いい加減でどうしようも無い母との40年を思い返してみたら、結構すごい人かも知れない


幼少期
昭和50年代、九州の大きな製鉄所近くの市営団地に住んでいた記憶があります。
敷地内にある公園。そこで母は私を含めた子供達とよく遊んでくれていました。ある日私がその公園のジャングルジムから落下し、下唇の下を切ってしまった時、血だらけの私をおんぶし、走って病院に向かったそうです。その時の事は私も覚えています。ブランコが顎の下にあたり血だらけになった時もおんぶで病院に向かいました。2回目はおんぶされながら頭を叩かれた記憶があります。当時の母は、記憶通りなら専業主婦だったのかなと、推測します。
記憶はとび、私が5歳くらいだと思います。その当時母に連れられ、よく遊びに行く家がありました。『専務さん家』と当時は言っていました。大きな家、いかにもお金持ちな内装。専務さんと奥さんは朝鮮の方で3人のお子さんがいらっしゃいました。3人とも私からしたらお兄ちゃんお姉ちゃんで多分大学生、高校生位、だったと思います。今だから分かるのですが市営団地のある街から2時間くらい離れた空港近くの町です。
当時は分からなかったのですが、この頃の母は貿易をしてると言っていたので専務さんは当時母が働いていた会社の専務なのか、あだ名が専務なのか、そこに関しては今でも謎です。
この時期に私達家族もこの町にこしてきました。平家の一軒家でした。

小学校時代
両親が共働きの為、家には住み込みの家政婦さんがいました。あまり母との記憶もありません。小学校の入学式の写真に母が写っていたので行事には来ていたのでしょう。私は友達も増え、町並みは今でも憶えています。
ある日、専務の次男さんがバイク事故で亡くなったときかされた時、母が号泣していたのもこの頃。
2年生になる直前に私達家族は引越しする事になりました。子供ながらに、友達と別れるのが辛かったのを覚えています。特にけんちゃん、ゆかりちゃん兄弟とは仲良くしていた為、転校は辛かった。
引越し先は新興住宅地で綺麗な家が沢山ありました。中でも私達の家はとても『良い家』だと子供ながらに思いました。やはり両親は共働きの為、新しい住み込みの家政婦さんがいました。この家政婦さんには良くしてもらい、長い付き合いとなりました。
この頃の母もまだ化粧品を扱った貿易やセールスをやっていたと思います。
この家には小2から小5の夏まで住む事になるのですが、私達にとって最初の分岐点だったと思います。
母と掛け算の勉強をし、2階で覚えて1階の母に暗記した掛け算を言う。間違えたらやり直し。泣きながらやりました。良い思い出です。
通信簿に私は『ルーズで無気力』と書かれ、それを見た母が学校に電話し、2年生に言うことではない!と、怒っていたのを今でも良く覚えています。
家族が揃うのは日曜日くらいだったと思います。父親は運送業でしたので、毎週いる訳ではなかったのですが。それでも家族みんなで日曜日に隣町のスーパーに買い物に行き、帰りに焼き肉の食べ放題の店に行くのがとても楽しみでした。
小3の運動会、母方の爺ちゃん、婆ちゃんが見にきてくれ、朝早起きし、爺ちゃんに「行ってきます」と張り切りました。
運動会中も母、爺ちゃん婆ちゃんが気になりキョロキョロ。
誰も来る事はありませんでした。私を見送った後、爺ちゃんは散歩に出かけ、途中倒れたそうです。脳卒中でした。病院に運ばれ生死を彷徨いましたが、幸い発見が早く命に別状はありませんでした。
私達の住む街の駅近くの病院に入院。多分1~2ヶ月いたと思います。
普段居ない母が病院のお見舞いに連れて行ってくれて、私としては病院は退屈で1時間、2時間が長く辛かったのですが、お見舞いの帰りに寄る駅前のスーパーでの買物が楽しかったのを覚えています。
この時期忘れられないのが、両親がパチンコに行き車で2時間3時間、妹と二人待たされた事。本当に最低。今思うとこの頃からパチンコ。。帰りに悪いと思っているのか、レンタルビデオでアニメを借りてくれてました。
両親は普段居ない、家に帰ると妹と家政婦さんと愛犬、それでもこの頃の私にとっては幸せな『子供の頃の思い出』だと思います。小4、小5と家族が集まる時間は減っていき、両親が顔を合わせると喧嘩が絶えなくなり、私と妹はよく2階で泣いていました。
ある日曜日の夜、家族みんなで焼肉をしていた時、父がひつこく私の首を触って来るので「痛い!いい加減にして」と、食べていたとうもろこしを投げつけました。父は面白く無いと言う表情をし、家を出ていきました。今の私には当時の父の気持ちは理解できますが、小5の私はとにかく自分を責めました。私のせいだ。なんで言ってしまったんだろうと。母はお前のせいじゃ無い、大丈夫、大丈夫と言っていた気がします。
それから間も無くして父と母は離婚すると聞かされました。
朝、学校に向かいましたが辛く悲しくて、帰らせてくださいと先生に伝えると、母が自転車に乗り迎えにきてくれ「お前のせいじゃ無いよ、ごめんね」と何度も言われた事は忘れることができません。
私達は家を出て母方の爺ちゃん婆ちゃん家で暮らすこととなり、同級生に挨拶する事なく、夏休みのうちに転校しました。
気づくと母は家から車で30分くらいの街の駅前商店街でブティックを営んでいました。。。。この行動力、無鉄砲さ、当時の自分からすれば、子供を預けて自分は好き勝手して!なのですが、今の自分からすると”ちょっとすごい”と思います。まあ実際、母は家には、ほぼほぼ帰ってこず、寂しい思いを子供にさせるのですが。
小5〜中3の間は、週末は母の店によく遊びにいきました。商店街は私にとって良い遊び場でした。店の正面にはお好み焼き屋、隣には古本屋、商店街は私にとって最高の空間。時には母が出かけてる間店番をし、販売した時はドキドキしながら、なんとも言えない達成感がありました。中1くらいになると母にパチンコに連れていかれ隣で遊戯。。。(今は絶対無理)
お店の方も繁盛していたのか従業員もいつの間にか4、5人に増え店舗も2店舗になりました。従業員の一人が広島東洋カープの○○選手のお母さんで、選手の結婚式にも呼ばれ、広島まで母、妹と3人で行き、旅行がてら良い思い出になりました。この様に母には皆に好かれるとかでは無いと思うのですが、人に出会う、縁、人間力的な物は非常に強い様に思います。
この頃母は、当時付き合っていた相手なのか、男の人を連れ家に来る事があった。私は全く懐く事はなく喋ることすらしなかった。悪趣味なメガネに気持ちの悪い雰囲気。思春期だから・・も、あるだろうが、ただただ嫌悪感しかなかった。
高校時代
私は勉強を全くせず、目標や夢もなく、ただただ中学時代を過ごし、最大の汚点、”無知”だった。高校も公立と私立。違いもよく分からず、ただ、『受験しなくて済む』と思い、私立1本でした。そんな私に母は何も言わず、「合格おめでとう」と。家から2時間以上かかる私立高校に何も考えず私は通う事になりました。学費、交通費、どれだけ迷惑かけた事でしょう。
妹は中学でグレ、家に帰ってこなくなり、家には祖父母と私の3人の生活が当たり前になっていた高二時代。深夜電話がなりました。ずっと家の電話は回転式ダイヤルの黒電話だったのですが中学2年の時、母が家の改装(自分の部屋ができた、風呂、トイレが新しく)をしてくれて、私の部屋にも子機がありました。私が電話に出ると母でした。
「もしもし?お母さんやけど、もうこの辺には居られなくなったから。今、長電話もできない。とにかく居なくなる」
正直何話したかは憶えていません。ただ事じゃ無い事だけはわかりました。
祖父母に聞けば母は誰かの保証人になり多額の借金をし、地元には居れなくなったと。
それから家には借金取りや、母の友達だと言う人が家に来る様になり、祖父母はかなりまいっていました。家も担保に入っていたらしく、祖父母と私は市営のアパートに引っ越す事になりました。ずっと住んでた家を手放す。祖父母の辛さ、惨めさ、悲しみ。心から母を恨みました。憎みました。
私は料理好きな祖父の影響か料理の専門学校に進学を決め、合格する事ができ、家を離れ一人暮らしをする事に。この時母は関東にいるらしい、と。妹は中学卒業後、母を訪ね関東で一緒に暮らしていたそうです。多分。
専門学校の件、一人暮らしの件を母に伝えると、家探しに来てくれる事になり、2年ぶりに母に会う事になりました。会った瞬間よそよそしく、テレもあり、変なかんじでした。18ですがこの時初めて母と居酒屋で酒を飲みました。私は飲み慣れないビールをガブガブ飲み二日酔いを経験しました。よく憶えています。次の日私はバイトで母は午前中に関東に戻る為ホテルで別れました。後から知った事ですが母はその時お金も無く無理して来てくれていました。関東ではヘルメットを被り、作業着を着て”現場”で建設のバイトをしていたそうです。
私は母を恨んで、憎んで、自分の考えなしの”無知”を全て母のせいにし、私立高校に行ったり、なんとなく料理の専門学校に行き、大変な迷惑を祖父母、母にかけていました。甘えた卑怯者です。
当時の私はその事にまだ気づかず、専門時代も遊び呆けていました。ファミレスやパチンコ屋でバイトし、友達と朝まで遊び、学校も行かなくなり、退学。目標もなく職にもつかず、只々生きていました。お金もなく、塩と米で暮らして。そして成人式を迎える年。母から連絡が。「関東にこんね?2年間、隣の人が医療のギブスを作る職人さんで、その人の元で働けば資格がもらえるけ、来て働いてみらんね?」と。私はやりたい事も、お金も無かったので2年なら良いかと、関東に行く事にしました。
嘘でした。
確かに隣にギブスを作る職人さんは住んでいましたが、そもそも学校に行かないと資格は取れないし、素人が働ける現場じゃ無いと。。母に騙されました。何もしてない私を心配?したのか、呆れていたのか。こうして全く知り合いも友達もいない、関東での生活が始りました。
母は東京で生活していたらしいのですが、そこで働いていた建設会社の社長さんと再婚し、その方の仕事の関係で北関東に住んでいました。私が合流した時は社員10人ほどの会社でしたが、ここまでくるにも、かなり苦労したらしい、と、言う事でした。皆さん優しく歓迎してくれたのですが、半分くらいの方は背中に絵が描いてあるような方々でめちゃくちゃ緊張感のある生活。母と妹と暮らすこと自体小学生以来です。
初めはバイトをし、お金を貯めて早く九州に帰りたかったのですがズルズルと1年が過ぎこの生活にも慣れてきた頃、九州の祖父母もこっちに呼び、一緒に生活することになり、いよいよ変える理由がなくなってきました。
祖父母の家も建ててくれて、多分、会社も軌道に乗り裕福になっているなーという感じ。私はバイトをして自立していたので干渉も受けないし、しないし、と、いう感じ。3年くらい経つと家を建てるということで、引越し。それがとんでもない家で軽く億を超える超豪邸。全てがデカイ。部屋も風呂もトイレも庭も・・・
借金で飛んだ母がまさかの豪邸。社長夫人。本当にこの人は・・・
私は当時付き合っていた方とアパートに住んでいたので豪邸にはそんなに住んでいないのですが、間違いなくセレブ生活ですね。
その頃、祖父母が2人して癌にかかり、爺ちゃんは抗がん剤治療したり本当に頑張ったのですが亡くなりました。葬式からお墓まで母はとにかくお金をかけました。償いなのか。。もし、九州に居たままだったら看病から葬式までちゃんとできていなかっただろうし、本当にこっちに呼んでおいて良かった。婆ちゃんは家を売り豪邸で一緒に暮らすように。癌の進行は遅かったのですが痴呆が加速し母が面倒を見ていました。かなり大変で苦労したと思います。
その時は突然訪れました。母の離婚。相手の方の浮気だそうです。維持費を考えると家に居ることも難しいので家を出てアパート暮らし。慰謝料等は貰ったらしいのですが別れる頃には会社は傾いていて、たいした額ではなかった様。またまた一気に貧乏暮らし。
私はその慰謝料のお金で居酒屋を出すことに。そんなにお金もないので居抜きを借り、とにかく低予算で始めました。もともと料理の専門学校をでて(実際は半年で退学)バイトも飲食でやっていたので、まあ勢いですね。最初は洋食メインの居酒屋だったのですが、お客の反応や、手応えから、直ぐにもつ鍋居酒屋に変えました。出身の強みも生かしつつなんとか6年。その頃、バイト不足が続く様になり、母に手伝いを頼み、一緒に働く様に。店を出して14年立ちました。
母は私が店を出して直ぐ、再々婚。優しい方で婆ちゃんの面倒もよく見てくれたり、単身赴任で長距離運転手をし、母に毎月給与を送ってくれています。本当に感謝。家も買い何故かまたちゃんとした生活ができています。
今は一緒に働いているので人生で一番母と一緒に居る。よく喧嘩もするし、本当に適当でだらしがなく、常識もない。お金にもルーズだし。ただ憎めないし、不思議と人は集まる。
私は母の様に生きれないし、性格も違う。だが、学ぶべき事は多い様だ。

ありがとう






著者の恵一 森川さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。