ、鬼吉係長が無断欠勤をするようになった。そのぶん仕事がぼくのほうに回ってきた。仕事の量が増えてきたからっといって、給料が上がるわけではもちろんなかった。

 鬼吉係長の欠勤は、以前には考えられないことだった。用があるとは思えないときでも必ず残業をして「俺の年齢なら管理職だから残業代はでないんだよ」と管理職でもないのに残業時間を残業記載ノートに書くことをしていなかった。残業をしなけばならいほどの仕事があるときは、朝から「俺は今日は帰れない。腰も頭も虫歯も痔も痛いのになんてことだ。死ぬほど仕事がある。生き殺しだ」などと、大きな声でわめき散らかしながら、スポーツ新聞を読んでいた。

 岩立さんは無断欠勤をする鬼吉係長に、なにも言わなかった。 


 鬼吉係長は、一週間まるまる来なかった。鬼吉係長のことは何も知らなかった。どこに住んでいるかとか、個人の携帯電話の番号も聞く必要はなかったし、聞きたいとも思わなかった。それに鬼吉係長は自分のことを自慢したり、誰かが自分のことを褒めてくれるのは、好きだったが、自分のことを知られるのは嫌がっているように感じられた。

 ぼくは、鬼吉係長はこのままいなくなったのだと思った。たぶん岩立さんもそう思ったのだと思う。これまで鬼吉係長に割り振っていた仕事が、その日からそのままぼくの机に置かれた。

 しかし、次の日に悪びれる様子もなく来た。というよりも、ぼくが会社に着いたときには、自分の椅子に座っていた。

 だが今までのように机の上に足を放り上げて、スポーツ紙を眺めているのでなく、背筋を伸ばし、目を半眼に開き、黙想をしているように座っていた。その姿にぼくは一瞬たじろいだが、一切合切その姿を気にしないようにし、これまでと同じように挨拶の声を掛けた。

 しかし今までのように「よっ!」の一言がない。

 しかし、それも気にしないようにした。早速仕事の段取りの説明に入り、今日行ってもらいたい書類を、鬼吉係長の前においた。やせ細った野良犬のような、生気のない目を、その書類に近づけて、ぼくの説明を聞いていた。鬼吉係長は書類をホルダーに立てかけると、パソコンを立ち上げ、仕事を開始した。これまでの鬼吉係長からは考えられない仕事への姿勢だった。

 隣のビルから、昼を知らせるチャイムが鳴った。鬼吉係長の方を向いて。「食事に行きましょう」と声をかけた。鬼吉係長をさそったのは、はじめてのことだったと思う。

「ぼくはいいから、行ってきたまえ」キーボードを打つ指をとめないで言った。鬼吉係長は、別人ではないのかと疑いの気持ちをもった。別人でもぼくには関係ないと思い直し、なにも言わず椅子をひき、立ち上がった。扉に向かうぼくの背中に「胡桃亨、帰りつきあえ」といつもの鬼吉係長の声がとんできた。

「いいすよ」ぼくは振り返らずに呟いた。その声が鬼吉係長にとどいたかどうかはわからない。しかしホンモノであれば、つきあうことになってしまっている。


 隣のビルの終了のチャイムが鳴りおわったので、書類を片付け、コンピュータの電源を切って立ち上がった。

 鬼吉係長はコンピュータの電源も切らず、机の上の書類を散らかしたまま、ぼくのあとについてきた。

「俺の後についてこい」とぼくのうしろから、言った。

 たいした場所に、行くわけではないだろうという予想通り、会社のまえの小さな公園だった。腐りかけたベンチに「まあいいから座れ」と言った。

 ベンチの端を、ナメクジが這っている。ぼくはナメクジの反対側のすみに座った。鬼吉係長はナメクジを指で弾き飛ばし、そのあとが湿っているところに座った。

「胡桃亨、おまえはショックを受けると思うが、覚悟をきめて聞いてくれ」

 ぼくは、眠らないように、ちょっと覚悟をした。

「俺はホームレスになろうとおもう」

 鬼吉係長の思いつめた顔を、はじめて見たような気がした。

「おまえは意外におもうかもしれないが、俺は金がない。あれだけ仕事をして、会社で重要な立場だったから、一般的には俺のことを資産家だと思っている奴も多いだろう」

 朝のように背筋を伸ばし、ややうつむきながらはなす鬼吉係長は、本当に、そう思っていたのだろう。

「俺は運命論者なんだ。そのことに気がついてる奴がいるとすれば、胡桃亨、おまえ一人だけだ」

 鬼吉係長はカッと目を見開き、ぼくを見た。ぼくは下をむいた。

「うすうすは」息を吐き出しながら、やっとこたえた。

 鬼吉係長は前をむき、もとの姿勢にもどった。

「やはりな。だから、俺は給料の大半を競馬につぎ込んだ。大儲けをしたことも何回もある、そんなときにはおまえたちに盛大に、ご馳走した。覚えてるな」

 饅頭の意味がわかった。鬼吉係長が、みんなに饅頭を配ったことが二回あった。 ビニールに包まれた饅頭をカバンから出し、みんなの机において回った。なかにはビニールが破れてアンがとびだしているものもあった。ぼくは食べたけれど、ごみ箱にそっと捨てているものもいた。

「おまえは信じられないだろうが、俺の運命は、俺が悲劇の主人公となるように、描かれていた。あれほど会社に必要とされていた人間が、会社にいなくとも、慌てた様子がない。昼、岩立に、明日から会社に来ないぞ、と脅かしたら、今日なんできたんだ、おまえに払う給料はないと言われた」

 ぼくはとても帰りたくなった。これ以上鬼吉係長とつきあう必要はない。

「胡桃亨。おまえに頼みたいことがある。どうしたらホームレスになれるのか、おしえてくれ」

「知りません。わかりません」

 鬼吉係長は顔をこちらに向けて、すがるような泣き出しそうな顔になる。

「そんなことはないだろう。おまえは博学だ。おまえのことはなんでもわかっているんだ。あの美人で才媛の井村絵里と、つきあっていたことも俺は知っているんだぞ。井村絵里がつきあう以上は、おまえも博学だということになる。俺に隠していても、論理学で真理を導き出せるんだ」

 ぼくは、立ち上がる。

「おいちょっとまて、これまで俺は、おまえのために、どれほど骨を折ってきたと思うんだ。おまえがこれまで生きてこれたのも、社会人としてやっていけるまでになったのも、俺が陰になり日向になり、おまえを支えおしえてきたからではないか。最後のおしえだ。恩知らずな人間になるな」

 ぼくは、座り直した。

「ホームレスのなり方は、知りません。それよりも、雇用保険もらったらどうですか。その間に次の仕事を決めればいいと思います。必要な書類は明日、岩立さんからもらって、住所おしえてくれれば送りますよ」

「その必要はない。岩立が、まともなことをするはずはない。ところでおまえはどうする。おまえだって先はないだろう。俺といっしょに、ホームレスになれ」

 鬼吉係長の命令にめずらしく逆らった。

「ぼくは学生時代、ビル掃除のバイトして、生活費と学費稼いでいたんですが、その社長に事情を話したら、とりあえず来いと言われたので、そこで働く予定です」

「井村絵里には、なんて言っているんだ」

 なんでそんなことまで、鬼吉係長に話さなければいけないんだと思ったが、これで鬼吉係長と会うこともないのだから、もう少しだけ付き合うことにした。

「先日メールで伝えました。でもまだ返事は来ていません」

「そうか。イタリアでおまえのことは、忘れ始めている」

 鬼吉係長は絵里がイタリアにいることを、知らないはずだ。

「やがてふられるだろう。どうみても、不釣り合いだからな。おまえよりも何百倍もいい男とつきあっているのだろう。ストーカーみたいな、みっともないことはやめろ。男はスッパリ諦めることができなければならない。よく聞け。俺は一足はやくホームレスになる。やがておまえもなる。そのときは、俺のところに来い。運命が導いてくれるだろう。俺の海のような広い心で、おまえを受け入れてやろう」

 ぼくは立ち上がり、一礼した。

「これまで、ありがとうございました」

 くるりと向きを変えると、足早に歩き始めた。うしろから叫び声が聞こえた。何を言っているのかわからない。粘ついた糸が、からみつくような声だ。ぼくは、それから逃れるように走り始めた。

次の日から、公衆電話を使ってぼくの携帯電話に、鬼吉係長から電話が掛かってくるようになった。夜中、朝方、留守電にも。何回も同じことを繰り返し話し続けた。

『岩立さんへの恨みをグダグダと言い、絵里につきまとうなと叫び、俺のところに来いと命令し、運命を呪う』

同じことが書かれたはがきも、ぼくのアパートに届くようになった。紙に書かれたものがポストに入れられていることもあったので、昼間ぼくのアパートに来ているのだ。


 鬼吉係長がこの仕事をやめて間もなく、事務所を、高円寺の小さな貸事務所に移した。必要な書類が絞られて、収束がみえてきたからだ。しかしその時から、ぼくの給料が上がり、以前の八割ぐらいになった。これで預金を切り崩さなくても、生活ができるようになった。

 ぼくも、その事務所から歩いて十五分のところにアパートを借りて引っ越し、携帯電話も新しくし、電話番号、メールアドレスも替えた。

 倒産後の処理は、以外と手間取った。資料の中からいくつかの問題が現れてきて、帰り際に岩立さんは「事件になるかもしれん。おまえがここで仕事をする期間が、もう少しのびるかもしれないが、いいか?」とぼくを見た。

 ぼくがうなずいたのがわかると、ドアを押し、出ていった。

 絵里にメールを出した。事務所が移ったこと、残務整理の中から事件があらわれてきたためもう少しこの仕事を続けること、引っ越し先の住所、新しい携帯電話の番号とメールアドレスを書いた。最後に、最も大切なことだけど、イタリアで元気にしているかを、尋ねた。さらに追伸で鬼吉係長が会社を去ったことと、絵里のストーカーになってはいけないと諭されたことをつけくわえた。

 メールはすぐに宛先不明で戻ってきた。


 絵里のマンションに行ってみたが、扉の前の郵便受けの名前が替わっていた。ぼくはいたたまれなくなって、アパレル会社のお客様受付に電話をして、絵里について聞いてみた。電話に出てきた女性は、丁寧な口調で、しかしきっぱりと話した。

「個人情報につきましては、社内規則により、一切お答えすることが出来ませんし、お申し出のようにご来社されても、やはりお答えすることはできませんので、ご了解くださいますようにお願い申し上げます」すぐに電話が切れた。

 絵里の実家については、静岡という以外は何も知らなかった。

 もしかしてと思い、花岡課長にメールを出してみたが、「絵里とは連絡が取れなくなっている」の一言で、今の自分のことを知らせるわけでもなく、倒産処理をし続けているぼくの様子をきくこともなく、メールの最期に自分の名前も書かずに終わっていた。

 鬼吉係長の『ストーカーになるな』という言葉が、頭の片隅から聞こえてくる。 ぼくの行為は、もうストーカーの域に入っているのだろうか?もしかすると、鬼吉係長は絵里のことを、なにか知っていたのかもしれない。

 

 事務所の前の銀杏の葉が、黄色く色づきはじめたころ、すべての仕事が終了した。

 その一月前に、ぼくは岩立さんに呼ばれていた。

「私の知り合いの企業の経営者に、おまえのことを話してある。小規模だが、私の目からみてたしかなところだ。いってみるか?」

 ぼくは、学生時代にアルバイトをしていた会社について話し、そこでまた仕事をする約束をしていることを伝えた。

 岩立さんは、腕組みをし、しばらく何かを考えていた。

「それでいいのか」

「はい。そのように決めています」

 ぼくに躊躇う気持ちはなかった。

 最後の日、岩立さんはぼくに給料を渡し、

「よく働いたな。事務所は、私が閉めるから先にに帰りなさい」と、ぼくの顔をみないで言った。ぼくはお世話になりましたと岩立さんのうしろ姿に一礼すると事務所を出た。


 次の日、清掃会社の事務所に行った。学生時代に通った事務所は山の手線沿いの下町にあったが、今は、若者で賑わう町の線路づたいのビルの一階と二階に移っていて、規模が大きくなっていた。一階の車庫の奥が広い倉庫になっており、そこに清掃機器や洗剤等が整理されて並んでいた。

 指定された時間に、二階の社長室に入る。いつも作業着を着ていた社長が、スーツを着ているので、一瞬とまどって、

「どうしたんですか、そのかっこう」と、思わず口から出てしまった。

 なにしろ、以前はぼくと一緒に作業着を着て、掃除をしていたのだ。「清掃していたビルの総務部の人に社長はどこ」と聞かれて、「今トイレで便器を洗ってます」といったら、「あっ。あれそうだったんだ」と言われたこともあった。

 社長は、トイレの掃除が好きだった。ピカピカに磨きあげた便器をみて、ニヤニヤしているのを見かけたことは、一度や二度ではない。

「今、そんなことをいう社員はいないよ」

 今崎隼雄社長は相変わらずのニヤニヤ顏で、ぼくに椅子をすすめた。

 ぼくは丁寧に頭を下げ、非礼を謝罪した。時間が過ぎれば、なにもかも変わる。そのことを知ったはずだった。


 今崎社長は、定時制の高校を卒業すると、二十歳で、この仕事を立ち上げた。従業員が掃除中に、玄関に設置されている創立者の銅像を、誤って破損させたり、業務用エレベーターの隙間に掃除用具を詰まらせて、壊したなどの原因で、二回、会社を倒産させていた。裁判沙汰も経験してきているが、しぶとく会社を立て直してきている、苦労人だった。

 今崎社長は、椅子から立ち上がると「少しは社会の荒波にもまれきたか」とヘラヘラ笑いながら、スーツを作業着に着替えた。

「さっそく仕事だ」

 ぼくも社長室で、与えられた作業着に着替え、一階の倉庫に行き、必要な機材を車にのせた。体が自然に反応していた。

 学生時代は、大晦日も正月も一年を通して、学校がない時間に欠かさずおこなっていた仕事だ。ぼくの成人式の日も、役所がおこなう成人式には出席しないで、作業着を着てモップを持ち、新宿のビルを掃除していた。

 今崎社長は、穏やかな人だが、時間には厳しかった。決められた時間に清掃が開始していない場合も、清掃の終了時間が延びた場合にも、怒鳴られた。

 車の運転は、坂田という今年大学を卒業して入社したという社員が、おこなっていた。時々は、社長に付き添って、いろいろな現場を体験しているということだった。坂田さんの隣に今崎社長が座り、以前にはなかったことだが、携帯で指示を出している。人材派遣の業務も執り行いはじめていた。坂田さんはそちらの部に所属していた。

 社長と坂田さんそしてぼくの三人で、浅草田原町のトロフィーを製造販売している会社ビルの床洗いとワックスがけをおこなった。

 仕事が終わり、作業着を洗濯している間に、今日の業務内容をパソコンで記入した。こんなシステムは以前はなかったことだ。洗濯が終わった作業着は、乾燥室に干す。こんな設備も以前にはなかった。それで一日の業務が終了する。時間に無駄がない。

 次の日からぼくは清掃部の臨時社員に組み込まれ、ビル掃除を担当することになった。担当するビルも、学生時代に経験していたところなので気が楽だった。清掃方法は依然と変わることはなかったし、清掃部の社員は顔なじみの人が何人もいて、ぼくが戻ってきたのを喜んでくれているようだった。

 人とのつながりが大きく動いた。アルバイトをしていた時代の人々がぼくを迎え入れてくれている。しかし、この三年間の人々のつながりは、ことごとく消えた。絵里でさえも。


 ぼくは、夢を見た。目が覚めても、それが夢だと思えなかった。ぼくは枕を抱えて、ずいぶん長い間泣いていた。声を出して泣いていた。ぼくは会社に行く電車のなかでも、まだその夢で起きたことが現実にあったことのように思えていた。


 絵里と約束をしていた。海岸の公園にあるベンチで、今日会うことになっていた。

 約束の日の朝、海に近い駅で降りた。目が痛くなるほど強い日射しが、飛び込んできた。 冷たく強い風が吹いていた。雲が激しく動いていた。コートのボタンを全部閉めているのに、襟の隙間から風が入り込み、コートが腫れ上がり、裾のうしろがパタパタとはためいていた。ぼくは、強い風にさからいながら、海岸に向かって歩いていた。

 道路の向こう側に市場がある。そのひさしの布が、ものすごい勢いで、上下に揺れていた。シャッターが上から三分の二まで降りていて、下の三分の一の隙間から、尻尾をピンと立て、風で煽られた顔の毛が、ライオンのようにひろがっている猫が、魚をくわえて出てきた。 右側の教会の鐘が、サイレンのように鳴り始めた。ぼくは足をとめ教会の鐘を見ようとした。しかし教会の名前が書かれている門から教会までの間にある、大きな棕櫚の木が四本、風で激しく揺れていたために、鐘も教会も見ることができなかった。

 右前方に、ハンバーガーの大きな絵が描かれた、看板が見えてきた。近づいて行くと、看板はペンキがはがれ、めくれた板の所々が、錆びて腐っていた。ぼくはのどが渇いていたことを思い出して、コーラを飲むために、店に入ることにした。白いペンキのはげた階段を上り、崩れかけた扉を開けると、電球が一つだけ点っていた。客席の灯りは全部消えていて、薄暗い。もちろん客は一人もいなかった。この店はやっていないのだと、店に入る前からわかっていたことを、口に出して言ってみた。カウンターの奥の扉がガタガタと揺さぶられた。

 その扉も腐っていて、開けにくくなっているのだと思った。慌てて外に出た。石畳の道に戻ると、腕時計を見た。絵里との約束の時間が迫っていた。

『なんで、こんなにゆっくりと歩いていたのだろう』と、ものすごく焦りながらうしろを振り返ると、黒い影のように男が立っていた。その男はハンバーガー屋から出てきた鬼吉係長に間違いはない。

 信号が見えてきた。右側に曲がる道がある。信号を渡ったところに家具屋があった。右側に曲がる道から髪の長い女が出てきた。きっと教会の奥の門から出て、奥の道を通ってきたのだと思った。

 その女は、右側の家具屋のショーウインドウを見ることもなく、髪をぼくの方になびかせながら、ダンサーのように軽やかに歩んでいった。 

 ぼくは家具屋のショーウインドウに飾られている、桐のタンスを見て、絵里と一緒に暮らすようになったら、ここに桐のタンスを買いにこようと思った。

 前を見ると、女の姿が小さくなって見えた。先の右側の薄いトタン塀の門の、留め金が外れて、開いたり閉じたり歩道を塞ぐように、ヒラヒラと動いているので、女の後ろ姿が見えたり見えなかったりする。

 女との距離を縮めようと走り出した。 突然、強い風はぼくを押しとどめるように厳しく吹き付け、前に出した足が着地することができず、そのまま後ろにのけぞって倒れた。そんな姿を女に見られたくなかったので、慌てて立ち上がり、ワーッと叫びながら前傾姿勢になり、目を見開き、前歯を思い切りむき出すと、風に体当たりするように走り出した。

 女の姿は急激に大きくなり、ぼくは着実に女に近づいていった。女は長い茶色かかった髪を、風になびかせながら、短いスカートを手で押さえることもなく、大股で颯爽と歩いていった。

 女の先にまた右に曲がるが道が見える。女がその道を渡りきって間もなく、その脇道から、背の高い、腕の筋肉が盛り上がった男が出てきた。

 その男はちょうどぼくと女の真ん中に入り込み、海岸に向かって歩き始めた。

 左前方から死ぬ間際の甲虫のように、よろよろと軽自動車が近づいてきた。その後ろから大型幌付き軍用トラックが、今にも前方を走る軽自動車を押しつぶすかのように迫ってきた。軽自動車が筋肉男の真横に停まると、中から埴輪のように無表情な顔の男がでてきた。その埴輪顔は花岡さんにそっくりだった。

 埴輪顔が筋肉男に近づき、一言声をかける。筋肉男は血相を変えて、埴輪顔に向き合った。埴輪顔は女の方に全速力で走り出す。筋肉男もその後を追う。

 幌付き軍用トラックは、軽自動車を押しつぶし、車体の下で引きずると、ぼくの後ろでとまった。

 埴輪顔が後ろを振り返り「地獄に帰れ、近づくんじゃねー」と叫ぶ。

 ぼくは前に走り出した。走った方がいいと思う。後ろを振り向くとトラックの荷台の幌をかき上げて、戦闘服スタイルでヘルメットをかぶり、百式機関短銃を肩に背負った男が五人、バラバラと荷台から飛び降りてきた。

 ぼくの前を走っていた、埴輪顔と筋肉男は女を突き飛ばして女の前に出た。女は右側の白の御影石の塀によろめきながらぶつかり、塀にもたれかかるようにずるずるとスカートをめくりあげながら横たわった。

 ぼくの耳横を、シュッとかすめ飛んで行く弾丸の音が聞こえた。

「ついに撃ち始めやがった。もう無理だ」

 次の瞬間に死ぬのだと思った。死が目前にあった。

「中途半端なところに当たるの嫌だ。当たった瞬間に絶命するように、正確にあててもらいたい」

 右の耳にも左の耳にシュッシュッという音が連続して聞こえた。頬に強い風があたり弾丸がかすめ飛んで行くのがわかった。ばくはダイビングするように石畳に倒れ込む。前方に白いショーツがむき出しになった女の尻が見える。女の方にも弾丸が飛んで行く。柔らかい花柄のスカートに弾が当たり、ふわりと揺れたように感じたが、女の身体に当たってはいないようだった。

 ぼくは首をほんの少しだけ動かし、女の尻から二人の男に目を転じた。その瞬間、二人の男は動きがとまった。同時に弾が当たったのだ。バリバリと激しい音がした。立ったまま絶命した二人の男の身体に、次から次へと弾がめりこんでいった。

 月夜に踊る狐のように、二人の男は倒れ込むことなく、死んだまま踊り狂っていた。

 五人の兵士が、こちらに向かって走り寄ってくる靴音がした。

 ぼくは、自分が歩道の石になっているのだと、自分にいいきかせた。兵士の一人がぼくの背中と頭を踏みつけて、前に走り去って行く。ほんのわずか顔を上げて女を見た。女は御影石に同化し始めたのか、身体全体が服ごと薄くなっている。このまま放っておいたら、消えてしまいそうだった。

 あごを少し前に出し上目遣いに前方を見た。どす黒い血溜まりに筋肉男は仰向けに、埴輪顔が顔を俯して倒れていた。

 五人の兵士は、死体の服を引き裂くように脱がすと、脇にさしていた牛刀で二人の男の顔、喉、胸、腹、股ぐら、もも、ふくらはぎ、つま先までブスブス刺していく。刺すたびに、血が吹き出して、血溜まりが広がっていった。やがて肉体のかたちは崩れてなくなり、一面の血溜まりのところどころに肉片が盛り上がっていた。

 幌付き軍用トラックが、ゆっくりとバックで兵士のいる位置にやってきて停まる。兵士はトラックの荷台によじ上り、幌の中に消えた。トラックは、走り去っていった。

 御影石の塀に寄りかかっていた女は立ち上がると、海にむかって先ほどと変わることなく、大股で長い髪をなびかせながら歩きはじめた。ぼくも女の後を追うように歩きはじめた。

 時間がない。しかしまだ絵里との約束の時間が過ぎているわけではなかった。

 前を歩く女は、血溜まりに臆することなく入って行き、血溜まりの真ん中の肉片が盛り上がっているところで、ハイヒールを滑らせて、つんのめるように前に倒れた。

 ぼくは足がすくんでしまい、女に近づき支え起こすことができない。ぼくは立ち止まったまま女を見つめていた。

 女は膝を曲げ尻をこちらに突き出すように立ち上がると、ゆっくりとぼくの方に向いた。顔に付いた血が、あごからしたたり落ちている。胸がはだけ右側の乳房から血がしみ出しているように見えた。 薄い生地のスカートは完全にめくれ、白いショーツの右側は血液をしみ込ませ、真っ赤に染まっている。その滴が何本もの細い線を描き、右側の太ももから膝、すね、足の甲とたれ落ちている。

 しかし女の顔は優しく、涼しげにぼくを見ていた。

 「私はあなたの風になるわ」

 女はくるりと向きを変えると、何もなかったかのように同じ足取りで歩きはじめた。


 急がなければならない。絵里よりも早く着いて、待つつもりでいたのだが、それどころではなくなってしまった。

 気がつくと、ぼくの前に血溜まりはなく、女もいなくなっていた。いつどうやって、血溜まりを通過したのか記憶がない。靴と靴底を見た。どこにも血がついていない。ということは、血溜まりを避けて通ったのだ。 ぼくが歩いて通った道を思い出すことができない。 しかし、後ろを振り返って血溜まりを確認をしようとは思わなかった。ぼくは急いでいるのだ。一分一秒を無駄にすることはできない。 今のぼくは、海沿いの公園の棕櫚の木の下にあるベンチに、一刻もはやく辿り着くことが必要なのだ。

 海の匂いがしてくる。道が右側にゆるいカーブを描いていき、ぼくはそこを駆け抜けて行った。公園は、間近に見えるようになった。棕櫚の木が四本並んでいて、その木々の海側にベンチがあるはずだ。

 時計を見た。約束の時間から一時間以上が過ぎていた。 絵里は帰ってしまったかもしれない。「ちきしょう」ぼくは歯を噛みしめながら言った。

 棕櫚の木の向こう側にでて、ベンチを見た。誰もいない。絵里は最初から来ていなかったのかもしれないとも思った。絵里と今日の約束をしたあと、電話もメールも繋がらなくなってしまっていた。しかし、今日会えると思っていたから、そのことを特に心配はしていなかった。

 ぼくは、ベンチに座り、海と青く透きとおっている空を眺めていた。海岸には誰もいない。

 光をころがしながら、小さな波がくり返し、よせては引いていく。永遠にここにいようと思う。

 しかし景色はわずかに陰り、琥珀色に染まってくる。ぼくに永遠は与えられてはいなかった。

 空と海からつながる白い砂浜が少し揺れた。そこに人が座っている。立ち上がるとスカートを太ももに絡みつかせながら、ぼくの方に歩いてきた。ぼくは激しく動揺した。期待している自分に力ずくで「違う。絵里ではない」、と声を押し殺して言った。女が間近に近づいてきた。

 ぼくは、下を向いた。女が隣に座った。公園の白いベンチ。女が隣に座る理由がわからなかった。


「遅かったわ。どうしたの」

 ぼくは、ゆっくりと女の横顔を見た。絵里だった。しばらく会ってはいなかったけれど、ぼくは絵里が運んでくる、光の気配を忘れてしまっていたわけではなかった。

 ごめんと謝ったけれど、遅れた理由は言わなかった。それはとても奇妙なことだったし、今そのことを言うのは、場違いな気がした。ぼくは、ポケットから伊勢丹で買った贈り物用に包装された小箱を出して、「これを受け取ってもらいたい」と差し出した。絵里はぼくのほうをむいて、少し笑うとその小箱を受け取った。

 絵里はその小箱を右の膝に置くと、両手で丁寧にリボンをほどいた。小箱の中の小さなダイヤが飾られた指輪を取り出して、しばらくながめていた。「ステキ。可愛いわ」

 ぼくは海からくる風を意識して、思い切って言った。

「絵里と結婚したい」

 それ以外の言葉は見つからなかった。絵里はぼくの方を向くととても寂しそうに笑った。それから、指輪を小箱にもどし、丁寧に包み直すと、リボンを掛けた。

 絵里は指輪の入った小箱をベンチに置くと、しばらく海を見つめていた。

 やさしく揺れていた棕櫚の葉は静まりかえり、光は燦めいたまま跳ねることを止めて、ぼくの息を包み込んだ。

 絵里は、小箱をベンチに置いたまま立ち上がった。

「あなたは私を見つけ出せるのかしら」

 ぼくを見ることもなく、駅のほうに歩き出した。

 ぼくは暫く海を見ていた。それから慌てて立ち上がり、ぼくも駅のほうに向かった。

 絵里とはまだ何も話してはいなかった。絵里の姿はどこにも見当たらなくなっていた。

 ぼくは走り出した。

 血で赤く染まった歩道は、その痕跡がきれいに消えていて、思わず足を止めたけれど、今度は必死で走り出していた。

 ぼくの視界に、遠くを歩いて行く絵里の姿が入ってきた。それは小さな光のしずくが風にのって前に進んで行くように見えた。絵里の今いるところの少し前が、鬼吉係長がいたハンバーガー屋だった。絵里はその店に入って行くようだった。一瞬止まったぼくは、また全速力で走り始めていた。

 ハンバーガー屋の窓の横に立ち止まった。窓から店の中をのぞき込んだ。奥のテーブル横のスタンドランプが一つだけ灯り、そのテーブルに肘をついた一人の男とその隣に一人の女が座っていた。

 鬼吉係長と絵里は、何を話しているのだろうか?

 不安が襲ってきた。ぼくは、扉を押し、店に入った。

 店の中に絵里の姿も鬼吉係長の姿もなかった。

 奥の四人がけのテーブルに、小太りの、疲れた表情はしているがチャーミングな女と、大柄の男が、向き合って座っていた。

 ぼくは女の隣に、大柄の男を前にして座った。

 ギョッ!とした。

 先ほど銃で撃たれ血だらけになり、肉体が切り刻まれた筋肉男がそこにいた。

 しかしぼくは急速に冷静になった。

「ここに女が入ってこなかっただろうか?」

 男は無表情にぼくを見続けると、やっと口をひらいた。

「来たよ。いい女だった。名前を聞いたが、笑ってばかりでおしえてくれなかった。携帯の番号も住所もどうしてここに来たのかも話してくれなかった。あどけなく笑ってばかりいた。あの女のことをおしえてくれ」

 ぼくは黙ったまま男を見つめていた。

「おまえは、親密なあの女のことを知っているはずだ」

 男は、頬杖をついた女の腕に彫られた十字架を見ながら、なにも知らないというわけにはいかない、と呟いた。

 ぼくは無表情に黙り続けていた。男はテーブルの上で手を組み、祈るように目をつぶった。

 ぼくは何もわからなかった。立ちあがり出口にむかった。

 出口のところに埴輪顔がいた。目を大きく見開き、ぼくを怒るように見つめていた。

 ぼくはハッとなり、男のほうに振り返り、叫ぶように聞いた。

「どうして親密な仲だと思ったのですか?」

 男は、目をつぶったまま、やっと聞き取れるほどの声で言った。

「女が出て行くときに言ったんだよ。『ここに間もなく男がやってくる。そうしたら愛してるって伝えておいて』って」

 ぼくは、慌てて扉を引いた。

 男は目を見開くと、稲妻の走る落雷のような声を、ぼくの背中に刺した。

「急げ、血を吐いても走れ。列車が動きだすまえにたどり着ければ会えるだろう。いいか忘れるな、俺に知らせるんだ」

 そこで目が覚めた。壁にかかった時計を見た。その針はちょうど一時を指していた。たった十分間の夢だった。


 会社に着くと、更衣室の、与えられたロッカーを開け、作業着に着替えた。今日から正社員になったので社長室に行き、今崎社長に挨拶した。

「どうしたの?」

 と聞かれて、昨日正社員にするようなことを言われたと思ったのだが、聞き間違いだったのかもしれないと不安になった。

「今日から正社員なりましたので、まずは社長にご挨拶と思いまして」

 まばたきを何回もしながら、社長を見た。

「そうなの?それなら、さっそく打ち合わせしたいことがあるから、今日の作業が終わったらここによってくれ」   

 社長独特の、とぼけた言い回しだった。

 しかし、この言い方をしたときには、重要な何かがあることを、かつての経験で知っていた。

 今日の夢が現実にあったことのように、ぼくの周りで渦を巻いていた。

 学生時代のアルバイトで月曜から金曜の夕方、ほとんど欠かさずにフロアーの掃除をしていた七階建てビルの、三ヶ月に一回おこなわれる全館床洗いの日だった。四人で出掛けていき、車内で役割分担を決めた。

 時間内で終わらせるためには昼以外の休憩は取れない。したたり落ちる汗を腕でぬぐいながら八時間動き回った。

 会社に戻ると、総務部の大竹美代子さんから、正社員になるためのいくつかの書類をわたされて、その場で記入した。大竹さんは頭の切れる女性で、学生時代のバイトのころは事務を一人でこなしていた。その頃で六十代だと本人が言っていた。服装やお化粧が艶やかになっている。でもいやみがなくセンスのよさが感じられる。事務は総務部という地位を得て、四人もいる。大竹美代子さんは部長になっていた。

 社長室に入ると、今崎社長はA三版のスケッチブックに漫画を書いていた。

 ぼくが入ってしばらくは筆を動かしていたが、スケッチブックをこちらに向けると、

「これ今考えているストーリーの主役なんだよな」と、臆面もなく言い放った。ホットパンツに胸あきヒラヒラ付きブラウス、大きな目と長い足のアニメ少女が描かれていた。

 ぼくは何もいわなかった。学生時代ならいくつかの褒め言葉を無理矢理作り上げ、いかにも感心したような下手な芝居で、とりあえずつくろったに違いない。 

 しかし今、ぼくは黙っていた。前の会社で黙ってしまう自分を作ってしまった。

 今崎社長は泣き出しそうな顔になり、机の抽出をあけ、とても大切なものを扱うようにスケッチブックをしまった。

「そこに座れ」

 社長の声になると、ぼくに椅子をすすめた。

「君に正社員になってもらったのは、わが社の一つの命運を担っていく事業にかかわってもらいたいからだ」

「どうして私なのですか?」

「もどってきたからだ」

「私のことを買いかぶってませんか?」

 そこに大竹さんが入ってきて、社長の机に書類をおいて、ぼくの顔をのぞき込む。

「買いかぶるもなにも、あなたがやることになっているのですよ」 

 大竹さんは社長の机に腰掛けるようにもたれかかる。

「あなたがここに戻ってくると言ったとき、どのくらい本気で働きたいのかわかりませんでした。次の仕事をきめるまでのつなぎで来るのか、それとも腰をすえてこの仕事をしていこうとしているのか、ということです。しかし今、あなたに病院に関する事業の要になってもらおうと、社長は考えています」

 社長が、テーブルをはさんで、ぼくの前の椅子を引き、座った。

「学生時代、おまえの最期の仕事が、その当時大竹さんが入院していた病院の清掃だったことを覚えているだろう」


 卒業半年前の就職が決定した頃、大竹さんは胃がんの摘出手術で入院した。その病院は医科大学の附属病院で、そこの理事が大竹さんが主宰している俳句結社の同人だった。その関係もあって、その病院の清掃業務の一部をこの会社が請け負うことになった。手術室の清掃は病院の研修が必要であり危険も伴うので、結局ぼくと社長でおこなうことになった。

 ぼくが先の会社で働いている間に、社長は病院の業務を拡大していった。今では三つの病院の清掃業務を引き受けさらに、看護師の派遣業務まで手がけるようになっていた。

 社長は、テーブルに両手をおくと、ぼくを睨むように見てから、

「君に病院の清掃業務の責任者になってもらいたいと思っている」

 ぼくは、先ほどの大竹さんの話しにに逆らう気持ちはなかった。

「いいすよ」とすぐに言った。

「もう一つやってもらいたいことがある」

「いいすよ」

 今崎社長は、ぼくの浮薄な物腰に何の困惑をも感じてはいないように思った。

 眉間に皺を寄せてぼくを見た。

「病院業務を拡大していくつもりでいる。そのために、社内に看護師の資格をもつ人材を一人おいておきたい。派遣者の研修を社内で行えるようにするためにも、病院の具体的なニーズをいち早く知るためにも、清掃に関して病院の求めるものを知るためにもだ」

 看護師を清掃会社に招き入れることはできないと思う。せっかく取得した看護師の資格をここでは生かすことができない。

「清掃会社に入社してくるような看護師がいるとは思えません」

 今崎社長は、ぼくの言ったことには取り合わず、

「先におまえが了解したので、話をすすめていく。いいかおまえが看護師の資格を取れ。学校の入学金や授業料は会社で持つ。しかしその時間の給料は払わない。授業が終わってから勤務についてもらう。いいな。」

 さすがに、すぐに返事が出来なかった。

 今崎社長が椅子から立ちあがり、しばらく窓から外を見ていた。ゆっくり振り返りぼくを見た。

 ぼくは何も考えないままに「いいすよ」と言った。


 次の日に、ビル清掃が終わって会社に戻ると、大竹さんに呼ばれた。 以前大竹さんが入院したことがあり、ぼくと社長で手術室の清掃をしていた病院の医科大学看護学部のパンフレットを見せられた。

「二月、看護師の資格を取得するために、ここを受験してもらうことになるので、この本で勉強をしておきなさい」

 受験参考書を三冊渡された。

「試験があるんですか?」思わず口に出た。

 大竹さんの表情はきびしくなった。

「だから二月。もし落ちたら、解雇になる。さらに卒業する四年後の国家試験に現役で受からなかったら、入学金から授業料それ以外のかかった費用の一切合切をすべて会社に返金してもらうことになります。やはりその時点で解雇になるのよ」

 ぼくはにやけながら、

「そんなに脅かさなくても……」と声が小さくなる。

「けっして脅かしているわけではありません。その証拠にいまこの書面に了承のサインをしてもらいます」

 大竹さんは、ぼくに押しつけるように用紙を二枚突きつけた。そこには、今大竹さん話したとおりのことが書かれていた。

 ぼくは口をすぼめて、にやけた顔を解消する。

「いいすよ」と少し声が震えた。

 二枚の契約書にサインをした。その時、ぼくの心がコソッと動いたような気がする。

 試験勉強に乗り気にはなれなかったが、勉強を始めた。最初乗り気になれなくても、はじめてしまえば体も頭も動きはじめるものだということは、社会人になって発見したことだった。失敗すれば解雇になることに逆らう気持ちはなかったが、この流れから離れてしまうことに怖い気がした。

 ぼくの体には、夢から続く強い風が吹いていたからだ。


 年を越し、厳冬の二月になった

 合格した。不思議な気がした。受かるために必死で勉強はしたのだが、正直、倍率の出た学校に受かるとは思っていなかった。ぼくは、これまで努力をしても、目標を勝ち取ったことはなかった。卒業した大学は落ちる者がいない大学で合格した。学生時代に受けた資格試験はことごとく落ちていた。

 努力をしたからといって、報われるなんて思ってはいない。

 合格掲示板に張り出されているぼくの受験番号を見つめた。突然、ぼくの頭の中に海が広がる。

 十八歳まで、三浦半島で波乗りをしていた。両親が交通事故で突然ぼくから消えてしまい、そのとき以来、ぼくは波乗りを忘れていた。いまその時の海があらわれた。 

 海の真っ只中で波を待つ。ボードを使い、遥、ずっと彼方の陸にむかって、デカイ波を狙う。うまく乗れても乗れなくても、また次の波を見定めていく。足が吹っ飛ぶことだって、腕がもげることだって、ボードの先端が左目に突き刺ささることだってある。でも、次のデカイ波に乗ることをたくらんで行く。


 学生時代の生活にもどることになった。昼間は学校に行き、夕方から働く。以前と違っているところは、年間の給料の額と会社に所属していることによって受ける待遇だが、その分仕事の責任は重くなった。 しかも必要な学校の成績を取得しなければ、それは直にぼくの生活を危うくさせる。


 四月になり、ぼくの生活はガラリと変わった。六時前には布団から抜け出して、顔を洗い、食事を作り、洗濯をして、学校に向かった。

学校が終わると校舎を出て、道路を渡った向かいにある二十階建ての大学附属病院に向かう。病院に入ると、更衣室にはいり病院用の清掃着に着替えた。

 それから手術室の階にいき、そこでさらに手術室用の作業着に着替えた。今日の手術時程を確認してから清掃に入る。手術日は科によって違うので、おおよそ清掃をおこなう場所はわかっているけれど、手術時間が長引いたり、救急で手術が入ることもあるので、空きの時間を確認して段取りをきめ、素早くやってしまわなければならなかった。

 病室は別の担当係がおこなうことになっているのだが、人手の足りなくなるときは、病室の清掃もあわせておこなうことになる。しかもそのようなことは度々あった。

 帰宅は夜の十時過ぎになる。仕事上で遅くなること以外は、定時に帰宅した。夕食を作り、シャワーを浴びた。その後十二時過ぎまで勉強をした。

ぼくの休日になっている木曜日は学校が終わると、まっすぐに家に帰り、早めに学校の勉強を終わらせると、卓上用ステレオコンポから音楽を流し、思い切り寝た。

 日曜は学校がなかったので、朝から仕事に出掛け、夕方に帰宅した。 

 あの夢がぼくの背中を押し続けているように思う。

 ぼくの生きざまに一滴の血を落とし、色を染みつかせていた。だから、ぼくはのんびりなんか出来ない。夢が意識から消えてしまわないように、今に縋っていかなければならないと、ぼくは勝手に思っていた。本当に勝手に思っていた。そのように思っていることが、現実になっていくのだと自分に言い聞かせていた。

 どんなことでも勝手に思うことから始まる。ぼくが今なにをしているかなんて人に聞かれても、話すことなんて何もない。ぼくが、勝手にやり始めたことなんて、だれにもわかるはずはない。 


 六月に入り、三日間雨が降り続いていた。その日は一時間目から実習が入っていた。白衣をきて八時半迄に教室にいないと、授業の受講ができなくなり、後日再度受講しなければならなかった。

 ぼくは、いつもよりはやめに家を出て、電車に乗った。学校は駅を出ると、歩いて二十分のところにあった。

 歩道のない道を、スーパーで購入した黒の折りたたみ傘をさして歩いた。傘が小さいので頭に近づけて、背中のバッグが濡れないようにした。

 この道はやがて国道とぶつかる。国道を渡り左折すると、三百メートルほど先に校門がある。

 横断歩道を渡り左折した。その右側にコーヒーショップが開いていた。前に行くのを遮るように人が立っていた。傘で顔は見えない。男だ。顔を見る必要もない。 ぼくはよけるように右にずれた。男も同じ方に移動した。「すいません」と小さい声で言って、よけるためにさらに右にずれようとした。

「胡栗くん」

 男は、聞きおぼえのある声で、ぼくの名前を呼んだ。


 傘を後ろにずらし前を見ると、いかにも上等な濃紺のスーツを着こなした花岡さんがいた。

「話を聞いてもらいたいことがあるんだ」

 強引にぼくの腕をつかんだ。ぼくは横のコーヒーショップに連れ込まれた。

「時間がないんです」

「十分だけ時間をくれ」切羽詰まった様子で花岡さんがぼくを見た。

「ぼくは、今とっても急いでいるんです」

 花岡さんは椅子に座り、ぼくは花岡さんを見下ろすように立っていた。

「わかった。それでは君の携帯電話の番号をおしえてくれ。君に連絡をしようと思ったのだが、つながらなくなっていたのだ」

「倒産した会社のことについては、振り返らないことにしました」

「いや違う。君にとっては多分、とても重要なことだ。でも簡単にはいえないんだ。とても大切なことだから」

 ぼくは、テーブルの上の紙ナプキンに携帯電話の番号を書き、一礼して店を出て、学校に向かって走り出した。

 

 家に帰って、携帯をテーブルの上におくと、病院に入る前に、携帯の電源を切っていたことに気がついた。電源を入れると、留守電が二回入っていた。いずれも花岡さんからだった。

 遅い夕食を取ってから、花岡さんに電話を掛けた。そこに会社時代の花岡課長の声が聞こえてきた。ばくは、電話に出なかったことを謝り、その理由について説明した。

「今朝は申し訳ないことをしてしまったと思う。でもどうしても君に会いたかった。会って直接話したかったんだ」

 花岡さんの丁寧な話し方に、少し安心した。

「君と会って、是非話したいことがある。時間を作ってくれないか」

 ぼくは日曜日の夕方ならあいているので、それを伝えると、花岡さんは、それはだめだと即座に言った。結局、明後日木曜日の午後は仕事のない日だったので、授業の終わった後会うことになった。

 ぼくは疑問に思っていたことを聞いた。

「どうして、ぼくがあの時間に、あの道を通るとわかったんですか?」

「そのことも明後日話そう」

 シャワーを浴び、それからテーブルに肘をついてしばらく目を瞑っていた。

 風が頬にあたった。窓を開けておいたのに思い出して、カーテンを開き、窓を閉めた。

 ぼくは、布団に入ると鬼吉係長の夢を見るような気がした。

 忘れてしまいたいと思っていた以前の会社のことが、夢の中に潜んでいるように思った。

 その夢が今と過去のぼくを、結びつけているような気がした。

 あの夢の中で、朽ち果てたハンバーガー屋にいた鬼吉係長と話をしなければいけなかったんだと思ったら、急に動悸がぼくの全身を揺するように高鳴ってきて、眠れなくなった。『どうして行ってしまったんだ』鬼吉係長が耳もとで呻いているような気がした。

 眠れないまま朝を迎えたくはない。朝になったら考える力もなく無理矢理からだを動かしていかなければならない。勉強も仕事も何もかも、うまくいかなくなるだろう。

 時計を見たら、三時を少し回ったところだった。目をつむりもう一度時計を見た。時計の針はちょうど五時を指していた。二時間ほど寝たことになる。

 朝起きておこなう一連の動作をなぞっていった。台所に行き、電磁ポットに水を入れスイッチを入れる。お湯が沸くまでの間、トイレにいき、その後洗面所にいきひげを剃り歯を磨き顔を洗い、ローションを顔に付ける。台所にもどり沸いたお湯でコーヒーを入れ、夕食の余りのトマトサラダとゆで卵を食べて、家を出た。

 鬼吉係長の夢は見なかった。 寝不足で意識にもやがかかっていたけれど、そんなに悪い気分ではなかった。むしろ、なにか吹っ切れた気分だった。こんな気持ちになれたのは別の夢を見たからなのだろうか。記憶に残っていない世界がぼくを支えていてくれるような気がした。

 睡眠不足のままむかえる、今日の二回目の実習がとても不安だった。しかしすべてうまくいって、指導の厳しい先生がはじめてほめてくれた。なにか不思議な力が働いていると思ったとき、頬に風があたった。緊張しながら作業をすすめたので汗をかいていた。気持ちのいい風だった。身体の中から流れ出てくる風だった。この風をぼくは知っていると思ったが、どうしてそう思ったのかはわからなかった。

 実習が終わり、かなりぐったりしたが、そのあと教室の授業が二時間あり、さらにレポートを書かされた。家に帰って寝たかった。しかし今日はこの後、手術室の掃除が二ヶ所ある。二ヶ所とも大きな手術だったはずなので、念入りに慎重におこなわなければならない。

 学校の建屋を出て、道路を渡り、病院に向かった。

 地下の食堂の隣にある職員控え室に入り、作業着に着替えると四階の手術室に階段を使って上っていった。

 金属製の扉を開けて手術室に入る。さらにそこの清掃機材室の奥の更衣室で、手術室用の着衣に着替え、マスクをし手袋をした。ぼくは午後の五時から九時までの当番なので、それまでの当番の人と引き継ぎをおこなう。やはり大きな手術が二つ入っていて、その一つはまだ終わっていないとのことだった。このセンター棟には手術室が十七室あり、その二つは眼科の手術室になっていた。外来棟にも手術室が七室あって、そちらの清掃も請け負っているが、そちらの清掃はしたことがない。

 奥の手術室はまだ手術が続いていたので、手前の手術室から掃除に入ることになった。その手術室には手術で使用した器具などを片付けている小柄で小太りの顔見知りの女性の看護師がいた。その女性に「掃除に入っていいですか」と聞いた。

「どうぞ、お願いします」

 声に疲労が滲んでいる。

「器具はそのままにしておいてください、ぼくがやります」

 看護師はこちらを振り向くと軽く頭を下げ、手術室から出て行った。 

 器具の洗浄のしかたや、所定の位置への置き方は熟知していた。

 手術器具には、手術の残骸が付着していることがあるが、これを見るとこの仕事を続けられなくなる者もいた。決められた薬品と処理方法に従って、すばやく片付けていく。

 ぼくは仕事を続けながら、夢と現実のはざまを彷徨っているような思いがした。

 強い風に引き込まれていくような気がした。寝不足で疲れているからだと思ったが、吸い込まれ、なにかに近づいていくような感覚が襲ってきていた。ぼくのすぐそばで、車の音がする。それは医療機械が出す音だとわかっていた。その機械がクールダウンするために強い風を出すことも、わかっていた。強い風が吹いていた。台の上にあるスポットライトの光が、汚れが付着した銀色の医療器具に当たり、その光がフワリと舞い上がったように見えた。その光を捕まえるように、意識が流れていく。現実の世界に留まっているのがとても息苦しく、気持ちは必死になる。しかしその息苦しさが急に抜け落ちた。器具の洗浄があらかた終わったからだ。

 ぼくを、追い詰めるものがなくなった。ぼくがなくしたのだ。ぼくが洗ったからだ。ぼくは一瞬、そのことを忘れてしまっていた。

 器具を洗い終わると、手術台の洗浄に入る。シーツを外し台の上をアイロンを掛けるように隅から隅まで漏れのないように熱洗浄をしていく。つぎに、新しいシーツを掛ける。それから、床の洗浄と清掃をおこなった。どんなに小さな埃でも、見逃さないように、床を這うように掃き、モップをかけた。

 どこからか風と海の音が聞こえてくるような気がした。それは手術中に流される、ヒーリングミュージックだった。静かな風と、燦めく海のさざ波のように聞こえてきた。

 手術室の入り口のところにたって、部屋を見渡した。規定に基づいた清掃がすべて、終了した。時間はどのくらい過ぎているのか、わからなかった。控え室に戻り、時計を見ると四十五分が経過していた。 何時も通りの時間だった。もう一つの手術室の部屋の、清掃依頼のランプが点いていたので、歯を食いしばりながら、何も考えずに手術室にむかった。その部屋は医師も看護師も、いなくなっていた。長時間の手術だった。器具が流し場に、重なって置いてあった。

 作業の手順を思い浮かべ、後は機械的に体を動かし、作業を進めた。そうすれば、考える力が途絶えても、手と足は止まることはなかった。体は動いていく。耐えていくだけだ。絶対に手抜はできない。ぼくは強い人間でも、褒められるような人間でもない。弱くだめな人間だ。しかしベッドの上で手術される人の姿が浮かぶ。清掃し、殺菌し、整えられたベッドの上で、命を掛ける人がいる。ぼくの手が足が動いていく。顔をわざとゆがめる。その方が耐えていける。耐えていく。手を止めるな。足を動かし続けろ。器具を洗浄剤で磨きあげる。だめだ。まだ汚れが付着している。時間が過ぎていく。作業が終わるはずの時間はとうに過ぎていると思った。

 やっと終わった。

 手術室をもう一度見渡して、もれのないかどうかを確認する。注意力がほとんどなくなっているので、拳で頭を叩きながら見回す。控え室にもどり、手術室用の着衣を脱ぎ、洗い物用の箱に入れると、椅子に崩れるように座る。目をつぶると、黒い闇が渦をつくって、ぐるぐる回りはじめた。

 インターホンの呼び出し音が、どこか遠いところで鳴っているような気がした。起き上がり、インターホンのそばに寄っていく。幻聴なのかどうかもわからないままインターホンのボタンを押し「どうしましたか?」と聞いた。

「六階の入院室ですが、こちらの清掃担当のかたは、この時間いないものですから、もしかすると手術室のほうにいるかと思いまして、そちらにインターホンしてみました」

 この清掃控え室の入り口の壁に掛けてある、丸い時計を見た。時間は十一時を回っていた。

「どのような、ご用件でしょうか」

「実は、患者さんが、トイレで激しく嘔吐されまして、トイレがすっかり汚れてしまったのです。こちらの清掃員の方はすでに帰ってしまったので、すぐに来てもらいたいのです」

 病室用の作業着を着ると、地下の清掃倉庫から必要な掃除用具を用意し、六階にむかった。なにも考えなかった。考えるということさえ、出来なかった。トイレはひどく汚れていたが、付着物が完全になくなるまで、慎重に丁寧に作業をすすめた、どんなに疲れて、思考力がなくなっても、作業ができるのだと思った。すっかり掃除屋になっていた。

 掃除のちょうど終わった頃、看護師が現れ「お疲れのところ申し訳ありませんでした。患者さんの対応に、追われていたものですから。ありがとうございました。」と丁寧に頭を下げた。

 ぼくは、いいえと言って、清掃用具をかつぐと、地下の清掃倉庫にむかって帰り始めた。非常階段用の扉を開け、階段で降りようと思った。そうしたかった。

 ながい一日が、終わったのだと思った。やっと帰れる。すっかり静まりかえった入院室を見ながら、階段に向かう。時間は間もなく十二時に、なろうとしていた。非常階段に近い方から二番目の入院室。その入り口に掛かっているネームプレートに、井村絵里の名前があった。

 同姓同名の名前の人がいたと、思った。三枚のネームプレートが掲げてあったが、疲れたぼくの目には井村絵里の名前だけが、判読できていた。風が吹いてくる。海の風が感じられる。ぼくは、朽ち果てたあのハンバーガー屋の窓から中を見ている自分になっていた。

「あの、どうかしましたか?」

 ぼくの後ろに、看護師が立っていた。

「いえ」

 考える力を失ったぼくは、それしか言い出せなかった。

「エレベータで降りてください」ぼくを引っ張っていくように、くるりとエレベータのあるナースセンターのほうを向き、早足に歩きはじめた。ぼくは引かれるように、後をついていった。

 電車にのり座席に座ると、すぐに寝入った。誰かが起こしてくれたような気がした。目を開くと、降りる駅に着いていた。家に着くと、すぐにシャワーを浴び布団にもくりこんだ。同姓同名の患者がいたという言葉が、頭の中をグルグル回り、ねむりに落ちていった。


 枕元の時計を見ると、六時を指していた。夢は見なかった。でもなにか見ていたような気もする。昨日のことはすべて、遠い過去のことのように思えるが、同姓同名の人がいたことだけは、鮮やかに目の前を揺れ動いていた。

 起き上がると、洗面所に行き、しっかり目覚めさせるために水で顔をジャブジャブ洗い、牛乳だけを飲むと家を出た。

 今日は仕事のない日だが、学校が終わると花岡さんに会わなければならない。

 授業を受けながら、ぼくは何もかもちぐはぐな動きをしているように思えた。心臓は時々止まっているようだったし、脳みそがサイコロのように角ばった粒の集まりで、何かを考えようとすると、頭蓋骨の中でガラガラと崩れ落ちていく。 この後、起こってくることにとても感心があるが、しかし息が苦しくなる。 勉強していることは、自分でも信じられないくらい、よくわかってしまうのだが、解答が出てこない。 授業中の黒板を見ていると、そこに描かれていく文字と図が、グニャグニャとうねりはじめてくる。

 ぼくの生は、夢の中で描かれ、現実の場所では、汚物にかわって、あふれ出てきているようだった。

 授業は終わった。リサイクルショップで買った、黒革のショルダーバッグに教科書、ノートと筆記用具をしまうと、校舎を出た。花岡さんとの約束の時間は、まだ二時間もあった。

 ぼくの足は、病院にむかっていた。六階の入院病室のまえに立ち、名前ふだの確認にわずかな緊張があった。

 ぼくには、このことを予期する気持ちがあったと思う。ぼくの目の前に、同姓同名の人がいるわけもなく、そこに井村絵里の名前はなかった。絵里が病を患い日本に帰ってきているはずはない。

 やはり、ぼくは疲れすぎていたのだと思う。まぼろしを見た。

 絵里を病にかからせても会いたいというのが、ぼくの願望としてあったのだろうか? 全身が腐り始めている。鈍重な痛みが身体の中から湧き上がってきた。

 出口にむかう非常階段を下りながら、昨夜のことを振り返る。非常階段なので、病院の職員がたまに使うくらいで、このときもこの階段を上り下りしている気配はなかった。階段を下りる靴の音が、周りの壁と金属製の階段にぶつかり、繰り返し聞こえてくる。その単調な響きの繰り返しがぼくの気持ちの高ぶりを鎮めていく。やはり、ぼくは井村絵里の名前を見た。どんなに疲れ朦朧としていても、病室の名札から井村絵里の名がしっかりと浮かび出ていた。ぼくは、どこの世界で生きているのだろう。

 階段の踊り場で、頭を抱え、しゃがみ込んでみた。一人しかいないから出来るまったくの演技が、なんらかの閃きを与えてくれるだろうという切ない期待感があった。

 一つの記憶がよみがえってきた。 学生時代のアルバイトで、この病院の清掃をしたことを、絵里に話したことがあった。

 銀座にむかって歩き始めた。電車を利用するのはやめて、歩いて、花岡さんに会う喫茶店に行くことにした。充分に間に合う時間だった。


 花岡さんが指定した、銀座五丁目の喫茶店に四十分間歩いてたどり着いた。

 すでに花岡さんは、店の一番おくの四人掛けのテーブルに座って、店に流れるシャンソンを聴き入るようにコーヒーを飲んでいた。

「すいません。遅れました」

「いや、時間通りだ。私がはやく来たんだよ」

 花岡さんは、チャコールグレーのスーツを着て、紺ドットのネクタイをしていた。テーブルをはさんでぼくのデニムとシャツのスタイルは、とても対等に話し合う雰囲気ではない感じがした。

 花岡さんは、コーヒーカップをテーブルの上の受け皿に、そっと置いた。

「複雑な話があるんだ。この話を君にどのように伝えたらいいか悩んだのだけど、話した結果君に嫌な思いをさせるかもしれないが、それにしても絶対に話さなければいけないことで、そのチャンスも今しかないのだ。したがって君に話してしまって、その結果君に恨まれたとしても、そちらの方がいいと考えたしだいだ」

 ぼくは、花岡さんが何を言いたいのかわからなかった。

「聞きますよ。なにも気にしなくていいですよ」

 花岡さんは、黒目を刺すようにぼくを見た。

「そう言ってもらえると、話しやすい」

 しばらく沈黙が続いた。花岡さんは言い始めるまでの覚悟を決めているみたいだった。

 花岡さんが話し始めるのを、ひたすらに待つことにした。

「ぼくの責任なんだが。君に迷惑をかけることになった」

 迷惑とかなんとかではなくて、話したいことだけを言ってもらいたいと思う。回りくどい話を聞くほど、心に余裕がない。しかし、ここは忍耐をすることだと自分にいい聞かせた。花岡さんの口元を見つづけ、自分の口はひらかなかった。

「鬼吉は死んだ。死んだ鬼吉のズボンのポケットから私の住所と電話番号が書かれた紙切れが出てきたと、死因を捜査している警察から連絡があった」

 ぼくは、無表情を装っていた。

「廃屋になったハンバーガー屋で死んでいたんだ。見回っていた警察官の発見が、はやかったので、椅子に座りテーブルにうつ伏せになった遺体の腐敗はなかったらしい」

 廃屋になったハンバーガー屋という状況にぼくは驚き、その気持ちを繕うことはできなかったので、思い切り目を瞑った。胸の内に強い風が吹きはじめて、自分でもわからないまま目に涙が溢れてきた。

 その涙を、花岡さんは見逃すことはなかったと思う。花岡さんは、話に熱が入りはじめた。口から言葉が溢れ出てくるのに、まかせるような話し方だ。ぼくは目をあけて、花岡さんの口を見て聞き、花岡さんはぼくの目を見すえて話した。

 鬼吉係長は、飢え死にをしていた。

 警察が司法解剖をした。強度なアルコール反応や薬物反応もでてこなかった。外傷はくわしく調べたらしいが、発見されなかった。飢えの自死は、考えにくい。動けなくなった病気でもあったのかもしれないが、事故死ということになった。

 ぼくの前にコーヒーが置かれ、花岡さんの前の空いたコーヒーカップをウエイトレスが持っていくと、花岡さんは僕の方に顔を近づけるように、前のめりになり、話を続けはじめた。

「鬼吉は君を頼っていたようだが、そのあてもなくなり、前の会社で唯一個人の電話番号を知っているぼくを頼ろうとしたのだろう。しかし私に電話することなく餓死してしまった」

 花岡さんは、鬼吉係長を釣りの同好会に、誘ったこともあると言った。仕事が忙しいので遊んでいる暇などないと断られたと話して、氷のとけたコップの水を、口に運んだ。

「実は、鬼吉は君のことで、困ったことをしていた」

 花岡さんはウエイトレスを呼ぶと、コーヒーを再度頼んだ。

「岩立さんは、君のことを心配していたぞ」

「岩立さんをご存じだったんですか?」

「うちの会計事務所とは以前から付き合いがあって、いっしょに釣りに行くこともある」

「岩立さんは、そんなこと一言も言ってませんでした。もちろん言う必要もなかったのでしょうが」

「君を見ていたんだ。そして君の誠実さを気に入っていた。鬼吉のもとで働いていては胡栗はいい仕事が出来なかったな。とも言っていた」  

 花岡さんは、ウエイトレスが運んできた、二杯目のコーヒーを少し飲むと、ゆっくりと受け皿においた。

「実は今の君が勤めている会社は以前倒産したことがあった。その時、岩立さんが再建に関わったんだ。それで、今の君の会社の社長と岩立さんは懇意なんだ」

ぼくの生きざまに、偶然がかさなった。しかし花岡さんは、生きることは偶然の連鎖なのだと言う。偶然と思える偶然と、意識はしない偶然もあると言う。しかしそこには本人の意思が影響している。花岡さんは腕を組み、またぼくを見た。

「君は思いを強くもっている。信じることを信じているのだろう」

 ぼくが『勝手にやり始めたこと』を、花岡さんは、そのように見ているのかもしれない。

 岩立さんは花岡さんを通じて、ぼくのことを知っていたことになる。さらにその後、今崎社長からもぼくのことを聞いていたのだろうか?


「井村社長が鬼吉を呼んで、どうも君のことをさぐっていたようなんだ」

 花岡さんが次々に話す意外な話が、どのように収束していくのか、収束するまでにどのくらいの時間が掛かるのかを思っていた。

 花岡さんはぼくの表情からそのことを察したらしい。

「もう少し、辛抱して話を聞いてもらいたい。このことを知ってもらわないと次の話ができない」

「すいません。ぼくのために」

 ぼくはそう言うより、仕方がなかった。

 花岡さんは、うなずくと話を続けた。

 絵里の話しが出た。なにか唐突な感じがした。

「絵里は社長の親族になる。絵里の親の借金を肩代わりしたらしいのだが、社長のたっての願いで、絵里はあの会社に入ることになった。海外の販路を拡げようとしていたらしく、語学が堪能で、留学をして経営学士を取得していた絵里がほしかったらしい。しかし、絵里が入社して間もなく、経営状態が悪化して販路の拡大どころではなくなってしまった」

 花岡さんは、親の会計事務所を継ぐことになっていて、しばらくは、あの会社で働くことにしていたらしい。

「さて、それからだ。ぼくは絵里の事情を聞かされてはいなかったし、君に好感を持っていたから君たち二人の間を取り持とうと、ちょっと遊び心もあって、二人を釣りに誘ったのだ。今から考えると、それが君たち二人にとって間違ったことをしてしまったようにも思うんだ」

「ぼくと絵里のことは、花岡さんには関係のないことです。ぼくが絵里に思いを抱いていたし、絵里もぼくに関心があったと言っていました。だから、花岡さんはぼくたち二人の背中を押してくれたのです。でも、この話しは過去の出来事です。もう忘れなければいけないと思っています」

 花岡さんはしばらく黙って、まばたきもしないで、ぼくを見つめていた。

 扉を開け、二人連れがコーヒーショップに入ってきた。そのとき、外から風が店のなかに入り込み、その風が、ぼくの口を封じ込めるように、ぼくの顔にあたり、花岡さんの髪を揺らした。

 花岡さんが話し始めた。

「井村社長の耳に絵里の噂話が入った。会社の誰かと付き合っていると感じとった親が社長に相談したらしい。やがて君のことを知ることになる。それで君のことを探るために直属の上司の鬼吉が呼ばれた。ここから君たちの間に、見えない壁が立ちはだかることになった」

 岩立さんが井村社長から聞いた話だと、鬼吉係長は井村社長に、胡桃亨は仕事ができない上に、責任感がなく、嘘をつき、サボり癖があるので、指導が大変だと言ったらしい。

「それで、井村社長は絵里と君を別れさせるように鬼吉に頼んだそうだ。鬼吉は二つ返事で引き受けた。この男は、時期を見計らって、それを実行した」

「それは、いつのことですか?」

「井村社長から依頼されたのは、公に倒産が言い渡される前のことだ。実行したのは多分、鬼吉が岩立さんを恨みはじめ、次の生活を考えはじめた頃だと思う」

 鬼吉係長は、ぼくに会社倒産の残務整理で残るように言う一方で、ぼくと絵里が別れるように画策していたことになる。

「ここからは、岩立さんから聞いた話をもとにして、私が話を組み立ててみたことだが」と花岡さんはことわってから話を続けた。

「鬼吉は君を手元において置きたかったのだろう」

「どうしてですか」

「鬼吉に蓄えはなかった。彼のギャンブル中毒では金はあったらあっただけ、流れ消えていく。後は生活が破綻していくだけだ。組織に依存し、その中で見栄を張っていなければ、生きられない男だ。唯一残されているのは、自分のことを慕っていると思い込んでいる、君との共同生活だ。彼は、君にその話をすれば、君はことわらないと思っていた」

 それで、鬼吉係長は一緒にホームレスになるようにと、ぼくを誘ったことになる。

 口の中が乾いている。もし水を飲んだら、その乾きが体の奥まで流されていき、苦しさが増していくような感じがした。

 花岡さんが話を続けた。

「鬼吉は、社長から絵里の携帯の番号をおしえられていたはずだ。鬼吉は、まだ君と会っていた頃から、絵里に電話をした。『胡桃亨には新しく恋人ができた。君と別れたがっている。君からの連絡に困っている』と。鬼吉の電話のしかたで、繰り返し、ねちっこく、相手の精神を粉々にしてしまうように。絵里は携帯電話をイタリアの電話会社に変更して、日本の携帯は解約してしまった。それで君から絵里に連絡ができなくなった」

 さらに、花岡さんは慎重に話を進めていった。

「そのころ、私も絵里にメールを出していた。岩立さんに帳簿の件で聞かれたことがあったので、特に絵里に聞く必要はなかったのだが、帳簿についての確認を取るようなかたちでメールをだして、絵里のイタリアでの様子を尋ねたかったのだ」

 そこで、花岡さんは腕を組んで、少し考えるような素振りを見せた。

「すぐにメールが戻ってきた。帳簿については、絵里らしく明快な内容がきちんと書かれていた。イタリアでの充実した生活の様子も書かれていた。しかし最後に鬼吉から、ひっきりなしに電話が掛かってきていると書かれていたが、その理由や内容は書かれていなかった」

 花岡さんは、そのメールを受け取った後に、緊急の仕事が入ったので折り返しのメールが出せなかった。しかし次の日、やはり鬼吉の件が心配になったので、再度絵里にメールを出したが、そのメールは宛先不明で戻ってきたと、言った。

 鬼吉係長の執拗な電話に、絵里は困り果て、疲れ切っていたと思う一方で、どうしてそのことをぼくに知らせてくれなかったのだろうと思う。ぼくが携帯電話を替えるまで、鬼吉係長は、あらゆる言葉を操作し、泣き叫びながら、全力でそのことを阻止していたのだろうか? 

 ぼくは目を瞑る、目の奥で夢の女を追っていた。その時少し冷静になったのだと思う。

 ぼくは、たいした人間じゃない、自分を中心に判断し過ぎていた。

「ぼくと、絵里が連絡を取れていないのは、それだけが理由だとは思えません。絵里はぼくと別れようと思ったのでしょう」

 花岡さんは、右手の中指と人差し指の先で机をたたき始める。タンタンの単調なリズムが、ぼくの耳に繰り返し届く。

「そう思われる節もある。絵里が留学中に知り合った男が、外資系の一流コンサルト会社に勤めていて、度々イタリアまで絵里を訪ねに来ていると岩立さんが言っていた。親も井村社長もその男には好感を持っているみたいだ」

 ぼくは、また夢を思い出していた。この展開はきっとぼくの潜在意識のなかにあったのだ。絵里がぼくのプロポーズを受けないことも、やがて別れが訪れることも。でも夢の最後は違っていた。夢の中に願いが入り込む。

 しかし夢が先行して未来を見せることはないと思っていた。

 花岡さんはもうずっと二本の指でテーブルをたたきつけている。 しかしその力は弱まり、音は小さくなってきているが、リズムはくるうことがなかった。

 花岡さんは話を続ける。

「君は会社を移り、そして引っ越し、携帯電話をかえ、電話番号、メールアドレスまで替えてしまった。これで完全に絵里とのつながりは消えた。しかし、私にはなにもわからないのだ。だからきみと会って話したかった。話さないと、後悔することになると思ったからだ」 

 そこで、指を動かすのをやめた。とても静かになった。

 ぼくは、これからの話からは、なにも得るものがないと思った。絵里が幸せになっているのであれば、それで良いではないか。あとはぼくの問題だ。ぼくの問題なんていつも大したことはない。適当なレポートを書き上げれば、ぼくはそれで、いつも終わっていたのだから。

「ちょっと待ってくれ」

 急に花岡さんは口を開いた。ぼくは思いつめ、深海に身を投げ出すような様子をしていたのだと思う。ぼくは、感情を表には出す方ではないのだが、そのときは自分でもわかるほどの表情をしていた。

 花岡さんは慌ててぼくを押しとどめるように言った。

「私は違うのだと思う。絵里が鬼吉の話したことを信じたとは、どうしても思えないのだ」

 花岡さんは水の入ったコップを左手でグルグルと回し始めた。

「いや違うかどうかはわからない。ただ絵里の声が聞こえてこない。どれもこれも、人づてに聞いたことばかりだ。私は、君たちの関係を外から見ている立場にある。だから、もしかすると私のほうが見えていることもあると思う。実は岩立さんが、井村社長から聞いた話なのだが、絵里は戻ってきている可能性がある。理由はわからない。理由は親が言わないらしい。岩立さんは絵里が病気なのではないかと言っていた。ここから、私の考えなのだが、絵里は君に会いたがっているのではないか。君を探しているのではないだろうか」

 ぼくは椅子に座り直した。

「絵里は、ぼくがどこにいるのかわからない?」

「親も井村社長も絵里が君に近づけないようにしているのだ」

 花岡さんは、私の話はここまでなんだと、言いながら、腕時計を見た。そのとき、花岡さんのビジネスバッグから音がした。ビジネスバッグを開き、携帯電話を出した。その携帯電話に見覚えがあった。前の会社でも使っていたものだ。青いイルミネーションが点滅している。メールが着信したのだろう。メールを読み終わった花岡さんは、口を閉じたまま少し笑ったように思う。

「私は、君の力になりたいと思っているんだ。だからどんなことでも、私にも話してもらいたいと思っている。そのことを君に伝えたかった。この後、実はもう一人と会わなければならないので……」

 携帯電話をビジネスバッグに仕舞うと、立ち上がるために椅子を引いた。

 隣のテーブルの椅子には、先ほど入ってきた二人ずれの客が座っていた。ぼくはそちらを見た。

昨夜、ぼくにトイレの清掃を依頼した看護師とその連れの大柄の男がいた。

 ぼくは看護師の女性に挨拶をして、あわてて聞いた。ここは絶対に急がなければいけないところだと、とても大きな確信がぼくの背中を思いっきりたたいたからだ。

「お聞きしたいことがあるのですが、昨夜『井村絵里』の名札が病室にかかっていたと思ったのですが」

 看護師はそれ以上、ぼくに言わせないように、ぼくの言葉を引き取った。

「わかっているわ。あの札は間違いだったの。井村さんは今日、日帰り入院の患者さんで、個室を予約していたのだけれど、昨夜の準備の間違いで三人部屋にかけられていたの」

 看護師は、腕時計を見る。

「経過が良好であれば、まもなく退院になるわ」

 ぼくは、立ち上がった。連れの男がぼくを見つめていた。

 ぼくは看護師に一礼すると、出口にむかった。会計のところに、花岡さんが立っていた。

「急げ、後で私に知らせてくれ」

 ぼくは外に飛び出した。

 ぼくはよくわからなかった。でも思いっきり走らなければいけないと思った。

『血を吹き上げるまで走れ』筋肉男の声が聞こえてくる。

 風が猛烈な勢いで背中を押すように、吹き始めてきた。

 


           了


著者のYoshio Fujiiさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。