東京生まれのシングルマザーが新潟県でIターン生活7年目。>現在進行中

まえがき

通常は「こんなんことがありました~」と書くのかも知れませんが、このお話は現在進行形です。この先どうなるのか書いている私自身にも結末がわかりません。

幼い子どもを連れシングルマザーの私が東京から新潟県新発田市(シバタ)でIターン生活を初めて7年目。

やりたい事を求めて…気づけばここへ。

東京から新潟への引っ越しも大変でしたが息子は当時、小学1年生になり間もなかったのに転校。嫌がる息子を連れ、車社会の新天地に車どころか運転免許もない状態からのスタートでした。

でも、今ではこの土地に家を建て、大好きなジムニーに乗り、大好きなスノボーをいろいろな雪山で楽しんでます。嫌がってた息子も今ではこの土地が大好きに。

なら、良かった良かった…と、言いたいところですが。

これからが本当の始まりなのです。

まだ山あり谷あり。今までもこれからも

eventful … Let's enjoy life

 

新潟へのはじめの一歩

 

新潟県新発田市(シバタ)は人口98,838人程の町(30年度現)。

私が生まれ育った新宿区の約3分1程の人口。

正確に言うと、新宿区大久保出身。

新宿、見渡す限りの高層ビル。何でも有って、便利で、きらびやかで、華やかで、楽しいお店もおしゃれなお店も沢山。

…の反面、ぎゅうぎゅう詰めの人口密度、どこへ行くのも人だらけ、あっちこっちにゴミだらけ、狭いのに高い家賃…。

四六時中ギラギラして常に騒がしくて怪しくて危げで

でも、良いところも悪いところも含め、そんな新宿が私は大好きでした。思い出いっぱいの大好きな私の故郷。

今でも、もちろん大好きです。

そんなところで育った私が初めて、新潟県新発田市に来たのは、まだ山々には雪の残る 2013年3月29日でした。

東京から新幹線→ローカル電車へ乗り継ぎ約3時間半。そのローカル線の白新線は単線で1時間に1本。しかも、ドアは自動ではなくボタン式…冬の冷気を入れない為に雪国などには良く見られるタイプの電車。 

新潟駅の街を出発すると、どんどん建物がなくなり、どんどん田んぼが増え…そうこうすると、これ駅か?と思う様な無人駅に。…いやいや無人駅ってナニ?!

 

不安を感じるなか、新発田駅に到着。

 

急行の停車駅なのでこの辺では大きいとされる駅でした。確かに、他の駅とは違い駅にはコンビニ、駅前には停留しているタクシーも数台いました。古いけどキレイで清潔感のある駅。

改札を出ると、スクランブル交差点。駅前にはビルやホテルに飲み屋さんが多数あり、その先には広くて長く四方に広がる商店街。そして、新潟県立の大きく立派な病院。

キレイで整備もされていて、一見すると栄えている様に見える街並み。

でも?…人は??

とにかく見渡す限り人がいない!? 

良く、上京してきた人が渋谷や新宿をみて「祭りか何かと思った」と言いますが、私はこの人の居ないスクランブル交差点を見て「何か事件なの!?」と不安になりました。

町はとてもきれいな印象でしたが、とにかく人が歩いてないことにびっくりしました。

そして、その人が居ないのは、商店街のほとんどの店のシャッターが閉まっていたことが理由でした。

当時、ググッたら「日本一と言われる程の長いシャッター商店街」と出ました。

それはとても不気味にも見えて正直これを見た時は、やって行けるのだろか??

と一瞬不安が過ぎりましたが…。

そもそも、なぜこの地に来ることになったのか。


スノーボード・スキーウェアを作るため にここへ来ました。


東京の人材エージェント経由でこの地にある某スポーツアパレルメーカーとの面接でした。後に東京の本社での最終面接でしたが、この日は新潟県新発田市の職場での一次面接が行われました。

新潟の部署には技術者が現地のスタッフをメインで構成されていました。海外工場への量産へ繋がる為の業務を行うべく、製品開発や試作品の製作までの全てを行う技術部隊でした。

恐らく、幼い子どもを連れたシングルマザーが東京からやって来るとは、この会社でも初めてのことであったと思います。 

もともと、一般アパレルでは複数の会社を経て20年近く服作りに携わって来ました。しかし、スポーツウェアは未知。

 

  なんでウェア?

 

20代から、スキーを始めて7年くらいのころ、パリコレなどを手掛ける大手アパレルメーカーに在籍していました。

その職場で色々といろいろーとあり退職。

もう当分、服を作るのもイイヤ。

ファッション雑誌も見なくてイイヤ。

デパートのディスプレイにも目が行かない。

オシャレをすることも服を作ることも、とてもとても大好きだったのに。

こりゃ…気分転換しないと『ダメかも』と退職した時期が11月。

 やったことの無いことをしよう」

と会社を辞めた翌月から新潟県上越の某大手系列のスキー場でバイトをしました。

それまで毎日残業は当たり前、休日が無くなることも当たり前の仕事漬け。毎日時間に追われる日々でしたが、雪山暮らしは持て余す程の時間があり「じゃースノボーもやってみよか」と始めました。

すると遅咲きの、どハマり

日中はスキー場のレストランで働き

ご褒美のナイターを欠かさず毎日。

休日は、社員証の恩恵で色んな系列スキー場を

オープンからナイター終わりまでハシゴ滑り。

そんなこんな生活を続けて4ヵ月。

夢中になって、毎日滑り続けた。

雪山でキーンとなる冷たい空気をたくさん吸うと頭がスッキリして気持ちが良かった。 

THE DAYな最高の日も吹雪く日も…

とにかく楽しくて毎日、滑り続けました。

春の風が吹く頃…気づけば、すっかりスノーボードにリフレッシュさせてもらえていた自分が居ました。

そして、このスキー場で共に働いていた連れと→結婚→出産。

人生においても分岐点に。

当分、服作りはイイヤと思っていたのに

ぁぁ、そうだ何か良いウェア作りたいな と、うっかり頭に浮かんでしまいました。

その当時も自作のウェアで滑っていました。でも、今からすればそれはそれは、とてもお粗末なウェアだったと思います。

それでも、今から10年ほど前にカスタムウェアが作りたいと見様見真似…自分なりに研究しWEBショップを立ち上げるも、思うようにはできず… 

そりゃそうです。

高性能な素材にシームや防水や撥水、止水ファスナー、これらを発揮することを考慮したパターン(製図)や縫製の知識や経験とテクニックも必要です。「やっぱり中に入らないと本当のモノ作りが分からない」。

そして、私生活では息子5歳のころ諸々の事情で離婚。 

↑ 一行では話し尽くせない程、いろいろあったけど、やりたいことは変わらず、技術者としてウェアの中身を知りたいと…そんな訳でウェアが作りたかった私は東京からここ新潟へ来ることを決めました。

それに、新潟なら滑りにも沢山行けるし、もちろんん子育てにもいい環境だ。

そして、御縁があり入社することになりました。

「よし行くよっ!」と決まったが、新潟への引っ越しも大変ですがIターンとなる私達に必須の足が…車どころか運転免許もないから、雪降る前には車が必要だ!すぐに教習所にも通って、車も買わないと!

幼い息子にはなぜ転校するのか理解できない(そりゃそーです親のわがままです)から、新潟に行くのが嫌で嫌で、行きたくないと泣く。そんな息子をだましだまし…前途多難で新潟へ。


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そして、仕事が始まる。

 

慣れない環境での息子と二人での生活や子育てや教習所通いなどなど、ももちろん大変なことだらけでしたが 

まずはメインの仕事のことを話したいと思います。

土地柄、会社を転々とする人は少なく、この会社に居る人たちの多くが、この会社へ若くして入社し、この会社一筋で何十年も働いてきた人たち。

当然、ウェアを作る企業も限られているので、ここで得た技術や知識や経験は他社で活かすことは難しいとも思えます。故にほとんどがベテランと言える程の勤続年数の人達ばかり。

スキーウェア・スノーボードウェアに限らず、スポーツウェアを製作するために必要な特殊設備はほとんど備えてありました。そして整備や点検・調整に至ることも自ら行い。それらを使いこなすのも全てベテランの技術者達。

年季の入った道具を見事な手さばきで、手際良く、試作品をどんどんと作り上げていました。どの人達も、その知識の豊富さや、手際の良さは何十年もこなしてきた、当たり前の事といった雰囲気。

特別なことをしている意識もなく、まるで空気を吸って吐くほどの自然な身のこなし。経験値と手に染み付いた感覚を頼りに、ウェアを作り上げる姿はまさに『 』。

試作品の中には150ものパーツを組み合わせて製作されているウェアもあり、それらは担当する専門の技術者ごとにパターン(製図)作製〜裁断〜縫製に加工なども行い作り上げます。

仕上がった試作品は何十年も作り続けてきたことを感じさせる程の完成度の高い素晴らしい仕事でした。

どれを見ても私が見たかったこと知りたかったこと聞きたかったことの宝庫。

本当にここへ来れたことを心から喜んで毎日沢山のことをここで学びました。

そして、ここの人達の製品に対するマインドにも私は驚かさせられました。

忍耐強さと細やかさと繊細さ…これはやはり雪国気質からくる精神だと感じました。 

私は今まで東京で仕事をして来て、効率の良さや原価比率や工賃や経費、もちろん売上も…毎月、毎週、常にお金のことを気にしながら注意されながら仕事をすることが当たり前でした。いや、これが常識だと思います。

しかし、ここでは誰もお金のことを口にしません。…これは正直、良くも悪く驚きでした。

私はとてもそれが不思議に見えました。

要するに、作り手にはお金のこと以上に製品作りに専念させて来た社風なのか?!と思いました。いや、実際はそうなってしまっただけ?なのかも知れません。だからといって、ダラダラ仕事する人も、手を抜く人もいません。

色んな意味ですごい人達が居たもんだなと。

ここでは他社からの人の出入りも少ないので、他社のやり方が入ることも自社のやり方が出ることも少ない。これもやはり地域柄でとても特殊な環境だと思えました。

故に、非効率でも必要を迫られ、要求を受け入れている内に何でもやれる様になり…その内に生産性にも…。とても独特な仕事のやり方や考え方であることも同時に感じました。


どこにでもあることかも知れませんが、企業の枠と中身の歪み。

理想と現実のギャップに現場が振り回され、枠からの圧力に現場は圧迫。

やればやる程苦しむだけの正解のない負の無限ループ。


ここへ来て3年目の時、自分の先が少しずつ見えてきました。

私はこの土地が気に入りました。

技術者の方たちの気質や素晴らしい腕がとても好きです。この土地なら私のやりたい事ができるかも…。

そして、家を建てました。

実家を10代で出てから恐らく十数回の引っ越しを繰り返しましたが、生まれて初めて土に根を張ることにしました。これは息子への最後の贈り物となる実家でもあります。

そして、家を建ててから2年。ホントにやりたいこと・現実的にやれること・必要なことを考え続けていました。

しかし、そうこうしている間にも職場の状況がどんどん切迫。

ここ数年で、まだまだ働くことのできる腕の良い技術者がどんどん会社を去って行った。とても寂しいし、その経験や技術や知識が途絶えてしまうのは惜しくて勿体なくて切ない。

そして、やれることからNextstage…

まだまだ、つづきますよ。


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