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僕の過去について

 

<小学校より前>

 怖いほど記憶がない。だけど、ただ一つ、怒ると暴れていたことだけは覚えている。親は育てるのがすごく大変だったと思う。保育園では、僕は所謂「ウザい」子供で、多分いじめられていた。

また、小学校入学前に、自分の書く字が汚いのが嫌で字が書けないのをなんとかしに発達センターに通っていた。そこでの活動は、楽しかった覚えがある。そこには小学6年まで通っていた。

 

<小学校入学後> 

小学校の記憶もあまりないが、所々何となく思い出すことがある。例えば、小学3年生のときに、ポニーテールの女子を見つけては、髪を引っ張っていたことや、小学4年生のときに、精神科に行って強迫症と診断されたこと、友達への意地悪をやめたことなどを覚えている。

小学6年生までは強迫症と戦う日々で、何か同じことを一年くらいずっと心配して、飽きて、また違う何かを心配するの繰り返しだった。ちなみに、僕の強迫症は、自己暗示による少し変わった症状もあったことが特徴的だった。例えば、「友達の指が折れるシーン」を目をつむって想像すると本当に友達の指が折れてしまうと信じ、全力でそれを阻止していた。友達の指が折れるイメージに対し「想像してはダメ」というルールを自分の中でつくると、挑発的にそのイメージが襲ってきて、僕を苦しめた。そうったダメルールによる症状もあった。

 

小学4年での哲学者の先生の経営する私塾への入塾により、小56では、哲学的なことにどはまりしていた。小さい頃から興味の幅が狭く深かった僕は、「どうしたら良い人間になるのか」をテーマに日々を過ごしていた。周りのクラスメートを見下し、自分は完璧だと信じ、尊敬する人ができるととことん尊敬した。

「どうしたら良い人間になるのか」には、大きく分けて2つの視点があり、一つが、怒らない・皆に優しくするなどの人間としての美しさ、もう一つが、どんな感覚でいればすらすら話せるようになるのか・イケメンの歩き方になるのかという最も住み良い無意識についてだ。後者はまさに触覚的な過敏さがあったから追求できたことだろう。

 このように、まさに「周りを見ていなかった」と言える6年間だった。

 

 

 

 

<中学校>

 中学校は、小学校の嫌われていた環境を切り離すため、遠くの学校に電車に乗って通った。

中学1年生では、小学校の時より少し外の世界を見るようになったが、それでもまだまだアスペルガーな生徒だった。特に、クラスで上位のキャラクターになりたいという完璧主義が露見した。というと、クラスで上位のイケメンキャラになるのは不可能だとわかったので、笑いで人気を集めようと思い、笑いの研究をしていた。

 中学1年においても、はじめこそ周りとうまく付き合えたが、徐々に緊張感がなくなるにつれて、自分の特異さを周りにさらしていった。そしてまた嫌われた。

 中学2年生では、クラス替えがあり、また新しい気持ちで人間関係の構築に望んだ。

そうしたら今度はうまくいき、恐らく中2の時が一番人生に対する肯定感が高かった。

強迫症もある程度快方に向かい、人間関係も、勉強も、運動も、この時が最も充実していた。

ただ、ここに一つ別の敵が出現する。それが、自滅行為の一つの「麻痺」で、思考を鈍くさせるというものだ。相変わらず笑いの研究をしていた僕には、話している途中で頭が回らなくなるのはネックだった。毎日、思い出すたびに襲ってくる「麻痺」という悪魔と戦うルーティーンだった。

 ところで、そもそも「麻痺」という触覚遊びは小学2年の時に発明したものだったが、何を思ったのか、ふとした拍子に小学2年の記憶を思い出したとき、久しぶりの敵との再会をした。小2の時は、そんなに敵という意識を持っていなかったし、忘れて気にしないという期間も周期的にあったが、中2となると意識もしっかりとしてくるので、忘れるという魔法の期間はほとんどなかった。故に、小2の記憶を取り戻してからほとんど一年間ずっとその敵と戦っていた。

 

 そして中3に上がる前、また別の敵が現れた。それが「自分でお腹痛くすること」だった。なぜこの敵と遭遇したのか、まったく覚えていないが、この敵は本当に厄介だ。今は、触覚遊びは怠惰でしかないと割り切れたことで、大幅に改善したが、対人不安という点ではこいつに僕はいまだに苦しめられている。この敵は、所謂IBSを引き起こし、おならや腹痛でその場にいられなくなるという自滅行為だ。この敵と戦い始めてから、僕は何度も人前で恥ずかしい思いをした。普通のIBSが分からないので比べることはできないが、僕の場合は、1秒に1回はおならが出るという症状だった。教室では腰を浮かし、常に変な姿勢でいる故、骨も変形した。

 1秒に1回出るという症状は初めからではなかった。初めは、いっぱいガスがたまり、堪え切れなくなるという症状だったが、短期の留学として小笠原諸島に、派遣生として行っていたときに、敵がフォームチェンジをした。つまり新しい「遊び方」をみつけた。このタイミングから徐々に僕は対人不安になっていったが、教室にもずっと耐えて居たし、塾にも毎日通っていた。

 なお、敵はこの後さらに力をつけていき、二つのフォームを同時に発動させることも可能になった。

 さて、中3の半ば頃、僕は、好きだった子に告白をした。ふられた。そこまではよかった。だが、その後何度も物や手紙を渡したりして、ストーカーのようになった。

 手紙や物を渡したのが好きな子だけならまだよかった。その頃一番仲良くしてくれていた、野球部の友達にも、病んでいる手紙を何度も渡したりした。同じクラスの少しだけ親しい人たちにも、何度も何度も特異な自己アピールをした。僕はすごいスピードで周りとの距離が離れていき、日に日に自虐的な自分が濃くなっていった。今考えると、この時期が最も気持ちが荒れていただろう。

 

 どんなに傷ついて、どんなに周りを汚しても、「学校にいきたい。教室にいたい。クラスの中で上位の生徒でいたい。」この気持ちは、衰えることがなかった。中学校を卒業するまで、いろいろなことがあった。もちろん途中で学校を休むこともたくさんあったが、基本は行っては、悪い思い出をつくり、行っては、悪い思い出をつくりの繰り返しだった。最後にハッと、「自分は何をやっていたんだろう」と目が覚めたのは、卒業後、クラスの人が何人かでディズニーに行ったことをラインで知った時だった。楽しそうに何人かで撮った写真を見て、母の前で泣いたのを覚えている。その瞬間まで、自分がやっていたことは何かに、自分が周りの人たちとの関係を崩してしまったことに、気づかなかった。いや、盲目では無かった。見えていたのに、見ていないふりを貫いていたんだと思う。「まだ大丈夫、きっとまだ、生きていていいんだ」この言葉が、命取りだった。

 ただし、僕にはそれでも優しくしてくれる友達が周りにいた。野球部の友達の所属する友達グループが、ラインで「3C相馬君にやさしい」というグループをつくって、僕を招待してくれた。他にも最後まで優しくしてくれた人が何人もいる。実は、告白した女の子にも、バレンタインにはチョコのお返しをもらえた。

 僕は今でも本当に感謝しているし、同時にものすごく申し訳ない。

 

 中学3年の最も荒れた時期は、希死念慮が芽生えた時期でもあった。初めは、希死念慮を自分を奮い立たせる道具として使っていた。「今日は死ぬ」と自分に言い聞かせることで、

自滅行為を辞め、また、皆の前で気を利かせて面白いことを言おうという難題に毎日向き合っていた。さらに、自分の外見がよくないのも、すべて自分のせいにしていた。気迫さえあれば、顔が変わってかっこよくなると本気で思っていた。何度も何度も企図をしたが、実際に自殺未遂をするまでは、「何で僕が死ななきゃいけないんだ」という思いに駆られ、それをすることはなかった。今ではそんな風に「何で僕が」と思うことはなくなってしまった。

この時の「希望がいつまでも捨てられなかった自分」を僕は恥じている。

 

 

 

<高校>

 受験に集中できずも何とか入学できた都立高校に通い始めてからは、また全く新しい人間関係が始まった。できるだけ人と心の距離を置くように、そう意識して、また、ラインなどでの発言にも十分に注意して、自分を保つ、これを意識しながら日々を送っていた。そして2学期が終わったころに、自殺未遂をして、精神科に入院した。それまでに起きたことを簡単にまとめると、学校にランドセルで行ったり教室で防犯ブザーを鳴らしたりといった派手なことをして恐らく大半の人に嫌われた・自滅行為が抑えられないのに毎日無理に塾に通って悪い思い出ができた、だ。

 はっきりと言えば、これこそまさに「自虐的」といえる。自分で事態をガタガタにして、自分で死のうとした。

 

高1の2学期の半ばに、自殺未遂をして精神科に入院したこと、これが僕の転機だった。入院を境に、人との距離を大幅に開ける決意をした。それまでの「自虐的な」自分も本気で変えていこうと思った。入院中に自閉症スペクトラム障害というきちんとした診断をされたということも大きな動機の一つとなった。

 

 退院後は、どの人にも牙を向け、距離を置くこと、明るくなって調子に乗らないことを意識して、ある意味自分を殺した。アスペルガーな部分を徹底的に隠すことに労を費やした。初めは牙を向けすぎたとも思うが、そのおかげで、厄介な性格が大分矯正できたと感じる。年齢を重ねたという外的な理由もあるのかもしれない。だが、ともかく、性格は変えられるということを誰かに発信したい。特に、僕と同じようなことで今苦しむ人に。

 

 もちろん当人が苦しさを感じていなければそれでいい。人がどう感じようが、自分は自分だと思う。でも、僕はクラスで上位の「普通」の生徒に憧れて背伸びしていて、笑いの才能なんてないのに、「普通」になるために、公の場において抑えるべき性格を抑えずむしろフルに発動させ、面白くいようと無理をするのがしんどかった。だから、「普通」になろうとして頑張らなくていいということ、この気持ちを共有したい。

 今は本当は「普通」なんてないと、サブカウンセラーの方とお付き合いし始めて思えるようになった。学校にいけない自分も、裏を返せば長所だと、知った。

 ただし、カマチョなのは元来の性格だし、人が大好きで人に近づきすぎる、KY、思い込みが激しく人から見た自分を描きにくいという「性格」が、ここで取り上げる厄介なつまずきであったと、捉えてもらえると解釈において具合がいい。

 

外の世界に目を向けてみてから、世の中の「暗黙の了解」とやらや、自分らしい自分を探すのは時間が掛かるし必ず誰かの助けがいると思う。でも、僕は周りの人の手助けのおかげで大分外の世界のことが分かったし、今は前と比べたらかなり生きやすくなったと思う。

以前のように意識しなくても、自然と相手との距離を置けるし、万が一ハイになっても人に嫌われるようなことはしなくなった。

 

 むしろ、今は人に牙を向けすぎてそれに困っていたりする。特に学校では、心外にも、クラスメートに敵意を感じさせてしまったりもした。僕は今まさに宙ぶらりんの状態であることがはっきりとわかる。まだまだつまずきが多く、いろいろ悩んで自分に向き合う必要がある。ただそれは思春期においてはみんな同じだ。

尚、僕は、今は別にみんなに好かれる人にならなくてもいいと考える。一部の大切に思う人との関係だけ、大事にできれば十分だと感じる。

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