あなたを憎みながら私はあなたと一生暮らしていく

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実家に帰った私は母と話しをした。母は激怒した。結婚とかせんといて!と…息子は一回しかない人生やから、後悔はしてほしくないと。子供としては、また苦労して失敗するんやから、やめてほしいかなぁ。と言った。私は店長といるようになって気づけば3年が過ぎていた。いる事が当たり前になっていた。どこか倦怠期の夫婦のような付かず離れずの距離だけど、普通に過ごしてたんだなぁ。とふと思った。親には言えてないがDVの恐怖はいまだにあるし、浮気をされるかもしれない。でも、私は初めて会った時から不思議な縁を感じたし、タイプではなかったのに、惹かれてたのも事実。だったら、今のままでいいんなら私は結婚しようと思った。世の中の新婚さんのようにイチャイチャしたり、お風呂や布団も同じとかは無理だ!でも、居ないと寂しいという事に気づいた。次の日、母にやっぱりもうちょい考えるけど、私結婚するかもよと言い残してアパートへ帰った。
店長と二人で話し合おうと思ったから。
私は突然予告なく帰ってきた。なのに店長はアパートに居た。なんで帰らなかったん?実家に。と聞くと2人の家だからアパートの方が落ちつくと言った。1人で過ごしてたら小さなアパートの部屋でもなんか寂しいな。と言った。2人で居たら息がつまりそうな時もあるけどと。同じだった。店長に私はあのね、憎しみをチャラにして恋愛出来たら楽なんよ。だけどお金、二股、たくさんの嘘、裏切り、暴力と重なり過ぎると憎い気持ちがなくなるのには、相当な時間がかかると思うねん。だけどね、なんか憎みきれない私もいてね。腹たつけど多分好きなんだと思う。離れて過ごすと寂しかったんよ。
変なやつやろ?アホな女やとつくづく思うわ…と言ったら店長が抱きしめてきてありがとうと言った。泣いてた…私はPTSDに暴力からなっていたので強く抱きしめられた時に馬乗りになった所を思い出して過呼吸の発作を起こしてしまった。私はずーっとトラウマや大怪我の痛みと戦い続けていた。
第22章  開業と結婚
私は結婚することを決めた。この3年間でお互いに必要な相手と思えたから。
放射線治療から4年弱経っていた。相手が長男だとゆう事もあり、跡取りとかあとあといわれるのが嫌で産婦人科に行って子供ができる体なのか調べてもらった。先生に言われたのは、生殖機能があるからできないわけではないけど自然妊娠は難しいだろう。妊娠して無事に育つ可能性もないわけではないけど難しいだろうと…そのことは店長にもご両親にも伝えた。それでも私でいいのかと…それでもいいと言われた。孫がいないのは寂しいけど娘の孫もいるからと。
子煩悩な人だから、そこだけは胸が痛んだ。
店長に、子どもが居なくても仲良くやっていきたいし、代わりって訳ではないけど犬でも飼う?と聞かれダックスとプードルのMIXを飼った。犬を通して会話も増えた。お店の改装も始まりいよいよメニューやさまざまな事を決めなければいけなかった。私は父の介護やお金が必要だったからギリギリまで保険会社で働いた。ちゃんと成績も入れた。1月末退職した。開店は2月24日に決まり案内状の作成やら名刺など色々やらなければならない事があった。結婚式はしないと決め入籍も開店の日にすることになった。入籍はお店が開店して落ち着いてしたかったけど、姑の強引な決め方で決まった。結婚する前から姑感を半端なく出してくる感じはすごく嫌だった。でも、仕方なくその日にバタバタしながら入籍と開店をした。私のPTSDは変わりなく手をつなぐ事すら出来なかった。1つだけ変わった事は、1つの部屋で2人で寝るようになった。布団は別だけど少し距離が縮まった気がした。
第23章   まさかの展開
お店が開店して地元から約1時間かけてお店まで通っていたが、買い出しから仕込み、営業して片付けをしてまた1時間かけて帰る。睡眠時間や、ガソリン代などを考えると家を引っ越そうって事になった。物件探しやお店の事ですごく疲れていた私。お酒を飲んで珍しく酔った私は歩けないくらいに酔った。無性に寂しかったんだと思う。その頃籍を入れて良かったのか?と悩んでいた。お店の事をしながら実家に帰る、父の介護の手伝い、息子の様子も気になるから以前より半同棲みたいな生活になっていた。それは、今も続いてるけど、その当時は真剣に悩んでた。母の生活費や父の介護費の為に私は結婚したのか?と思うことさえあった。泣き言言ったり甘えたりしたかったんだと思う。あと、1人の女として人肌が恋しかったんだと思う。なぜかその日はPTSDは出なかった。私は酔った勢いで店長の布団に入った。その日一度だけ関係を持ってしまった。
一応夫婦だから別におかしい事ではないけど、目覚めてからバツの悪い私。妙に機嫌のいい旦那さん…きっと相手は雪解けだ〜みたいに思っていたんだと思う。でも、そんなに簡単ではなく、以後今日まで体の関係はない。
なのに…2ヶ月後来るものが来なくなる。大好きなお酒を受け付けなくなった。今度は、ちゃんと相談した。妊娠検査薬を買って試した。陽性…
次の日産婦人科へ。やっぱり妊娠していた。診察をしてくれた先生は2%くらいしかないような確率じゃないか?と驚いた。ただ、10か月持てるかは分からない…と私の体と子供の生命力、両方が頑張ってくれないと厳しいと…放射線技師の先生がスゴ腕だったんだろう…とおっしゃっていた。多分この妊娠は神業だと…、
まさかの店を開店して3ヶ月で妊娠してしまう。
店長は喜び、姑は泣いて喜んだ。私は障害のある子かもしれないよ。と店長に言った。店長はどんな子供でも生まれてくる権利はあるし、神様が俺たちに授けてくれたんやから、どんな事でも受け入れるから産んでくれと言われた。
私の壮絶な10ヶ月が始まる。
第24章  バレてはいけない
妊娠は家族以外の人にはバレてはいけない秘密になった。とゆうのも、別れた旦那さんと同じ街で開業した為に根も葉もない悪い噂をたてられていた。元旦那の店はその時つぶれる寸前の状態でねたみがあったのかもしれないが、私のことよりオーナーである店長を悪く言っていた。まぁ、悪い人なんだが、別れた旦那が言う立場でもない。あんたも最低だと私は思っていたから…
そんな人の噂でやり始めたばかりのお店を潰すわけにはいかないし、離婚をしてる事を知らない人が多かったのもあって、結婚した事すら秘密だった。というか今も伏せている。
妊娠してもゆっくり休む余裕などなかった。朝からずーっと準備をしてお客さんの相手をして時にはお酒もいつものようにいただいた。
妊娠初期から出血したり、腎臓の数値が上がりすぎてむくんだりした。お腹の子供の生命力だけを信じて無理をし続けた。お腹が出始めた頃腎臓が原因でパンパンにむくんだ。お客さんは腎臓が悪くて太って見えてると思って誰も何も指摘しなかった。この時点でわかってる人はわかっててもいいと思えるようになった。お腹の子供には毎日ごめんね…元気で産まれてきてね。といい続けた。高齢での妊娠。病気をしてからの妊娠は想像を絶するしんどさだった。でも、嬉しそうに名前を考える店長をみているとこれでいいんだと思えた。検診には毎回ついてきてくれて、一緒にエコーを見たりした。やっぱり心は優しい人なんだな…神様が私たちを家族という形でいさせ続けるために、宿してくれた命なんだと噛みしめた。
第25章    入院
妊娠8ヶ月を過ぎた頃から、私の体はおかしくなっていく。ずーっと微熱がある。ずーっとお腹がはる。出血が出る。定期検診に行くと先生から即入院を言われる。やっぱりか…約1カ月の入院予定となる。動きすぎで子宮が開き始めていた。
毎日、お見舞いには来てくれるが、ほとんど会話はしないで義務的に帰って行く。別に来なくていいのに。と思っていた。動きまくって生活していた私からすると、時が止まったように感じ心のバランスが崩れ始める。このまま親になっていいのか?息子のことはちゃんとやれてるのか?不安だけしかなかった。最悪のマタニティーブルー…
結局、出産まで入退院を繰り返した。退院と行っても2、3日でまた病院へ戻る…大部屋は精神的につらいと2人部屋に変えてもらう。産後の人は入れないからと言われてしばらくは1人部屋だから。と言われ1人で泣く…まだ見ぬお腹の子供の事が不安で仕方なかった…五体満足にと願うしかなかった。
病院で寝ていても子宮口は開いていた。そろそろ臨月なのに、微弱な陣痛しか来ない。いつ産まれてきてもおかしくないのに…と先生。予定日は、1月10日だった。12月の頭からいつ産まれてきてものセリフを聞いていた。私は病院で1人誕生日を過ごした。また、1つ年をとったよ…と思いながら。もうすぐクリスマスだし、遠出はダメだけど旦那さんとデートでもしてきたら?と先生が言って一時帰宅が許された。クリスマスイブだった。
うちに帰ったら、家がひどく散らかってた。何故か、無性にイライラした。いつ産まれて帰って来てもいいように散らかさないでと言ってるのに‼︎アホなんか?と。一時帰宅で帰って来てるのに、何にも手伝わへん‼︎やっぱり、アホやな…1人でぶつぶつ言いながら歩いて15分のスーパーに買い物に行った。店長は店に出勤してた。クリスマスケーキも買った。久しぶりに自分の料理を食べた。でも、クタクタでコタツで寝てしまう。帰ってきた店長に起こされる。大丈夫か?とその言葉に帰ってきてからイライラしかない事ぶつけた。でも相手もずいぶん私という人を分かっているから、とりあえず謝りたおしていた。
次の日私はお腹が痛くて目が覚めた。久しぶりにぐっすり眠れたのに、また病院へ…
2、3日のはずだった一時帰宅が1日で終わった…
第26章  出産
クリスマスの日に病院へ戻る。朝から数人退院していったらしい。病院は、閑散としていた。看護師さんに陣痛を見る機械をつけてもらい見てもらう。陣痛は来てるのに…大きな波が来ない…でも、こっちはずーっと鈍痛もきつい…店長も気が気じゃないようだった。
とりあえず今日は無さそうだから、仕事してと言って帰ってもらう。向こうの親にうちの母親なんかが取っ替え引っ換えくる。なんか、お腹の子供も疲れたのか、陣痛が弱くなる。
私は不安だった。ここまで頑張ったんだから生きて産まれてきてね…と。祈った。
次の日も次の日も微弱陣痛だった。でも、27日の夕方、先生はご主人を呼んでくださいと言ってきた。いよいよだと思った。店長が来て病室でお話しを聞いた。赤ちゃんが大きく育ってしまってる事、このまま待ち続けるのは2人ともに良くないこと、明日の朝促進剤を通常よりもかなり少ない量で始めて効かなかったら少しずつ量を増やしていくという事などを聞いた。店長は明日の朝9時から促進剤を始めると聞いたので9時にくると言って同意書にサインをして帰って行った。いよいよなんだ…40歳でまた母になる私。何度経験しても慣れる事のない神秘的な時間を忘れないように…と思いながら寝た。
朝6時すぎに検温。トイレに起きた。あれ?なんかお腹がいつもと違う…当直の看護師さんに伝えると陣痛を計測することになった。
早朝、1人産気づいたと入院してきていた。今日は帝王切開の人もいるから3人出産予定だと看護師さんが教えてくれた。朝の人が午前中で帝王切開の人が昼過ぎで、私の出産は夕方くらいになるんじゃないかと。でも、過去の出産は本陣痛が来たら割と早く出てきてたから、夕方までに出てきちゃいそうと言うと看護師さんにそれはマズイなぁ。産む場所がないから。なんて話をしながらモニターを見ていた。まさか現実になるなんて思ってなかった。
そして9時になった。この病院では、回診の時間。先生に昨日よりはるかに痛むし、感覚が短いと伝える。先生は、本陣痛の感覚なのに、まだ本陣痛に足りないと。このままだと赤ちゃんが疲れてしまうしお母さんもしんどいから予定通り促進剤をしようと言われて促進剤が始まる。店長も少し遅れて到着した。
9時半痛みに耐えれなくなりナースコールを押す。助産師さんに見てもらうと助産師さん慌てて言った。赤ちゃんが見えてきてるよ!と…もう子宮口全開だと…モニター見ても良く頑張ったね。と言って先生に連絡に行った。助産師さんが帰ってきて私についてくれていた。今ね、分娩室が使われてるから、入れないの。もう少ししたら1度先生に診てもらわないとダメだから、分娩室の横に小さな処置室って部屋があるからそこに行ってもらいたいんだけど歩ける?と聞かれた。もう、この頃私は痛みでグラグラだった。主人に手を貸してもらって行きますと伝えると準備が出来たら呼びに来るからと出て行った。数分後来てくれて助産師さんが内診。もうダメだ。歩かせない…と言ってストレッチャーに乗せられ処置室の前まで来た。すると店長に、ご主人抱えるのを手伝ってもらえますか?と言った。私は店長と看護師さん3人がかりで抱えられ処置室へ入った。三畳くらいの広さに感じた。診察台がカツカツに入ってる感じなのと、古さを感じた。先生が見にきてくれた。内診をして、めちゃくちゃ早い出産になるなぁ…と言って人口破水をした。すると助産師さんが先生に、羊水に便が出てますと…言った。すると先生が、赤ちゃんが疲れて苦しくなってウンチしてるからもう今から取り出すからねと言った。でも何度息んでも出てこない…頭は見えてるのに…すると先生が回旋以上でうまくまわれないから吸引の用意して!と言った。私にペットボトルのふたみたいに赤ちゃんはクルクルゆっくり回りながら出てくるんだけど、最初に少しいびつに入ってしまったみたいで詰まったみたいになってるから、赤ちゃんもこれ以上お腹に置いておくと危ないから今から吸引で引っ張って出すからと言った。私はここまできて子供になんかあったらと思って先生に助けてくださいと言った。吸引の機械がせまい部屋に入った。店長は外で待たされていた。ブーンと大っきめの音が部屋に響いていた。
吸引が私の中に入った痛い!陣痛どころの痛みではなかった…骨盤が砕けてると思うくらいの痛みだった。部屋の扉の外で待たされていた店長は、胸が痛くなるような悲痛な声で痛いと言っていた私の息が絶え絶えになるのを感じたそうだ…2人の命を助けてほしいと心から願ったと後で聞いた。10時20分産まれた。3600gもある男の子。私は取り上げてもらったあと意識を失った。ホッとしたんだと思う…店長はその頃産まれたての赤ちゃんを抱かせてもらったり私への手紙を書かされたりしていたらしい。お昼頃目が覚めた私。激痛で起き上がれない…骨盤粉々なんや…とか思った。なんとか起こしてもらってベットに座っていると店長が入って来て、赤ちゃん見に行く?と言った。手を借りて乳児室まで歩いた。ガラス越しに見た赤ちゃん、すごく愛おしく思った。3回目の出産が1番ツライお産だったからかもしれないが、だからこそ命の重さや尊さを感じれたのかもしれない。
第27章   コウノトリが運んできた子
出産が余りにハードで動けなかった私は次の日から授乳をさせてもらうことにした。でも、朝まで待てず夜中の授乳の時間に他のママさん達に混じって会いに行った。子どもをぐるぐる観察していると首の後ろに赤いアザがあった。吸引のせいかと気になり看護師さんに聞いた。するとそのあざはね、海外ではコウノトリが落とさないようにくわえて運んでくる時に付いたアザとか言われるんだよ。おっきくなってくると薄くなって消える人もいるし、髪の毛で見えなくなる人もいる。余り気にしなくても大丈夫だからと笑顔で言った。赤ちゃんは黄疸がキツくガラスケースの中にいた。ちっちゃい手に点滴を入れられて…涙が止まらなかった。産まれて来て良かったと思えるようにママが頑張るからね。と小さな手を握って言うと力強く握ってくれた。この子の為に残りの人生を精一杯生きようと思った。神様がコウノトリに私のところへ運んでと頼んでくれたんだと私は今でも信じている。黄疸は、退院までにおさまってくると言っていたのに、一向におさまらなかった。先生には、血液検査で数値が高かったら、大きな病院への転院もあるとの説明を受けた。ギリギリセーフの数値だったらしく、私と一緒に退院することができた。退院したら慌ただしい毎日が始まる。それも楽しいと思えるはずだった…
第28章    産後クライシス⁈
無事に子供も産まれ、平和に家族としてやっていけると思っていた。いいパパとママで…
結論から言うと、無理だった。産む前より嫌いになった。色々な魔法が時間差で溶けていくようなそんな感じ…顔面が崩れているのでは?と思うほどの激痛に、天気の悪い日は、頭痛と吐き気。地獄の後遺症…育児どころではない私を横目に大丈夫?と聞きながら家事一切を手伝ってはくれない。その上、子供が小さくてまだ出掛けたりできないからと1人でパチンコに行ったり徹マンをしたりしていた店長に私は嫌気がさしたのだ。なんでこんな人を放っておけなかったのか…自分がただただ情けなく思った。そして、一緒に暮らせないと告げた。あなたは、許されたと思ってる?償いは終わったと思ってる?私は簡単に許せるような寛大な人ではないの。考えたらわかるでしょ?
子供の父親である以上、ある程度は妥協もする。だけど、私の心は自分が思う以上に閉ざしてる…それだけ傷ついたんだと。
洗濯物も一緒に洗えなくなった。同じテーブルでご飯を食べると気分が悪くなった。週に3日だけ一緒に暮らすというのがこの頃完全に定着していた。この距離感を保つことで、夫婦で切り盛りする店も成り立つ。たまに、イレギュラーな事もあって2週間くらい1つ屋根の下で過ごすとケンカになったり、私の体調が悪くなる…
私は嫁としての家事を家政婦のようにこなす。ご飯を作り、お弁当を作り、洗濯や掃除、文句を言われないようにただ黙々と…子供には色々な事を気付かれないように、ばぁばのお家でお仕事終わるの待っててくれてる時はそのまま寝んねしよね。みたいに教えてる。
第29章    生後5カ月、突然の闘病生活
子供が5か月になってすぐのゴールデンウィーク。出産した病院を退院してから初めて熱を出した。それも高熱。旦那さんの実家で長男の嫁を義務的にこなしていたがチビ君の発熱で私は自宅に帰りたいと言った。休日診療の小児科にかかりたかったから…時間は既に4時過ぎ。小児科に電話をかけてきくと、まだ沢山の方がお待ちになっているので大丈夫ですよ。と言われ急いで病院へ向かった。1時間半くらいかかってやっと病院に着いた。まだ沢山の人が待合室に溢れていた。診察をしてもらう頃夕方6時をまわっていた。診断は風邪じゃないか?ということだった。薬と座薬を処方されて様子を見る。2日たっても全く変わらない。熱も解熱剤の効果が終わると高熱に戻ってしまう…
明日はやっと連休明けでかかりつけのお医者さんに行ける。朝から番号取りをした。インターネットで順番取りをするんだけど、開始30分でやっと繋がり取れた。42番目。はぁ…お昼頃の診察だな。と思った。やっと呼ばれたのがお昼2時。診察室へ…先生に症状を伝えた。1時間くらい病院であれこれ調べてもらう。夕方4時前もう、午前の診察の人は終わっていた。そろそろ午後の診察の順番取りをした人達が来ていた。先生は休みなく働いていた。丁寧な診察と確かな診断ですごく人気の小児科医。若くはないけど経験値がすごい感じで私は絶大な信頼を置いていた。今も信頼は変わらない。
診察室に呼ばれた。色々検査をした。また、待合室に戻された。しばらくして診察室に呼ばれた。開口1番に、お母さん今から市民病院へ行ける?だった。言ってる意味が分からなかった。風邪じゃないんですか?と聞いた。すると先生がここの病院でできる範囲の検査をしたんだけど気になることがあるんです。もう熱の出初めからずいぶんたってるし、生後5か月という事を考えるとあまり時間がないんよ。と…    先生の気になることがあたったら最悪は命に関わるかも?って事ですか?と聞いた。先生はこじれてると良くないと言った。あくまで可能性だから…と。で、すぐ旦那さんに電話をした。大っきい病院に今から行くこと。先生の気になることを解決するために行ってくると伝えた。先生に紹介状を書いてもらいそれを持って市民病院へ行った。そこでも長い検査をしてチビ君は点滴に繋がれてグラグラで見ていられなかった。泣いて泣いて泣き叫んで疲れ果てていたのだ。痛い事をする時は必ず外で待たされる。叫び声を涙しながら聞いた。診察室にようやく呼ばれて入るとベットには泣き疲れて寝てるチビがいた。先生が今日から入院になりますと言った。どこが悪いんですか?と聞くと、膀胱尿管逆流症と言った。先生の話では生まれつきの先天性の病気で、尿が尿管を伝って逆流して、腎臓に細菌が入り体に悪さをする病気なんだそう。チビ君の場合、熱が出て長くたってるため体に細菌が悪さをし始めているため、熱が下がらないのと、敗血症になりかけてるので抗生物質を投与しながら症状が落ち着いてきたら膀胱尿管の再検査をしますと言った。入院の用意とかしてないんです。と言うと子供さんは帰せません。家族の方に代わってもらって自宅に取りに帰ってくださいと言われた。
旦那さんに電話する。あかんわ…入院になった…と。生まれつきの病気だったと…姑に電話する、入院になったので入院の準備をしに帰りたいので病院で少しの間ついててもらえませんか?と。姑はすぐ用意して行く。と言ってくれた。40分くらいで来てくれた。義理のお父さんも一緒だった。私が疲れているんじゃないかと運転手をしにきたと言って連れて帰ってくれた。帰って子供の服やオムツなど必要な物をつめながら泣いた…痛い思いばかりさせて…ごめんね。と。思えば産まれてすぐの黄疸も熱が下がらなかったのもこの病気が原因なんじゃないかと思った。
離れてるうちに何かあってもと思いすぐに家を出た。病院に向かってる時に旦那さんから電話が入る、店を今から閉めてそっちに向かうと。病室に入れる人数も決まっているのでお父さんとお母さんには帰ってもらうように言ってね。とメールで送った。親子なんだから勝手にそっちでやり取りしてくれと思った。
子煩悩な所だけは認めてる私。旦那さんはグッタリしている姿に泣いていた。可哀想だと…
泊まるのは私しか出来ないからと夜中に帰ってもらった。ベッドに添い寝して過ごした。少しずつ元気になって2週間ほどで退院はできた。入院中に細かな検査をしてもらった。尿管逆流症は5段階にわけるそうなんだけど、レベルは4.5くらいと言われた。限りなく5に近いと…5は手術を必要とする子達のレベルだった。ひどい方だった。
この日から1年間投薬、3カ月に1度検査が始まった。
第30章  2年後
子供の治療が始まってから今年で2年が過ぎた。あの入院以来持病からの熱は出ていない。半年から一年の間に尿管の検査をするんだけど、それも逆流がおさまっていると奇跡的な事を言われ、先生方も半信半疑で経過観察しているようだった。
そして令和元年9月、手術する事なく完治したという事で病院は終わりました。
この間の2年色々ありすぎて何から書けばいいのか…悩んでしまいますが、相変わらずセックスレスで、仮面夫婦という感じです。嫌いじゃないけど愛してないみたいな…愛してるけど、嫌い…ってな感じでお互いが過ごしております。
憎しみは一生消えないと思う、私の後遺症も一生だと思う。許したい、許せないのはざまなのかもしれない。夫婦としてより家族として過ごしている訳だから子供中心の子供ありきの家族の形です。でも、この人とは別れないんだろうなとなんとなく思う。運命的な出会いをして今を夫婦として生きてる価値感も相性も良くない2人がなぜか一緒にいる。この不思議に答えが出たら別れが来るんだろうな…
子供を二人で育て上げたいと思う目標があるのと、私自身は憎しみだけど、彼は私の息子の事を愛してくれている。息子が4年の専門学校に行けたのも彼が居たから…優しい人だから、息子もなついてる。だから、私は一緒にいるんだと思う。
憎しみながらあなたと生きていく私だけど、あなたにたくさんの感謝もしている。ありがとう、パパ。いつか憎しみを忘れて愛してると言える時が来たらいいのに…





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