気がついたら旅をして、ジュエリーを作っていた話:家庭環境編

私は今現在ジュエリーデザイナーとして活動している。

通常のジュエリーデザイナーだと、デザインをしてあとは外注で作ってもらうこともあったり、制作はするけれども石の仕入れは日本国内だけで。という人が大半だと思う。
でも私の場合は、旅をして旅先で出会った唯一無二の形をオリジナルのジュエリーにしている。
明確にこれがしたい!!!!と小さい頃からの渇望があったわけでは実はなく、いろんな紆余曲折と人との出会いがあって人生が作られていった。
今でも思う。なんでこうなったんだろう。でも、今の人生を生きていて本当に良かった!と心から思えている。
どうしてそうした人生になったのか。これはそんなお話。
まずは私の育った家庭環境から書いていこうと思う。

「ちょっと変わってた」

私の家庭環境はちょっと変わっていたかもしれない。
家には本屋ができるんじゃないかというくらいの本があって、壁を見たことがほぼない。壁という壁が父が読む本で埋め尽くされてた。
そして木工室が(というか父が建てたログハウス調の小屋)あった。私の父はクラシックギター制作家であり、塾(学習塾)を経営していた。
そんな環境で育ったものだから、通常の家庭では本が壁であり木工小屋が必ずあるものだと信じて疑っていなかった。それが違うと気がついたのは小学生になり友達の家に遊びに行った時。「なんで木工室がないの??」と友達に行ったら「あんたの家くらいだよ木工小屋があるの」と言われてしまった。その時に私の家はちょっと他の家とは違うんだなと気がついた。

「なんでも作る家だった」

家の中は確かに本でもあふれていたけれど、手作りの家具でもあふれていた。実家では家具は「作るもの」という認識が当たり前だった。実際、阪神大震災で家が半壊で壊れ台所などが無くなった時、父たちは台所を自分たちで作ってしまったし、(朧げながらその記憶は一応残ってはいる。)小学生の頃から住んでいた家から引っ越しした先でも内装や家具などは自分たちでほぼ作り上げてしまった。学校が終われば即帰宅してインパクトドライバーを抱えていた。そんな中学1年生だった記憶がある。
そんな環境だったせいか、欲しいもの=作れるものなら作る。と言った考えが念頭に浮かぶようになった。「どうしたら、それが買えるようになるか。」ではなく「どうしたら作れるように工夫ができるのか。」だった。

「教えてもらうより、調べろ」

先述に本で溢れた家と書いていたけれど、本当に本で溢れていて我が家では地震が起きたら本で潰されるだろうな、が一致した意見だった。よく家の底が抜けないもんだと思う。
本はほとんが父のものでその種類は多岐に渡る、政治経済、法律、英語、木工、エッセイ、漫画。。。
お父さん、これやってみたい。知りたい。というと本を渡される。「教えてもらったことは頭に残りにくいけど、自分で調べたことはちゃんと頭に残る。まずは自分で調べ。」その甲斐あってか本で学ぶ。というスイッチが入ることが幼少期から学生時代は多かった。
知るために欲しい!と強請った本は買ってくれなかったことはない。知ることへの探究心に関しては惜しみなく、その術を提供してくれた。本が好きな父について行って家族でのお出かけは本屋に入り浸るか、またまたホームセンターに入り浸って工具を見つめるか、木を見つめるかが多かった気がする。すっかり紀伊国屋や旭屋書店、そしてコーナンとは友達である。

「植物に囲まれた生活」

母が土をいじるのがとても好きな人で(今の家もプランターだらけでほぼジャングルじゃないかと思う。帰省するたびに私の部屋のベランダは植物園と化していっている。)小学生までの間住んでいた家は山を切り開いて作られた地帯の広い庭のある家に住んでいたので、一緒に花を植えたりすることもあった。桜の木も3本ほどあって、誕生日のあたりになるとちょうど満開になるのが大好きな思い出の一つだ。夏は家庭菜園のトマトを朝起きたら収穫して、もいで食べるのが日課だった。
特に思い出深いのは、小学生のころ秋の季節になり帰宅すると泥だらけで生き生きとした顔をしている母が中腰になって無我夢中で穴を掘っていた場面だ。「・・・何してるん?」と聞いたら「自然薯掘ってんねん!一緒に掘ろう!」と少女のような顔で言われた。言うまでもなく私もランドセルを放り出して一緒なって泥だらけになって庭に生えていた自然薯を何日もかけて一生懸命掘り、結構な長さの自然薯を掘り当てた思い出が母との思い出の中でもベスト3には入っている。
私の身近な所には母が大好きな花や草木であふれていた為、緑のない生活。という経験をしたことがない。これが私の今の作風にも多いに影響しているのは間違いないと思う。

「欲しいなら、作りなさい」

小さい頃からキラキラしたものには目がなかったらしい。母が持っていたチェコガラスのキラキラしたブローチをみてはうっとりしていた。欲しい!こんなの欲しい!と行ったらビーズ屋さんに連れて行かれた。欲しいなら、作ってごらん。との事だったようだ。もっぱら連れてってくれたのは大阪のサンセイで(今でもたまに覗きにいく)ビーズがびっしりと並んでいるところに何時間でも居れる。。と思いながらワクワクした気持ちだったのは今でも覚えている。
初めは簡単なテグスを通して留めるだけのものが大半で、あとはちょっと編んでみるだけ。そんな単純なものばかりだったけれど自分の「作る」という欲求を満たすのには十分なものだった。

「着けれないなら贈ればいい」

けれど作ってばかりでも自分で身につけるには限界がある。なにせ自分は首がひとつ、手が2つしかない。MAXでも3つしか付けれなかった(イヤリングは痛くてつけていなかった。)でも作りたい欲求は止まらない。そんな時に思いついたのが友達へのプレゼントだった。ほぼ、大学生になるまでの間、ほぼ友達へのプレゼントは手作りのアクセサリーだったし、学生時代大好きな人へのプレゼントもほぼ買ったことがなかった。好みをリサーチしてはそれを作ってみて贈って反応を見るのが何よりも大好きだった。「贈る」ということが自分の欲求を何よりも心地よく満たしていったのかもしれない。今でも仲いい友人には誕生日プレゼントはオリジナルのものを贈るときもある。

熱しやすく冷めやすかった

作ることには興味がある私だったけれどずーっと作り続けるわけでもく、波がすごくあった。明確に作りたいものがあると作るまではやならないと気が済まないし、できたら満足してしばらくどうでもよくなる性格でもあったから親はさぞかし難儀だったと思う。
こんなのあるといいな!が見つかるとワクワクが倍増、日が経つに連れてどんどん倍増して手がつけれなくなる。アドレナリンのようなドキドキした感情があふれる。困ったことにそうした幼少期からの難儀な癖は今だに残っていて、大人になった今でも勃発する。いいの思いついた!という好奇心が溢れるともうそれを作り上げるまで止まらない。でも作り上げて満足したらしばらく放っておく。
この性格が災いしてか今までのジュエリーの製作の流れでもいろんなジャンルでいっぱいだし、気になったことはチャレンジをとりあえずしてみることが多かった。
けれど一貫して変わらなかったのは作りたいものが「ジュエリー」というのだけは変わりがなかった。それだけは唯一軌道が変わることはなくずっとジュエリーに関心があった。

「一人の時間が多かった」

私は一人っこで他に兄弟がいなかったため、遊ぶと言ってもこれと言ってなかった。親がゲームに勤しむタイプでもなかったのでゲームは皆目詳しくないし、教育方針でTVは興味内容に育ったおかげでドラマにハマった記憶がない。(直近でハマったは逃げ恥くらいだ)漫画は流行りものがよくわかっていなかったし、友達も小学校時代はなんというかいじめにあったりしてそれほど友達が多いわけでもなかった。友達と遊ぶ時も公園で基地を作ったり、川の掃除をしたり(石を退けて泥を退けて川の流れをよくする遊び。今ではなぜあんなに楽しいと思っていたのか理解できない。)木ノ実を摘んだり、追いかけっこしたりくらいだと思う。
家も帰ってきた夕方からは父が経営する塾は始まるため、母も父も教室におり、家の中ではその時間からは一人きり。自分自身で何かできるもの。それが私にとってはアクセサリー作りだったのだと思う。

「やってみればいい」と言ってくれる家庭環境

今から考えてみればこの「欲しいなら作ってみればいい」という好奇心の探求とそれを実行させてくれる家庭環境が何よりも今の私を育んだと思う。やってみたいをさせてくれることのありがたさはいうまでもなく、そうした家庭に育ったことには感謝の念が絶えない。
次回のお話もお楽しみに!

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