省エネ転じて福となす 3 創意工夫は適度な劣等感と貧しさから

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適度に物・金・人材が不足した環境が創意工夫には良い結果をもたらすことは前述しました。人間の食事にしても足りない程度の量やカロリーが自然に生命をより長く維持するように作用すとのことです。高カロリーや満ち足りた食事量が肥満から短命化につながることは医学的にも証明されています。このことは先進国といわれている国々の実情からも明らかです。

さて、運動神経と体力の劣っていた私は小学校、中学校、高校を通じて体育の時間ほどイヤなものはありませんでした。徒競走で一番になる優越感が味わえるわけでもなく、鉄棒で華麗な逆上がりができるわけでもなかった。サッカーなどのボール競技でシュートを格好よく打てるわけでもなかった。なんとか理由をつけて休めればいいな、といつも思っていた。実技が得意でなければ学科でがんばればいいではないか、というのはオトナの論理です。一つが悪ければ連鎖反応で他もかんばしくはないことがよくあります。

 さて、どうしたものか。体育が良くないので他の学科もすべて枕を並べて討ち死にでは両親が嘆き悲しむと思ったのかどうかは記憶にはありません。体育が不得手なら他の学科でなんとかしようと、挽回しようという気持ちが少々あったのでしょう。他の学科はまずまずで、幸い成績不振を理由にしたイジメの対象にはにしてなりませんでした。当時の友人、中川 亘君の話では、私が勉強面では少し手伝っていたとか。あまり記憶にはありません。

 また、私が高校を出て20歳ぐらいまで、すなわち第二次大戦後20年を経ても、我が家が裕福な家庭とは思えませんでした。しかし、その当時に現金収入が十分にある家庭は少なかったはずですから、私自身、家が貧しいと感じたことはあまりありませんでした。田んぼや畑、山林といった不動産は田舎でも平均以上は所有していましたので。

 ほぼ同じ年齢の3人の男兄弟を育てる両親や祖父母はそれでも教育の必要性を感じていたようでした。上の兄は地元の短大、そして双子の私と兄は高校生となると現金が必要でした。今にして思えばこのような経済状態は理解できます。前にも書いたように双子の兄は尾道商業高校の授業料を滞納せざるを得なかったことも何回もあり、大変だったろうと今では思います。兄からこの授業料滞納についての不満とかをその後聞いたことはありませんでした。3人兄弟の年齢は近く、私は末っ子としての待遇だったせいかもしれません。遠くの福山工業高校まで朝早く、午前7時前には出かけるという条件のせいだったかもしれません。授業料の滞納という経験は両親が私にはさせませんでした。

 このように足りない能力と足りない経済的環境のおかげで、小さいときから足りない部分は工夫して何かで補わなければならないという考えが無意識に得られたのでしょう。ですから、私はその不足した能力と環境に感謝し、それを感じさせなかった両親と兄に感謝しています。

 母親はほとんど愚痴や隣人の悪口を言うことは無かったと思います。同居していた兄も2002年9月2日に80歳で他界した母親の葬儀挨拶のときにそう述べていたが、きっとそうでしょう。幸いにして私たち夫婦も30歳から地元尾道で両親の家の近くに住んでいましたので私はよく両親を訪ねて世間話をしました。その時によく母親が、子供が農作業を手伝ってくれたから苦境を乗り越えられた、と言っていたことを思い出します。

 私たち子供兄弟にすれば手伝ったという気持ちはあまりなく、それが当時の普通のことでした。母親は農作業の他に助産婦としても働いていたのでその現金収入でむしろ家計を助けていた中心は母親だったのでしょう。この母親が病気で入退院を何度か繰り返す度に、病気がよくなったら家に連れて帰るといって看病を続けていた父親は母親が他界する約一年前の11月2日に病気のために79歳で先立ってしまいました。今にして思えば、両親の最終章で多くの時間を両親と共有することは望んでもできない人も多く、私は幸せだったと思います。


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