過去は再定義できる〜なぜ子育てが大切だと気づいたか〜

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この時代は戦後復興の時代で何も無い状態から物やサービスが生まれ始めた時代。

「顧客が本当に求めているものとは何か」という考えではなく「目新しいものは顧客に好まれる」、そんな傾向だったと思います。

さらに、明治維新以降に生まれた集団授業教育、そして戦中・戦後にほぼ確立された軍隊教育を受けてきた大多数の人は足並みを揃え、指示通りに勉強することが身についています。

しっかり教育されてきた人(当時の優秀な人材)たちが上司や会社から「指示」を受けて従事することが「普通」であり「当たり前」なんだと思います。個人の能力よりも、企業が求めたる通り動けば発展する。それに答えられる人材が重視されていた時代です。

そしてその教育は当時の時代背景、つまり高度経済成長真っ只中の工業化社会においては、日本全体を下支えする人材を輩出することができました。当時の教育は日本を成長させる上ではとてもマッチした教育方法だったのではないかとお思います。

その結果として日本は急速に発展していきました。


当時としてはとてもよい教育方法だったかもしれませんが、2000年以降のグローバル時代に突入した現代においては、当時の教育を受けて育ってきた人々が、弊害を生んでいると僕自身は感じています。


「本質」や「そもそも」を考えられる人が極端に少ないのではないか、ということです。


やはり戦中・戦後時代の軍隊教育から脱出できていない昔ながらの教育を受けている大人はもちろん、今の学生すらもまだまだ知識提供型の教育を受けている人が大多数でしょう。(もちろん現在様々な教育を提供する指導方法は増えてきているのも事実です。)

軍隊的な部分は排除されていったとしても、まだまだ数字だけで判断されている現状です。目に見えて判断しやすいですからね、点数で優劣を付ければ評価しやすいんです。

非認知能力である「好奇心」「疑問力」「没頭力」といった心の根底にある深層心理にはまだまだ目を向けられていないのが事実です。

要するに、「本質は何か」という疑問を持っていてもそれを見て見ぬ振りをする、もしくは目の前の与えられたことだけをすることに重点を置くため、本質そのものを考える取り組みがほぼ無いのがこれまでの風潮であり、教育でした。

更に、その「本質」の捉え方もその時代の状況や環境によって変わると個人的には思っています。今はインターネットがあるからそれを前提にした課題解決で考えますが、戦中・戦後は当然ありません。つまり、デジタルによる課題解決とアナログによる課題解決とでは発想そのものが異なるんだと思います。加えて、物が今よりも少ない時代に「目新しいものを出せば売れる」という体験をした人にとっては「そもそも本当に必要なのか」という結論も、現代の人が見出す結論とは異なると思います。その結果として、高度経済成長の時代を生きた人にとっては「本質」を考える経験が少なかったり、考えていたとしても「本質」の捉え方が現代とは違っていたりするんだと思います。


そのような人たちが、経済が急速に発展する社会を下支えし、そして実際に発展していきましたから「それが普通・当たり前」と思ってしまっても仕方がないのかもしれません。

現代人(10・20・30代くらい)の価値観と、高度経済成長時代以降にバリバリ働いてきた人々との価値観の違い。

その原因はこのの3つかもしれません。


「知識提供型教育」
「高度経済成長時の急激な社会の発展」
「時代によって異なる本質の考え方」


この3つが要因となって、50代以上の親世代の「現代に合った本質を考える力」が理解できていないのではと思っています。もちろんプライベート的なことが要因かもしれませんし他にも要因はあると思いますが、外部要因の理由としてはこんなところだと考えています。


さて、話は戻ります。

 

東京デビュー&借金&殺陣(たて)

俳優を志して僕は東京、ではなく埼玉の川口に引っ越しました。有名ではないですが芸能プロダクションにも所属し、役者としての活動を始めました。

レッスンをしながらスポット的な単発アルバイトで生計を立てていました。ほとんど誰にも言ったことはないのですが、カードローンで借金もしました。1ヶ月の収入は本当に少なかったのでアルバイトでは毎月の生活が苦しくなり、ちょくちょくお借りしてました。3社からお借りして最終的には百数十万程度になりました。当時は審査もゆるかったのでアルバイトの僕でも借りれました(今は審査基準どうなってるのかは分かりません)。借りては返済、また借りては返済、これを大体10年間繰り返していました。

結婚する前年(2015年頃)には全て完済しました、ギリギリセーフでした(妻には未だに内緒にしています笑)。とにかく毎月返済におわれていた覚えがあります。


俳優の仕事はエキストラがほとんどで「◯◯役」と呼ばれる仕事はほぼありませんでした。(エキストラは仕事?)しかし嬉しいことに東宝の関係者と知り合うことができ、静岡の大名行列には参加できました。これは本当にいい経験になりました。鎧を身にまとって道路の真ん中で殺陣をするのは気持ちいいですが、それほど鍛えていたわけでもないので汗ダクダク・足ガクガクで動き回っていました。

殺陣の練習を週2ペースで高田馬場駅から10分くらいの所にある市民体育館で毎回2時間練習してました。最初の頃は練習が終わると腕と腰がガクガクで、疲労困憊とはこのことなんですね笑。


俳優の活動は僕にとっては、どちらかというと「人とのコミュニケーションを学ぶ場」だったかもしれません。年齢も20代前半とまだ若輩者なので出会う人は基本先輩が多かったです。

色々な方々から表現方法や心構えを教えて頂いたり、繋がることでさらに次に繋がるということもこの時に始めた経験しました。朝まではしごもしましたが明け方は正直ただ眠かったです。


東京に行って3年目くらいの時、東京に来るきっかけになったオーディションで知り合った俳優志望の人から「自主映画団体を立ち上げるから一緒にやらないか?」と誘われ、参加することになしました。これが僕にとっての次の転機になります。

 

自主映画を作る

自主映画団体の立ち上げメンバーは、私含め新人俳優3人。最初の取り組みは団体のPVを創ることになりました。誘ってくれたメンバーの知り合いが映像制作の学校に行っていたのでその人に制作を依頼しました。その方はインディーズバンドも組んでいたのでPVの音楽もその人のバンド音源を使用することになりました。

公園がメインとなるシーンなので都内色々ロケハンして目ぼしいところを見つけてゲリラ的に撮影。演出で巨大な木にトイレットペーパーを大量に放り投げて、木からトイレットペーパーが風になびいている、そんな演出でした。これ、今やったら通報されるので絶対やめましょう!(多分当時でもアウトです)


PVの次は立ち上げメンバー3人がそれぞれ監督するというものです。タイトルは「無常の風」「想い砂」、そして僕が制作した「ココロノトビラ」です。

僕の作品は構想開始から完成まで、トータル1年くらいかかったと思います。台本作りから制作からロケハンから衣装から機材レンタルから演出から・・・。当時の自分は人とコミュニケーションがうまくとれなかったので、自分一人で何でもやろうとしてしまって、準備は多少無理してでも自分でやっていたと思います。人に分担したり得意な分野の人にまかせたりもしていなかったかもしれません。力の抜き方がよくわかっていませんでした。


費用に関しては、スポンサーも当然いないのでこの3人で少しづつ集めただけの費用でした。費用を考慮せず台本を書いたので僕の作品は出演者が約20~30人は出てくる内容にしてしまいました。

自主映画でそれだけの大人数にギャラを払っていてはお金がいくらあっても足りないので、出演者は僕がその時に所属していた芸能事務所の養成所にいる顔見知りが大半、そして当時mixiで知り合った方が数名です。mixiで知り合った方の繋がりで女優の川津春さん(お父様は俳優の川津祐介さん)にご出演頂くことができました。ほんの1シーンだけでしたがご快諾頂きました。

ギャラがほぼ払えないことを了承していただき、ギャランティに関してはかなり抑えることができました。

 


役に立ったと思うことをご紹介!


僕の知識が皆さんの役にたつかどうかはわかりませんが、自主制作にあたって利用した施設や機器をご紹介します。

ビデオカメラは、当時埼玉の川口にあるskipシティという映像の学校と併設している施設の「館外機材貸し出し」があってそれを頻繁に利用していました。これがめちゃくちゃ安い!

当時はカメラとピンマイク・ワイコン・三脚などセットで1日1000円ちょっとで借りられました。照明セットも1000円以下、本当に学生には良心的な値段です!僕は学生じゃありませんがちゃんと貸してくださいました。おかげで頻繁に借りに行っていました。当時川口に住んでいたということもあったのでとても重宝しました。

http://www.skipcity.jp/price/

skipシティを知った経緯は、東京に行って2年目くらいだったでしょうか、役者を志す人が登録するWEBサイトが当時ありました、今もあるかどうかはわかりませんが。

そこに登録していたら映像の専門学校生が「卒業制作を作るから出演してほしい」と連絡が来ました。その学生がskipシティと併設している「早稲田大学川口芸術学校」の生徒さん達でした。

撮影中はすごく丁寧に接して頂きました。まだ駆け出しの上手くもない芝居に付き合っていただいた学生さん達には本当に感謝しています。

また、その学生さん経由で山田洋次監督の「母べえ」にエキストラ出演もしました。skipシティ横の空き地が「母べえ」のロケ地に決定した時期だったと思うので、学生さんからお声がけ頂きました。

故・大滝秀治さんとも写真を撮らせて頂きました^ ^大切な想い出です。

まず最初は、出演者全員で打ち合わせをした「みらい館大明」という池袋にある閉校になった学校を再利用してレンタルできる施設で、一室借りて行いました。

出演者とスタッフ合わせて約30名ほどだったので、全員が入れるところとなると限られますから学校になりました。

http://www.toshima.ne.jp/~taimei/index.html

公園の撮影は抜けのいいところを探すのに手間取りました。ネットで良さそうなところをいくつかピックアップして、手当たり次第に見に行きました。埼玉に良さそうな所があったので、その公園がある地域の管理組合に申請を出して受理されてからの撮影。撮影時は立ち合い等は何もなかったので問題なく撮影は終えました。

しかしここで予想外な出来事が発生!ロケハンは夏だったので木々が青々と茂っていたのですが、撮影は年末くらいだったので木々が枯れまくり、何やら寂しい絵になってしまいました。。。ロケハン時のイメージも大事ですが、撮影の時期も計算してロケーションを選ぶことを教わりました。

秋↓

夏↓

レンタルルームは雑居ビルの一室でしたが、ここに病院のベッドを搬入して撮影。

ベッドのレンタルを行っている業者は多々ありますが、1日のみ利用する前例はあまりないらしくてレンタル業者も撮影利用は興味津々な感じでした。撮影当日に業者の営業の方が来られて名刺交換の際は快く対応していただいたので問題なく撮影は進みました。

そして撮影で使用した学校は、打ち合わせで使用した学校とは別です。どこの学校かはちょっと忘れてしまいましたが、埼玉にある廃校を利用したレンタルできるところです。ドリー撮影の準備や本読み、演出とめちゃテンパりながらやっていました。

撮影日数は確か計8日間だったと思います。

色々事情があって途中中断したりで撮影開始から撮影終了まで半年以上かかってしまいました!本当にふがいない!!映像をよく見ると季節感がめちゃくちゃです。まあドラマ仕立てでもなかったのでそれほど気にしてませんが笑。


撮影も終了したので次は編集ですが、当然編集の知識もなく編集ソフトもありません。カメラマンさんが編集ソフトを持ってらっしゃったので、撮影と一緒に編集も対応していただきました。

今思うと長期間付き合って頂き、途中で撮影が中断しても気長に対応して頂いたカメラマンさんには本当に感謝しかありません。人間が素晴らしいです。映像のことは右も左もわからない小僧に色々アドバイスやら機材とかの協力もほぼ無償で提供していただけるなんて。どんだけ素晴らしいねん!カメラマンさんには本当に何から何まで対応していただき本気(マジ)感謝しきれないです。今でもInstagramでは繋がっています。たまにいいね押します笑。


映像のテーマ曲は、PVで監督をされたNo entryにお願いして、映像にマッチしていた既成曲を使わせていただくことにしました。本編、そして予告編の2種類の制作が完了しました。

予告編は今でもyoutubeにアップしています、リンクは貼りません!恥ずかしいので笑。

作品の内容は自分の心の中の物語、葛藤や見たくないもの、自分の望まない現実が目の前に現れた時、それとどう対峙するか、といった内容です。サブタイトルとして「現実に直面する瞬間、あなたならどうしますか?」という文言を当時のHPやDVDにした時のパッケージデザインに盛り込んでいます。2007年には上映会も開催しました。

自主映画を制作している期間中、「ワクワクとか興味のあることに没頭」「頭の中のイメージをアウトプットする」という感覚を、多分それまでほぼ経験したことのない感覚です。自分の感情を使って表現する芝居の面白さはありましたが、この「映像を作る」という経験は自分の頭の中のイメージを芝居ではなく映像で具現化できる、これが芝居よりも面白く感じました。

理由は多分、「ココロノトビラ」の構成を考えてる時に、ある監督の作品を参考にしたからだと思います。その映像の面白さに惹かれたんだと思います。そして、僕は作る側へ転向することを決めました。

 

ミュージックビデオ

「ココロノトビラ」を作る上で参考にした監督はミュージックビデオを手がけている方です。丹下紘希さんという方です。Mr.Childrenや浜崎あゆみ、MONKEY MAJIKなどのMVを手がけている方です。Jam Films2というショートフィルムを集めたオムニバス作品があり、その中の「FASTNER」という作品が丹下さんの作品です。

http://www.amuse-s-e.co.jp/jamfilms2/#02

Mr.ChildrenのFASTNERという楽曲を元に映像が作られているそうです。他には「and I love you」というMr.Childrenの楽曲のMVも丹下さん監督の作品です。

丹下さん作品をとにかく何回も見て見て見まくった結果、ドラマとか映画ではなくミュージックビデオの面白さにはまってしまいました。ドラマもあり、インパクト重視もあり、不可思議な世界を音楽に合わせて多様に変化させ、どんな世界でも作ることができる。イラストだけでもいいですし、アニメーションやダンスを取り入れてもいいです。

表現方法はなんでもOK、音楽と合わせることで、一瞬で心を引きつけられるかどうか。音楽を視覚化したり、新たな付加価値を加える。それがMVの面白さなんだと思いました。役者から足を洗い、制作に転向してからはネット上の掲示板やMixiに「ミュージックビデオ制作します!」みたいな告知を書き込みまくりました。


映像に転向してどれくらい経ったかははっきり覚えていませんが、ある時インディーズバンドから制作の依頼がきました。自分一人で制作した映像はありましたが、依頼を受けて制作するのは初めてです。ワクワクとドキドキが入り混じって若干興奮気味の時もありました。依頼を受けて作るのが初めてということと、とにかく経験を積みたかったのでギャラは機材とレンタルルームの使用料のみで手間賃は貰いませんでした。

僕からは2案提出しました。


1案目はドラマ仕立てのストーリーだったかな?ちょっと忘れてしまいました。2案目は東京事変さんの「修羅場」からヒントを得たギミックを混ぜた内容です。

2案目が採用された。個人的にも2案目に力を入れていたので嬉しかったことを覚えています。早速準備に取り掛かって、たしか2・3週間かけて準備をしたと思います。

ビデオカメラは自主映画時代に活躍したskipシティの機材をレンタル。撮影場所は吉祥寺にあるレンタルスペースと、色々準備はありましたがお大きな問題もなく撮影日を迎えました。

 

責任の重さを自覚する瞬間

様々な調整や準備の総まとめが撮影です。しかし、些細なことでも準備が詰めきれていないと現場ではトラブルになる可能性があります。それを実際に起こしかけてしまいました、信用を失う可能性があった出来事です。今でもはっきりと覚えています。


結論から言うと、撮影で使用するレンタルスペースの玄関の鍵を紛失しました。


あってはならないことですがやってしまいました。しかも撮影当日の朝に鍵がないことに気がつきました、超大失態です。前日には絶対に確認しなければならないことをすっかり忘れていて、当日の朝に気がつきました。家中を引っ掻き回しても見つからず、グルグルと頭の中で考えましたが結局見つかりませんでした。

スタッフが1人いましたが、彼は現場だけのスタッフだったので鍵を持っているわけでもありません。他に鍵と接触するような関係者は誰もいません。


家の中にいてもどうしようもないのでまずは現場に行って対応を考えようと取り敢えず家を出ました。カメラや機材を持って現場に向かう途中の電車の中、ドキドキを通り越して心臓の音しか耳にはいらない状態になるほど周りの音が聞こえなくなりました。この時ばかりは冷や汗を通り越して意識が朦朧としました。視界がぼんやりしてふわふわするような感じでした。


このトラブルが自分にとっては重要な経験になりました。台本作成・準備・調整、多くの出演者が絡み、それらを僕が中心になって動いていました。その集大成である本番で起きるトラブルは自分にとってそれら全てが崩れる可能性があると同時に信用も失う可能性もあります。「なんとなく」でも「他人事」でもなく、この時に生まれて初めて「自分事」として目の前にある出来事にに向き合えたのかもしれません。だからこそこのトラブルが本気のピンチと思えるほど辛いと感じたのかもしれません。


現場に着いて早々に、レンタルスペースの関係者と連絡が取れ、近くの美容室にスペアキーがあると聞いたのでダッシュで取りに行って鍵をゲット!マジで超ひと安心!本気で胸をなでおろしました。

で、肝心の無くした鍵はと言うと、薄々感づいていたんですが、レンタルスペースを開けて中に入るとやっぱり鍵が落ちていました。前日に現場を下見に来て、帰り際に確かビルの関係者がいたので自分で鍵を閉めなかったのです。鍵を閉めていたら確実にわかると思うのですが、その時は開けっ放しで出てきたので鍵を持っていることを確認しなかったんです。


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