スタートライン 17

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 すぐに帰ろうと思ったが、他のボランティアスタッフと、数名のハンディのある子供とその家族がすでに到着している事を知って思い止まった。我ながらよく耐えたと思う。帰った所で自分は悪くはないが、自分たちが抜けると確実にイベントはスムーズに進まないのは明らかであった。きっと今日をとても楽しみにしていたに違いない子供とその家族を裏切りたくない。自分の感情は二の次だ。それよりも大切にするべきなのは、今ここに来ている子供と家族だ。年をとったものだ。数年前であったら何がなんでも立ち去っていただろう。
 ボランティアスタッフはプロのダイビングインストラクターが8名と、大学のダイビングサークルの学生たちで構成されていた。バーベキューやタンクの運搬などは学生にまかせられ、水中はダイビングインストラクターが手分けして担当する流れになっていた。事前に送られてきた行程表はインプットしてある。僕はその中でも重要なポジションであった。子供たちは皆ダイビングに関しては未経験であり、それぞれ抱えているハンディは異なっている。特に重いハンディの子供はダイビング以外の遊びをする予定になっているが、大半の子供は潜る予定になっている。
 体験ダイビングは本人とその家族も一緒に潜る。兄弟がいれば兄弟も潜る。

「おはようございます」と家族に声をかけているあの人に会った。
「おはようございます」自分も挨拶をした。
「おはようございます」
 そう言って元スタッフに近づいてきた。あ、もうそちらの店のスタッフか。
「早かったなー。今日は頑張ろうな」
「はい、頑張ります。あの、器材なんですが、おかりしてもよろしいですか?」
「おうおう、いいよ。車にあるから、他の器材と一緒に出しておいて」
「はい」
 今日は驚きだらけだが、またしても驚いた。こいつは、このスタッフが僕の店に在籍していた事をまさか覚えていないのだろうか?忘れてしまっている?記憶がない?記憶喪失人間?様々なハテナが頭の中を駆け巡った。そして、怖くなった。人間はこうも簡単に人の心を傷つけられるものなのか。善人に見えていたが、もうそうは見えない。僕の理解を越えた人の皮を被った悪がここにいた。
 何か、僕に言う言葉はないのか?何も言えないのか?言うつもりがないのか?ただ単に記憶がないだけなのか?それとも、引き抜きは悪くなく当然だという考えなのだろうか?
 百歩譲って、悪くないとしよう。ヘッドハンティングはどこの業界にもあり、それは認められている。僕もいいと思っている。転職もそうだ。本人の意志が一番優先される。この国では職業選択の自由は保証されている。どの仕事を選ぶのも、どこで働くかも選ぶ権利がある。そこは当然否定しない。そうあるべきだと支持もする。だが、だか、だ。

 だからと言って、せっかくこれから数少ないハンディキャップダイビングの店として一緒に頑張ろうとしていたのに、そのこれからという店からスタッフを普通引き抜くのか?こう問い詰めると、きっとやめた後に連絡きたからとか言うのだろう。だがそれがもし真実であったとしても、そんな所と繋がっていたいと思う人間ってこの世に存在するのだろうか?僕はそこまでお人好しではない。
 すぐに怒りをぶつけるのは簡単だ。ただそれをすると関係ない人たちが悲しむ。ぐっと怒りを抑え、これからするダイビングに無理矢理集中した。そうでもしないと、感情が爆発しそうだった。

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