左手の握力を失った極貧バンドマンが役者になるまでの話

「あー、前よりもいいね。これなら、切り落とさなくても済むかな」

 2014年の10月頃、僕の担当医である荒川先生はいつも通りシャッ、と乾いた音を立ててカーテンを開けてこともなげにそういった。いつも回診の時には4人くらいで病室を訪れる。先生は僕の左手にぐるぐる巻きになっていた包帯を取り、顔を近づけたまじまじと見つめている。

 左手は紫色に変色して膨れ上がっていた。本来の倍くらいの大きさになり、どう見ても一般的なそれの見た目とは異なっていた。

 僕はこの年の九月にひどい事故に遭った。その話はまた追々しようと思う。当時の僕はいわゆるバンドマンで、ギターボーカルが僕のパートだった。この事故をきっかけに僕の左手は今日に至るまで開くことがなくなる。今の技術では治しきることはまず無理だと言い切られるほどの重傷だった。

 10月の後半になって、やっと体を起こして歩き回ることができるようになった僕は、まず院内の廊下をひたすら歩き続けるということを始めた。大きな病院で、環状になった廊下を一周しきると200メートルくらいはあったと思う。そこを、3周も4周も歩きまわる。大体の場合、夕飯を食べ終わった後、入院患者のお見舞いに来た人もいなくなる頃にした。僕以外いない病院の廊下をぐるぐると歩き回る。それだけでも、僕の体力の回復に大きく役立った。1か月前までは体を起こして座っていることすらままならなかったのだ。そのころと比べると明らかな違いがあった。

 毎日歩き回り、冗談抜きに失神しそうな痛みを伴うリハビリと処置に耐えながら、2か月をその病院で過ごし、12月から転院が決まった。関東の山奥、道路と木々以外にほとんど何もないような場所から、僕と家族は電車を乗り継いで東京に移動した。聞きなれた目まぐるしいほどの物音や話し声、少し淀んで感じる空気が懐かしく感じられる。3か月ぶりに自宅に帰り、それから間もなく大きな大学病院に入院した。失神しそうな痛みを伴う処置もリハビリもそこでは行われなかった。

 少しずつ穏やかになる日々とは裏腹に、僕の精神は荒み果てていた。左手が動かないということは、その時の僕にとっては、「二度とギターが弾けない」という宣告だった。生粋のギタリストではなかったし、歌が歌えなくなるというわけではなかった。それでも、ああ、そうですよね、と受け入れられる話ではなかった。ペットボトルを開けることすらままならなくなった僕は、その悲しみを友人や先輩に吐露し、たまに煙たがられた。その中の数人とは気づいたら疎遠になっていた。

 何度も入退院と手術を繰り返した。病院での生活に慣れ切り、リハビリは習慣になっていた。最後の手術を終えたのは、事故の次の年、2015年の6月だった。

 しかし、これで苦難が終わるわけではない。治療、生活への復帰という課題を乗り越えた先にあったのは、経済的な問題だった。半年間の治療にあたって留年が決まった僕は通っていた専門学校を中退した。まず、僕には学歴がなかった。高校も一般的な学校ではなく専修学校の高等課程に進んでいたから、高卒資格を持っていなかった。

 僕は、「中卒の怪我人」だった。就職はできなかったし、アルバイトでも雇ってもらうことはできなかった。どんどんお金が無くなった。電車賃すらまともに払えなくなった。それだけでも精神的に追い込まれていたのだけれど、一番きつかったのは周囲の人間の言葉だった。

 「いいから働けよ」「いま話題のあの店でワンオペすれば、すぐに生活は立て直せるぞ」「まだ親のスネかじってても大丈夫って思ってるだろ?まだいけるって思ってるよな」

 今思えば、自分の現状を伝えればよかったのだと思う。いま、左手に重みを加えると、せっかく移植した腱がちぎれ、また物を持つことができなくなる。それが東京の病院で伝えられたことだった。なぜか、僕にはそれを伝えることができなかった。働いていない自分が悪い、早く仕事を見つけなければいけない、そんなプレッシャーだけが膨れ上がり、気づいたら精神に異常をきたしていた。

 それまで抱いていた、音楽の夢も、生き延びた喜びもどこかに消えていた。その苦しみが日々のすべてだった。

 会話もままならなくなった僕に、母が「大学に入ろう」と言ってくれた。僕は混乱して床に転がったまま、「そうする」と言った。それが、当時の僕にとって唯一の市民権を得る方法だった。

 小中学校は不登校で標準の出席日数の半分くらいしか学校に行かず、あまりにも勉強が苦手で、数学にいたっては2点という数字を平気でとるくらいに学がなかった僕の挑戦が始まった。

 僕は毎日参考書にかじりついた。久しぶりに勉強というものをした。それまで知らなかった一般常識を身に着け、最低限文化的な人間になろうとした。参考書を開くたびに自分はこんなにも学がないのか、と愕然とした。小中学校に行かず、高校でも出たくない授業をサボったり、その時だけ突っ伏して寝たりしていたことのツケだった。

 気づいたら秋になり、二月に行われる大学入試は刻一刻と近づいてきた。当時の僕は完全に精神と肉体のバランスを崩していたので、心療内科に通い、抗うつ剤や精神安定剤を服用しながら勉強を続けていた。冬になり、ストレスのあまり髪の毛が抜けた。生え際が後退し、髪の毛を洗うたびにシャレにならない量の髪の毛が指に絡み、朝起きると枕に毛が散らばっていた。

 そして、一月が来た。年明けなどもう意識しなかった。初詣では、合格しか祈らなかった。それが僕の唯一の願いだった。それが叶わなければ、自分の人生は終わると本当に思っていた。

 吐いたり転がったり叫んだりを繰り返しながら勉強を続ける。そして二月、入学試験の日を迎えた。偏差値43の、小さな大学の小さな学科の試験を受けた。それが僕が全力を振り絞って届く数字だった。

 吐きそうになりながら試験に挑んだ。会場は異常なほどに静まり返っていて、気分が悪くなった。僕だけが叫びだしそうになっているのか?僕だけが異常なほどのプレッシャーを感じているのか?怯えて目を伏せていたら、試験開始の合図が出た。僕は、答案用紙にかじりついた。

 満身創痍で大学を這い出るように後にし、母と待ち合わせてカフェに入った。温かいブラックコーヒーを飲んで、泣きそうになった。この時はまだ自分の病状ではカフェインを取ってはいけないことを知らなくて、この後に吐いた。その時は理由のわからない涙が出た。

 燃え尽きたようにぼんやりと過ごし、二週間が過ぎた。メールが届き、URLを開くと、画面には「合格おめでとうございます」とメッセージが表示された。理由のはっきりとわかる涙が出た。

 そのあとの二月から四月の間にも、今思えば役者を目指すきっかけの一端となる事件があったけれど、それは今は割愛しようと思う。

 こうして、夢を失ったものの、幸い生きていた僕は大学に入学した。

 

 

 

 僕が受かったのは中の下くらいの偏差値の大学の中でも最も偏差値の低い、仏教学科だった。都内随一の仏教学科の学生の多さを誇るその大学の入学式では、教本を配られて僕はそれまでに音読したことのない般若心経をたどたどしく読み上げた。

 周りは8割がたが坊主だった。コミュニケーションガイダンスという、仏教の学びを教わりながらお寺に参拝し、そこの住職の説法を聞くというイベントが3月に行われた。移動のバスの中では周りに座るほとんどの学生が坊主頭で、「お前どこ中?」みたいなノリで「おまえ何宗?」と聞きあっていた。「ごめん、まだそういうのないんだ、これから勉強頑張るから……」と恐縮しながら答えた。あまりにもパンチ力の強い異文化交流の時間だった。

 それまで仏教のぶの字もわからないまま、僕は仏教の勉強を始めた。その傍ら、軽音楽サークルに入った。ギターが弾けなくても僕にはまだ歌があった。下手なりにも。

 お茶の水の楽器店を歩いていたら、左利き用のギターの専門店を見つけた。そのときには僕の左手はかなりよくなっていて、中指が折れ曲がったままであるものの、グラスなどの軽いものを持てるくらいにはなっていた。

 もしかして、と思った。まだ、僕はやり直せるのか、と思ったのだ。

 

 ギターを弾いている友人の付き添いのもと、僕はその店を訪れた。やはり、右手でコードを抑えることができた。ひどくキレがないものの、ピックを握って減を鳴らすことはできた。すぐに取り落としたけれど。

 僕は、13000円の安物のエレキギターを買った。そして、五月の新歓ライブに向けて練習を始めた。

 それまでとは逆さになったコードを抑え、こわばった左手で弦を鳴らすのを毎日繰り返した。毎日五時間はギターに向き合った。せっかく大学に入学したのにそれでいいのか、勉強しろよ、と思う。

 先輩や同学年の友人に教わりながら、曲を弾けるようになった。そして、五月が来た。

 がちがちに緊張しながら舞台の上に立ち、手を震わせながらシールドをアンプにつないだ。左利き用のギターの表面が、照明の光を反射して光った。

 僕と仲間は、演奏を始めた。高校三年生の17歳から約三年ぶりのステージだった。決して少なくない時間を僕は失っていた。

 少しずつ、左利き用のギターに慣れた。一人で弾き語りをすることも増えた。僕は軽音楽サークルを抜けて、ひとりでライブ活動を始めた。客はほとんど集まらなかった。実力が伴わないまま音源を作り、ネットで販売した。家族や友人に笑われ、先輩からは怒られさえした。挫折の連続だった。

 左手はついに治らなかった。指は曲がったままで、仕事でも苦労した。怪我のことを話すと面接で落とされることがわかっていたから、それを隠して仕事をしていた。精神的にも安定せず、僕はまた心療内科のお世話になった。仕事を転々として、やりたくない仕事ばかりやった。気づくと、僕はまた貧しくなって、電車賃も払えないようなあの日々が戻ってきていた。

 ただ働きもたくさんした。カメラと映像編集の心得が少しあったので、そういう現場に呼ばれることもあったけれど、お金は出なかった。

 大学の授業をサボって、知り合いの伝手で映像制作の現場や、曲を人に提供する仕事をいくつか引き受けた。単位を落とし、ギリギリの生活と成績で時間ばかりが過ぎた。ライブをやっても人は集まらず、誰も人前で歌う僕を求めていなかった。何をしても空回る気がしていた。

 演劇や映画の現場のスタッフをこなしながら日々を過ごした。技術を磨きたいと思って社会人向けのスクールにも行った。気づくと、三年生の冬を迎えていた。

 僕は、学歴を手に入れて就職するつもりだった。そのために大学に入った。しかし、実際の学生生活の中で僕が知ったのは、一般的な企業や組織はおろか、学生サークルにすら馴染むことができない自分の姿だった。好きなことを仕事にしようとしていること、向いてもいないことをやり続けていること、僕の発言や考えは、社会に適合できない、変人の戯言にしか映っていないことを知った。多くの人から夢を否定され、スーツを着て働け、やりたくないことをしろ、と言われた。それが、僕には理解できなかった。お互いに、理解できないと言いあい、背を向けあった。

 そして、僕は就活をしないまま3年生の冬を過ごし、4年生になった。

 自転車操業の日々は続く。そのころ、知り合いから仕事を紹介されて数か月の間その仕事に関わったものの、人間関係と仕事の問題で僕はうつ病を発症した。病院から診断書を渡され、仕事を辞めてぼんやりと過ごした。かろうじて大学には行っていた。

 そのころ、高校の後輩二人が劇団を立ち上げた。座長の女の子はやたらと求心力のある子で、その二人はネットに募集を出して、あっという間にメンバーを集めた。その経験はあったので、僕は音響スタッフとして呼ばれた。僕を含めた初期メンバーは、異様な熱気を持って旗揚げ公演に向かって動きはじめた。

 退職する前、うつ病を発症したときにそのことを座長に伝えたら、いつもは飄々としている座長が「とりあえず生活を立て直すことに専念して」と言った。夏休みの期間だったので、僕はほとんど引きこもり、劇団の稽古にだけ顔を出した。SEも挿入曲もほとんどない芝居で、僕がやることは少なかった。

 ひどい顔色でぼそぼそと喋る僕に、仲間たちは献身的だった。自分が人間に戻っていく気がした。

 ひとつ、懸念があった。出演する役者の一人に、辞めた仕事の後輩がいたのだ。僕は退職する前、彼とひどく言い争った。お互いに、僕たちは怒りを捨てられていなかった。

 久しぶりに会うと、彼は「よう!」と僕の肩を叩いて、やけにはきはきと喋った。表面上のから回るような陽気なやり取りを、稽古の時間の間続けた。帰り道、僕たちは並んでお互いの今のことを話した。僕が辞めた後、僕のポストについた彼は当時の僕がしていたのと同じ苦労を味わっていた。

 本番まで、二週間を切った。最初の事件が起きたのはそのころだった。

 まず、出演する役者三人のうち二人が、セリフを覚えていなかった。覚えていた一人は、座長と一緒に劇団を立ち上げた、僕の高校の後輩だった。役者の養成所も卒業して実力もある人で、劇団では役者長というポジションについていた。

 彼は怒り狂った。次の稽古までに死んでも覚えろと言い放ち、重い空気を引きずったまま、僕たちは家路についた。

 出演者のうちの一人が、出演できないという連絡をしたのはその二日後のことだ。

 プロの役者を目指していて、テレビにエキストラに近い形ではあるものの出演していた彼は、公演の日に撮影が入った、と言った。座長は怒り狂っていた。僕はただただ息が詰まった。

 代役で、ネットの募集を見て劇団を訪れた男の子がその役を演じることになった。必死で彼はセリフを覚え、稽古を重ねた。僕たちも必死でサポートした。

 そして、二つ目の事件が本番一週間前に起きた。

 出演者の一人である、僕の仕事の後輩が、無断で稽古を休んだのだ。本番を控えて緊張感を増していたメンバーはひどくいらだった。

 連絡が来たのは、二日後だった。その行動の理由もわからないまま、メンバーは彼を責め立てる。本番の三日前、最後のスタジオ稽古の日が訪れた。あとは各自で役を整え、会場でのリハーサルをするだけだった。

 彼は最後のスタジオ稽古の日、一時間以上遅れてスタジオに現れた。

 もう、何が起きるかわかっていた僕はただただ黙っていた。どうしてくれよう、こいつは何のつもりでこんなことをしているのか、という怒りの気持ちも少なからずあった。

 座長と、役者長はものすごい剣幕でまくし立てた。あまりの迫力に後輩は泣き始めた。なく意味が僕にはいまいちわからなかった。

 わからないことだらけだった。なぜ泣くのかも、なぜこんなことをしてしまうのかもわからない。泣きむせぶ後輩を横目に、役者長は「もし、こいつに何かあったら先輩しかいないからな!!」と叫んだ。何かってなんだよ。

 埒が明かないので、こいつと二人にしてくれと座長と役者長に頼んだ。僕たちはスタジオの階段に二人で腰かけて話を始めた。

「もうなんでこんなことになってんのかわかんないけど、お前がやらなかったら僕がやるしかないんだよ。それは、どうなんだ」

 と僕は言った。後輩はただただ泣きながら首を横に振った。

「今日までがんばってきたんでしょう。その役を僕にやらせていいのか」

 後輩は動きを止めて泣いている。

「お前、僕に任せられるのか」

 会話は成り立たない。僕が結論を出すしかなかった。

「お前は、できないの」

 答えはない。

「お前がやらなきゃ、僕がやらなきゃいけないんだよ。なあ、僕に任せられるか」

 吐きそうだ。

「僕に任せてくれるか。もう、それしかないんだ……。僕に任せてくれ……」

 後輩がうなずいた。僕は立ち上がって後輩の腕を引いて、座長とやく社長が待つ部屋に戻った。

「僕に任せるってよ」

 途方に暮れていた。後輩を帰らせて、もう一人の出演者の男の子と外の空気を吸いに出た。「まじかー……」と呟きながら天を仰いだ。

 部屋に戻って、座長と役者長から、簡単に動きを教わった。台本を読み上げて、動いてみた。当然段取り通りにはいかない。「今日はとりあえずかえって休んでくれ」と言われた。家に帰って、この上なく疲れた僕はすぐに深い眠りについた。

 

 次の日から、台本を執拗に何度も反復して読み上げた。冗談みたいな話だけれど、音響スタッフは照明スタッフを引き受けていたメンバーが兼任することになった。本番まで、今日を含めてあと二日。役者長とカラオケの大きな部屋に入って稽古をつけてもらった。普段じゃありえないボリュームでしゃべり、大きなジェスチャーで表現した。僕たちは笑っていた。もう笑っちゃう状況だった。

 次の日も、メンバーで急遽集まって稽古をした。当然ながらセリフは入りきらなかった。

 明日が、本番。実感と恐怖だけリアルだ。僕は浅い眠りにつく。

 次の日、会場を訪れた。新井薬師にある小さなレンタルスペースだった。設営をして、僕たちは稽古を始めた。僕はセリフを間違えた。当日、それまで稽古に来ていないもののスタッフとして当日は言っていたメンバーは、あまりの事態に口を開けていた。

 セリフを間違えながら、僕たちは稽古をする。もはや誰も怒らない。笑ってしまっている。客入りの時間になって、見に来たお客さんが席に着き始めても、僕は必死で台本を繰っていた。

 冗談みたいな本番の時間が訪れた。ブザーが鳴り、客席が暗くなった。登場人物の三人が同時に入場するのだけれど、僕が先頭だった。

 声を張り上げて陽気な男を演じた。普段よりも高く大きな声を張り上げ、ヘラヘラと笑いながら舞台に立った。照明がまぶしい。

 劇は、始まっていた。

 恐ろしいことにこの劇は会話劇だ。冒頭とラスト以外に登場人物の出入りはなく、三人が上演中、絶え間なくしゃべり続ける。しかも、会話の主題を発信するのは僕の役だった。

 セリフを思い出そうとすることはなかった。黙ったら、変に間を開けたりしたらだめだから。僕たちは絶え間なくしゃべり続ける。お互いの喜劇的なセリフの内容に、僕たちは本気で笑い始めた。稽古と全然違う演技をした。言い回しも違う。全員がやけっぱちだったのかもしれないけれど、僕たちは演技を続ける。客席から笑いが起きる。

 僕たちは、酔っ払いの役だった。恐ろしいことに、僕たちは本物のコンビニ酒を手にしている。缶ビール、チューハイ、ワンカップの日本酒。信じられない。正気の沙汰ではない。

 僕は、ほとんどお酒が飲めない。生ビールの中ジョッキを飲みきれない。酒が美味いと感じたことがない。僕たちは、酒を飲みながら演技を続ける。顔も体も真っ赤になる。左手に残る傷跡がどくどくと脈打ち、はち切れそうに感じた。一瞬、治療の激痛を思い出したけれど、心にもないセリフを叫んでそれを打ち消した。僕はいま、演技をしているのだ。

 物語が終盤に差し掛かった。夜通し飲み続けた登場人物たちは、酔っ払って、これから訪れる朝と、そのあとの仕事や学校のことを考える。本気で憂鬱になりながら、僕たちは話を続ける。それでも明日が来るということを、僕たちは受け入れざるを得なかった。

 そして、物語が終わった。

 思っていたよりもずっと集まっていたお客さんが拍手をした。途中聞こえた笑い声を覚えていた。拍手の中、僕たちは真っ赤な顔をして照明のもとに戻り、カーテンコールをした。僕はまともに喋れていなかった。

 終わって、お客さんが立ち上がる。知っている人もいたので、僕はふらふらになりながら挨拶をしに行った。何を話したのか思い出せない。酔っ払った勢いのままに、メンバーに抱き着いて甘えた。みんなが片付けの作業に入ったけれど、僕は座ってろと言われて劇場の隅で座って、天を仰いでへらへら笑っていた。

 必要とされた、と思った。久しぶりに、人の役に立った気がした。音楽をやってもだれにも喜ばれなかった僕が、初めて、スポットライトの下で必要とされた。スポットライトの下では、左手の怪我も、精神安定剤も、まだ乗り越えられない過去も無意味だった。全部、ありのままだ。へたくそだと罵られ、ほとんど誰もいないライブハウスで歌っていた僕が、初めて小さな劇場とは言えど大勢の人から拍手を受けた。生きていてよかったと思った。

 僕は、歌うことは辞めていないけれど、音楽をやる人間として舞台に立つことはなくなった。今でも歌ったりギターを弾いたりするけれど、それ以上に映画を観たり本を読んだり、自分で書いた脚本を演じたりしている。

 その劇団は旗揚げの次の年に解散した。大学も卒業して実家も出て、ひとりになった僕はまた途方に暮れた。なんとなく通い始めた社会人向けの脚本のスクールに週に一回通い、それ以外の日はすべて働いた。僕は忘れられなかった。そして、それ以上に目指すことがあった。

 僕はあの劇団にいた人や、通っていた高校で、才能も心根の良さもあるのに、社会に居場所を持てない人と接することが多かった。僕が通っていた高校は芸術系の高校だった。そこで、映像制作も音楽も始めた。

 かろうじて演劇や映画にしがみつきながら、自分を生かすのに精いっぱいな日々の中で、余裕のない頭を振り絞って考えた。自分は何がやりたいのか、何を実現したいのか。それで出てきた答えは、「居場所を見つけられない芸術家が、安心して暮らせる場所を作りたい」ということだった。そして何より、僕はひとりの役者としてそれを実現したいと思った。ネームバリューもコネもない若者の、無謀な夢だ。

 僕は、自分が座長になって劇団を作ることにした。僕がいた劇団の座長がしたように、仲間を集めようと思った。ひどい間違いも、苦しいこともあるだろうけれど、僕にはそれができると強く信じた。それが、去年の秋のことだ。

 僕は、駆け出しの役者だ。左手は壊れたままだし、経験も少ない。何も持ってないけれど、いっぱしに役者を名乗っている。そんな、何もないやつがこれから何をするのか見ていてほしい。どうか、見ていてください。お願いだから、見ていてください。笑っても馬鹿にしてもいいので、見ていてください。

 きっと、面白いことをするので、僕たちなりのやり方で、人の役に立ったり、人を笑わせたりするので、退屈させないと誓うので、見ていてください。絶対に楽しませますから、見ていてください。絶対に諦めたりしないので、応援してください。

 僕は、役者です。これから、もっといろんな人に届くようにやっていきます。

 精いっぱいやります。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

曽根高エツ

著者のSonetaka Etsuさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。