あの高揚感をもういちど

 年末の特別感がたまらなく好きだった。「だった」と過去形にしたものの、今でも好きは好きなのだ。ただなんというか自分自身が年をとったせいか、どうにも今の年末には少し前までのようなカタルシスを感じられなくなってしまった。「だ」ではなく「だった」なのはそうした理由による。

 この不思議な違和感(「白い白馬」的な表現にはなるが、ただの違和感ではなく不思議な違和感としか言いようがないのでそのままで)の正体を突き詰めてみたい。

 とりあえず、かつて私が年末に感じていた特別感の正体を露にしてみよう。これは一言で言えば大団円とリスタートの感覚だった。それも一億人が一斉にそこに向かうような。

12月が師走と表現される機会が少なくなって久しい。師走という言葉の語源については諸説あるが、巷間よく言われたのは「(本来は落ち着いているような)師、先生ですら走り回らねばならぬほど忙しい」というもの。そしてその忙しさの理由の第一位が金策。その昔、年末は年度末とイコール、したげって年末には借金の精算をしなくてはならなかった。年末を舞台にした落語や講談には借金取りやそれに追われる庶民が描かれているものが多々ある。借金取りに追われる庶民は一方で金をかき集める。借金を精算しなきゃならないのだから当然だろうと思いきや、その主目的はそこにはない。キーワードは「正月の餅代」なる言葉。でも彼らはなぜそこまでして餅代を稼がねばならなかったのか。そんなに餅が好きだったのか。無論違う。満年齢ではなく数え年が基調であった頃、正月は誰もが一つ年をとる重要なアニバーサリーデーだった。故に特別な祝い膳を要したのだ。

 昭和の時代、すでに人々は満年齢を用いていた。にもかかわらず、田舎や上流家庭には「お年取り」なる家庭行事が存在し、それを迎えるために家族はおろか一族が宗家に揃ったものだった。

たった一日、いや一瞬を境にすべてが生まれ変わるような感覚は神道の禊ぎをルーツにしているのかもしれない。年さえ明けてしまえばすべてが許されるような感覚。旧年中にこしらえた借金はチャラになり、犯した罪は赦され、まるでゲームのリセットボタン、パソコンの強制終了のような力が確かに年末年始にはあった。

テレビもそうした感覚に大いに影響を与えていた。12月に入ると、テレビの中の人たちは。ニュースやバラエティの中で忠臣蔵や赤穂浪士の話題を口にするようになり、赤穂浪士を描いた特別ドラマや映画も放送された。

その後に続くのはクリスマス。当時のドラマは3ヶ月スパンではなく1年スパン。現実の季節と劇中の季節をリンクさせるものも少なくなかった。子供向けの特撮番組ではこの時期は必ずクリスマスをモチーフにした怪獣怪人が登場したものだ。

歌謡曲も大いに年末を盛り上げた。寒さを感じ始める頃から、一連の音楽賞が話題になり予想され放送され発表される。今も続くレコード大賞を放送するTBSを除く民放各局が持ち回りで放送したのが、放送音楽プロデューサー連盟主催の日本歌謡大賞。かつては賞形式だったフジテレビ系列のFNS歌謡祭、混同しそうな日本有線大賞と全日本有線放送大賞。年末の一ヶ月は音楽業界においても、巷の音楽好きにとっても特別な期間だった。そしてレコード大賞のあとにはNHK紅白歌合戦が待っていた。かつて紅白歌合戦の放送開始時刻は21時だった。その年に台頭し活躍した音楽関係者たちは、レコ大会場であった帝劇や武道館から、紅白歌合戦の会場であるNHKホールへ大急ぎで移動したものだ。

こうした流れは昭和末期にロック系やニューミュージック系のミュージシャンの台頭により賞の権威が薄れ揺らぐと共に薄れていった。決定打となったのは、平成元年に紅白歌合戦が二部化し、レコ大の放送時間と重ねてしまったことだろう。平成二年にはFNS歌謡祭が賞形式から現在に続く歌謡フェス形式に移行、平成六年には四半世紀を前にして日本歌謡大賞が開催中止、全日本有線放送大賞も平成十二年の開催をもって歴史を閉じている。

音楽番組だけではない。長時間バラエティ特番や人気映画の放送も年末のテレビの醍醐味だった。普段は新聞のテレビ欄で間に合わせていた人たちが、この時期だけは専門雑誌を購入する。老舗の週刊TVガイドをはじめ、大型の判型で差別化を果たしFMの曲目リストが若者の人気を集めたTV LIFE(テレビライフ)、その他様々なテレビ雑誌が書店に平積みされる。これらを複数買い揃える猛者もいた。昭和末期、家庭用ビデオが庶民にも手が届く価格になって、特にVHS方式のビデオカセットテープレコーダーが一気に普及すると、正月特番を録画しようと大量のビデオテープを購入する人々は、当時流行り始めていたディスカウントストアになだれ込んだ。先述のテレビ雑誌も、彼らのニーズに応えるべく番組名が印刷されたレーベルを付けて録画需要を喚起した。

そんな年末のテレビの特別感も既に過去のもの。長時間バラエティなんて普段から頻繁にやっている。最近は劇場と称されることの多い映画館。その映画館に観に行けなかった映画にしても、平成に入ってレンタルビデオで見ることができるようになった。21世紀に入るとDVDが普及。さらにより画質と音質の良いブルーレイでの視聴も可能になる。現在はそれすら通り越してネット配信が主流。これでは特別もへったくれもありはしない。

放送チャンネルの多様化も大きい。かつては地上波のみだったテレビ中継も、昭和末期にはBS放送が加わる。当初は受信困難地域の居住者と一部の裕福な人だけが視聴の対象だったが、平成二年に民放のBS放送局日本衛星放送がWOWWOWの放送を開始、平成六年にはサッカー、ワールドカップアメリカ大会をNHKBSで全試合中継(既に平成二年のイタリア大会からNHK-BSでの全試合放送は行われていたが当時はまだ日本における海外サッカー人気に火がついていなかった)、これらを契機にBSは一気に普及。平成八年にパーフェクTV、翌年にはディレクTVが放送を開始したCSも、当初はチューナー、アンテナの設置等が高価であったことから普及率は上がらなかったが、平成10年にライバル局同士であった両者が合併すると選択できるチャンネルの多さと多様さが魅力となり、庶民レベルにも普及する。年末年始の地上波放送にかつてのような特別感がなくなったのも当然のことだろう。

実社会においてはコンビニの普及と巨大スーパーやデパートの台頭が大きい。昭和末期、年末の買い込みは必須だった。都内でも正月三が日はもちろん大晦日ですら営業していない店が多かった。気の早い店など年末最後の金曜日で年内の営業を終えていたものだ。

 正月といえば、携帯メールの普及により年賀状の役目も小さくなった。かつて人気女性アイドルトリオ、キャンディーズは「おせちもいいけどカレーもね」と正月のブラウン管の中で言ったものだが、いまどき元旦からカレーはちっとも珍しくない。餅だってかつては冬にならないと入手できなかったが、今や年中かんたんに手に入る。杵や臼を使った餅つきはイベントなどで今でもまだ見ることができるが、それよりずっとあとの時代に始まった電気餅つき機を使って餅をつく光景はもはや見ることができない。

初詣と称しながら、多くの人が正月にしか足を運ばなかったのが神社。だが神社への参拝もパワースポットブームの影響からか日常的なものとなった。正月くらいにしか見られなかった寄席などのネタ番組も、お笑いブームで日常的に視聴できるようになった。演芸番組と言えば海老一染之助・染太郎のお二人も鬼籍に入られてしまった。

かつて人々は元日は家から出るのを控えていた。だから幹線道路でなければ、道路で寝っ転がることすら可能だった。もちろん今どきそんなことをしていたら命はいくつあっても足りない。単一世帯の増加で親戚が集まる風景もあまり見られなくなった。忘年会はまだ生き残っているが新年会の機会は減っているようだ。

 あの特別な感覚、不思議でワクワクするような、気忙しくそれでいてそこはかとなく寂しく、ドキドキするような感覚を再び味わえるときは再び来るのだろうか。

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